復讐
君は誰からも愛されてはいない子だ。
僕はずっと君を見てきた。そんな僕が言うのだから、間違いない。
君は誰からも愛されていない。
ある日、それを不憫に思った神様が現れて、ひとつだけ願いを叶えてくれると言った。
君は誰からも愛されてはいない子だ。
そんな君の願いはもちろん、人から愛されること。誰からも愛されることなく生きてきた君は、人一倍愛に飢えていた。
その心に深い闇のように広がる霧を晴らす為には、人ひとりから与えられる愛では到底足りない。だから君は、誰からも愛される人間になる必要があった。
世界中の誰より、世界中の誰からも、一身に愛を向けられる存在であるべきだ。そうすることで、君は初めて満たされる。
君の願いを聞いた神様は、すぐさまその願いを“ちょちょいっ”と叶えてくれた。
その瞬間、人々が君のもとに殺到した。
今までそこに君がいても見向きもせず、まるで誰もいないかのように振る舞っていた人々が、飴に群がるアリ達のように人集りを作って押し寄せてくる。
人々は君を前にして歓声をあげ、あるいは涙し、あるいは神に祈るように頭を垂れた。
その日から君は誰からも愛される人間になった。
君にはもともと家族はいたけれど、かつての君はその家では空気のような存在だった。
いや、違う。空気のような存在、ではない。
君は、存在すらしていない。『そういうもの』だったから。
けれど君は、誰からも愛される存在へと生まれ変わった。
両親は君を抱き締め、君をどれだけ愛し、いかに大切な存在であるか、延々と語り続けた。
「お父さんも、お母さんも、それほどわたしのことを愛してくれているのね」
もちろんだ!と君の両親は息もピッタリ、力強く即答した。
父親と母親は、お互いジロリと睨み合った。
「あら、あなた。この子はわたしがお腹を痛めて産んだ、たった一人の可愛い娘なのよ」
「何を言っている。可愛い一人娘をここまで育てる為に、誰が稼いできたと思ってるんだ」
さも自分の愛情の方が上回っていると言わんばかりに、君の両親は互いに相手を貶し続けた。
「お父さんもお母さんも、そんなにわたしのことを愛してくれているのね。だったら2人とも、わたしがいればもう他に家族はいらないわよね」
君の言葉に両親は目を丸くして、お互いに顔を見合わせた。
「あら、それもそうね」
「確かに、その通りだな」
君の両親はいなくなった。
けれど君は、ひとつも困らなかった。
君の家族になりたいという人間は、山ほどいるのだから。
君は世界中全ての人間に愛されているから、誰とでも家族になれたし、友達や恋人なんて、どんな関係にでも自由になれた。
人々はやがて君を巡ってあらゆる場所で争いを起こすようになり、それは絶え間なく続いたけれど、君はそれで一向に構わなかった。
何故なら君は愛されているから。
人々が争えば争うほど、君が皆から愛されているという確かな実感が得られる。
こんなに素晴らしいことはない。
全く、君の思いどおりだ。
だって、そうだろう?すべて君が望んだことなのだから。
誰からも愛されるようになった君は、いつもニコニコと笑顔を作っていた。
そんな君のもとには、相変わらず君の両親希望者が絶えず訪れ、さらにはもともといないはずの兄弟希望者なんてのも現れ出した。
人間ならまだいい。そのうちペット希望者や、テーブルに椅子、さらにはもうすっかり世話を忘れて枯れかけているサボテンの代わりなんていう、もう君の家のものなら何でもいいから代わりにしてほしいと形振り構わず懇願する人々まで現れるようになった。
君は人々の希望を全て受け入れた。
君の家の前には連日、行列ができた。
行列は毎日少しずつ、玄関の扉へと吸い込まれていく。
もともと家族三人暮らしの小さな家の中はそれほど広くないのに、行列は日々消費される。
それでも人々は行列を作るのをやめない。
みんな、君を愛しているから。
世界中の誰もが、君を愛してやまない。
君が世界の中心。
もう誰も、君なしでは生きていけない。
君は幸せだった。
世界中の誰からも愛される存在。
世界中の誰もが君だけを見ている。
世界は君を中心に成り立っている。
これ以上の幸福なんか、きっと有り得ない。
もう十分。これが限界なんだ。
―――――その日の夜、君はよく眠れる薬を飲んでぐっすりと眠り込んだまま、翌日の朝になっても目覚めなかった。
新しい《母親》役と《父親》役は、お寝坊さんね。まぁ、でもいつものことだからね。ハハハ。と、にこやかに朝の準備を進めていった。
《ペットのぽっちー》役は、慣れない四足歩行と、今朝も用意されるであろうドッグフードがどうにも口に合わないことへの不満を声に出さないよう、小さくワフッ…と溜め息のような鳴き声をあげた。
その様子を見て、まだ自由気ままに動き回れるペットの方が何十倍もマシだろ、と物言わぬ家具役達は密かに悪態をついた。
ガシャンッ。窓際のほうから物音が響いた。
どうやら《水遣りを忘れられ、すっかり放置ぎみだったサボテン》役が限界を迎えたらしい。
