落とし穴
先に投稿した『ある男の生き様』三篇を統合し、加筆修整を行いました。
特に視点。
一部を除き、主人公視点に固定しました。
川島篤志 その一
今日も工場には、金属を力まかせに叩く音が満ちている。床をふるわせるかとおもえば、奥歯の根を緩ませるような、壁の塗料すら剥ぎ取るような耳栓を突き抜けて、頭の芯にまで響くような音だ。
プレスが地響きをたてて金属板を打ち抜き、別のプレスは、それを曲げたり絞ったりして、金属板から悲鳴を上げさせている。一方で削岩機のような連続音もする。木魚を叩くようなハンマー音もする。そして、エアー工具から排出される圧搾空気の音が絶え間なくしている。大きな交差点に立っているようなといえば理解できるだろうか。
緑の床を仕切るように白線が引かれ、線に沿って低い衝立が並んでいる。その通路を大きな台車がゴトゴトと移動しては打ち抜いた鉄板を回収し、次の作業場所へ運んでゆく。台車の行く先では、紫色の光が衝立の隙間から漏れていた。
通路を行き来するのは台車だけ。持ち場を離れる者がいないばかりか、私語を交わす者もいない。わずかに、通路に設けられた退避場所に立つ者がチラホラ見えるだけだ。
広い工場の採光は十分に確保されていて、自然光が隅々にまで届いている。騒音さえなければ、快適な作業環境といえよう。が、空気は息詰まるように重く、ピリピリしていた。
「川島、便所へ行きなさい」
手を挙げて順番を待っていた俺に、太い声がかかった。しかし俺は、自分の持ち場で直立したまま動こうとはしない。そう、単独で行動することの危険さをよく理解している。
ここは刑務所内に作られた工場だ。刑務作業をするための場所で、第二工場と呼ばれている。見通しの利く位置に高い台が置かれ、監視役の刑務官が常に目を光らせている。
作業者が次々に手を挙げる。そのほとんどは用便を訴えるものだが、稀に工具が壊れたり、作業手順がわからないということもある。そんなときには指導のために派遣されている民間作業者が対応するのだが、用便や呼び出しという場合には受け持ちの刑務官が指示するまでは動いていけないのだ。その人数が限られているので、我慢しきれなくなることもある。まあ、そんなことはすぐに馴れるものだ。
勝手な発言は許されず、余所見も許されない。もし違反したことがばれたら、下手をすれば懲罰だ。運がよくても評価が下がることは間違いない。亀の歩みのような鈍さで上がった職級は、一旦下がってしまうとやり直しだ。どうして職級にこだわるかというと、それが報奨金の額を左右するからだ。タオル、石鹸、下着、靴下。ちり紙を買うにも金がいり、それはすべて報奨金から差っ引かれるからだ。官給品が不自由なく支給されるならともかく、最低限しか支給されないから自前で補うしかない。当たり前のことだが、バーゲンなんて一切ない。絶対にありえない。
もう一つの理由。それは、釈放された時の懐具合を考えるからだ。釈放と同時に金が要る。身元引受人がいたって、気安く金をくれるわけがない。食住を提供してくれるだけで、どうせ厄介者扱いされるのが落ちだ。そう考えたら、報奨金は使えない。
懲罰として拘禁され、労役を科せられる身だ。不満を漏らしたところで全く無意味で、反って厳しい罰を科せられる場。自分が可愛いけりゃ、ぐっと堪えるしかない所だ。
小用を足す時に、俺は職員が他に気を取られていることに気付いた。いつもなら用を足す最中も監視しているのだが、たまたま携帯電話に着信があったようで、それに気を取られているようだ。
奴が背を向けている今なら、タオルを濡らして汗を拭うぐらいできる。そんな誘惑にかられた。
ちょっと濡らして脇を拭くだけでいいんだ。どうせ服は汗で濡れているんだ、見つかりっこないさ。汗でニチャニチャしているのだろう? 今日は入浴日じゃないぞ、気持ち悪いだろう? と、心の中でもう一人の俺がしきりと囁きかける。が、それを実行して懲罰を喰らった奴がいることを、俺は知っている。
それにしても、どうして蛇口からポタポタ水滴が垂れているのだろう。営繕に伝わっていないのだろうかと考え、恐ろしいことに考えが及んだ。わざと修理せずにいるのではなかろうか。俺たちを陥れる誘い水ではなかろうか。いくら俺だってこれほど悪どくはない、もっと紳士だ。
激しい怒りをこめて、二度と使えないように蛇口を締め付けてやった。
俺の名は川島篤志。強盗の罪で五年の刑を言い渡されたのが二年半前のこと。胸に小さなボタンを三個縫いつけた俺は、房で二番目の古株になっている。
新入時に与えられた寝場所は、便所のすぐ前だった。枕元をドカドカ歩かれ、排泄音や便臭に気が滅入ったものだ。歯軋りしながら床に就いたものだが、舎房の中でこそ偉そうにしている多くは小便刑、半年か一年で満期釈放される者ばかりだ。飯を食い、便所へ通ううちに次々と釈放され、そのたびに寝床の位置が奥へずれてゆく。気がつけば房の一番奥まったところに布団を敷いている。第二工場に配属されて既に二年、三度目の夏である。
この工場を、俺は希望してなどいなかった。炊事か、できれば洗濯を希望したのだが、どこへ配属するかは分類課が決めることだ。が、いくら罰だからといって、こんな莫迦でもできるような作業をさせられることに腹を立てている。そう、俺は工場で単純作業をするような人間ではなく、知恵で世間を渡る人間だからだ。
持ち場に戻り、用便終わりと申告すればそれで良い。俺は定められたように申告をし、作業に戻ろうと会釈をした。
「川島、引受人のことで話があるそうだ。今から行きなさい」
監視から意外な一言があった。
三年前のちょうど今頃だった。財布が空になった俺は、必死で金策をしていた。親や知人だけでなく、たとえ僅かでも俺と縁があれば、誰彼かまわず金を貸してくれとメールを打ちまくっていた。一分の間に五回も六回もメールを打ち続けると、誰かが口座に振り込んでくれる。が、決まって僅かな額だった。二万円、せめて一万円振り込んでくれたらなんとかなる。とりあえず食いつなぎながら、割の良い仕事をさがすつもりでいた。しかし、振り込まれるのは二千円。そんな額では電車賃にもならない。俺は苛立っていた。
そうだ、入金を待つより増やせばいいんだ。さも名案を思いついたかのように、俺はせっかく得た二千円を握りしめて、パチンコ屋へ行ったものだ。パチンコという銀行のことをすっかり忘れていたのだ。これまでだって、そこいらの者には真似できないほど稼いだじゃないか。どうして気がつかなかったのだろう。
自分の博才を信じて疑わない俺はあっという間に千円を失い、迷った末に投じた残金も無くしてしまった。
こんなはずはない。何もかも裏目に出るなんてことがあるはずないんだ。悔し紛れに落ちている玉を拾おうとしたら、店の若造に馬鹿にされた。得意げに出玉を積み上げている客に鼻の先で笑われた。そいつらを忌々しげに睨みつけるしかなかった。
ふと気になってコンビニへ走り、入金の確認をしてみても、どこからも入金はない。ただの一円もだ。
ふざけやがって、世間の奴ら、示し合わせて俺を困らせようとしてやがる。行き着く答えはそこしかなかった。
腹がへった。だけど、ポケットには僅かな小銭があるだけだ。迷った末に俺はタバコと、握り飯を二個買った。とりあえず空腹をしのいで、夜になるまで日陰で昼寝でもしよう。
ぐっすり寝入った俺が目を覚ました時、すでに日はとっぷり落ちていた。煩かった蝉も静かになっている。もう入金があるだろうとコンビニへ行ってみたが、びた一文入っていない。俺は腹を立てた。これほど頼んでいるのに、これほど困っているのに、どうして誰もが見捨てるのだと猛烈に腹を立てた。チャンスさえくれれば、誰もが驚くほど儲けてみせる。そうしたら気前よく奢ってやる。なのに、どうして。周囲が見えなくなるほど腹を立てた。
忙しく鳴る呼び鈴に眠りを覚まされ、チラッと携帯を見てみる。朝の六時だ。
俺には、以前も早朝に起こされた経験がある。ふっとそれが頭をよぎった。だけど、生憎と仲間は俺の都合を考えるような奴等ではない。素直に応答して良いものか迷うところだ。
ドアが叩かれ、呼びかける声がする。一瞬だが、覗き窓が黒くなった。外から様子を窺っているようで、どうやら悪い予感があたったようだ。
しかし、と俺は考えた。あの時に着ていた服はすでに処分したてはないか、と。証拠さえなければ、知らぬ存ぜぬで押し通せるだろう。
いつまでも寝たふりは通用しないので、なるべく惚けてやろうと決めてロックを外したのだった。
「おはよう。警察だけどさ、寝てた?」
いやに馴れ馴れしい言い方だ。朝早くから何の用だと訊ねると、心当たりがあるだろうと押し問答が始まった。
「なあ、思い出してよ、先月の十三日のこと。なにか覚えていないか?」
刑事は落ち着きはらって同じことを何度も尋ね、俺はそのたびに何のことだと惚けてみせた。普通に生活していて、一ヶ月以上昔のことを忘れるのは自然なはずだ。覚えているとすれば、特別な出来事。誰だってそうじゃないかと言い切ってやった。
「なるほど、……忘れたか。実はその日にコンビニが襲われてな、いろいろ調べているうちにお前さんに行き着いたと、そういうわけだ。まったく無関係なら来ないのだけどさ、思い出せないかな」
刑事のやつ、だんだんネチッコイ話し方に変っていた。
「俺がやったって聞こえるんだがな、俺が? その日暮しをしてみろ、一ヶ月も前のことなんて覚えてられっか」
俺は薄ら笑いを浮かべながら惚け続けた。すると奴さん、これでは埒が明かないと思ったのか、カバンから紙切れを取り出した。
「このままでは平行線だからさ、家の中を捜索させてもらうから。わかるな? 捜索して、証拠品を差し押さえてかまわないと裁判所が許可したから」
刑事はそう言うと内容を読み上げ、今から執行すると宣言して現在時刻を告げた。
刑事たちが部屋の中を漁っていた。そこらじゅう引っ掻き回しては、目的のものではないと知ると投げ捨てる。
「おい、ちゃんと後片付けするんだろうなぁ」刑事たちの動きを目で追いながら、俺は、捜す場所を変えるたびに抗議をしてやった。目を泳がせたりもした。が、それはただの芝居だ。相手が何を捜しているのかを探ることと、相手の気を散らせるための心理作戦だ。俺には察しがついていたのだ、刑事が捜しているものを。ところがだ、それは既に灰になている。あいつら、そんなこととも知らずに捜しているのだ。
刑事の一人が文化包丁を持ち出してきた。
「あるじゃないか。証拠品として預かるからな」
じっと傍で俺の相手をしていた刑事が、勝ち誇ったように言った。
