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1 アンジェロ

チェーザレ・ボルジアと、ミケーレ・ダ・コレーリアの小話です。

時間軸的にはルクレツィア・ボルジアとスフォルツァ家の離婚裁判やってる頃になります。




 言いつけられていた用事から戻り、六日ぶりにアンジェロが顔を見せると、それを目敏く見つけた下働きの女が声を上げた。


「ちょうどよかったよ、アンジェロ。若さんがお呼びだったから」

「はあ? 俺さ、さっき戻ったばっかで、物凄く眠いんだけど」

「知らないよ。あんたを見かけたら呼んでくれって言われただけだから」


 さっさとお行きよ、と女は追い払うように手を振り、自分の仕事へと戻って行った。


 用を済ませたら即刻戻れ、という指示だったので、夜通し馬に揺られて戻って来たところだったのだ。ひと眠りしてから報告に上がるつもりだったのだが、そうはいかないようだ。なんてことだ。

 溜め息ひとつ、厩番に疲れた馬を預けて屋敷へと向かう。


 屋敷は、若くして高位の聖職に就いている主人が暮らす家にしては、少々手狭な小ぢんまりとした造りだ。しかも少し見栄を張る為の客間以外には調度品も少なく、何処となくがらんとした寒々しさがあった。掃除を担当する奉公人の少女は「物が少ないのは手間が省けて楽で嬉しい」と笑っていたが。

 そして、肝心のその主人は、屋敷の中でもかなり奥まった端の部屋を居室としていて、余計に屋敷から生活感を失わせている。

 アンジェロがこの屋敷に身を寄せるようになって四年ほど経つが、この屋敷が何故そのようにしているのか、はっきりとわかるようになっていた。

 時折やって来る来訪者(・・・)の為に、そうしてやっているのだ。


 その身分にはやはり不似合いなほどに狭い主人の部屋の前に辿り着き、扉を鳴らす。


「あー、俺だけど。お呼びと伺いましたが?」


 ノックと共に声をかけると、ややして「待ってた」と声が返った。

 込み上げてきた欠伸を零してからドアを開け、アンジェロは思いっきり顔を顰めた。


「お帰り、アンジェロ」


 窓際に腰かけた青年はこちらに顔を向けながらふんわりと微笑み、やわらかな声を響かせる。

 対するアンジェロは、眉の間と鼻の頭に盛大な皺を寄せ、口の端をぐっと下げた。


「……おい。また(・・)かよ」


 何事もないように本を読んでいたらしい青年に向け、剣呑な声が漏れる。

 青年は読んでいた本を閉じ、愉快そうに声を零した。


「見ればわかるだろう? 片付けておいてくれ」


 アンジェロはもう一度顔を顰め、大きく溜め息を零した。


「あのな、チェーザレ。俺はお前さんの要請で、遥々フィレンツェまで行って、観光もしないで戻って来たところなんだがな」

「知ってる。お疲れ」

「そう。お疲れなんだよ、俺は。その俺に、これを片付けろって?」


 不思議そうな表情をしている青年――チェーザレに苛立ちを覚えながら、アンジェロは部屋の中を見回す。


「冗談も大概にしろよ、バレンシア枢機卿猊下」


 屋敷の他の場所と同じように、寝台と書き物机と整理箪笥ぐらいしかない部屋の中は、血に染まって惨憺たる有様だった。


 また刺客に襲われたのだ。

 そして、それを易々と返り討ちにした。


 チェーザレ・ボルジアというこの青年は、すれ違う人の誰もが振り返り、女性なら十人中九人は頬を染めるような美貌の持ち主であるが、その美しさからは想像が及びもしないほど冷酷で容赦がない戦士でもある。

 アンジェロが彼の許で起居するようになって、こうした惨状の朝を迎えたのは、いったい何度目のことだろうか。両の手では足りないのは確かだ。


 しかし奇妙なことに、屋敷の使用人達は僅かな人間を除いて、主人の部屋が時折このようなことになっていることを、知らないのだ。

 それが自分の部屋を奥まったところに配置したり、替えの利きにくい家具を減らすことによって、惨状の後始末をつけやすくしているチェーザレの配慮であるということは、アンジェロもしばらくは気づかなかった。彼の気遣いはわかりにくい。