するとそこへ物音を聞き付けた、全身黒ずくめの数名が素早く集まると、あっという間にサボテン役を担いで外に運び出して行った。
彼らは黒子と呼ばれていて、特にこれといった役割にも就けずに、それでも何かしらの力になりたいという一心から家中の至る所に点在し、こうして脱落していった役割達を外に運び出したり、見回りなどをしている。
僕はすやすやと寝息が聞こえてきそうなほど穏やかな顔で眠る、君を見た。
君はこのまま、永遠に目覚めることはない。
どんなにお寝坊さんと言われていても、丸一日目覚めなければ、きっとみんな異変に気付くはず。
そうなれば家中パニックになるし、それは家の外に並んだ行列達にも順々に伝わる。
ドミノ倒しのように街中を駆け巡り、さらに海の向こうの知らない国から国へと次々に巻き込んで、やがて世界中に余すことなく混沌はこの星を包んでいく。
地球上のありとあらゆるものが機能しなくなって、全ては死に絶える。
人も、動物も、建物も、国も、空気も、時間も。
何もかも、全て。
ぜんぶ、君の望み通りに。
君は誰からも愛されてはいない子だった。
神様のおかげで、君は誰からも愛される子になったけれど、君自身は何も変わっていない。
変わったのは周りの人間。
神様の魔法でぐるりと仕組みを創り変えられた世界。
そこで君は人から愛される喜びを知り、そしてその分限界を知った。
この世界で生きる、“自分自身の限界”に――――。
僕は君をずっと見てきた。
長い行列を経て、君の手を握り締めたまま、この家の玄関を潜った。
家の中はほとんど定員オーバーの状態で、仕方なく僕らは黒子になることを選んだ。
何の役割も与えられずに、元々存在すらしないペットのような『正式な役割』にも満たない連中からも空気のような扱いをされる。それが僕らの立場だった。
空気のような存在。
いや。僕らは、存在すらしていない。
『そういうもの』だったから。
この家に入る前。もちろん僕にだって、両親やきょうだいはいた。
その頃の記憶も当然ある。ただ、今となっては嘘のような、まるで夢の中の出来事のように感じるけれど。
ただひとつだけ確かなことは、僕と君は、ずっと一緒だったこと。
僕らは両親に連れられ、訳のわからぬまま長い行列の最後尾に並んだ。
お互いに手をぎゅっと握り締めながら、少しずつ進んで行く行列の中を歩いた。
ようやく家の玄関の前にたどり着き、扉が開いた瞬間、両親は歓声をあげながら中に吸い込まれて行った。
玄関の扉が閉まる。僕はぼんやりと、再び扉が開くのを待った。君の手を握り締めたまま。
そうしてやっと僕らは家の中に。定員オーバーの僕と君は黒子に。
僕らの両親はそれぞれ《父親》と、《母親》の役割に就いていた。
僕の知る限りでは、この家の《一人娘》役の少女は、幸せそうに見えた。
両親から溢れんばかりの愛情を注がれ、家中のありとあらゆるものからも愛され、そして世界中全ての人間から愛される存在。
これ以上の幸福などあるだろうか。
けれどその幸福は、少女にとっての幸せにはなり得なかった。
昼間は幸せだと笑いながら、夜になると、幸せすぎてつらいのだと、毎晩のように泣いていた。
一体何がそんなにつらいのか、黒子の僕にはその理由を尋ねることなどできなかった。
不思議なことに、家中の誰も、少女の涙の理由を知ろうとしなかった。
年頃の女の子は繊細なのよ、とか、本人にしかわからない悩み事があるのだろう、自分で考えて答えを出してこそ人は成長するものだ、とかなんとかもっともらしい理由をつけて、誰も触れようともしない。
いつしか少女は夜に泣かなくなった。
周りの人達は少女の悩み事が解決したのだと、ほっと胸を撫で下ろした。
少女は昼も夜もずっとニコニコ笑うようになった。
どんなに可笑しなことがあっても、美味しい食事やお菓子を食べても、一日に何十人という人々から好きだと言われようと、おんなじ笑顔で、ニコニコと、顔だけが笑っている。
黒子の僕と少女は、最後まで言葉を交わすことはなかった。
少女が何を想い、この結末を選んだのか、僕にはわからない。
少女は深い眠りに就いたまま、二度と目覚めることはなかった。
ただそんな少女の姿を、君はじっと、静かに見つめていた。
愛すべき対象を失った人々は、たちまちパニックに陥った。
深い絶望感から、自ら命を断つ者が絶えなかった。
訳のわからないことを喚きながら、身近にいる人間を手当たり次第に襲う者も少なくなかった。
もちろん家の中も、凄まじいほどの混乱で溢れかえっていた。
僕はリビングの隅っこで、耳を塞いでじっと固まっていることしかできなかった。
ふと腕に痛みを感じて見てみれば、真っ青な顔をした君がしがみついていた。
ボロボロと涙を零しながら、めいっぱい開いた目で、訴えてくる。
助けて――――。
大きく、暗い影が、僕らの目の前まで迫っていた。
愛する一人娘を失った《母親》――――今は見る影もなく壊れた女が、包丁を手に、ぬぼぅっ、と立ち尽くしている。
片腕が捩じ切れそうなほど痛む。