「それが何の証拠だ? そんなもの、どこの家にだってあるだろう?」
どうしてそんなことになるのか、不思議だった。というのは、俺が襲ったのは町外れのコンビニで、しかも隣接する市との境界に近い。さらに、そこからアパートまではずいぶんと距離がある。どこの世界に凶器を持ったまま逃げる莫迦がいるのだ。そんなことは素人だって……。 俺は急に不安になった。こいつら、刃物だったら何でもいいのか? いや、待て。ひょっと俺が何か口走らないかと芝居してるのか? あっぶない、うっかり乗せられるところだった。
「やったんだろう? こいつで」
ビニール袋に入ったそれをブラブラさせて、刑事はニヤッと笑ってみせ、そして続けた。
「ところでお前さん、紺色のTシャツを持っているな。どこにあるんだ?」
「Tシャツならそこらにあるだろう」
俺は惚けた。実際に、紺色のTシャツならいくらもあるのだ。
「違うんだよ。ここに、これっくらいの飛行機がプリントされたシャツだ。あるのなら出してくれ」
刑事は胸のあたりに指で丸をつくっている。まずかったなと、胸の中で舌打ちをした。きっと防犯カメラだ。顔は隠したつもりだったが、服までは用心できていなかったようだ。平凡なのに着替えて出直すべきだったと後悔が残る。が、あの夜着ていたものは既に処分した後なので平気だ。だけど、知らないというのは不味いだろうと咄嗟に嘘をついた。
「あぁ、あれか? あれなら捨てたんだがなあ」
しばらく目を上に向けておいて、ようやく思い出したように言ってやった。
「捨てたか。いつのことかな?」
「たしか、梅雨明け前だったかなあ。襟がビロビロに延びてしまって、みっともないから捨てた。それが?」
刑事は相槌を打ってしばらく黙っていた。そしてこんどは別のことを言い出した。
「そうか、そいつは弱ったなぁ。……ところで、その飛行機だけど、どんな色だったか覚えてるか?」
その言葉には驚いたなぁ。覚えてなんかいないのだけど、そうすると警察のもちだす証拠を否定できなくなる。その一方で、別の考えが頭をもたげた。忘れたと言ったそばから思い出すのは辻褄が合わない。忘れたと突っぱねるしかないだろう。すると別の俺が口をはさむ。お門違いの証拠をでっちあげられていいのかと。
平静をよそおってはいるが、苦いものがこみあげてきた。
「覚えてないなぁ。柄があったようには覚えているが、興味ないんでな」
「そいつはおかしいな、だってそうだろ? お前さん、さっき何て言った? あぁ、あれかって言ったぞ、ちゃんと覚えてるはずだがな」
刑事のやつ、ずけっと痛いところを突きやがった。
「ところで、作業ズボンはどうしたね。膝に大きなペンキ跡のついたやつ」
何気ないふりをしながら、きっちり核心を突いてくる。ねちっこい野郎だぜ。
「ペンキのついたズボン? ペンキ、ペンキ……。ああ、あれも捨てた」
捨てたと答えながら、彼はその言い訳を考えていた。
「なんだ、ズボンも捨てたのか。困ったな、これは……。ところで、どうして捨てたんだ?」
刑事はため息をついた。そして、さも困ったような顔をしてみせる。もう一押しだと俺は意気込み、「あんなもん、穿けるもんか」と、唾を吐き捨てるように言ってやった。
咄嗟に思いついた口実はこうだ。
花火大会の日、俺は仕事にあぶれたんだ。銭はないし、かといって、じっとしてたらクサクサするから花火見物に行った。来るんじゃなかったと思ったぜ、どこへ行ってもアベックがイチャイチャしてやがんだからよ。くそ面白くないから隅っこで見てたんだ。まぁな、そこそこ綺麗だったし、涼しっかったんだがな、桁くそ悪いなぁこの後だ。聞いてくれよ。帰りかけたはいいんだが、おっと! 足元が暗かったから躓いちまった。ヌルヌルした水溜りに尻餅だ。ところがよ、そこはゲロの海だったんだ。そんなズボン、穿けるもんか。と、実に辻褄が合う言い訳だ。これなら百点満点だろう? やっぱり俺は知恵を働かせる側の男だ。
「なるほど、証拠隠滅というわけだ。悪知恵もいいけどさ川島さんよ、真っ当なことに使おうや」
もう飽き飽きだとでも言いたげに、刑事が別の書類を見せた。逮捕状。いくら拒んだところで、許してくれるはずはなく、そうして俺は身柄を拘束されたのだった。
田畑由蔵 その一
夜の住宅街を北風が吹き抜けてゆく。どの家も分厚いカーテンをひいているからか、温かい団欒を偲ばせる家は疎らだ。ことさら暗く感じる通り歩きながら、敷地にゆとりがあるのも良し悪しだと私は思った。
人目につきにくい時間帯を選んだつもりだが、逆に目立ってしまう。だからといって、普段出入りしていない家を訪ねるのを誰かに見られたら、無責任な噂が飛び交うかもしれない。特に今だけは誰にも出会いたくないものだ。
桜の開花予想が発表されたとはいえ、襟を立て、肩をすぼめての道行きだった。
インターホンに呼びかけると、すぐに玄関に明かりが点った。失礼しますと短く断り、私は素早く玄関を後手で閉じた。
「電話をさしあげた田畑と申します」 身分証を提示し、篤志さんのことでお話をと告げた。
私の名は、田畑由蔵。この家からは少し離れた町で鉄工所を営んでいるのだが、今日の用向きは本業とは全く無関係だ。今の立場は、保護司。受刑者の身元引受人のことで往訪したのだ。
保護観察対象者との面接を繰り返すことで更正を図るのが保護司の務めだが、それだけではなく、収監されている者が社会に戻れるよう関係者と協議するのも大切な務めだ。
私は、ある受刑者の生活環境調整を依頼された。対象者が身元引受人に指名したのが、この家の人いうことだ。そこで、引き受け意志を確かめるために往訪したのだ。そして、これが五度目の往訪だ。
最初に訪れたのは一昨年のことだ。用向きを伝えると、けんもほろろに拒絶された。念のため日をおいて再訪したのだが、頑なに拒絶された。そして去年も同じように二度訪れている。言葉つきは穏やかになったが、やはり引受人になることは拒否された。
そしてまた書類が届き、こんどこそはと訪ねたのである。
玄関先で対応したのは、私よりずっと歳下の婦人だ。同じ用向きで四度も訪れているのだから、ことさら説明するまでもなく察したのだろう、迷惑そうな態度を示した。
ところが、こんな役目を負っていると、そういう扱いを受けるのは日常茶飯事だ。だから今だって平気でいられる。厚かましい男になってしまったものだと、我ながら呆れることがある。婦人の迷惑そうな態度など蛙の面に小便と受け流して、一人の名前を示した。そして篤志がその人を身元引受人に指名したと、来意を告げた。
最初は実父に身元引き受けを求めてきた。それを断られると、次は実母に。そしてこんどは、婦人の夫である実兄を引受人に指名してきたのだ。婦人の顔に朱が差し、すぐにそれが青く変った。
通された部屋に、家族全員我顔を揃えた。老夫婦と、若夫婦の四人だ。そこで私は、送られてきた印刷物を取り出した。三度目の正直となるかという期待をこめて。
「あらためまして、保護司の田畑と申します。川島篤志さんの生活環境調整を担当することになりました。そこでいくつかお話を伺わねばならないのでお邪魔しました」
あらためて身分証を提示し、言葉を切った。
「弟がご迷惑をおかけします。こんな質問をするのはどうかと思うのですが、身元引受人というのは、断ることができるのでしょうか?」
口火を切ったのは篤志の兄で、引受人に指名されている本人だ。
「失礼ですが、お兄さんですか?」
念のために確認して、私は努めて明るく答えた。
「もちろんお断りいただけます。今回、篤志さんはお兄さんを引受人に指名しました。お父さんに断られ、お母さんに断られましたから、他に頼るのはお兄さんしかいないのでしょう。ですが、これはあくまで本人の希望です。そんなことは厭だという例もたくさんあります。遠慮なさらずお断りいただいてかまいませんよ」
そして、引き受けるかどうかを考えさせるために、黙って待つことにした。
「あのう、これは家族以外では?」
兄が恐るおそる訊ねた。家族が断っておいて、他に押し付けるようで心苦しいのだろう。それについて私は、知っていることを丁寧に説明した。
親戚に頼む場合もあること。ただし、縁が遠くなれば断られる確率が高いことなどをだ。また、他人を指名しても認められない場合が多いことも伝えた。
「元気でやっているのでしょうか」
長い沈黙に耐えかねたかのように、母親が口を開いた。姿勢の良い母親だが、それは精一杯の見栄をはっているように見えた。
「えっ? はい、還暦をすぎましたが、風邪もひきません。だけど、いけませんねぇ、膝が痛くて歩き難くなりました」私は首をすくめて、まったく的外れなことを答えてみせた。そして、憮然としている一同を見回した。
「わかっています、篤志さんのことですよね。お答えしたいのはやまやまですが、関係者以外には何も言えませんので」
「私たちは家族ですが」
母親が憮然とした。
「はい、それは承知しました。しかし、引受人が決まらなければそのように報告せねばなりません。そうすると新たな引受人を捜すことになり、私と篤志さんとの関係は終わります。つまり、私と川島家とは関係者ではなくなるわけです」
残酷な言い方には違いないが、この三人の他には引受人になってもらえそうな人がいないことは事実なのだ。家族を納得させるか、満期釈放を待たせるかの二者択一だ。
「いくら家族でも、ですか?」
困ったように腕を組んでいた兄も口を開いた。
「はい、関係者以外には話しません。それが規則ですし、私なりの仁義ですので」
そしてまた、相談を促すように口を閉じた。
結局、兄は身元引き受けを承諾したのだが、本人への不満を私にぶつけてきた。
これは二度目の懲役であること。しかも前回は窃盗だったのに、今回は強盗だということ。更正するどころかますます身勝手で悪質になっていると語った。刑務所では心の教育をしないのかと私に迫り、もし引受人が決まらなければどうなるのか教えてくれと言った。
「率直な返答で申し訳ないのですが、私たちは矯正についてほとんど知りません。施設内教育もされているそうですが、詳しくは知らないのです」
私はまず、刑務所の中のことは知らないと正直に答えた。すると八つの目が失望の色を表に出した。
「身元引受人が決まらない場合は、期間満了まで出られません。満期で釈放された後は自由ですから、釈放と同時に本人の所在すらわからなくなるかもしれません。そして問題なのは、長期受刑者が自己決定能力を失う現実です」
指示されたことだけを忠実にこなすのに馴れてしまうと、自分で考えることができなくなってしまう。今日はどんな服を着るかというような基本的なことさえわからないという笑い話が、実は本当のことだと。
