3 兄と弟と
「何故貴様がここにいる、チェーザレ!」
男の声が広間に響き、人々の談笑はぴたりとやんだ。
呼ばわれたチェーザレは静謐とした視線をフアンへと返した。
「やあ、フアン。元気そうだ」
薄く笑みを刷いた唇が、柔らかい声音を紡ぐ。
その中に滲む小さな氷の欠片のような刺々しさを、アンジェロはすぐに感じ取った。どうやら余程気に入らない人物らしい。
しかしそれは相手の方も同じだったようで、チェーザレの声を聞いた途端、憤怒の形相としか思えないものに表情を歪めた。
「馴れ馴れしく言葉を発するな! この、異端者め!」
男の声は静まり返った広間に異様なほど大きく響く。
人々はそれぞれに眉をひそめたり、微かに耳打ちしたりしながら、フアンと対峙するチェーザレの動向を見守っているようだった。
どうするのがいいのだろうか――アンジェロは素早く考えを巡らせる。
これ以上踏み込んで来るようなら軽く捻り上げて大人しくさせればいいことだが、そこから面倒になることは避けたい。だが、今の立場上、チェーザレに危害が及ぶ様子をみすみす見逃すのも弊害がある。
武器は携行していないようなので、流血沙汰になることはなさそうだ。それは幸いというべきかも知れない。さすがのアンジェロも、武器を持つ相手に丸腰で手加減など出来はしないので、最悪大怪我を負わせてしまうことになるからだ。
このまま状況が悪化する前に、チェーザレを連れ出すのが得策なようだ、と判断する。
そこまで考えて視線を向けてから、先程の娘が未だにチェーザレにしがみついていることに気づく。彼女がいては出て行くことも出来ない。
(間が悪い女だな……)
少々恨めしく思う。
こんな状況なのだから、気を利かせて離れていてくれればいいものを。きっとこの勝気そうな少女は、己の思惑から外れる行為は好まないのだ。
力づくで引き剥がして立ち去ることは容易だが、か弱い女性に対して、そういう乱暴を働くのもどうかと思う。
さて、これをどうしたものか、と考えているうちに、フアンがこちらの様子に気づいたようだ。明らかにサンチャの姿を見つめ、握り拳をぶるぶると震わせ始める。
その様に危険を察知したのか、サンチャはチェーザレにしがみつく腕にますます力を込めた。
「サンチャ!」
フアンが叫ぶ。
その剣幕にサンチャも青褪め、チェーザレに更に強くしがみついた。
「僕の誘いを断って、こんなところにいるとはな!」
唾を吐き散らしながら怒鳴り、ずかずかと寄って来たかと思うと、サンチャの腕を掴む。
「痛っ、たあ!」
端から見ていてもわかるくらいに力任せのその行動に、サンチャが鋭く悲鳴を上げるが、フアンには関係がないようだった。そのまま乱暴に腕を引き、自分の方へと引き寄せた。
この隙にチェーザレと共に退出するべきか、と思ったが、乱暴に扱われている少女を見捨てるのは、さすがに躊躇われる。
「乱暴にしないでよ、いやな人ね! 私はあなたの妻でもなんでもないんだから!」
取り敢えず割って入って引き離すか、と制止の声を上げかける前に、サンチャがフアンの腕を振り払って金切り声を上げた。
「なにぃ……っ!?」
その態度に再びフアンが怒りに染まる。
いったいなんなのだ、この状況は。
突然始まった痴情の縺れとしか思えないやり取りに、アンジェロは眩暈を覚える。
「ヴァノッツァか、ホフレを呼んで来てくれ」
わけがわからない、と考えることを放棄しようとしていると、チェーザレが耳打ちして来た。
「フアンはわたしがなにを言っても聞かないからな」
かといってこの場を離れようものなら、その行動にまた怒りを募らせる。そういう面倒な男なのだ。