 文句を垂れながらも、血に染まったシーツを寝台から引き剥がし、既に事切れている刺客へと掛けていると、チェーザレは面白そうに目を細める。


「そう言うお前だって、わたしを殺そうとしてやって来たんじゃないか――なあ、ミケーレ・ダ・コレーリア?」


 投げかけられる言葉に、ぐっと声を詰まらせる。


 確かにその通りなのだ。

 わりと幼い頃から裏社会に身を投じ、秘密裏に人を消していく仕事を請け負っていたアンジェロは、今までと同じようにチェーザレへの暗殺依頼を受け、この屋敷に忍び込んだ。そうしてあっさりと返り討ちに遭い、何故か標的本人に気に入られて、現在に至る。


 それ以来、裏社会では有名な『ミケーレ』の名の代わりにアンジェロという呼び名を与えられ、チェーザレの友人で食客という待遇でこの屋敷に起居していた。

 嫌ならばいつ出て行ってもいい、と言われている。それでも留まる生き方を選んだのはアンジェロ自身で、そうしようと決めた要因は、このチェーザレという青年に興味が沸いたからだった。


 チェーザレのどの部分に興味を持ったのか、それはひとことでは言い表せない。

 彼の父親というロドリゴ・ボルジアは、今はアレクサンデル六世と呼ばれながらカトリック教会の頂点に立つ教皇という地位に在って、チェーザレ自身も枢機卿という高位に身を置いている。その為、このボルジア親子を煙たがった政敵のローヴェレ枢機卿の依頼で、アンジェロはやって来たのだ。

 そんな相手を、この若い枢機卿は「なんか面白そうだし、使い道がありそうだから」というような理由で始末をつけるのをやめ、手許に置くことにしたのだ。その危うさにまずは驚いたし、訝しみもした。けれどチェーザレは、自分を殺しに来た相手を本当に手許に置くことにしたようで、普通に「待遇はどうしようか?」などと話を振って来るのだった。


 すっかり毒気を抜かれたアンジェロは、それもまた一興、とチェーザレの提案に乗り、しばらく共にいてみることにした。

 それが意外にも楽しかったというか、なにかと刺激的な生活で、うっかりともう四年も経ってしまった。もちろん腹立たしい出来事も何度か――それこそ、六日前のように突然「フィレンツェに行って来てくれ」と遣いに出されるとか、そういうこともあったが、他のことには概ね満足しているのが現状だ。


 チェーザレ・ボルジアという男自体が実に興味深い人物でもあった。老獪な学者達を口で言い負かすほどに博識であるかと思えば、襲って来た刺客を難なく撃退するほどに武芸にも通じているし、物静かで気難しいのかと思えば、悪戯っ子のような顔で笑ったりもする。まったく以て掴みどころのない男だった。


 おかしい、と自分でも思う。

 何故こんなわけのわからない男に興味が沸いたのか。危なっかしいからだろうか。

 とにもかくにも、アンジェロことミケーレは、友人兼護衛兼雑用人としてチェーザレ・ボルジアという男と行動を共にすることに、ちょっとした楽しみを見出していた。



「ぼさっと座ってないで、さっさと着替えたらどうだ」


 考え事をしながらもテキパキと三人の死体を運び出し、床に広がった血溜まりを拭く為の掃除用具を運んで来たところで、アンジェロはまだ窓際に腰を下ろしたままのチェーザレに声をかけた。