「運がよければ、更正保護会に引き受けてもらうこともできます。但し、身内ではありませんから審査が厳しい。ですから、運がよければと申しました」
と、保護会のこともにおわせたのだが、受け入れ期間のこともあり、期待をもたせるような言い方は避けた。また、刑務作業の報奨金は驚くほど少なく、いきなり放り出されたらすぐに経済的に行き詰ってしまうこと。簡単には就職できず、給料を貰うまでの資金がないことも話した。そういった負の連鎖が行き着く先を想像すると、再犯の危険が高まり、決してこの家族にとって良いことではないと、自分の考えも述べた。
どれくらいの期間かはわからないが、仮出獄の期間が保護観察となる。そうすれば就労支援も受けられるし、保護司も関わることができる。再収監の三文字が抑止効果をもつことも説明した。
とうとう根負けしたのか、ようやく身元引き受けを納得させることができた。あしかけ三年目のことだった。
その一方で、私の本心は制度に反することを考えている。
生活環境調整を担当した者が、継続して仮出獄後の保護観察を担当する。これまではそうだったし、これからもそうだろう。となると、自分が担当することになるのはほぼ決定事項といって良い。
だが相手は兄が危惧するように、犯罪に対する自制心が乏しくなっているようだ。更正の動機付けをどうしようかと思い悩む。危機場面をうまく活かせられるか不安で、ため息がもれそうだ。仮釈放の決定がされなければ、とさえ思ってしまう。
調査依頼はかなり分厚い封書である。引受人への説明チラシと提出用報告書。それと生育暦などだが、今回は、犯行に至る経緯と、判決謄本の写しが添付されていた。そこに、犯行当日にも二千円が振り込まれていたとあったのが気になっていた。いったい誰が、どれくらいの期間援助していたのだろう。当たり障りのない範囲で本人の近況を伝え、以前の生活について家族の考えを聞きだしてゆく。
ふんふんと相槌を打ちながらそれぞれの腹の内を聞き出しておいて、送金について訊ねてみた。
「こんなことをお訊ねするのは辛いのですが、どなたか本人に送金していなかったですか? いえ、差し障りがあればお答えにならなくてもけっこうです」
言ったとたんに母親が視線を下げた。兄もそ知らぬふりで視線を逸らし、兄の妻も視線を落としてコーヒーカップに手を伸ばした。一人、父親だけが当惑げに私をうかがい、妻を、そして息子を見やった。
「甘やかしちゃいかんと常々言ってきたつもりだけど、そう……なのか?」
一人仲間外れにされた格好の父親が不機嫌になった。どうやら、これまでにも資金援助をし、揚句に裏切られてきたようだ。
「お父さんは厳しくばかり当たるけど、だからってお金がなかったら何をするかわからないではないですか」
視線を膝のあたりにすえたまま、母親が搾り出すように口を開いた。言葉が静かなだけに、ねっとりとした言い方だ。
「それが甘やかす元だと言っただろう。困ったら泣きつけばいい。それが直らんことには、いつまでたっても子供じゃないか」
「だからって、なにか食べなきゃ病気になるし、……このうえ罪を犯しても困るし」
親であるからこその葛藤だ。父親、母親、共に考えていることは十分理解できる。そして、立場や性格などで意見が合わないのも当然のことだ。
長い面接だった。しかし、身元引き受けを了承させ、家族の気持ちも聞きだすことができたし、送金の疑問も解けた。務めからすれば満足すべき面接だった。
最後に私は、面会や文通で信頼関係を再構築するよう助言し、家路についたのだった。
川島篤志 その二
小机を挟んで刑務官と対峙した俺は、何を言い渡されるのかと緊張していた。背中をぴんと伸ばし、手は膝の上で握ったままだ。
「身元引受人のことだが、受けてくれると報告があった。仮出獄の第一条件は整ったということだ。だが」
まだ若さの残る刑務官はそこで言葉を切り、パラパラと書類を繰った。
「刑期が半分すぎたな。油断するなよ、これからが山場だ。挑発にのるんじゃないぞ、せっかく引受人が決まったのに懲罰を受けたら意味ないからな。質問はあるか?」
ないと答えると作業に戻るよう指示され、面接は終わった。
ほんとうにご苦労だぜと、俺は腹の中で毒づいた。工場から管理棟まで散歩させやがって、いい気なもんだと思ったのだ。だが、引受人が決まってホッとしたのは確かなことだ。こんな場所で満期まで暮らさずにすむのはありがたい。それにしても、よく家の者が引き受けてくれたものだ。手紙でも書いてみようかなぁ。廊下を歩きながら、そんなことを考えていた。
あっという間に季節が巡り、四度目の夏を終えようとしている。
一月に収監された俺は、強盗の罪で五年の懲役刑を言い渡された。前科は両手で数えるほどあるが、受刑生活は二度目。前回は窃盗で六月の懲役をくらった。
前回は、五月の節句が過ぎてすぐに収監され、馬飯や小便汁に馴れた頃には釈放された。いい按配の秋風に出迎えを受けた、季節的に恵まれた受刑生活だった。が、今度の受刑生活には泣かされた。骨まで茹だるような暑さと蚊の襲撃など、子供の遊びのようなものだ。ガタガタ震えながら寝床にもぐり、白い息を吐きながら眠らにゃならん。よく肺炎にならないものだと不思議なくらいだ。想像できるか? 大都会なのに、足先が凍傷になるんだぞ。免業日は寒さを堪えてじっとしているしかなかった。楽しみといえば飯だけだが、腹いっぱいにはならない。
体格でいえば俺は立派なほうだが、あと一センチのことで皆と同じだけしか食わせてもらえないのだ。もう一センチ高ければ、確実に一口分多く食えたはずだ。五年の刑期で五千五百口も食いそこねるという計算だ。
カレンダーは既に九月に替わり、一段目は×印で埋まった。心待ちにしている日は一週間後。年甲斐もなく花丸で囲ったその日、俺はいよいよ官面接を迎えることになった。
官面接とは、地方更生保護委員による面接のことで、仮出獄の可否が判定される重要な面接だ。といっても、いくら委員会が許可しても、最終的な決定は刑務署長がするのだから、決して手放しで浮かれることはできない。が、それさえクリアすれば、仮出獄は約束されたようなものだ。
いつの間にか胸に縫い付けたボタンが一つ増え、俺は房の中で最古参でもあった。
次々に新入りがやってくるが、半年か、せいぜい一年もすれば娑婆に戻ってゆく。そして勝手に出獄できないのと同じで、官面接も望んで得られる好機ではない。次の機会がいつなのかも、次の機会があるのかすらもわからない。一回きりのチャンスとして、なんとしてでも真人間になったことを印象づけねばならない。
しかし、心配事があった。それは、接近してくる台風だ。進路予想を見るにつけ、面接の日と重なったらと不安になるのだ。もし強い台風に発達して、しかも上陸でもしたら。よその土地にならいくら被害をおよぼしてもかまわない。が、刑務所の周辺にだけは来てもらいたくない。
翌日に延期だろうか。それとも……と、脳天気な俺でも取り越し苦労ばかりしていた。
呼ぶより誹れという言葉がある。俺の願いが強いほど、事態は悪い方向に進むことが多い。ここぞという時になると必ず横槍がはいる。いつも必ず邪魔をする奴が現れるのだ。案の定今回も、懸命な願いが届くどころか、天までが邪魔しやがった。
面接前夜、とうとう眠れずじまいだった。日中から降り出した雨が徐々に強くなるのが苦であり、夕方から吹きだした風が苦であった。消灯の頃には、窓ガラスのむこうからホースで水を撒いているような模様が途切れることはなく、まどろんでは窓を窺うことの繰り返しだった。
起床時刻の一時間も前、いてもたってもいられなくなった俺は、便所に立つふりをして外の様子を窺ってみた。が、外はまだ暗く、常夜灯に照らされたガラスは鏡になって房内を映し出すばかりだ。
来るなら早くこい、今すぐ来い。今日は大事な日なんだぞ、馬鹿野郎。
俺がなにをした。俺を困らせて面白いか、楽しいか! 畜生めが……
煮えたぎるような怒りの眼差しを向けたところで、ガラスは外の様子を映し出そうとはしない。
昨夜、就寝前に無理を言って天気予報を見た俺は愕然とした。台風は刑務所を直撃するコースを進んでいて、正午頃に到達する予想だという。
そんな莫迦なと思う。明日がどんなに大事な日なのかわかっていないのか、とも思う。
どうして俺の邪魔をする。どうして俺を困らせる。どうして……
真っ黒な雲が垂れこめ、その下をちぎれ雲が異常な速さで飛びすさっている。雨風が強くなって、窓をカタカタ鳴らしている。かろうじて知ることができたのは、それだけだ。
待ちに待った起床ブザーだ。ジリジリとそれを待っていた俺は誰よりも早く夜具をたたみ、念入りに歯磨きをした。
時間を経るごとに風雨が激しくなり、ついに免業の報せがあった。作業が取り止めになるくらいだから、待ち焦がれた官面接は絶望的だろう。一縷の望みが絶たれて、俺はがっかりした。
その様子を横目に、唇の端を吊り上げる者もいる。官面接を邪魔してやろうという魂胆が透けすけだ。挑戦的な顔つきが我慢できないが、ここはぐっと我慢だ。今の俺にはそれ以外の選択肢なんかあるもんか。
俺のカレンダーには、まだ来ぬ先の日に印がついている。官面接を今日パスすれば、三ヶ月後には目出度く仮釈放だ。もちろんそれは俺の勝手な予想だが、受刑者の予想は、驚異的な的中率を誇っている。ところが、そんな望みとは無縁な者もいるわけで、奴らにとっては、仮出獄に有頂天の者が癪でしかたないのだろう。
仮釈放の道を閉ざされるには相応の理由があるのだが、己の行動に原因を見出すなんて殊勝な奴は一人もいやしない。誰かが邪魔さえしなければ、刑務官が聞く耳をもってくれたらと恨みに思っている。誰だってそうだ。それが嵩じると、他人の夢を潰そうとする莫迦が現れるというものだ。
俺の様子を窺っている奴がいる。三度目の懲役を打たれたそいつは、いやに粘っこい視線を俺に向けていた。収監されて日が浅いというのに何度も懲罰を受けているそいつは、満期出所したばかりなのに、すぐに舞い戻った。そんな奴には仮釈放なんて褒美は与えられない。だったら誰彼かまわず道連れにしてやろうと狙っているのだろう。
そんな罠があることくらい百も承知だ。だから関わらないようにしているのだが、侵入盗で、万引きで、今回は寸借詐欺で懲役を打たれるような小者だ。房の責任者として見下してもいた。
台風のおかげで免業となったが、面接も中止だろう。どうしても諦めることができずに、俺は遠くに見える塀越しの空を、恨みをこめて睨みつけていた。