恐怖はもう目の前、君に向かって赤く塗れた手を伸ばしている。
僕は君を見た。君も僕を見た。
もう一度、『助けて』と、君の目が悲痛な悲鳴をあげていた。
「あ、ここは何もいないじゃない」
女は、君のすぐ隣でうずくまっていた《ペットの文鳥》役を無造作に掴むと、お腹が真っ赤に染まるまで、手にした包丁を突き立て続けた。
僕はその光景を呆然と見ていた。
いつの間にか、捩じ切れそうなほどの鋭い痛みはなくなっていて、代わりに、じぃん…っと鈍い痛みが広がっていた。
君は今、どんな顔で僕を見ているのか。その想像に恐怖した。
確かめなければならない。
きっと怒ってる。だとしたら謝らないと。
勇気を振り絞って、隣にいる君を見た。
君は僕を見ていなかった。ただ前を向いていただけ。
もう女の姿はすでになく、君はただ目の前にある散らかしっぱなしの《文鳥》役だったものをぼんやり見ていた。
君は怒ったりしなかった。
君が必死で助けを求めていたのに、僕はただ見ていただけで何もできなかった。
それを謝りたかったけど、もう君の目は、僕を見てはくれない。
君の母親は、君という存在を認識できなかった。
君の兄は、君から逃げた。
君は、誰からも愛されてはいない子だ。
そんな君だから、神様は君のもとに現れて、願いを叶えてくれると言ったんだ。
あの少女と、同じように。
「みんな、わたしのことを愛してるとか言ったって、結局、自分勝手な愛し方をしているだけじゃない」
君が眠りにつく前、最後の夜の話だ。
君が僕に話しかけてくるなんて、この家に入る前のことだから、本当にびっくりした。
僕は黙って、君の話を聞いた。
「わたし、知ってるもの。わたしのこと愛してるって言ってる人達、みんな神様の魔法にかかってるだけなんだから。わたしが神様に願いを叶えてもらう前には、あいつらみんな、わたしのことなんか、全然見てくれなかったのよ。誰もわたしの存在すら、認めてくれなかったくせに。そんなやつらがこぞって好きだの愛しているだの言い寄ってきたって、そんなの信用できるわけないじゃない」
そうでしょ? なんて、君はどこまでも笑顔だった。
「わたしの前の子、ずっと泣いてばっかりだったでしょう?あの時のわたし、『みんなにちやほやされて、それなのに泣いちゃって、馬鹿じゃないの?なーんてゼイタクなやつ!ヤなやつ!』って、思ってたのよね。
………でもね、今ならわかるよ。あの子の気持ち。最後の方は、一日中、ずっと笑ってた。キモチ悪いくらいの笑顔貼り付けて。それはね、もう諦めてるから。期待するのをね。周りの連中、みーんな。みんなさぁ、ふふっ、嘘つき。ふふふ、あ、ごめんね。なんか、笑えてきて。
ふふふっ、だって、もう………あは。あははは――――――はぁ、おっかしい」
僕は君がもともとおしゃべりな子だったことを思い出していた。
もちろん君の話もちゃんと耳に入って来てる。
だからこその、おしゃべりだった頃の君の思い出なんだ。
両親の前では、君は借りてきた猫みたいに静かで、おとなしい子だったから、「お前は本当に暗い子だよ」と、よく言われていた。
でも、そんな日は必ず、夜になると二人並べた布団にもぐりながら、「まったく、二人してわたしのこと暗いって、いっつもそればっかで嫌になる!」と、君は小さな頬を膨らませた。
それから、今日一日あったことの中から一つずつ、順番に、決して声や顔には出さなかった感情や思ってたことを話し出す。
よく話題が尽きないものだなあと関心しながら、僕は君の話に耳を傾け、でも夜ふかしが苦手な僕は時々うとうとして、それで。
「ちょっと、聞いてるの?」
僕の記憶と、今の君の言葉が重なった。
にゅっと君の腕が伸びてきて、僕の頬を軽くつねった。
これも昔の記憶そのままだ。
じ、と僕の顔を見上げる大きな目に、久しぶりのおしゃべりに興奮したのか、りんごのようにほんのり染まった頬も、あの頃と変わらない。
ただほんの少し、その表情は大人っぽくなっていた。
「………大きくなったね」
「別に………だってこの家に来てから、たった一年しか経ってないもの」
「それでも、やっぱり大きくなったよ。変化してるんだ」
「変化って?わたしは、どう変わったの?」
今のわたしは、何になれたの?
君は誰からも愛される子になった。
この世に、君以上に愛されている子は、世界中のどこを探したって、今は存在しない。
君が死ぬまでは。
「もう、決めたことだから」
君は静かに、そう告げた。
僕はただ黙って、その言葉を受け入れた。
しばらく、沈黙が続いた。
「なにも、言ってくれないんだね」
君が決めたことだ。
僕の意見なんて、今更何の意味も持たない。
「世界中の人から愛されるようになっても、あなたはわたしになにも言ってくれなかった」
君は欲張りだな。
世界中の人から愛されているのに、僕一人の気持ちなんて、ちっぽけなもの欲しがるなんて。
「欲張りじゃなきゃ、世界中の人から愛されたいなんて願わないでしょう?
………ねえ、今なら止められるかもしれないよ」
どうする?
