2 母と息子
アンジェロが頼まれたお遣いは、フィレンツェの職人の許から宝飾品を受け取って来ることだった。
その品物を渡すと、中身を確認してチェーザレは微笑む。
「――…うん、いい出来だ。素晴らしい」
彼が眺めているのは、大振りの緑柱石で誂えた見事な首飾りだった。
横から覗いていたアンジェロは目を丸くし、こいつはすごいぞ、と吐息を漏らした。
見るからに高価そうだと思えば、やはりかなりの値打ちのものらしく、途中で盗まれたりしたくなかった故に、腕の立つアンジェロに遣いを頼んだのだという。それならば仕方がない、と強行軍だったことに納得を示した。
「女への贈り物か?」
どう見ても女性用のそれを見て、少々揶揄い口調で尋ねる。
「女……そうだね。とても大切な女性への、贈り物さ」
そう頷きながら箱へと戻し、いやに丁寧な手つきで蓋をした。
チェーザレのその様子に、アンジェロはピュイッと口笛を吹いて手を打つ。
「なぁんだ。やっぱりお前さんにもそういう相手がいたんだな!」
今朝は、チェーザレには男色の気があるのではなかろうか、と考えていたところだったが、まったくの見当違いだったようだ。
「何処のご令嬢だ? それとも高級娼婦か?」
出会いは暗殺者とその標的ではあったが、何年も一緒に暮らすうちにだいぶ打ち解けてきてはいた。それでもこういった色事の話をしたことはなかった。それがなんだか面白くなり、アンジェロはチェーザレの顔を覗き込んだ。
対するチェーザレは、心底呆れたような半目を向けてきて、わざとらしいくらいに大袈裟な溜め息を零して見せた。
「なんだよ」
「別に。お前のそんな輝かんばかりの笑顔なんて、見たことがなかったなぁ、と思っただけだよ」
「そうか?」
「記憶に間違いがなければね」
言ってもう一度溜め息を零し、首飾りを収めた箱を美しい絹地で包む。
「丁度いい。そんなに気になるなら、お前も来るといいよ」
「何処に?」
いきなり振られた話に首を傾げると、チェーザレは意味ありげに微笑む。
「この首飾りを贈る相手のところ、だよ」
それが悪戯を思いついた子供のような表情だと気づき、また面倒事ではないだろうな、とアンジェロは僅かに顔を顰めた。
翌日、アンジェロはチェーザレに連れられ、富裕層の持ち物らしき邸宅へとやって来た。
人が多く出入りしている様子から、なにか宴会でも催されているのではないかと思われるが、縁も所縁もない自分が、こんな場所へ紛れて行ってもいいものなのだろうか。招待を受けたわけでもないのに。
アンジェロの抱いたそんな心配を他処に、チェーザレは応対に出て来た使用人に名前を告げ、僅かに困惑を見せるアンジェロのことは「友人を連れて来たんだ」とだけ説明した。
そんな説明でいいのか、と首を傾げたくなったが、まったく問題はなかったらしい。使用人の男は頷き、丁寧な物腰で中へと迎え入れてくれた。
広間からは音楽と人々の楽しげな談笑が聞こえてくる。
そこへチェーザレが顔を見せると、気づいた幾人かがハッとして強張った表情になったが、すぐに笑顔を取り戻し、当たり障りない挨拶と共に会釈してきた。チェーザレも何事もなかったかのように笑顔で会釈している。
「ヴァノッツァ」
広間の中程で人々に囲まれていた女性に向けて、チェーザレが軽く声をかける。
その声に気づいた女性は振り返り、声の主を捜して視線を彷徨わせてから、ふんわりと笑みを浮かべた。
「まあ、チェーザレ! 来てくれたのね」
ヴァノッツァはまわりの人々に優雅に断りを入れると、その足でこちらへ向かって来た。
二人は抱擁してお互いの頬に口づけを落とし、親しげな挨拶を交わす。
「お顔をよく見せて――あら。少し痩せたのではなくて?」
「そんなことないですよ」
「では、疲れが溜まっているのかしら。忙しいのでしょう?」
「そうですね。でも、友人がいろいろと支えてくれていますので」