それををあざ笑うかのように風が巻いた。つい今しがたまで雨粒は渡り廊下の屋根に激しく打ちつけていた。それが急に窓ガラスをビリビリ震わせるように叩きつけてくる。
ヒャーヒャッヒャッヒャと、狂ったような笑い声が響いた。明らかに俺に向けられた嘲りだ。
もう我慢できない。俺は、やにわに掴みかかろうとした。
「川島! 莫迦なことはやめろ」
一歩出掛かった肩を大きな手で鷲掴みされた。
「横田よ、なんなら俺が相手ンなるぜ」
俺を止めたのは、図抜けて背の高い門馬だった。怠業と規則違反で何度も懲罰をくらい、仮釈放を諦めた男だ。横田と呼ばれた小悪党はヘラヘラした笑いを引っ込めると、門馬に向き直った。
「ほう、あんたが手ぇ貸すってか、ヤクザが手ぇ貸すんだな?」
「おう、せっかく掴んだ仮釈のチャンスだ、叶えてやりたいや、なぁ」
門馬は俺を後ろに押しのけると、世間話でもするように横田の前に立った。
「手前ぇが仮釈もらえねぇからって、巻き添えをつくるな、あぁ、チンピラ」
横田は三度目の懲役というだけで、たいした罪には問われていない。対する門馬は、傷害と詐欺に問われている。受けた罰は、横田とは比較にならないほど重い。ただ、門馬が収監されたとき、すでに横田はここの住人だった。だから先輩風を吹かせて横柄な口を利くのだが、今の横田は房で一番の新入りだ。
「おい、大きく出たなぁ、あぁ? あんたも、仮釈もらえなくしてやろうか?」
横田が精一杯の虚勢を張った。仮釈放の望みを絶たれるのが一番辛いということを知っているからこその脅しだ。
「莫迦か、お前。寸借詐欺ってなぁ、ここが回らんというのは本当だな、おい」
門馬が横田の頭を指差した。
「仮釈の芽ぇ摘むってお前、脅しのつもりだろうがな、俺は満期でなきゃ出られないんだ。わかるか? 回らん頭でも、それっくらいわかるだろう? 意味をよぅ」
門馬が莫迦にしたようにニッと片頬を吊り上げると、横田の目がまん丸に見開かれた。殺し文句さえ使っていれば多少の気儘が通ると思ったのだが、すっかり当てが外れたようだ。
「横田ぁ、こそ泥に万引き、寸借詐欺ってお前、中学生みたいだな。そんなので懲役打たれて、よくでかい面できるなぁ、えぇ、チンピラ」
「……」
「三回目なんだろう、どういう返事すりゃいいかぐらい知ってるだろう?」
「……はい、……わか り……ました」
痛いところを衝かれた。刑務所の中では、どんな罪で服役しているかで値踏みされるのだ。横田のような者は、最低の者として使い走りにされるくらいの扱いだ。そんなことより、門馬が仮釈放を諦めていることのほうが横田にとって衝撃だったとみえる。
刑期の短い横田は、門馬よりも先に釈放される。つまり横田は、席次の高い門馬に頭を抑え付けられたまま日をすごさなければならない。
「……工場、楽しみだなぁ、おい」
ダメ押しは、門馬の呟きだった。それは、酷いいじめを暗示しているのだ。
「はい! わかりました!」横田は、負けを認める以外に助かる方法がない。
俺は、そのやりとりを食い入るように見ていた。激しい憎悪を横田に叩きつけ、門馬には首をすくめて感謝の気持ちを示す。そしてまた、諦めきれずにガタガタ鳴る窓を睨んだ。
「川島、出房」
昼食が終わると風の向きが変り、雨が断続的になってきた。依然として風はゴーゴーと唸りをあげているが、空を覆った雲が徐々にうすれてきている。職員が房の入り口で俺を呼んだのは、そんなときだった。
「はい。なんでしょうか?」
すぐさま房の出入り口に走ったが、刑務官が答えるわけがない。書類挟みを抱えるようにして待っているだけだ。
さっきの騒ぎを聞きつけられたのだろうか。だけど、俺はなにも手出しをしていない。もし、さっきの騒ぎを調べられるのなら、当然経緯を尋ねられるだろう。そうすれば自分は無関係だとすぐにわかるはずだ。頭の中で考えが渦巻いた。
だけど、と、別の声が囁いた。理由はどうあれ、喧嘩両成敗だと。
冗談じゃない、俺は被害者だ。あんなことで仮釈が遠のくのか? 仮釈の道が閉ざされたと錯覚してしまい、俺は素直にサンダルを履くことができなかった。
ガシャーン。無人の廊下に響き渡る無機質な音。何度聞いても、絶対に馴れるなんて考えられない音が長い尾を引いた。
「よし、前へ」
保安職員ではないだけましというものだ。それでも、穏やかそうでいながら威圧感がある。クリーム色に塗られた廊下を、俺はただ真っ直ぐに進んだ。さすがに房と違って物音がしないが、それでも時折り建物全体がゆすられることがある。まだ風がおさまっていないようだ。
「よし、止まれ」
停止を命ぜられたのは、初めての部屋だった。ドアの肩に赤いランプが点っているのも、俺には初めて見る光景だ。そのランプの部屋から一つ間をおいた部屋のドアが開けられた。
比較的広い部屋には、パイプ椅子とスチール机があるだけ。床には緑色の塗料が塗られて、そして壁は、やはりクリーム色だ。
互いに言葉を交わすこともなく、俺は椅子に腰掛けていた。背筋を伸ばし、軽く握った拳を膝においていた。
重苦しいと感じていた。取調べだろうか、いや、まさかいきなりそれはないだろう。事情聴取ということだろうか。不安が渦巻き、どうしても落ち着かない。
ドアの外に足音がして、ノックをして去って行った。やがてガシャーンと、希望を奪う音が響いてきた。
「川島、出ろ」命じられてドアの前に立つ。開けられたドアの外で、俺は前を向いたまま立った。
ドアが開けられる時、さっき点っていた赤ランプが消えているのに気付いた。いよいよ取り調べか、どうにかして言い逃れをしないといけない。衝立の陰に机が見えたとき、俺は一瞬だけきつく目を閉じ、腹に力をこめた。
部屋の正面には大きな机がある。映画でしか見たことがないような、大会社の社長が使うような立派な机だ。しかもそれは一段高くなったところに据えられている。その真ん中に、ネクタイをした男が座っていた。
「名前は?」 男が静かに尋ねた。
「二四七三号、川島篤志です」
「そう、川島だね」
歳のころなら六十くらいだろうか。にこりともせず、事務的な話し方だ。その男が着席するよう命じた。俺のすぐ隣に刑務官が着席した。まるで俺が暴れるのを見越してのように。それに、出入り口の横にも一人の刑務官が着席していた。
「川島、罪状は?」
「強盗の罪で、懲役五年です」
「うーん、間違いないね。もうずいぶん経ったけど、どうかな。落ち着いて生活できているかな?」
男は書類をペラペラ繰って目を通していたが、ノートを一枚めくると鉛筆を持った。そして、俺に目を据えたまま何かを書いている。
「はい。落ち着いて生活をしております」 そら始まったぞ、きっとカマをかけて聞き出そうとするに決まっている。俺は下手な言質をとられないよう、鸚鵡返しに答えた。しかも、最低限の言葉でだ。
「引受人が決定したようだな、帰住先が決まってほっとしただろう。しかし、引受人との面会はあまりないようだが?」
引受人が決まったのは、つい最近のことだ。愛想をつかされている俺に面会なんか来るわけがない。待てよ、引受人の話を持ち出すということは、ひょっとして、ひょっとするのか? いや、そんなわけない。そんなことでいい気にさせて、地獄へ落とそうって魂胆に違いない。騙されてたまるかと思う。
「私が悪いのです。さんざん迷惑をかけたから。しかし、引受人になってくれてありがたいです」
用心しながら当たり障りのないことを言う。
「そうだな、迷惑をかけたな。では、どうすれば引受人に報いることができると思うかな? また、どうするつもりかな?」男は質問をすると、すぐに鉛筆を走らせる。
「二度と迷惑をかけないようにします」
「たとえば、どうする?」
男は意地悪く突っ込んできた。少しづつ、俺を追い詰めるように。
それからも質問が続き、いい加減な答え方をすると必ず次々に質問が厳しさを増した。
「よし、これで質問を終えるが、何か訊ねたいことはあるか?」 男は鉛筆を置いて、机の上で手を組んでみせた。
さっきの騒ぎについて何も質問されなかったけど、いったいこれは何のための質問だったのだろう。俺はわからなくなった。
「質問があります。これはいったい何のための質問ですか」
思い切って訊ねてみた。すると男は怪訝そうに俺を見た。
「地方更生保護委員面接。いわゆる官面接だが、なんだと思った?」
男が意外そうに言った。訊ねた俺は、それ以上に驚いた。今日は台風で免業になったくらいだから、官面接は延期になったと諦めていたと正直に言うと、男は初めて笑顔をみせた。
「台風だけどな、待ち焦がれていたんだろう? がっかりさせたくなくてな。ただし、これからが正念場だぞ。落とし穴がそこらじゅうにある。肝に銘じて生活するように。委員会が許可をしても、最終的には署長の許可がなければ釈放されない。懲罰でも喰らったら仮出獄の決定は取り消されるからな」
子供に教えるように、柔和な表情になった。机をおりて俺の前に歩み寄ると、握手を求めた。そして、ふっと眉をひそめた。
「握手をする意味はな川島、何も武器を持っていないことを互いに確かめることだ。だから、やましい気持ちがなければ、しっかりと握るものだ」
探るような目を向けた。慌てて力をこめたが、どうやら男にとって満足できるものではなかったらしく、せっかくの笑顔がすぅっと消えてしまった。
しまったと思ったときには男は手を離し、机に戻ってしまった。
まずいと思ったが、勝手に発言できるわけはなく、これで終わるという宣言を他人事のように聞いた。そして、礼をしたすぐ後に、男が鉛筆を走らせるのを見た。
失敗だ。待ちに待った面接をふいにしてしまった。次はいつ巡ってくるかわからないチャンスだったのに、自らふいにしてしまった。ただその思いだけが強くて、俺はその後のことをよく覚えていない。面接室から房へどうやって戻ったかというような細かいことばかりか、それからの日々のこともはっきり覚えていない。何を考えて良いやら判断できなかった。
失意に打ちのめされた俺に朗報が届けられたのは、忌まわしい面接から一週間以上経ってからだった。
くそ面白くもない作業をなげやりに務めていた俺は、馴れた面接室に呼び出された。
作業態度が悪いと叱責されるのか、それとも官面接の結果を通知されるのか、どっちにしても耳を塞ぎたい内容に決まっている。そう一人合点して、ふて腐れたように刑務官に従った。
他の受刑者が妬むので、喜びを顔に出すな。くどいほど注意を受けたばかりだというのに、躍り上がりたくなる気持ちを抑えることができない。
些細なしくじりをいつまでもクヨクヨしたり、タヌキの皮算用ではしゃぐのが俺の悪い癖だ。が、そんなこと、かまったことか。