君がクスクス笑って問い掛けてくる。
僕はその何気無い仕草に、違和感を覚えた。
「僕が言えば、やめてくれるの?」
「駄目。ちゃんと言葉にして」
「わかった、言うよ。死なないでくれ」
「嘘つき」
「なぜ?僕は言われたとおり、ちゃんと言葉にしたじゃないか」
「わたしはあなたの気持ちがききたいの」
僕は困惑した。
どうにも君の様子がおかしい。
『もう決めたこと』じゃないのか?
どうして僕の言葉なんて聞きたがるんだろう。
『嘘つき』って、それなら君は僕からどんな言葉を望んでいるのか。
「………そうか、君は、混乱してるんだね。君は、愛されることに慣れてないから。急激な環境の変化に、ちょっと心が不安定になってるだけなんだ。毎晩泣いていた、あの少女と同じように………」
「そんな話をしてるわけじゃないの!今はわたしの話をしてるのに、どうしてあの子の話をするの?」
どうやら君を怒らせてしまったらしい。
僕はますますわからなくなった。
「なにもわからないって顔、してる」
ふふふ、と今度は笑う君。
僕はいよいよ君が理解できなくなっていた。
「あなたって、昔からそうだった。何を考えているのか、わたしにはこれっぽっちもわからない」
呆れたような声色で、君の顔は笑っているような、今にも泣き出しそうな、そんな複雑な表情で、僕には君のなにもかもがわからない。
「ほんとうに、わたしは、あなたの気持ちを知りたかっただけなの………」
「どうして泣いてるの?」
柔らかな髪の感触がした。
泣いている君を前にしてそんな風に思うのはいけないことかもしれないけれど、艶やかな黒髪はてのひらを滑らせる度にうっとりと心地のよい感覚にさせる。
ぽろぽろと絶え間なくこぼれていた涙はあたたかくて、ほんの少し甘かった。
やめて、と君は声を震わせ喘ぐように言った。
僕は鼻先をくすぐる柔らかな髪の感触と花のような匂いから少し顔を離して、君の目をじっと見つめた。
「わからない………どうして?なぜ、わたしに優しくするの?ううん、優しくなんかじゃない。どうしてこんなひどいことするの?あなたは、なにを考えてるの………?」
僕はその質問のどれにも答えず、君の全身のぬくもりを閉じ込めるように再び腕に力を込めた。
やめて……いやだ……うわ言のように繰り返す言葉に、やはり僕は無言のまま君の体温を貪り続けた。
やがて君の身体からふっと力が抜けたかと思うと、ぽつり、呟いた。
「悪魔」
さすがにその言葉には僕も傷ついた。
君に言われたとおりの言葉を口にして、君が泣いているから抱き締めて。
全て君を思っての行為なのに、どうして君には伝わらないんだろう。
「わたしは、こんなこと望んでない」
だったら、教えてくれ。
君の本当の願いは何なんだ?
僕には本当に解らないんだ。
僕のたったひとりのきょうだい。
僕らの両親でさえ知らない、毎晩布団の中でするふたりだけの内緒話。
ふたり手を繋いで並んだ行列の先に待っていた、家族の終わり。
神様の魔法で世界中から愛されるようになった君。
全てを手に入れて、幸福なはずの今を、これから全部、君は捨て去ろうとするのか。
君がいなくなれば、世界は終わる。
あの少女の時のように。世界は呆気なく崩壊する。
「これは復讐だから」
君を理解してくれない両親。
君の存在を無視した人々。
君がいてもいなくても平気な顔で回り続けるであろう世界。
「私のことどうでもいいって思ってたやつら、みんなまとめて消してやる」
君は笑ってる。まるで内緒の悪戯に引っ掛かる大人を陰でこっそり隠れて見守る、無邪気な少女のように。
けれどその目は背筋が凍るような憎しみに溢れていて、何故だか、僕の身体の奥底からぞくりとした震えが走った。
ああそうか。君は、愛する者を失う絶望で世界を殺そうというのか。
なんだ。僕なんかより、よっぽど君の方が―――――
「悪魔らしいじゃないか」
「うるさい、人殺し」
君が死ねば世界中の人間が死ぬ。
僕は君に死なないでほしいと言った。
けれど君はもう決めたことだからと止めるつもりはない。
自分をどうでもいいと思っていたやつらをまとめて消すとまで言った。
君が殺すんだ。絶望に狂わされた人々を。
「それなら、君が死んだら僕も狂って死ぬのかな」
人殺しは君の方だ。
たとえ僕があの時の母親のように狂って誰かを殺したとしても、それは神様の魔法がそうさせるのであって、僕の本当の意思ではない。
そもそも、そんなふうに世界を壊す引き金を引くのは君なのだから、僕が人殺しだと罵られる謂われはないはずだ。
「冗談でしょ?あなたがこんなことで、死んだりする訳ないじゃない。わたしなんかがただ死んだくらいで、あなたは何も変わりやしない。
それに、わたしがあなたを殺すんじゃない。あなたがわたしを殺すの」
見ていて。
そう言って君は枕の下に手を差し入れ、何かを取り出した。
よく眠れるお薬。そんな物どうしたのかと訊けば、神様がくれたのだと君は笑った。