頷きながら振り返り、半歩後ろに下がっていたアンジェロの袖を引く。
「友人のミケーレ・ダ・コレーリアです」
本名の方で紹介されたアンジェロは一瞬驚いたが、特に問題はないらしく、チェーザレはにこにこと微笑んでいた。
「ミケーレ、こちらはヴァノッツァ・カタネイ。わたしの母だ」
「えっ!?」
思わず声が漏れる。さすがに失礼だったかと思って慌てて口許を押さえるが、ヴァノッツァは気にしていないようで、こちらに手を差し出してきた。
「こんにちは、ミケーレ」
「初めてお目にかかります、奥様。あまりにもお若く美しかったので……失礼をしました」
「まあ。嬉しいことを言ってくださるのね」
そう言って笑う顔は、確かに目尻に小さな皺が刻まれるのが見て取れるが、とても二十歳を過ぎた息子がいる女性には見えない。もっと若々しく見えるし、とても美しかった。
二人が挨拶を交わし終えたことを確認してから、チェーザレは懐から絹の包みを取り出す。
「ヴァノッツァ、贈り物を受け取って欲しい。今日のお祝いだよ」
「あら、まあ。気を遣わなくてよかったのに」
遠慮がちなヴァノッツァに手渡したのは、アンジェロが引き取りに行った首飾りだ。
自分の母親に贈るのにあんなにも豪華なものを用意したのか、と驚きと共に少々呆れてしまう。
(恋人に贈るもののような雰囲気だったのに)
いくら母親を大事に思っているからといっても、そんな高級な贈り物をするものだろうか。早くに親を亡くしたアンジェロには理解しがたい感覚だ。
「まあ! どうしましょう……」
あまりの豪華さに驚いているヴァノッツァに笑みを向け、チェーザレは「着けてあげるよ」と首飾りを手にした。その様子は母と息子には見えない。どう見ても、年上の恋人と睦み合う若い男のそれだ。
こんな高価なものを渡されたヴァノッツァは困惑しているようだったが、豊かな金髪と白い肌の彼女には、その豪華な首飾りがとても映えて美しかった。濃い色の瞳にもよく似合っている。
今日のドレスの色にも似合うので、彼女はそのまま身に着けておくことにしたらしい。首許を見下ろして「ちょっと派手かしらね」などとはにかんでいるが、その様子がまた似合う。
こういう母親だから、チェーザレもああいう態度になっているのだろうか。
「今日はおめでとうございます、奥様。よくお似合いです」
なんの祝い事なのかは知らないが、一応そう伝えると、彼女はころころと上品ながらも愛らしい声で笑った。
「いい年をして、再婚祝いですのよ。お恥ずかしいわ」
えっ、とアンジェロは思わず言葉を詰まらせる。
「私はやらなくていいと申し上げたのですけれど、夫がやるべきだと仰るものだから……」
困った人だわ、と呟きながら、優しげな目を人々と談笑している小柄な男へと向ける。彼がその再婚相手なのだろう。
僅かに反応に困りながら曖昧に頷いていると、傍にいたチェーザレは知人を見つけたらしく、笑みを浮かべて「ちょっと挨拶して来ます」と言って人の合間を縫って行った。
取り残されたアンジェロは、知り合いもなにもいたものではない他人の祝いの場で、いったいどうすればいいのだろう、とおおいに困惑していた。
そんな様子に、ヴァノッツァが笑みを向ける。
「あの子と付き合うのは、大変でしょう?」
そう話を振られ、大きく頷きそうになるのを押し留めて濁した返事をすると、彼女は楽しげに目を細めた。
「昔から気難しい子なの。他の息子達よりも賢くて、妙に大人びていた所為かしらね。家で上手くいかないのだから、同年代のよその子とはそれ以上に上手く付き合えなかったみたいで……」
この口振りからすると、幼い頃のチェーザレには遊び友達などいなかったのだろう。もしかすると、家で静かに本でも読んでいたのかも知れない。今の彼とも通じるものがある。
なるほど、と頷いていると、ヴァノッツァが手を握って来た。