またぞろ横田が陰湿な嫌がらせをするようになっても、俺はひたすら我慢した。それに、門馬が横田を抑え付けている。昔風にいえば、俺が牢名主で門馬は添役だ。添役が名主を守るのは当たり前のことだ。
夕食後の自由時間。毒にも薬にもならないテレビ番組を見ながら、俺は女優の服を脱がせていた。むずかる子をあやすようにボタンを外し、その隙間に手を挿し入れようとした時だった。
「川島ぁ、よかったなぁ、おい。あと三月もしたらおさらばできるぜ」
古びた週刊誌を持った門馬が声をかけてきた。
「なに言ってるんだ、半年は先だ」
門馬が言わんとすることはすぐに理解できた。しかし、さすがに三ヶ月で釈放されるとは思えず、半年と遠慮したのだ。
「なに、あれから二週間過ぎたんだから、あと三月もすれば開放寮へ引越しの筈だ。そこで一週間。そうしたらお前、晴れて塀の外だ」
釈放される一週間前には、社会生活の練習が始まる。施錠されない部屋だ。自由に出入りできる部屋は、開放寮とも希望寮とも名付けられている。
「そうは問屋が卸すもんか、浮かれてたら足元掬われてしまうからな」
ぶっきらぼうを装ってみても、つい笑みこぼれてしまう。しかし、そんな様をみせるのは門馬にだけで、他の者にはふて腐れているように芝居を打っていた。
「心配すんなって、ちょっかい出す奴は俺が抑え付けてやる。墓穴だけは掘るなよ」
門馬はそれだけ囁いて窓際に戻って行った。
そしてひと月が経った。その間ずっと門馬が横田を抑えている。時折り言い争う声がするが、いつも横田は卑屈な目をして引き下がっていた。
「なあ、川島ぁ」門馬が、ぼそぼそと呟くように言う。
「俺なぁ、あと二年ばかり出られないんだが、ちょっと気になってな」
さらに囁いた。誰かに聞かれでもしていないかと視線を方々に向けている。
「このところ手紙が来ないんだ。面倒だろうがなぁ、様子を見に行ってくれないか。それでな、元気にやってるって、様子を伝えてほしいんだが」
要するに、自分の様子を伝える伝書鳩になれというのだ。受刑者同士が住所を教えあうことは固く禁じられているが、実際には教え合いはなくならないことでもある。門馬は、自分の住所を書いた紙切れを小さくたたんで俺によこした。
今まで誰にも本心を打ち明けたことなどないが、それはお互い様だ。受刑者同士、腹の探りあいをしているようで、信用なんかできたものではない。しかし、こうして弱みをみせられるとなんだか一気に壁がとれたような気がして、俺も住所を書いて渡してやった。元のアパートは既に引き払われているはずだから、帰住先の住所を書いてやったのだ。
義理堅い俺は内容を頭に叩き込むと、メモを呑み込んでしまった。何事も用心のためだ。 そして、何食わぬ顔をしてカレンダーをまた一つつぶす。
×印が増え、無印の日付が確実に減ってゆく。期待の高まりに反比例して、減る速さが日を追うごとに遅くなっていた。
あの日がどんな天気だったか、俺は気にも留めていない。彼方に去った四年前ではあるが、拘置所から移され、一切の尊厳を奪われた日でもあるのにだ。ただ、ここの生活は、ブヨブヨだった身体を引き締めた。あの日着ていた服に袖を通すと、今はブカブカだ。ズボンも腰周りが合わなくて、すぐにずり下がってくる。そして、四年間ビニール袋に保管されていた服は、とてもかび臭かった。
所長室に集められたのは八人ほどで、どの顔も緊張で強張っている。そりゃ、そうだ。今の今、それが取り消されないという保証など、どこにもないのだから仕方ない。
それにしてもと俺は思う。他の者は皆、小ざっぱりした身なりをしている。季節外れの服だったり、かび臭い服を着ている者は一人もいない。俺だけだ、身内に気をかけてもらっていないのは。
所長の訓示は案外簡単に終わったが、領置金の受け取りや、報償金の清算に時間をとられた。そして、遵守事項を言い渡され、これからすぐに管轄する保護観察所へ行くよう指示を受けた。紙バッグを提げた俺が塀の外に出られたのは、実に四年ぶりのこと、留置場からのことを含めると、四年半もの間隔絶していた娑婆との再会だ。
その日、空にはどよんとした雲が垂れ込めていた。
たった五年の間に街の様子は変っていた。渋滞は相変わらずだが車が異常に速くて、怖いとさえ感じる。そして車内は護送車のように重苦しかった。兄貴の表情は冷たく、義姉の表情は堅い。そして、両親の表情は厳しい。俺が話しかけても誰も返事をしようとしない。
「なあ、どこかで飯でも食っていかねぇか。迎えに来てもらったんだからよぅ、俺が奢るぜ」
皆に対する感謝のつもりだった。しかし、間髪入れず兄貴が声を荒げた。
「立場を考えろ、浮かれるんじゃない! 保護観察所へ行くようくどく注意されただろうが」
義姉はもちろん、両親も前を向いたまま口を開かない。それはつまり、兄の発言を後押ししているということだろう。
「だけどよ、着くのは昼すぎだろ? 行っても空振りだぞ」
車で迎えに来てくれたことはありがたい。歩かなくてもいいし、ちょっと窮屈だが座っていられる。だからといって、こうも刺々した空気はごめんだ。それに、少し走るだけで渋滞につかまった。あと三十分ほどすれば昼になることから、観察所に着くのは昼を過ぎてしまうと思ったのだ。きっと職員は休憩をしているだろうから、食事で時間調整をするというのは理に適っているはずだ。
「空振りでもかまわん、とにかく行くんだ。都合が悪かったら指示があるだろう。食事なんかそれからでも遅くはない。それが誠実さというものだ」
堅物の兄貴の言いそうなせりふだ。
「だけど、そろそろ腹がへってきたし」
「ふざけるな。腹がへるのはお前だけじゃない。それにな、一食抜いたくらいで死ぬか」
なんだ、威張りやがって。身元を引き受けたからって、刑務官みたいに偉そうにするな。刑務所なら食事を遅らせるなんてしないんだぞ。それに、ほんの少ししか食っていないんだ。危うく口に出かかるのを堪え、むすっと黙るしかなかった。
どうせ空振りだという予想に反し、来庁を知った観察官は食いかけの弁当を片付けると、すぐさま小部屋に案内した。
「川島篤志さんですね。あなたの住む地域を担当する保護監察官の下北です。しかし、感心ですねぇ、施設から真っ直ぐに来たのですね。その調子でお願いしますよ」
下北と名乗った監察官は、昼食を中断されたことには一言もふれず、真っ直ぐに出頭したことを褒めた。年齢は俺よりずいぶん下で、ようやく三十歳くらいに見えた。
「たまにいるのですよ、出頭に遅れる人が。酷いのだと旅館で一泊してくるし、途中で羽目外すのもいるし……ね」ニカッとして杯を干す真似をした。それから書類をひろげて白紙に鉛筆を走らせた。
「さすがに酒臭い息を吹きかけられるとねぇ、刑務所に戻る? 言いたくないことを言わなきゃいけません。ところで、どうでした、施設での生活は?」
親しげな口調でさまざまなことを話題にする。用心深く身構えていたつもりだが、つい刑務官と較べてしまい、口が緩んでしまう。気がつけば、交友関係などもペラペラ喋っていた。
「保護観察は……初めてではないようだから、することはわかっていると思います。が、今までとは違うということを肝に銘じてくださいね」
たった今までのにこやかな顔はそこになかった。きつい目つきで俺を見据えている。
「もし川島さんが何か問題をおこしたら、刑務所へ戻ってもらいます。刑期は一年残っています。その間、何事もなく過ぎれば刑期は満了、保護観察も終了します。だけど、来年の昨日までの間に何か問題をおこせば、残った一年は刑務所で暮らしてもらいます。ここには懲罰房はないですから、問答無用で逆戻り。もう仮出獄もありません。また、遵守事項を守るという条件で仮出獄を許されたのですから、守らなかったら刑務所に戻されます。それと、勝手な転居もいけないし、一週間以上の旅行も許可が必要です」
そして、遵守事項の内容を覚えているか験された。
「社会には誘惑がいっぱいあります。それを払いのける練習をしてくださいね」
戻される、刑務所に戻される。それも、来年の昨日までに失敗したら。その言葉だけは俺の頭に焼きついた。
田畑由蔵 その二
節分の風がピューピューと唸りをあげて突っ込んでくる。細い矢のように鋭く尖った先端を容赦なくあたりに突き立てて、矢羽をブルブル振るわせる。ピュピュピュッと一の矢が降り注ぎ、すぐに二の矢、三の矢が休む間もなく天空を駆けた。
今にも白いものを降らせるように鉛色の雲が千切れては飛び、道行く人に襟を竦ませる。
町の片隅にある広場、といっても、子供が好き勝手に遊べる場所ではなく、頑丈な鉄骨で周囲を囲った資材置き場だ。隣との境界には申し訳程度の壁が作ってあるが、工事現場でみかける目隠し用の仕切り板だから、矢のような風を防ぐことはとても無理なことだ。誰が植えたのか大きなツル薔薇が壁を這い、その上に張った針金にも枯れたような枝を巻きつけていた。
またしても風が唸りを上げた。土ぼこりが舞い上がり、渦を巻きながら大通りへ突進してゆく。まるで都会に棲む猪だ。そして針金がビリビリ震えた。
ブウゥーーブウゥーーーー。空が尺八を鳴らしているようだ。
広場の一番奥に、大屋根がかかっている。その下に止まったトラックで、何人もの男たちが蠢いていた。全員が風除けフードをつけ、その上に安全帽をかむっている。足元は地下足袋にニッカズボン、そして上は、長袖シャツだけだ。
ここは足場工事を請け負う会社の資材置き場。日が暮れる前に仕事を終えてしまおうと、喧嘩腰で働いていた。
「寒いなあ、社長いるかぃ?」
トラックの荷台で道具の仕分けをしている若者は、この寒空なのに汗をかいている。私に気付いた彼は、恥ずかしそうな笑いをうかべて親指を突き出した。
「あぁ、ちょっと待ってよ、社長、あそこだから」
若者が指をしゃくって奥を指した。網バケットに入った資材を天井からホイストが吊り下げている。その行き先を誘導しているのが社長だ。
若者の叫び声に顔を向けた社長が、わかったというように手を挙げ、事務所を指した。寒いからそこで待てということだろう。私は先に事務所へ行くことにした。
「いやあ、急に寒くなったなぁ。今日はなんとかもつと思ったんだが、失敗だなぁ」
大柄な男だ。筋肉質で、きれいに剃った頭から湯気をたてている。そのくせ、私が持ち込んだ袋を勝手に覗き込み、湯気をたてるコーヒーカップをつまみ上げた。ちょちょんと手刀を切るところが憎めない。
「この寒いのに、茹ってるじゃないかよ。けっこうな仕事だなあ、おい」
私もカップをとると、残りを机の上に並べる。