それなら君を殺すのは神様なんじゃないか。
「神様はお薬をくれただけだもの。これを使うか使わないかはわたしの意思。そしてそう決意させたのは、あなただから」
君は何の躊躇いもなく一口で薬を飲み干すと、真っ直ぐ僕の目を見つめた。
たったそれだけのことで君は死ぬのか。僕が入り込む余地などないじゃないか。
「何のつもり?」
「君が可哀想だから」
僕の腕の中にすっぽり収まった君の表情も声もすこぶる機嫌が悪そうだ。
君は小さく溜め息をつくと、もうあきらめてしまったのか、それとも早くも薬の効果が現れ出したせいなのか、強ばっていた身体の力をふっと抜いた。
「ただ疲れたのよ。愛される人間のフリをするのが」
好きな食べ物は真っ赤なイチゴのショートケーキ。
好きな服はフリルがたっぷり付いたお姫様みたいなワンピース。
お気に入りは首にピンクのリボンを巻いたウサギのぬいぐるみ。
歌が好き。絵本が好き。
いつもにこにこ笑う、可愛い、可愛い、女の子。
そう、それが君――――この物語りの主人公。
ずっとずっと、何人もの女の子が入れ替わりで演じてきた、とてもとても重要な役割なんだよ。
それを自らの意思で降りるなんて、愚かな娘だ。
………いや、それも仕方のないことなのかもしれない。
可愛い服を着て、周りの男の子達からはちやほやされ、女の子なら誰もが憧れるお姫様のような暮らしなんて、以前の君には想像もつかなかっただろう。
可愛い服や男の子の好意や女の子の憧れなんて、全く縁のない生活を送っていたのだから。
だって君はそもそも、
「眠たい……」
君は目を閉じ、今にも眠ってしまいそうな様子だった。
もう時間はない。
君はもうすぐ死んでしまう。
「おやすみ」
「それだけかよ………」
君は目を閉じたまま言った。
確かに、別れの言葉としては少し物足りない。
「寂しくなるね。向こうでも元気で」
「なにそれ引っ越しの挨拶?あーもう、昔から抜けてるというか、なんというか………。
もういい。寝る」
「君こそ人生の最後に不貞寝というのはどうなんだろう」
「だったら気持ちよく眠れるようにどうにかしろよ………もうほんと、眠いの………」
「そう、それじゃあ――――」
結局、最後の最後に僕が君にしてあげれたことは。
ただおやすみの挨拶を一つ、落としただけ。
そして、そこから、吐き出すように。
君は僕に、最後の言葉を。
「嘘吐き。大嫌い」
翌朝。
世界は何度目かの終わりを迎えようとしていた。
混乱した人々が作り出す阿鼻叫喚の地獄絵図。
これからまた、誰からも愛される女の子が生まれるのだろうか――――。
「おやおや、これはまた大変な騒ぎだ」
「神様。その節は妹が大変お世話になりました。お陰様でこの有り様です」
「何を言うかね。わしは君の願いを叶えてあげただけなのに」
「はい、叶いました。ですが、これは想定外の事態です。僕が思っていた結果とは違う。これって契約違反ですよね。
なので、弟を返してください」
神様は大層びっくりした顔をした。
わし、君の望み通り弟くんを誰からも愛される女の子にしたよね?などと文句を言ってきたが、その結果は僕が思い描いた展開と全くかけ離れたものになってしまった。
これでは意味がない。
「願いを叶えられるのは一人一回きり。選ばれた人だけ。なんでもかんでも願い叶えてたら世の中おかしくなっちゃうじゃん」
その世の中が今、地獄の有り様なのですが。
そうこっそり思っていたら、神様は僕の心を見透かしたように「なったものは仕方がない。そうなる運命ということじゃ」なんて悪げもなく言った。
神様ってこんなにもいい加減なものなのかな。
「なんじゃなんじゃ、文句ばっかり!んもう、君は結局どうしたかったのかね」
僕の願いは弟の幸せ、ただ一つだった。
弟が僕のことを特別な目で見ていたのは、もうずっと前から気付いていた。
芽生えたばかりの幼げな感情はまだまだ未成熟で、家族を思う愛情との境目をふわふわと揺れ動いていた。
僕は可愛い弟の幸せを切に望んでいた。
弟に在るべき道を示す。それが兄である僕の役目だ。
でも僕はそんな大事な大事な弟を、助けられなかった。
あの時、母親に殺されそうになった君を、僕は目の前にいながら守れなかった。
僕は臆病だ。僕には力がない。だから神様にお願いしたんだ。
君を誰からも愛され、守られるべき女の子にしてほしいと。
この世界では、それが一番幸せな生き方だから。
そして、そんな君をずっとそばで見守っていられるのならば、僕にとってもこれ以上の幸せははない。
誰もが幸せになれる世界だ。正直、君の幸せ以外のことなんてどうでもいいけど………まあなんにしても、世界が平和であるに越したことはない。
喩え君を巡って争いが起きたとしても、それは愛故に………君がどれだけ愛されているかを測るものさしにしかすぎないのだから。
より大きく多くの愛を知ることで、僕なんかへの感情がどれだけちっぽけなものか気付くだろう。
