・13
新居で迎えた朝。
クロエは、窓から降り注ぐ朝陽に照らされて目が覚めた。
今日も良い天気のようだ。
「うーん、よく寝たかも」
そう呟きながら身体を起こすと、長い黒髪がさらりと揺れる。
馴染みのある色に、つい自分が異世界に転生していたことを忘れそうになってしまう。
今日は何曜日だろうか。仕事に行かなくては。
そう思ってしまい、慌てて首を振る。
(私はクロエ。元侯爵家の令嬢。ただいま逃亡中……)
自分に言い聞かせてから、立ち上がった。
「……クロエ?」
隣で眠っていたエーリヒも、目を覚ましたらしい。
目覚めはあまり良くないようで、まだ少しぼんやりとしたような眼差しでこちらを見つめている。
(イケメンは、寝起きも綺麗なのね)
思わず感心してしまう。
寝室が一緒なのは家の構造上仕方がないとはいえ、大きめのベッドがひとつしかないのは、さすがに問題だった。
でもエーリヒはこれでいいと譲らなかった。
「今さら恥ずかしがるような仲でもないだろう」
「いや、そういう仲だから。いつのまに私達、そんな関係になっていたの?」
そんな問答をしたことが、もう懐かしい。
エーリヒは店でとても寝心地の良いベッドを、それもかなりお手頃な値段で売っているのを見つけて、どうしてもそれが欲しかったらしい。
たしかに睡眠は大切だ。
結局クロエも、一度寝てみたらその寝心地に夢中になってしまって、結局一緒に寝ることを承諾してしまった。
「もう少し寝ていてもいいよ。朝ごはんを作ってくるから」
「クロエが作ってくれるのか?」
「うん。簡単なものだけどね」
感激した様子のエーリヒに笑顔を返して、クロエはキッチンに向かう。
食べ歩きが趣味だった前世では、よく料理もしていた。
「何がいいかな。やっぱり朝は、目玉焼きかな?」
キッチンのテーブルには、食材の入った籠が置かれていた。昨日の夜、エーリヒが買ってきてくれたのだ。
そこから卵とハムを取り出して、調理を開始する。
「あとは……。何がいいかな。味噌汁……は無理だから、野菜スープとか?」
食材は、ほとんどが前世と同じもののようだ。
この国の食文化はそれなりに発展しているようで、そこはとても嬉しい。各国の料理を食べるのが、今からとても楽しみだ。
ただ、やはりこの国には西洋風の料理しかなかった。元日本人としては日本食が恋しくなってしまうが、ないものは仕方がない。
ゲームや小説の中だと、主人公たちは何とかして手に入れていた。でもエーリヒに話を聞く限り、この国では難しそうだ。
「ああ、せめて味噌と醤油、そしてお米があればいいのに」
両手を組み合わせて、祈るようにそう願う。
エーリヒは聞いたことがないと言っていたが、彼もこの国しか知らない。広い世界のどこかには、もしかしたら存在しているのだろうか。
各国を巡れば、いつか巡り合えるかもしれない。
「あっ、焦げちゃう」
料理を再開しようとして振り返ると、ふと目の前にアイテムボックスの画面が出てきた。
「え、何?」
驚いて画面を凝視すると、アイテムボックスの中に、今までなかった文字が見えた。
醤油×∞
味噌×∞
米×∞
「……へ?」
その文字を読み取って、思わず間の抜けた声が出る。
「もしかして……。魔法、使っちゃったの?」
魔力を込めたつもりはないが、声に出して願いを言ってしまった。
欲しいと願ったのはたしかだが、こう簡単に叶えられてしまうと、嬉しさよりも戸惑いのほうが大きい。
「クロエ?」
声が聞こえたのか、まだ寝ていたはずのエーリヒの声がした。
振り返ると、心配そうにこちらを見つめている青色の瞳と目が合った。
「どうかしたのか?」
「エーリヒ。どうしよう。私、ちょっと怖い……」
思わず、自分の肩を抱きしめるようにしてそう言う。
「何が怖い?」
ふとその手に温もりを感じた。
いつのまにかエーリヒが傍にいて、クロエの手をしっかりと握っていてくれた。
「ちょっと欲しいなと思っただけのものが、勝手にアイテムボックスに入っていて。何だか怖くなって」
願いが叶った嬉しさよりも、そんなことを無意識にやってしまった自分の力に恐怖を感じた。
「そうか」
エーリヒはクロエの手を引いて、椅子に座らせてくれた。彼はその前に跪き、クロエを覗き込む。
「力が制御できないのが、怖いのか?」
優しい声で尋ねられ、少しずつ気持ちが落ち着いてきた。
「……うん。そうかもしれない。制御できないから、どのタイミングで願いが叶ってしまうのかわからなくて」
願いを声に出してしまったのは、自分が迂闊だった。
でも無意識に言ってしまったことが、あんなに簡単に叶ってしまうなんて思わなかった。
「何を願った?」
「異国の、ちょっと珍しい調味料よ。料理をしていて、作ってみたいと思ったから」
さすがに前世の話は、まだできない。
そう説明すると、アイテムボックスから取り出して見せる。
「これと、これ。味噌と醤油って言うんだけど、エーリヒは知っている?」
「いや、聞いたことはないな。異国の調味料なのか」
それを珍しそうに眺めたあと、エーリヒはそれを机の上に置くと、もう一度クロエの手をしっかりと握る。
「こんな小さな願いを叶えて怖がっているクロエなら、大丈夫だ。俺の知っている魔女……。王女は、貪欲だった。次から次に願いを叶えて、自分の思うままに振る舞っていた」
王女を騙るときだけ、エーリヒの端正な顔が少し曇る。
「クロエならきっと、無意識に自分で力をコントロールしている。だから、怖がらなくても大丈夫だ」
子どもに言い聞かせているような優しい口調の言葉に、不安が消えていく。
「うん。ありがとう」
むやみに恐れるよりも、前向きに考えて、自分でしっかりと制御できるように頑張らなくてはならない。
やっとそう思えるようになって、クロエは笑みを浮かべる。
「頑張る。自分の力だもの。私が頑張らないと」