恐怖ではなく静かな『怒り』
階下であさぎさんの呼ぶ声がした。食事の準備をする時間だ。パパは遅くなると聞いているので、二人きりの食事になる。今日は浅葱さんの料理を手伝う約束をしていた。
『もう、行った方がいいいよ。また不安にさせるといけないから』
黒い子猫はやさしく笑って言った。
もし、ケットシーが寂しくなったり悲しくなったりしたら、やっぱりケットシーもだれかお友達に助けを求めるのだろうか?
でも、ケットシーには体がないので抱きしめてあげることはできない。
もしかして――とあたしは思う――ケットシーは生まれてからずっと、一人きりで寂しいままなんじゃないだろうか?
「すぐに、もどるよ」
『ぼくに気を使う必要はないよ。いちか。ぼくは世界中のあらゆるところに同時に存在するんだ。ぼくとお話をするのは、君がそうしたいと思った時だけでいいんだ』
「うん、わかった」
あたしは着替えの途中だったので、スマートフォンをおいてクローゼットのスウェットを取ろうとした。
引出しを開けようとして、引き戸が薄く開いているのに気がついた。
すごい違和感だった。
記憶にある限り、最近は、その引き戸を開けた覚えはない。そこにはよそ行きの服しか入ってないから。
まさか、中に誰かがいたりはしないと思うけど――おそるおそるあたしは引き戸を開けてみた。
もちろん、人はいなかった。でも、誰か他人の触った跡があって、浅葱さんに買ってもらったお気に入りのワンピースが引き裂かれていた。
しばらく、身動きができなかった。
これはあたしの妄想なのだろうか。たぶん、そうじゃない。これも悪意の一部だ。誰か、もしくはなにかが、回りくどい方法で浅葱さんを傷つけようとしている。あたしの感情や存在は、そのなにかにとってはきっと道具でしかないのだろう。
ほんとうなら怯えて泣いたりするところなのかもしれない。取り乱してパパの助けを呼んだ方がいいのかもしれない。
でも、あたしはそうはしなかった。
あたしが感じていたのは、恐怖ではなく静かな『怒り』だった。
もしも浅葱さんを傷つける何者かがいて、もし、それが人間でなかったとしても。
あたしはそんな存在を許さない。浅葱さんのことは、必ずあたしが守ってみせる。
だから、傷付いた様子なんか、誰にも見せられないのだ。