あの子は愛されることに飢えていたから、世界中の人間から愛されることで、僕への気持ちも単なる兄弟間の仲に自然と収まるはずだと思っていた。
「ふむふむ………わし、君達のことずっと見ておったけど、ひとつ気になることがあっての。訊いていい?」
「何でしょう」
「ずばり言うけどね、君の方こそ、弟くんに対して特別な思いがあったんでないの?」
今度は僕がびっくりする番だった。
確かに、僕は家族の誰よりも弟を想っている自信がある。
でもそれは兄として当然のこと。
「神様。何か誤解されているようですが、僕は弟を特別な目でなんて見ていません。
弟は可哀想な子です。両親から疎まれ、存在すら否定され、兄からは裏切られて危うく見殺しにされそうになった………。どうしようもなく憐れな子なんです。
肉親から愛情を与えられないような子が、どうやって他人から愛されるようになるのか………」
恐らく弟は生まれながらの不幸体質なのだ。
弟は何も悪くない。
ただ子育てに不向きな両親のもとに生まれ、兄が薄情なやつだったというだけ。
子は親を選べない。兄弟だって選べない。
親からは生きていく上で必要最低限の食事に服、子供部屋は与えられたけれど、物心ついた頃から親は自分達に関心がないのだと感じていたから、愛情なんて期待すらしなくなった。
僕はどうってことなかったけど、弟は随分寂しい思いをしたようだった。
だから自分に関心のない親よりも、何を考えているかわからないが話を聴いてくれる兄に、友達も作らずくっ付いて回るようになったのだろう。
さすがに心配になった僕は一度、弟に友達を作るよう話したことがあるのだか、その時は弟がまるでこの世の終わりのように泣き出してしまったので、それ以来友達についてあれこれ言うことは諦めた。
弟は外で上手く話せない子だった。
家の中でだって、両親から快く思われていないのを幼いながらに感じていたようだから、必要最低限のこと以外はほとんど話さなかった。
その反動からだったのだろうか、夜寝る前に弟がこれでもかってくらいにお喋りになるのは。
両親も、周りの人間も、誰一人知らない。
僕だけに見せる一面。
僕だけのものだった。
「…………そういうとこじゃぞ」
「何がですか?」
「うむ、そうね、全くの無自覚とか弟くんかわいそうに………」
神様は何が言いたいのだろう。
ただでさえ人間の心の機微に鈍い僕が神様の思考を読み解くなんて、無理な話だ。
「はぁ~、やれやれ困ったものだ。わし、また上に怒られちゃうよ。ついこの間、宇宙人に侵略された挙句、地球まるごと砂糖まみれにされて人類滅亡させたばっかりなのに………」
神様は何やらぶつぶつ言いながらトホホ…と態とらしい仕草で肩を落としてみせた。
映画や小説に出てくるような現実離れした内容の言葉に少し引っかかったもののそんなことより、目下のところ現実に迫りつつある危機の方を優先すべきだと、僕はすぐに意識を逸らした。
「待って、スルーしないで。わし切なくなっちゃう」
当然のように神様には筒抜けの思考で、では僕はどうしたらいいのか目で問いかけた。
神様はただ話を聞いてほしいと言った。
これも神様の、人知を超えた力なのだろうか。
ふと気がつけば、阿鼻叫喚の地獄は僕らの周りから一定の距離を保ったまま、不思議と侵食してくる事はない。
数メートル先では《テーブル》役が、木製の本物の食器棚にしがみついた《掛け時計》役を引きずり降ろそうと躍起になっている。
その下には黒子達が折り重なるように倒れている。
ぐるり見渡せば、どこも似たり寄ったり同じような光景だった。
生きているか、死んでいるか。
生きていても、次の瞬間には命を奪われる。
奪った奴は、また別の奴に殺される。
その繰り返し。地獄のパノラマ風景。
「君達人間には理解できないかもしれないけど、世界というのはね、ここだけじゃない。いくつも存在する」
一定の距離があるとはいえ、視線の逃げ場はない。
耳をつんざくような声だってそこかしこから聞こえてくる。
何百人と流れ出した濃縮された濃い匂いも。
呼吸するたび、なんとも言いがたい湿った空気が舌に纏わりつくようだった。
そしてなにより覚えている、弟が死に、命あるものとは決定的な違いを肌で感じた、あの瞬間――――。
「ここはもう終わりだから、速やかに処理。そして消去するのが決まり。
…………なんだけどね。実はわし、弟くんからある願いを託されてね」
驚き、神様を見ると、僕の僅かな疑念をはらすようにゆっくり頷いた。
本当に、弟は神様に願い事をしたのだ。
「君の弟のおかげで、この地球は救われるよ。街も人も全てもと通り。あの家もなくなって、それ以前のように正常な世界を取り戻すことができる」
それは。僕と、弟が――――僕達が生まれ育った家族4人で暮らす家に。
あの頃のように、また、一緒に生活出来るのか。
弟が、僕の弟が…………還ってくる?本当に?