「やめてくれよ、寒いんだぞ俺だって。ところで、この寒空に先生のお出ましって、なんの用だ? 節分の寄付集めは終わったし……まさか、先走って花見の寄付なんて言わないよな」
この男は鳶辰工業の社長で、名を二町辰夫という。私とはもう二十年来の付き合いだ。
「辰よ、その先生っていうのはやめろよ。嫌いなんだよ。物覚えの悪い奴だな、まったく。ところで、景気……どうだい?」
カップの蓋を取って鼻に近づける。風采はあがらないが、これでも私は味にうるさい。コンビニのコーヒーだけど、まずは香りを楽しむ癖は直らない。
「……景気なぁ、生かさず殺さず。誰だろうな、ぼろ儲けして笑ってる奴。……何人だぃ」
まだ熱いにもかかわらず、辰はコーヒーをズズッと啜る。猫舌の私が上品ぶった飲み方をするのは、実は冷ますための時間稼ぎだというのを辰は知っている。そして、辰のように熱いものを飲める者に憧れていることも。だから得意そうに飲んでみせ、景気がよくならないことを正直にぼやいた。そしてさりげなく肝心なことを訊ねる。
「ちくしょう。熱いのを飲んだな、俺の目の前で飲みやがったな、くそぅ」
捨て台詞を叩きつけてカップに口をつけた。が、唇が触れただけで離してしまった。
「あちっ……くそぅ、勝てないことくらいあるさ!」
悔しそうに吐き捨て、指を一本立てた。
「それくらいなら、どうにかできるだろう。で? 何やったんだ? といって、言うような先生じゃないな」
高校生の頃からの付き合いですっかり馴れているはずなのに、つい余計なことを訊ねてしまう。そして、これまで一度も私の口からいろんなことを聞けたためしがないのに気がついたようだ。だからこそ、辰は私を信用してくれている。今となっては、保護司と対象者という関係ではなく、互いによき理解者なのだ。
「悪いな、これが俺流の仁義ってやつだ。けどな、辰。支援を受けてくれよ、お前に負担をかけるなら別をあたるからさ」
辰と私は親子以上に歳が違う。しかし、歳の差とか財産などは、とるにたらないことだ。互いに腹蔵ない付き合いができればそれで良い。
「支援って?」
ほら、まただ。私は頑固者だが、辰も劣らず頑固者だ。知らぬふりをしやがった。
「ほら、協力雇用主会の設立の時に説明しただろ、就労奨励金さ。半年間しか出ないけど、目いっぱい受ければ七十二万という金を受け取れるからさ。残りはどうにもならないけどさ」私は、思い出せとばかりに指をつきだし、コーヒーをゆっくり啜った。
「いいよ、そんなもの。そんなケチなこと考えなくたって、いつか戻ってくるさ」
半分ほど残ったコーヒーをズズッと飲み干した辰が、胸ポケットをさぐる。そして抜き出したタバコに火をつけた。二十年も付き合ううちに彼は変った。細かな損得に剥きになっていたのが信じられないくらい鷹揚になっている。
「悪いなぁ、いつも」
外がガヤガヤしだした。荷物の片付けが終わったのだろう。他の者には聞かせられない話なので、二人ともそこで話をやめてしまう。そのかわり、莫迦話をしていたように陽気な顔をした。
川島の仮出獄決定通知書が送られてきた翌日のことだった。
通知が届いた日、私はすっかり通い慣れた川島家を訪ねていた。
自分の知る範囲で、出獄してきた者がどうなるかを伝え、また、家族との間で生活リズムが合わないことも伝えた。一週間もたたずに解消されるだろうが、その間に行き違いが生じないようにとの配慮からだ。そして、仮出獄の日に往訪すると伝えた。しかし川島の兄は実直な人のようで、夕方までにはこちらから出向くと言ってきかない。実は私は他の事を知りたかったのだ。川島に対する家族感情などは、来訪されたのでは窺い知れないからだ。とはいえ、そんなことを正直に言えるはずもなく、来訪を待つことにした。
川島篤志、三
「川島さん、あなた、顔が赤いですね。それに少し酒臭い。私たちは初対面ですよ、ましてやこれは面接です。ただの面談ではありませんが、どう考えておられますか?」
挨拶もそこそこに、田畑という保護司が難癖をつけてきた。
「いやぁ、……昼めしが遅くなったので、途中で食いにいったのだけど、そこにビールがあってね、四年も我慢してきたので、つい」
俺は悪びれることもなくそう応えて、首をすくめてみせた。風采のあがらない相手は斜め前に腰掛け、じっと目を逸らさない。
「昼食が遅れたからビールを飲んだのですか?」
田畑は、俺が言った言葉だけを使って問い返してきた。無駄な言葉を省き、肝心なことだけをあげてみせたのだ。
「そりゃぁ……、先に昼飯を食っていたら……飲まなかっただろうけど」
なんだか雲行きが怪しくなりそうなのに気付いて、俺は言い淀んだ。
「どうして食事が先なら飲まないのですか?」
どうしてだか、誰にでもわかることだろう。なのにこの男はしつこく問い質す。俺の知っている者の中に、こんな奴がいただろうか。どれもこれも、もっとあっさりした男ばかりだ。いや待て、この話し方をどこかで聞いたことがあるぞ。俺の頭はめまぐるしく働き、一人の人物を導き出した。官面接の相手だ。そいつも納得できるまで問い返してきやがったのを思い出した。
「だって、あん……先生、観察所で酒臭かったらまずいでしょう。それくらい子供だって……」
初対面の相手をあんたと呼ぼうとした。さすがに先生と言い直したが、相手はただのカジヤじゃないか。権限だってないだろうし、それに嘗められたくはない。
「すると、私が相手ならかまわない……そういうことですか?」
「そうじゃないけど、少しくらいなら大目にみてくれるかなと」
粘っこい奴だ。ハハァーン、自分が主役だと認めさせようってんだな。
「川島さん、何か勘違いしていませんか? 私も法務省の人間なんですよ。だからといって杓子定規に物事を考えたりしていないつもりです。ですが、酒を呑んで初回面接に望むのですか。あなたのような人は初めてだ、考えをあらためてください」
言葉は丁寧に、だけど話す内容は喧嘩を売られたように厳しい。
「釈放されたら自由のはずだけど」
酔ってなどいないじゃないか、偉そう言うなと咽から出かかった。
「自由ですよ、基本的に自由です。でもね、身勝手なことが許されるわけではありません。それに、あなたには守るべき約束があるはずですね。一般遵守事項が四つ。特別遵守事項が四つ。あなた、出獄の際に署名したでしょう? 指印を捺したでしょう? それを守らなければどうなるか、刑務所でも観察所でも念を押されているはずです。つまり、あなたにとって、それは義務なのです。一般遵守事項の中に、善行を保持することという項目があるはずです。酒を呑んで面接に望むのは、善行ですか? ましてや初対面です。だから、何を考えているのかと尋ねているのです」
俺は黙っていた。何かを言えばすかさず反撃される。まるで揚げ足取りのようだ。これでは、適当な言い繕いは無理なようだ。それならば、失敗しない最善の方法をとるしかない。それが沈黙だった。
どちらも口を開かないまま、時だけが過ぎた。
「ずいぶん長い時間黙ったままでしたね、何を考えていましたか?」
思ってもみない質問だった。どうせ自分の失敗を突いてくるだろうと身構えていた俺は、虚を衝かれて混乱した。早く終われとばかり願っていたなどとは、口が裂けても言えるものではない。しかし頭の中に渦巻いていたのは、ただその一点だ。何か答えなければと焦るほど混乱の渦が大きくなる。自然と黙り続けるしかなかった。
「答えられませんか。では、私からお願いします。どうか真面目に生きてください。社会では何でもできます。それこそ、酒に溺れることも、薬物の虜になることもね。社会を甘くみないでください。むしろ刑務所のほうが楽で安全なのです」
刑務所のほうが楽だと? ど素人がなにを偉そうに。ひと月でいいから入ってみろ、それから言え。と、咽元まで出かかるのを無理やり抑え、殊勝な態度をしてみせる。
「だけど、釈放されたら気持ちが……。大目にみてくださいよ」
刑務所でのお約束。はい、わかりましたの一言が出そうになり、慌てて堪えた。だって、その言葉を使うときは、相手が格上だと認めたのと同じだからだ。
「出獄したからこそ気持ちを引き締めてもらわないと。それとも、……大目にみたらなにかくれますか?」
「そりゃあまぁ、どこかで飯でも」
ふざけやがって、接待の要求かよ。そっちがそう出るのなら俺だって。罠に嵌めてやろうじゃないか。
「生憎ですね。粗末なものしか買えませんが、自分で買って食べます」
いかにもつまらなさそうに、奴は横を向いた。
「じゃあ、飲みに」
「私は下戸でして。保護司なんてしていると急な呼び出しもありましてね、飲酒運転などできませんから」
鼻の先に嘲るような笑みがのぞいた。が、一瞬でそれを消してしまう。
「じゃあ、どうしろと」
飯もだめ酒もだめとくれば、女か? いや、それはないだろう。まさか、銭を出せということか? 食えん奴だ。よぅし、はっきり言わせてやれ。
「考えてください。どうすればあなたが更正できるか、私があなたの力になれるか」
鬱陶しい奴だ、下心をのぞかせたふりして、クソ真面目なことを言いやがる。それから、次回からの面接予定を尋ねられた。どうせブラブラするつもりだから、曜日なんかいつだっていいさ。必ず二度の面接を守るなんて気もないのだし。
「だけど、あん……先生だけだぜ、出獄なんて言うのは」
最後に質問はと問われ、たとえ少しでも立場を挽回しておこうと抵抗を試みてみた。もうちっとだけ遠慮した話し方をするように、言葉の間違いを衝いてやったのだ。
「そりゃあね、酒臭い息で私の前に現れなかったら釈放って言いましたよ。でも、あまりに考えがなさすぎる。それで、重大なことをしでかしたことに気付いてもらうために、わざと正式な言い方をしました」
この野郎、言いたい放題ぬかしやがった。釈放ってのが正式な言い方じゃねぇか。
「そうじゃないはずだけど。正式には釈放っていうくらい覚えておいたほうがいいんじゃないですか?」
「生憎ですね、監獄法はあるけど、刑務所法というものはありません。警察の留置場を代用監獄というでしょう? あれですよ。だから、正しくは仮出獄なのです」
野郎、監獄だなんて古い言葉を持ち出しやがって、死語じゃないか。腹の中で大笑いしたいが、代用監獄という呼び名には心当たりがある。監獄かぁ……厭だなぁ。
「とにかく、何日かは身体を慣らしてください。そして、なるべく早く就職先を探しましょう」
それが俺と田畑の初顔合わせだった。
そうして実家生活が始まったわけだが、居心地が悪くてしかたない。そりゃあ俺が原因だってくらいわかってはいるが、どうにも会話が続かないのだ。新入りの受刑者みたいな扱いなのだ。これには驚いた。だが、身内ですらこうだから、世間の目は冷たいだろうなと思い知った。
