あたしには勇気が足りなくて
そもそも包丁の持ち方がおかしいので教えてあげた、こんな持ち方じゃいつか怪我をする。
「あのね、浅葱さん。家庭科の授業とか、なかった?」
「あまり、学校へは行ってなかったの」
きっと学校へ行かなかったのも『複雑な家庭』のせいだろう。普通に学校へいけるあたしは恵まれているのかもしれない。
浅葱さんが料理できない人だと知らなかったパパは、浅葱さんの為にキッチンを改装した。輸入物のキッチンは大げさで豪華だった。それをはじめて見た時の、浅葱さんの困った顔を忘れることができない。いまでも思い出すと吹き出しそうになる。
まずは、ほとんど失敗のないハンバーグから。千里の道も一歩からだ。浅葱さんの使ってる北欧製のキッチンナイフは冗談みたいによく切れる。通信販売の実演をしたくなった。
玉ねぎをみじん切りにして、ミルしたパンを牛乳で戻す。合い挽き肉は常温にしておく。
浅葱さんはメモを取っていた。
「初花ちゃんがうらやましいわ。ちゃんと優しいお父さんがいて、よりこちゃんていう友達がいて、帰る家があって、誰にもぶたれたりしないでしょ。そういう生活に憧れてたの」
「……わたしの母親のことは聞いてないの?」
「ご病気でなくなったって……」
ぶたれたりはしなかったけれど、あたしの母はまるっきりおかしかった。
病院のベッドにいた母は、腕を伸ばした幼い頃のあたしを無視して、寝返りをうち背中を向けた。
それが、あたしの覚えている、母の最後の姿だ。
インコのみーちゃんが、窓のそばでお笑い芸人の真似をしていた。ハンバーグをこねる浅葱さんは空気を読んで聞こえないふりをしていたけれど、とうとう我慢できなくなって吹きだしてしまった。あたしも笑った。
「あたし、浅葱さんがパパを選んでくれたよかったよ」
「……あの人がわたしを選んでくれたの。わたしを助けてくれたのよ」
助けてもらったのは、たぶんパパも同じだ。母がいなくなってから、パパは仕事ばかりの人だった。浅葱さんと出会って、パパはジョギングを始め、図書館い行ったり、たまには映画なんかも見るようになった。ビールを飲む姿も初めて見た。
以前よりもずっと人間らしくなったと思う。お腹も、少しだけど引っこんだ。
浅葱さんは汚れた手をちょっとあげたままで、あたしの肩におでこを乗せた。シャンプーのいい香りがした。
なんだか胸がいっぱいになって、あたしは浅葱さんに抱きついた。
こんなにはかなげで優しい人を、いったい誰が憎むのだろう?
やっぱり、あたしには理解できなかった――人は人を憎む。愛するのと同じ量だけね――そう言ったケットシーの言葉を思い出した。
――ほんとのことを教えて、ほんとは誰が浅葱さんを傷つけようとしているの?
あたしには勇気が足りなくて、とうとう、それを聞く事ができなかった。