神様は、僕の願いを叶えた時と同じように、“ちょちょいっ”として―――――
僕の意識は途絶えた。
―――――そして、目覚まし時計の音。
朝………目を擦りながら、時間を確認する。学校へ行く時間だ。
いつものように制服に着替え、支度する。
部屋を出て、リビングに向かい朝食を摂る。両親がいたが特に何も言わず家を出る。
学校。特になにもない。
下校。帰宅。
両親はまだ帰っていない。部屋に入り、ドアを閉める。ドサッと鞄を下ろす。
部屋に一人、夜まで過ごす。
夜。両親と夕食を摂る。会話は特にない。
部屋に戻り、宿題や明日の準備をする。風呂に入る。歯を磨く。就寝。
そして、また目覚まし時計の音。
朝。目を擦りながら、時間を確認する。学校へ行く時間だ。
いつものように制服に着替え、支度する。
部屋を出て、リビングに向かい朝食を摂る。両親がいたが特に何も言わず家を出る。
学校。特になにもない。
下校。帰宅。
両親はまだ帰っていない。部屋に入り、ドアを閉める。ドサッと鞄を下ろす。
部屋に一人、夜まで過ごす。
夜。両親と夕食を摂る。会話は特にない。
部屋に戻り、宿題や明日の準備をする。風呂に入る。歯を磨く。就寝。
目覚まし時計の音。
朝。目を擦りながら、時間を確認する。学校へ行く時間だ。いつものように制服に着替え、支度する。部屋を出て、リビングに向かい朝食を摂る。両親がいたが特に何も言わず家を出る。学校。特になにもない。下校。帰宅。両親はまだ帰っていない。部屋に入り、ドアを閉める。ドサッと鞄を下ろす。部屋に一人、夜まで過ごす。夜。両親と夕食を摂る。会話は特にない。部屋に戻り、宿題や明日の準備をする。風呂に入る。歯を磨く。就寝。
目覚まし時計の音。朝。目を擦りながら、時間を確認する。学校へ行く時間だ。いつものように制服に着替え、支度する。部屋を出て、リビングに向かい朝食を摂る。両親がいたが特に何も言わず家を出る。学校。特になにもない。下校。帰宅。両親はまだ帰っていない。部屋に入り、ドアを閉める。ドサッと鞄を下ろす。部屋に一人、夜まで過ごす。夜。両親と夕食を摂る。会話は特にない。部屋に戻り、宿題や明日の準備をする。風呂に入る。歯を磨く。就寝。
目覚まし時計の音。朝。目を擦りながら、時間を確認する。学校へ行く時間だ。いつものように制服に着替え、支度する。部屋を出て、リビングに向かい朝食を摂る。両親がいたが特に何も言わず家を出る。学校。特になにもない。下校。帰宅。両親はまだ帰っていない。部屋に入り、ドアを閉める。ドサッと鞄を下ろす。部屋に一人、夜まで過ごす。夜。両親と夕食を摂る。会話は特にない。部屋に戻り、宿題や明日の準備をする。風呂に入る。歯を磨く。就寝。
目覚まし時計の音。朝。目を擦りながら、時間を確認する。学校へ行く時間だ。いつものように制服に着替え、支度する。部屋を出て、リビングに向かい朝食を摂る。両親がいたが特に何も言わず家を出る。学校。特になにもない。下校。帰宅。両親はまだ帰っていない。部屋に入り、ドアを閉める。ドサッと鞄を下ろす。部屋に一人、夜まで過ごす。夜。両親と夕食を摂る。会話は特にない。部屋に戻り、宿題や明日の準備をする。風呂に入る。歯を磨く。就寝。
目覚まし時計の音。朝。目を擦りながら、時間を確認する。学校へ行く時間だ。いつものように制服に着替え、支度する。部屋を出て、リビングに向かい朝食を摂る。両親がいたが特に何も言わず家を出る。学校。特になにもないどこにもいないなんでなんでなんで下校。帰宅。両親はまだ帰っていない。部屋に入り、ドアを閉める。ドサッと鞄を下ろす。部屋に一人、夜まで過ごす。夜。両親と夕食を摂る。会話は特にない。部屋に戻り、宿題や明日の準備をする。風呂に入る。歯を磨く。就寝。目覚まし時計の音。朝。目を擦りながら、時間を確認する。学校へ行く時間だ。いつものように制服に着替え、支度する。部屋を出て、リビングに向かい朝食を摂る。両親がいたが特に何も言わず家を出る。学校。特になにもない。下校。帰宅。両親はまだ帰っていない。部屋に入り、ドアを閉める。ドサッと鞄を下ろす。
部屋に一人、夜まで過ごす。
そこで僕は発狂した。
なにか訳のわからない事を喚き散らしながら、何度も何度も畳を叩いた。
部屋じゅう転げ回るようにありとあらゆる物を叩き壊した。
硬い机や本棚なんかは真っ赤に汚れた。
それでもお構い無しに僕は暴れ回った。
違う。違う、違う。
違う違う違う違う。
何だこれは?
これは違うだろう?
弟――――僕のたった一人の弟。
この家でずっと一緒にいたはずの弟。
その弟がいない。
それどころかその痕跡すら、この世界にはまったく存在しない。
どこにいった?
部屋を飛び出す。
思いつく限りを血なまこになって探す。
途中、奇異の目や悲鳴に「君、怪我してるじゃないか。止まりなさい!」なんて邪魔が入ったりしたがすべて振り払った。
どこにもいない。どこにも!
部屋に帰る。
やっぱり弟はいない。
どうして?僕とずっと一緒じゃないと駄目だろう?