フアンを宥めるには、母か、招待されているであろう末の弟にやってもらうのが近道だ、というチェーザレの言葉に、アンジェロは黙って頷いた。確かにあれを大人しくさせるのには、敵意を向けまくっているチェーザレ以外の相手に諭してもらうのが早そうだ。
「貴様ぁッ!」
頷いてその場を離れようとすると、その動きを見咎めたフアンが叫ぶ。
「貴様もその異端者の仲間か!」
この一瞬で標的をサンチャからアンジェロに移したらしい。
なんなのだ、この男は。目の前で動く者すべてにとにかく食ってかかるとは、頭のイカレた狂犬かなにかか。まったくその心理が理解出来ない。
サンチャを突き飛ばしてこちらにやって来ると、遥か下の位置から睨み上げる。
「――…僕を見下ろすな! 不敬であるぞ!」
無茶を言ってくれる。アンジェロの方が背が高いのだから、こんなに近くに来られたら見下ろす姿勢になって当たり前ではないか。
どうしようもなくて黙っていると、それが気に食わなかったのか、急に頭に掴みかかり、髪を鷲掴みにして跪かせてやろうと引っ張ってくる。勘弁してくれ。
フアンは完全に酔っている。唾を撒き散らしながら一緒に吐き出されている呼気は明らかに酒気が混じっているし、赤ら顔も、言動が支離滅裂なのも、酔っぱらいの典型的な行動だ。しかもあまり褒められた酔い方ではない。
この腕を振り払い、伸してしまうのは簡単だ。それが一番いい方法だろう。
しかし、フアンは教皇の息子の一人であり、ガンディア公という爵位を持っていて、軍の最高司令官でもある。いくらチェーザレの友人という設定であるとはいえ、平民であるアンジェロが手を上げたとなると、罪状などなくとも簡単に監獄に放り込まれてしまう。それが身分の違いというものだ。
この状況では、火に油を注ぐだけであるチェーザレもなにも出来ないし、どうすれば穏便に宥めることが出来るのだろうか。周囲の招待客達も、巻き込まれたくなくて野次馬に徹している。
そんなとき、ふわり、優しい香りと共に、白い女の手が差し出された。
「やめて、フアン」
耳に心地よい甘い声音だというのに、硬い響きで制止の言葉を投げかける。
誰だ。ヴァノッツァではない。サンチャでもない。
アンジェロがそろりと視線を上げると、上品なベールを頭から被った女の姿があった。
彼女の白くほっそりとした指先が、アンジェロの頭を掴んでいるフアンの袖を引き、乱暴を止めている。
凛とした雰囲気の、綺麗な女だと思った。
ベールの所為で顔は見えずとも、その声が、その佇まいが、とても美しいと思う。
一瞬、虚を突かれて制止したフアンだったが、すぐに「邪魔をするな!」と憤然とした表情になって叫び、女のその手を乱暴に振り払う。その勢いで僅かによろけた女の頭からベールが舞った。
そこに現れたのは、悲しげな表情の、想像以上に美しい女だった。
息を飲むほどに美しいその女の姿に目を奪われるが、その間にフアンは、今度はその女に掴みかかる。本当に行動が滅茶苦茶だ。
しかし今度は、アンジェロも躊躇するつもりはない。自分を助けようとしてくれた勇気ある女性の危機に黙っているようでは、男としてどうしようもない。
素早く一歩を踏み出し、女の長い髪を掴んで引き倒そうとしている手を掴み、痛みを強く感じる窪みを押して指先を開かせると、そのまま腕を引き寄せて背中の方へ捻り上げ、足許を払って膝をつかせる。酔っている所為で重心がおかしくなっていたようで、とても簡単なことだった。
勢い余って床の上に押さえつける格好になってしまったが、動きを封じることには成功した。
「――…ちょいと、頭冷やされては如何ですかね? 若様」
やりすぎだったろうか、と思いながら、静かに告げる。
今までまわりを囲んで遠巻きに眺めるだけだった客達は、アンジェロが暴れるフアンを制したのだとわかると、拍手を零し始めた。