「だから、ね。さっきあなたを友人だと紹介してくれたでしょう。嬉しくて」
僅かに潤んだ瞳には、心から喜んでいる様子が見て取れる。
「大変なこともあるかとは思うけれど、どうか、あの子を支えてやってちょうだい。とても図々しいことだとは思うけれど、お願いね、ミケーレ」
それは無茶な話だ、とアンジェロは思った。
表向きチェーザレは友人だと言っているが、本心ではそんなことは決して思っていないだろうし、支えるもなにも、重大なことはなにひとつ打ち明けてくれたことはない。人を殺すことに慣れているアンジェロに、襲って来た刺客を撃退することと、その死体の処理を任せはするが、それ以外のことで頼られたことはほとんどないのだ。
そんな自分が、あの危なっかしい男の支えになどなっている筈もなければ、今後そうなれる筈もない。
それでもアンジェロは、ヴァノッツァの手を握り返し、
「もちろんです、奥様。彼の友人として、力及ぶ限り支えていきます」
と堂々と頷き返していたのだった。
(やっちまったなぁ……)
招待客達への挨拶に戻るヴァノッツァと別れ、供された葡萄酒で喉を潤しながら、アンジェロは僅かに後悔していた。
(なにが「もちろんです」だよ……。そんなこと微塵も思っていないくせに)
場の勢いで答えてしまったが、あの優しげな美しい女性に出まかせを言ったことが少々心苦しい。思わず溜め息が零れる。
手持ち無沙汰に招待客を眺めながら、僧侶の姿が思ったよりも多いことに気づく。どういう関係なのだろう、と思って周囲へ聞き耳を立てていると、ヴァノッツァの再婚相手は枢機卿の侍従を務める男なのだということのようだ。それで教会関係の知人が招待されているのだろう。
他の男との間に生まれた義理の息子を招待するなんていったいどういうことなのかと思ったが、枢機卿でもあるチェーザレは、教会の最高権力者たる現教皇との私生児である。誼を結んでいて損はないし、寧ろいいこと尽くめなのだろう。
(金持ち連中は、こういうことにも気を抜かないわけね)
なるほど、と一人で得心して頷いていると、肩を叩かれた。
「ここにいたのか。そろそろお暇しよう」
チェーザレだった。挨拶回りは終わったようだ。
「もういいのか? 久しぶりに会うんだろ?」
「いいんだよ。お前のことを紹介したかっただけだし」
行こう、と促される。
なにかいやに急いでいるな、と不思議だったが、その疑問は直後に解決した。
人々の合間を縫って退室しようとしていると、横合いから一人の女が突進して来た。
「見つけたわ、チェーザレ!」
まだ多分に幼さの見えるその娘は、嬉しげな声を上げてチェーザレを捕まえると、逃がさないとばかりに腕をきつく絡ませる。
ほんの一瞬、チェーザレの横顔が僅かに顰められたのを、アンジェロは見逃さなかった。彼女が苦手なのだろう。
「来ていないのかと思ったら、何処にいたのよ?」
「今日もお元気そうですね、サンチャ姫」
「はぐらかさないで。もう帰る気? 傍にいてよ」
「ホフレはどうしたんですか?」
「知らない。さっきまでそのあたりにいたわ」
サンチャと呼ばれた娘はぷっと頬を膨らませ、唇を尖らせる。
「フアンがしつこいの。庇ってよ」
ようやく抜け出して来たのだから、と迷惑そうな表情を見せる彼女の様子に、チェーザレも苦く笑った。
いったいどういう素性の娘なのかと思っていたら、どうやらボルジア家に関わりのある立ち位置のようだ。次々に飛び出すチェーザレの弟達の名前から、彼女の状況を推し測る。
そんなやり取りをしているうちに、今度は若い男が近づいて来た。
随分と酔っているのか、なんだか妙な足取りで近づいて来ている。その雰囲気になにか厭なものを感じ取り、アンジェロはさり気なくチェーザレを庇うように移動した。
あの男の顔は見たことがある。
フアン・ボルジア――チェーザレの弟の一人だ。