がす、らいてぃんぐ
親しい後輩もいないので、あたしはべつに日陰があればいい。
よりこちゃんは楽し気に後輩と笑っている。それでいいと思う。人にはそれぞれ役割がある。
他人を愉しませる人も必要だし、そっとしておいてあげる人も必要だ。
学校のテニスコート周辺は熱射病対策で本物の芝生で覆われていて、日陰をつくる涼しげな立ち木が何本も植えられている。あたしは木陰のひとつで陽の光から隠れていた。
シューズの先に光が落ちたので、あわてて足を縮めた。まるで吸血鬼になったみたいだ。
後輩たちは元気なので直射日光を気にせずに楽しげに話している。
練習しないのなら木陰に入りなさい。と優しく言ってあげたい。母猫なら首を加えてひきずっていく所だ。
よりこちゃんの人数合わせで学校の部活に顔を出しはしたけれど、テニスコートはもうわたしには過酷すぎる場所で、とにかく必要なのは飲み物と日陰だった。
飲み物は、浅葱さんが水筒を用意してくれていて、薄く作ったもらったスポーツドリンク――これはちょっと薄すぎるかな?――がある。
あたしはタオルを被り、小さな声でケットシーとお話をしていた。
「がす、らいてぃんぐ?」
『うん、すごく昔のサスペンス映画でね、『ガス燈』っていうのがあって、映画の中で女の人は、身に覚えのない物忘れや間違いを旦那さんに指摘されて、だんだんおかしくなっていくんだよ』
スマホの画面の中で、黒い子猫は額の汗をしきりに拭いていた。前足を舐めてから、うへぇ、と顔をしかめてみせる。細かい演出だ。スマホにはきっと温度を感じるセンサがついている。
「……よくわからないんだけど」
『本当は物忘れなんかしていないんだ。旦那さんが奥さんを精神的に追い詰める為の嘘だったんだよ』
「どうしてそんな面倒なことを?」
『映画では、宝石を手に入れたかったから、ということになっているけどね。でも、まあ、いろいろさ。他人を支配することに喜びを感じる人もいれば、その逆の人もいる』
会話をしていて時々感じる違和感は、知性ではなく感性の問題だ。
時々、やっぱり人間とは違う存在なんだなって思うことがある。たとえば好奇心とか、高揚感とか、使命感とかそういった言葉はケットシーにたいしてもしっくりくる言葉だけれど、憎しみとか嫉妬とか、絶望とか、人間の為のこれ以上ないくらいに人間的な言葉は、ケットシーには似合わない。
でも、そんな負の感情をもたない人間なんか実際にはいない。憎しみを知らない存在は、たぶん愛も知らない。
だから、なんとなく、ほんの少しの違和感を感じてしまう。
時々、忘れそうだけれど、やっぱり人間とは違うのだ。
「変なの……そういう時にはどんな嘘をつくの?」
『たとえば、きみの話を聞いておいて、そんなこと言ってなかったと言う――逆に話をしておいて、そんなことは言っていないと言う。物の置き場所を変えておいて、いつも君はそこに置いていたと言い聞かせる。食べ物の味をおかしくして、なにもおかしくないと主張する……盗んだものを君のカバンに入れておく……ま、そんな感じ』
「……頭おかしいよね」
『そもそも、頭がおかしい人のすることだよ。ぼくはそういう人とは友達にはならない。きみはもちろん違うよね、いちか』
当たり前じゃない、と返事をしたかったけれど、あたしはすぐに答えることが出来なかった。
あたしだってほの暗い心をすこしくらいは持っている。あたしは、ゆうべパパと浅葱さんに焼きもちを焼いたことを思い出した。
あたしは、ひとかけらもそんな気持ちは持っていない、といったら嘘になる。やるかやらないかで言えば、やらない方の人間になりたい、といつも思ってはいるけれど。
長いおしゃべりを堪能したよりこちゃんは、すごく高そうなブランドのタオルで汗を拭きながらあたしの所へ戻って来た。
長い黒髪をポニーテールにしていて、切りそろえた前髪と濃い目の眉がちょっと性格きつそうな感じだ。でも、じっさいはすっごく人に気を使うタイプで、よく、あれでよかったのかなぁ、とか相談される。
白い肌に、いつも真っ白なウェアなので透明感ハンパない。
後輩たちが、うっとりとよりこちゃんのすることを見守っているのがわかる。
怯まずに誰とでもちゃんと議論できるよりこちゃんは、あたしとは正反対でちょっとだけ眩しかった。
「かえろっか?」
「うん、そうだね、暑いし」
あたしは立ち上がって、お尻にくっついたゴミをはらった。