夕食の料理を見て感激をした。無愛想だとはいえ、出所祝いの料理が並んでいる。おまけに食い放題だ。
味噌汁を啜った俺は、思わず目を剥いた。いつの間にこんな塩辛いものを食べるようになったのだ。が、妙な顔をしたのは俺だけで、他の者は当たり前のように啜っている。煮物もサラダも塩辛くて食えたものではない。だったら茶漬けをと思ったのだが、漬物も塩気が強すぎた。どういうことだ、四年の間に世間の味覚が変わってしまったのだろうか。
一事が万事ではないけれども、皆の動作がノロマに感じたのも事実だ。
飯だって風呂だって、五分もあればおつりがくるのに、皆、チンタラやっている。
そして、九時をすぎると眠くなってきた。
翌朝、それは突然に襲い掛かってきた。
いつものように六時になったら目が覚める。手早く布団をたたんで洗面をすます。これも時間との闘いだ。ささっと済ませて正座をして待った。しばらく待って釈放されたことを思い出し、つめていた息を吐き出した。
やがて兄貴が仕事にでかけ、義姉も仕事にでかける。家に残ったのは自分と両親だけだった。何をしろと指示されないまま居間で休んでいると、突然便意をもよおしたのだ。
今にも漏れそうな便意に慌てて便所へかけこむと、酷い下痢だ。悪いものを食べたのだろうかと考えても、思い当たることがない。そんな日が四日ばかり続いただろうか。その後は徐々に正常になった。
釈放されて一週間、約束通り田畑がやってきた。
下痢をしなかったかと問われ、何日か苦しんだことを伝えるとニヤッとした。そして積み上げた布団を見て感心している。味付けに馴れたかと妙な問いかけもあった。
どうしてそんなことを質問するのか訊ねると、社会生活に馴染んだかを確かめたのだと言い、そろそろ就職先を探そうときりだした。娑婆へ戻って一週間、もっとのんびりしたいのが本音だ。が、初日にいきなりヘマをした手前、厭だとは言えない。渋々だが説得されてしまい、ハローワークに通う約束をさせられたのだ。
それにしても、どうして田畑の言うことに逆らえないのだろう。アゴでこき使われるのはまっぴらだし、できたら遊んでいたいのに、気持ちとは裏腹に、『はい、わかりました』と返事をしてしまう。
ところが、田畑には見透かされていたようで、受付印をみながら、どこに応募したのか教えろという。返事に詰まってしまった。
そうして気付けば二ヶ月が過ぎていた。その間収入がないのだから手持ちの金がどんどん減ってゆく。刑務所で貰った二十万は、既に半分になっていた。
慌てて本気で職探しをしたのだが、雇ってくれるところはどこにもない。にもかかわらず金は減り続ける。
ハローワークに行くにもバス代がいるし、咽がかわけばジュース代もいる。それを無心しようとして兄貴に撥ねつけられ、義姉にも体よく断られた。両親も素っ気ない。
釈放からの三ヶ月は瞬く間に去ってしまった。持ち金とともに、時間も還りはしない。
「川島さん、どうかな、まだ勤め先はみつからないかな」
顔を見るたびに就職、就職。ほかに台詞はないのかと胸の中で毒づきながら、その場しのぎの嘘をつくしかなかった。
「一軒、試しに働いてみたんだけど、肌に合わねぇ……」
つい、昔に経験したことのある仕事をもちだして、なんとかその場を取り繕う。
「ほう、試しに働いてみたのですね? どんな職種でした?」
いつもこれだ。どうして突っ込んでくるのだ、こいつは。ああそうですかと納得しておけばいいじゃないか。むかっとしたが、ここで詰まれば嘘だとばれてしまう。
「コールセンター。電話でリフォームの案内をするやつ……。だけどあん……先生、喋り方を知らねぇ奴が相手だからさぁ、用件言う前にきられるわ、言いたい放題だわ、やってらんねぇぜ。せっかく客をみつけたって、営業がヘボだったらあんた、辞めるよう肩を叩かれんだとよ。嫌気がさしてな、二日で辞めた」
「そうですか、厭な仕事だったのですね。場所はどのあたりですか? 職種が違うから、珍しい仕事をどこでやっているのかなと思いまして」
まただ、どうして突っ込むのだ。鬱陶しい奴だな。
「川島さん、鼻、擦っていますよ」
田畑の顔が笑っている。しかし目は冷たく動かない。
「鼻?」
俺は、怪訝な表情で問い返してやった。
「川島さん、嘘をつくときは必ず鼻を擦ります。気付いていないのですか?」
俺はギョッとして下を向き、今までペラペラ喋っていたのをプツリと止めた。嘘をついて誤魔化そうとするとき、どうやら俺は鼻を擦る癖があるようだ。奴はそれを見抜いているらしい。
「どうですか、腹を割った話をしましょうよ。でなきゃあなた、何年話したってなんの意味もない。むしろ互いに時間の無駄でしょう?」
「……」
「では別のことを教えてください。自由になるお金、どれくらいありますか?」
うっと詰まることを衝いてきた。こいつは俺のことを見透かしているのだろうか。今までの出鱈目を笑って眺めていたのだろうか。
「いや、それは……誰もくれないし」
言えるわけがない。それはせめてもの面子だ。酒を買い、タバコを買いしているくせに銭がないとは言えない。そのタバコだって、来月には買えなくなってしまうはずだ。
「当たり前ですよ、いい男が何を言っているのです、他人から恵んでもらって嬉しいですか? いや、嬉しいだろうけど、当たり前のように使えますか?」
「そりゃあ、あれば……つい」
つい本音が出て、しまったと思う。
「それがプライドですよ、根性ですよ。……まぁ、いいや。それで、ハローワークは?」
厳しい視線に射られて口ごもってしまう。
「求人票見たって、まず運転免許がいるし……。学歴や経験年数も書いてあったし」
「そうですね」
「だから、何件か当たってみたけど断られたから」
奴は合いの手をいれず、目で先を促している。
「受付印だけ……もらって……」
「要は、諦めたということですね? ところで、どんな職種を探したのですか?」
呆れたとか怒っている様子はない。どちらかというと、ほっとしたような声音だった。
「事務とか……営業とか、……工事現場の監督とか」
「うーん、それはまた、難しいものばかり選びましたね。どうして?」
困ったような表情で俺を見据える。そんな職業に就けるわけがないだろうとでも言いたげだ。
「そりゃあ……給料のわりに楽そうだし、外聞が良いからさ、信用がつくじゃない」
どうしようか迷ったが、言ってしまった。希望だから文句言われる筋合いなどないのだ。
「なるほどねぇ……。うーん……言い難いことだけど、人には向き不向きがあると思うのですよ。私なんかね、他人様のお世話をするのが大嫌いだから、看護や介護の仕事には向かない。じっとしているのが嫌いだから事務職も厭。というより、できない。他人を騙すのが嫌いだから宗教関係もだめ。……そういう具合に仕事を絞らなきゃ。それに、こっちがいくら希望したところで、決めるのは雇う側だからね、人と能力で判断されてしまう。ところで川島さん、あんた、どんな仕事ならできるの? 自信があるの?」
つまり、不釣合いな希望だと呆れているのだ。だからって、日雇い仕事のほかに、どこかに勤めたことなどない。教えてくれればどんな仕事でもやると言ったら、教える手間を惜しむ世の中だと言われてしまった。
「どうにもだめだ、働くところなんかあるもんか。偉そうに、なんだかんだ理屈つけやがって」
あれから一週間後、俺は田畑の仕事場におしかけた。ハローワークで申し込みをした時点で、にべもなく断られたと訴えた。申し込んだのなら取り次ぎゃ良いではないか。それが職員の仕事のはずだ。見下しやがって、ふざけやがって。非は社会にあるではないか。
じっと俺を見つめていた田畑は、迷う素振りをみせた後で、こう切り出した。
「どうしても困っているのならだけどね、心当たりに頼んでみてもいいけど、どうしますか? ただし、あなたが希望するような職種ではない。現場仕事です」
「現場かぁ? 現場なぁ……。事務とかさぁ、そういうとこはないのか?」
なるべく楽で綺麗な仕事。家族の鼻を明かすにも、人聞きの良い仕事に就きたい。
「川島さん、パソコンはどれくらい使える?」
田畑の問いかけに、俺は黙らねばならなかった。
「じゃあね、経理の経験は? ……だからね、できないことを望んでも仕方ないから」
「だけどなぁ……、他にはないのか?」
「印刷屋」
「いいなぁ、そこ」
「運転できないですよね? 建築設計事務所」
「そこ、そこいいよ」
「パソコンで複雑な計算をしなけりゃいけない、当然免許証が必要です」
冷たい言い方に聞こえる。
「ほかは? ほかにゃあねぇのか?」
「パン屋があるけど」
「パン屋かぁ……、そこでもいいや」
「だめです」
考える間もなかった。そこでもいいと言うと同時にだめだとこきゃあがった。だったら言わなきゃいいじゃねぇか、こいつも俺を苛めて笑ってんだ。きっとそうに違いない。
「どうしてだよ」
「口の利き方、目つき、態度。客商売ですから」
「そんなもの、ちょちょっと直すからさ」
「ふざけるな! ちょちょっとだと? 直せるのなら直してみろよ。世間を甘くみるな!」
突然に田畑が怒鳴った。
「なんだ、偉そうに。困ってるって言ってんだろう? 保護司だったら力貸すのが当たり前じゃねぇか。家の者だってそうだ。貸してくれって頼んだのに、千円の銭も貸しやがらねぇ。どうせ邪魔者なんだよう、俺ぁよう」
むかっ腹が立って声を荒げてしまった。もう、どうとでもなれとしか思えなくなっている。
「おい、ひとつ教えてやるよ。お前さんの考える当たり前ってのは、ただの甘えだよ。当たり前ってのはなぁ、生まれたら必ず死ぬってことだけだ。努力してんだよ、みんな」
田畑が押し殺した声で言った。哀れむような眼差しが、荒れた心に痛かった。
「社長、こんなご時世で言い難いのだけれど、一人面倒みてはもらえないですかね。生憎なことに就職先に困ってしまってね、行き倒れ寸前なんですよ」
田畑はヘコヘコお辞儀を繰り返して俺を紹介した。
「そうはいってもねぇ先生、この景気でしょう、なんとか回っているからなぁ」
対応した男は大柄で、俺のほうが少し歳嵩のようだ。気安げな話し方をするが、顔つきは素人に見えない。それに、ごつい二の腕の裏表には、火傷の痕がびっしり並んでいる。
たしか、田畑のことを先生と呼んだ。
「そうだろうけど、一人増やして、その余裕を営業に使うこともできるじゃないの。たのむよ、社長」
「まぁなぁ……、先生の頼みなら断るわけにはいかないし……。よしっ、わかった。雇うよ、先生」
ほら、やっぱり先生と呼んだ。……どういうことだろう?