チェーザレやアンジェロが絡まれている間は、自ら助けようともせず、人を呼びに行くこともせず、さっと避けて眺めていただけのくせに――勝手な連中だ、とアンジェロは軽く眉を寄せた。
「くそ! 離せ、無礼者が!」
抵抗する手段を封じられても、フアンはアンジェロの下でじたばたと足掻いている。
「僕を誰だと思っているんだ!」
「存じ上げていますよ、ガンディア公」
「クソ! クソ! ならば離さぬか、無礼者!」
離せ離せとそればかり喚く様子に、どうするべきか、とチェーザレを振り仰ぐ。
彼は転んだ先程の美しい女に手を貸していた。
(あー……くそ。しくじった)
先にあちらを助け起こしていればよかった。チェーザレに美味しいところを持って行かれてしまったではないか。
拍手とか賞賛とかいいから、誰か縄でも持って来てくれないだろうか。こんなに暴れられると、怪我をさせないで抑えつけておくのもなかなか大変なのだ。
暴れるフアンをどうしようかと思っていると、今度こそヴァノッツァがやって来た。
「ごめんなさいね、少し席を外していたものだから……」
騒ぎの報を聞きつけて戻って来たらしいのだが、それをアンジェロが制圧している様子を見て、申し訳なさそうに柳眉を下げた。
「お母様! こいつが僕に暴力を振るったんだ! この平民が!」
膝をついて覗き込んで来た母に、フアンは精一杯の声を張り上げる。随分と情けないことを口走っているようだが、彼にその自覚はあるのだろうか。
「だいぶ酔っているわね、フアン。どれくらいお酒を飲んだの?」
僅かな手振りでアンジェロに手を離すように伝え、頬に擦り傷を作ったフアンに手を伸ばした。その手を掴んだフアンは、酔ってなどいない、と酒臭い息で答える。
「しようのない子」
ヴァノッツァは苦笑するが、優しい手つきで乱れた髪を直してやっている。
母親の顔だ、とアンジェロは思った。
自分の両親との記憶など遠い彼方のことであるアンジェロにとっては、ほんの少しだけ羨ましい光景だ。
立ち上がって振り返ると、チェーザレは落ちたベールを拾い、先程の美女に返しているところだった。
彼女は泣きそうな表情でチェーザレを見上げたかと思うと、そのまま踵を返してしまう。その後ろ姿を、チェーザレもなにか言いたげな表情で見送っていた。
アンジェロが戻ったことに気づくと、先程の表情を引っ込め、チェーザレは微笑む。
「帰ろう」
アンジェロが頷くのを待たず、扉へ向かって歩き出す。
「騒がせて申し訳ない、ヴァノッツァ」
すれ違い様、僅かに頭を下げて謝罪の言葉を口にする。
フアンを慰めていたヴァノッツァは首を振った。
「いいのよ。是非また来てちょうだい。ミケーレも」
その言葉に二人揃って頷き、さざめき合う招待客達の合い間を抜けて屋敷を辞した。
帰宅途上、馬に揺られるチェーザレの横顔をちらりと盗み見る。
彼はいつもと変わらず、澄ましたような表情で前を見つめていた。
相変わらずなにを考えているのかわからない。先程の騒動のことはなんとも思っていないのか、それとも、あれこれ思い返して悩んでいたりするのか、その表情からはなにも読み取れなかった。
「ミケーレ」
特に会話の糸口もないので黙っていると、名を呼ばれた。本名を。
「なんだ?」
「仕事を頼みたい」
改まった物言いに、アンジェロは口の端を上げる。
「いいぜ。今度は何処まで行って来るんだ? ヴェネツィアか? それともナポリか、マルタか?」
何処にでも行って来てやるよ、と少し茶化した口調で尋ね返すと、チェーザレは静かにその鉛色の瞳を向けて来た。
その瞳の奥に潜んでいる気配に、アンジェロは思わず身震いする。
背筋に冷たいものが伝ったような気がしていると、その肉の薄い唇が静かに開き、やわらかく、しかしはっきりと言葉を紡いだ。
「死の大天使に、依頼をしたいんだ」