 うん、と頷く青年だったが、すぐには動こうとしない。

 溜め息ひとつ、アンジェロは一応の雇い主の肩に手をかける。


「血がついてんだよ、その寝間着。早くしないと落ちなくなるだろ」

「――…ああ、そうだったか。別に構わないよ」


 今気づいたように自分の様子を見下ろし、駄目にしたなら捨てればいい、と笑う男の頭を、アンジェロは平手で殴った。


「痛いな」

「捨てればいい、じゃねーんだよ。これだからお貴族様は!」


 怒鳴りつけて後ろ襟を掴み、そのまま問答無用で引き抜いてしまう。特に抵抗を見せなかったチェーザレは一瞬にして身包みを剥がされ、そのままぺたりと座り込んだ。


「服を作るには布が必要で、布を作る為には糸が必要で――いったいどれだけの人間がこの一着を作るのに尽力したのか、わかっているのか」


 以前から思っていたことなのだが、チェーザレはあまり持ち物を大事にしない。少しでも不具合があればすぐに捨ててしまう。

 そうするのが当然である環境で育った所以なのであろうが、アンジェロにはまったく以て理解出来なかった。勿体ない。


 憤慨している様子のアンジェロに、チェーザレはなにを納得したのか「なるほど」と呟いた。


「そういうことはわかっていても、深く考えたことはなかったな。では、もう少し大事にすることにしよう」

「そうしてくれ」


 変なところで物わかりのいいチェーザレは頷き、アンジェロが取り上げた寝間着を受け取った。


「じゃあ、これはどうすればいい? 洗い場に持って行けばいいかな?」

「そうだな。俺はここの片付けがあるから――って、待て待て待て! その格好で出て行くな!」


 素っ裸で出て行こうとしたチェーザレを押し留めると、彼も自分の姿に気づいたようで、舌を出して「これはいけない」と肩を竦めた。すぐに衣装棚からホーズとチュニックを出して着替えを済ませると、汚れた寝間着を抱えてにこにこと出て行った。


 ほとんど下着状態で出て行く姿を見送りながら、アンジェロは溜め息を零す。


(……なぁんか、抜けてるんだよなぁ……あいつ)


 普段は恐ろしいくらいに頭の回転も速いし、口をつく意見も鋭くて厳しい。冷徹で容赦なく、人を寄せつけない威圧的な空気を纏っているくせに、時折こうして幼子のような様子を覗かせるときがある。だから余計に危なっかしさを感じさせる。その所為か、庇護欲を刺激されていた。


 赤黒く濁った水を拭き取りながら、ふと、これもチェーザレの謀略の内なのだろうか、と考え至る。

 教会では同性同士の恋愛は禁忌とされているが、聖職者達に男色を好む者が多いとも聞いた。そして、隠されているその性質を利用して、自らの身を売ってのし上がる若者もいると聞く。チェーザレはそんな世界に身を置いているのだ。

 アンジェロにそういう気はないつもりだが、あの綺麗な顔に微笑まれてドキッとしたことがないと言えば嘘になる。彼はそういうところを見抜いていて、アンジェロを取り込もうとしているのだろうか。


(そういえば、あの好色なアレクサンデル六世の息子にしては、女の影がないもんだよな)


 チェーザレの父は好色な生臭坊主として有名で、愛人達にも何人か子供がいる。しかし、戒律上婚姻関係を結ぶことは叶わないので、子供達は皆私生児扱いだ。チェーザレもそうしたうちの一人だった。

 すぐ下の弟フアンも妻帯しているし、一番下のホフレでさえも少し前に結婚した。間の妹のルクレツィアも数年前に嫁いだが、今は離婚騒動の最中だと市井の話題は持ちきりだった。男女関係の話題には事欠かない一族だ。

 そんな家族の中で、いくら聖職に身を置く者としても、まったく噂を聞かないのは、もしや――


 そこまで考えてみたが、まさかな、と振り払う。

 もしも女が苦手な性分なのだとしても、利用する為だけに同性に色目を使うような、そういうことをするような男には思えなかった。

 あの抜けた様子はただ単に、普段は張り詰めている気を抜くと、ああいう状態になるだけなのだ。計算づくでやっているわけではないに決まっている。

 そう思うくらいには、アンジェロはチェーザレの人柄を知っているつもりだった。


 そもそもアンジェロは男よりも女の方が好きだし、いくらあれだけの美人でも、男と肌を重ねるようなことは御免だ。想像しただけで吐き気がする。

 たまにドキッとするのも、なんだか守ってやりたい気分になるのも、あの凄味のある美人が抜けている仕種をするその差が気になっているからに過ぎない。きっとそうだ。他の人でもそうなるに決まっている。

 あれが計算でされていることなのだとしたら、さすがに人間不信になりそうだ。





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