まるで知らない町に売られてきた娼婦
自分がまだなにものなのかも知らなかった子供の頃、あたしはちゃんと守られていて、目覚めは柔らかで心地がいい物だった。
甘いパンケーキの匂いがして、カーテンを透かして差し込む光さえ優しかった。
いつからだろう、目覚めを、苦痛のように感じだしたのは。
騒々しい音で目を覚まし、階下へ下りると、不機嫌なパパが身支度をしていた。
「ごめんなさい。目覚ましの電池が切れていたみたいで――」
「君が謝る必要はない、わたしも油断していた。食事はいいよ。車のキーを――」
そう言えば、ゆうべパパは、明日は出張なので早めに起こしてくれと言っていた。
「――ごめんなさい、キーが……」
浅葱さんはちょっとそそっかしいところがあって――。
「キーの置き場所は、いつも決まっている。どうして勝手に――」
声を荒げかけたパパは我に返り、深い深呼吸をして、気持ちをリセットした。
「すまない、大事な商談なのですこし気が立っていた。大丈夫だ、まだ時間に余裕はある。タクシーを呼んでくれ」
パパの背中を見送ってから、浅葱さんは自分も準備しなければいけない筈なのに、ずっと立ち尽くしていた。
「浅葱さん、大丈夫?」
「……目覚ましの電池は取り替えたばかりなの、すぐに止まるから、月に一度は取り替えるようにしているの」
ふつう目覚ましの電池は何年かくらいはもつんだよ? そう言いそうになったけど、それは言わない方がいいような気がした。
「キーはちゃんと元の位置にもどしたの。ゆうべはちゃんとそこにあった」
「しっかりして浅葱さん! もう、そういうこと考えちゃだめだよ! べつにこんなことなんでもないんだから」
「ほんとうなの。ちゃんと……確認したの」
「だめだって! それじゃ、思うつぼだよ!」
背中から抱きつくと、浅葱さんの体が震えているのが分かった。
「浅葱さんはなにも悪くない。ごはんにしよ。あたしがコーヒーをいれてあげる」
「わたしは……わるくない?」
「あたりまえじゃない」
あたりまえだ。これは罠なんだから。浅葱さんはなにも悪くない。
あたしは震えている浅葱さんをリビングのソファに座らせた。熱いコーヒーを入れて戻ると、浅葱さんは少しだけ正気に戻ったようで、夢遊病者みたいな遠い目はしてなくて、ふつうに泣いていた。
「わたし、どうしてこんな風になっちゃうのかしら……恥ずかしい」
「べつに恥ずかしくないよ。浅葱さんはぜんぜんまともだ」
そう言いながら、あたしはパジャマのポケットに違和感を感じて、中身を探った。それはなにかじゃらじゃらする金属のようなもので――。
あたしがポケットから取り出したキーを、浅葱さんは凝視していた。
「……あれ?」
「……初花ちゃん、それは……」
もちろん、これはパパの車のキーだ。
「ちょ、ちょっと待ってこれは違うの、これは――」
「……わかってる。もし隠したのが初花ちゃんなら、あたしの前で取り出したりしないでしょう」
それもそうだ、種明かししたら嫌がらせにはならないし、異常者あつかいもできない。
「わたしの言ってることがわかった?」
浅葱さんは、寂し気に床を見つめて言った。まるで知らない町に売られてきた娼婦みたいに。
「わたしの敵は、わたしの大切な人を傷つけようとするの」
浅葱さんの声を夢みたいに聞きながら、あたしは痺れるような現実を噛みしめていた。
もしこの世に超常現象がないと仮定して、この家でこんなことが出来るのは、すでにあたしの頭がおかしくなっているのでなければ、この世にたった三人しかいない。
パパか、あたしか、それとも、浅葱さん自身だ。