弟には僕が必要だ。
だって弟は僕がそばにいなきゃ駄目なんだから。
僕から離れるなんて有り得ない。許さない。誰にも触れさせない。
僕のものだ。
だって僕は、弟を――――――
そこで理解した。
弟が神様に頼んだ、願い事を。
『わたしがいない世界で、兄がわたしだけを愛してくれますように。ずっと、ずっと………』
僕はひとり取り残された。
愛する人がいない、がらんどうの世界に。
自殺を試みたが、すべて失敗に終わった。
そうしようと思った途端、急に目の前に靄がかかったようになり、ふと次の瞬間には何事もなかったかのようにそういえば宿題まだだったな、とか帰りに本屋寄ろう、といった感じにごく自然に意識が逸れる。
なら最初に部屋で暴れ回った傷もどうにかしてくれと思ったが、出血の割に思った程傷は深くないようで、しかし不自然に早く塞がった傷は何故が痕だけがしっかりと残り、それを見る度にまた気が狂いそうで、どうにかなってしまいそうで…………このままではおかしくなってしまう、と本気で思った。
神様、お願いです。
僕を死なせてください。
弟がいない世界でなんて生きていけません。
もう、限界です。
けれど神様はもういない。
願い事はひとり一回。あいつはそう言うんだ。
畜生。何が神様だ。
悪魔め。
ああああああ。僕は叫んだ。喚いた。居てもたってもいられぬ衝動に身悶えた。狂う。きがくるってしまう。
お互いに気持ちが通じていれば幸せ? そばにいなくとも相手を想うだけで幸せ?
巫山戯るな。愛だとか恋だとか、そんな生温いものではない。
これは激情だ。本能だ。僕という生命が、身体中の細胞が叫ぶように、あの子を求めている。
欲しい。今すぐに。肌に触れたい。ぬくもりを感じたい。においも。声も。僕だけに見せるわがまま。そして、僕を見る目………隠しきれない恋慕に焦がれた瞳を。
その全て。僕のものにしなければ気が済まない。全部、全部、全部………それでもまだ、足りないくらいだ。
それが叶わないなら、どうして、生きる意味などあろうか。この世に生きる価値が。弟がいない世界で、僕は一秒たりとも正気で生きてなどいられない。ああああああああ。
生まれて初めての感覚だった。
僕は生まれつき、あらゆる感覚が鈍かった。
喜怒哀楽、寒さや暑さ、身体の痛み………それら全てにおいて鈍感だった。
誰かに嫌なことをされても、怒ったり悲しいと思うことはなかった。エネルギーの無駄だし、時間も惜しい。
この世には自分の力で出来ることに限りがある。周りの人や環境を変えるより、自分が順応するほうが圧倒的に早いし、余計な手間がかからない。
僕は誰に対しても怒らない。人を憎まない。そして人を愛さない。
生きていく上でもっとも煩わしいと思うのは人間関係だった。
あればかりは本当にわからない。人は何を考えてるのか解らないから。多分、自分とは違う生き物なのだ。
弟は不思議な存在だった。
僕は極力誰とも関わりたくない。両親でさえそうだ。
けれど弟に対しては………少し違った。
いつも僕のうしろにくっついて回る、僕よりちょっとだけ小さな存在を、僕は確かに好ましく思っていた。
弟は明らかに僕より弱い存在だった。そして僕とは逆に、あらゆる感覚に敏感だった。
外の世界に一歩出れば、弟は無意識の攻撃に晒される。
周りの人間は常に弟を攻撃してくるのだ。相手にそのつもりが無くとも。あるいは意識的に。
そして家の中では両親に攻撃される。全く、どうしようもない。
人として在るべき感覚を閉ざした僕には想像もできない苦しみだ。
それを今、僕は強制的に味わっている。
僕はいつの間にか泣いていた。
涙を流すのなんて何年ぶりだろう。
こんなにも息が苦しくなるものなのか。喉が痛い。呼吸が乱れるどころかその遣り方すら忘れてしまったかのようだ。
頭が。頭が痛い。割れそうだ。
意識が――――まるで風船のように膨らんで、脳を圧迫するイメージ――――。痛い痛い痛い。
こんなに。こんなにも頭の中が弟で一杯になって。これ以上どう埋め尽くす。
頭を掻き毟る。髪がブチブチと音をたてて指の間をすり抜けた。
これ以上。これ以上は無理だ。ほんとうに。頭が割れてしまうのではないか?
頭と同時に痛む胸も限界だ。こちらも掻き毟るように強く掴んで、痛い痛い痛い痛い痛い。くるしい。たすけて。
「 」
弟の名前を呼ぶ。
返事はない。
なんで。
そばに居てくれ。
こんなにも、
「あいして、いるのに」
掠れた声が出た。
今更言えた言葉は、もう虚しいだけだった。
弟は完璧に復讐を成し遂げた。
僕はもう死ぬ。だってこんなに身体中が痛い。
ああでも、もうすぐこの苦しみから逃れられる。
死ねば全てお終い。それだけだ。
早く。早く、早く。はやく死なせてくれたのむから。
はやく――――――。
僕の意識は途絶えた。
―――――そして、目覚まし時計の音。
僕は発狂した。
了
ここまで読んでいただきありがとうございます。
性癖に走ってしまったことを心よりお詫び申し上げます。
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