「そう! 悪いなぁ、埋め合わせはするからさ」
苦笑いを浮かべながら、その男はファイルを持ってきた。そして書類をつまみ出して仕事の説明を始めた。給料の話になったときに、俺はその額に不満を訴えた。そして、日払いを求めたのだが、あっさり蹴られてしまった。
「川島さん、俺、あんたの腕がまったくわからない。素人かもしれないんだ。その素人に一人前の給料を払うほど余裕はなくてねぇ。厭ならいいよ、やめても」
現場仕事だからということで、俺は三十万を要求した。しかし社長が提示したのは二十万だ。そして日払いはきっぱり断わられた。
「なぁ、いろんな奴と付き合ったけど、銭を握ると仕事を休む奴がけっこういてな、困るんだよ、勝手に休まれちゃ。うちの若い奴なんか、金を貯めるんだって休まないんだよな。日曜だって仕事したいって、だから四十万くらい稼ぐぜ。当てにならない奴は、いてほしくないんだよな」
自分より若いとはいえ、社長だし、体格でもかなわない相手に、俺はしぶしぶ頭を下げざるをえなかった。
そうして働き出した俺は、初めての給料で十万を得た。その調子で翌月も働けばよかったのに、怠業が始まった。
ところが、田畑の息がかかっているだけあって、手ごわい社長だ。遅刻でもしようものならトラックで迎えに来やがる。まだ近所が朝食の時分だというのに、遠慮なく怒鳴る。寝床から引きずり出されることもあった。
鳶辰工業で働きだして三ヶ月目に入った。秋雨前線が刺激されたそうで、雨が降ったり止んだりしている。その日も晴れたかとおもえば急に雲に覆われる、厭な空模様だった。
往訪日でもないのに田畑が顔を見せた。
「あれっ? 日が違うんじゃないのか?」
寝そべってテレビを見ていたところを邪魔され、迷惑だ。
「まぁな、予定日ではないけど、大事な話があって来た」
田畑の表情は、いつになく強張り、言葉がぞんざいになっている。
「なにが大事かは知らないけどさ、ちゃんと仕事に行ってるぜ」
小言を言われるのではないかと不安だ。というのは、今朝も寝坊をして社長からひどく叱られたからだ。
「ああ、ちゃんと仕事をしているのは聞いている。それでいいんだ。けど、お前さん、とんでもないことをしでかしたな」
田畑が声を落とした。まるで襖のむこうに家族が聞き耳を立てているかのように。
「大変なことぉ? いったい、何のことだか」
寝坊を叱られるのでなければ身に覚えはない。むしろ俺は声を張り上げたくらいだ。
「門馬という人に心当たりがないか?」
ギロッと目を覗き込んで、囁いた。
「門馬ぁ? 門馬っていったら同じ房にいた奴しか知らねぇが」
どうして田畑がその名を知っているのかわからぬまま、俺は素直に頷いた。
「お前さん、門馬に何を喋った? 正直に答えてくれ」
声を潜めて、真剣な表情だ。初めて会った日に叱られたときより厳しい顔つきになっている。
「喋るったって、……作業が辛いとか、暑い寒いってことばかりだけど」
急に門馬の名前をもちだされ、どんな話をしたかと問われても、くだらないことしか思い出せない。だが、そんなことを知りたがっているわけでもないだろう。しかし、どうして田畑が門馬を知っているのかが気になった。
「ほかにもあるだろう、思い出せよ」
「思い出せっていわれてもなぁ、……そういえば、女房に言伝をたのまれた」
まあ、こうして釈放されたのだからかまうまい。刑務所の規則が外にまでおよぶことはないだろう。
「門馬のか? それで、会ったのか?」
「おお、達者にしてるから安心してくれって、頼まれた通りに伝えただけだ。言っとくけど、ただの一回きりだぜ」
正直に会ったことを認め、一度きりというところに力をこめた。
「そうか。そのときお前さん、名前を名乗ったのか?」
うんうんと頷いた田畑は、すぐに次の質問をする。
「当たり前じゃないか。ついこの前まで同じ房にいた川島だって、たしかに名乗ったぜ。でなきゃ、追っ払われちまう。そうだろ?」
「そのとき、住んでる場所は? 喋ったか?」
探るような目だ。それが瞬きをせずにじっと俺を見つめている。こんな田畑は初めてだ。
「言うわけないだろう、関係ねぇんだからよ」
思わず声が大きくなり、しかも裏返った。こんなことで嘘なんかつかないにきまっているだろう、信じてくれよと言いたい。
「よし、わかった。じゃあ、電話番号はどうだ。教えたか?」
「あぁ、また聞きたいことがあるかもしれないってことだったからな。だけど、さすがに家の番号は言わなかったぞ。携帯の番号を教えただけだ」
俺の返事を聞き終った田畑は、うーんと呻いて腕組みをした。どこを見ているのか黒目が上に上がり、白目になってじっとしている。そして静かに目蓋を閉じた。
飲み物を求められた俺が台所から戻ると、奴はまっさらの紙になにやら書いていた。灰皿をよこせと指で示し、一本咥えて俺にも差し出した。遠慮したのだがしつこく押し付けられた。
「じゃあな、女房の様子はどうだった。喜んでたか? それとも、迷惑そうだったか?」
缶ジュースを一口含んだ田畑が、話を戻した。
「ああ、そうですか。どうも、わざわざ。……そんなもんだったなぁ。愛想もしゃしゃりもありゃしねぇ。玄関先で突っ立ったままだ、水も出さねぇんだぜ」
俺は、そのときの様子を思い出していた。胡散臭そうに俺を見て、鼻であしらいやがったのだ。せっかくバス代かけて教えに来てやったのに、どういう女だとむかついたのをおぼえている。
「……なぁ、門馬は、どうしてそんな言伝を頼んだのだと思う? わざわざ出かけて伝えるような内容じゃなかったんだろう?」
うんうんと田畑は頷いた。そんな扱いを受ければ腹が立つよなと呟いて、鉛筆を走らせる。そして俺を見て、気の毒そうに頷き、先を促した。
「満期でなきゃ出られねぇからってことだったが? 女房から手紙がこないとも言ってたなぁ」
俺は満期だ、というのが門馬の口癖だった。それを横田に言ったから、奴がおとなしくなったのだ。だから俺は、門馬は満期釈放でしか出所できないものと思い込んでいる。
「その門馬だけど、懲罰を受けたことは?」
田畑は、ちょっとの間考えた末にそう言った。
「……いや、奴がそう言いふらしてたからよ、そのまま鵜呑みにしたんだが……、言われてみりゃ、実際には見てねぇな」
なるほど田畑の言うように、奴が懲罰を喰らっているのを俺は見ていないことに気付いた。だとすると、あれは嘘だったのだろうか。ケッ、バカバカしい。そんな嘘をついてどんな得がある? 俺には理解できないことだ。
「……なるほど、そういうことか。お前さん、とんだ落とし穴にひっかかったな。よく思い出せ、住所を教えたりしなかったか?」
懲罰を受けたかすらが怪しいと知った田畑が、また考えた。コメカミから頭頂にかけてをポリポリ掻きながら考えた末に、ふっと顔を上げる。その目つき。まるで俺のことを中学生でも見るような目つきだ。
「住所を教え合うのは禁……、あっ、奴が言伝を頼んできたときに、教えてやったっけ。女房の住所を書いてよこしたもんだから、そこまで信用されて知らん顔ってのもなぁ、仁義欠いちまうから……それが、どうかしたのか?」
ようやく思い出した。横田の嫌がらせを庇ってくれていたこともあり、つい信用してしまったのだった。
「お前さん、身元引受人に指名されちまったんだよ。これで合点がいった。どうしてそんな奴の環境調整がくるのか、納得できなかったんだ」
田畑は、ようやく納得とばかりに、何度も頷いた。
「なんでだよ、女房がいんだろう?」
それを聞いて俺は慌てた。女房がいなけりゃ、兄弟はいないのか? 親は? そっちに頼むのが筋ではないか。こんなことを家の者に聞かれたら、きっとここを追い出されてしまう。アパートを借りる金もないのに、どうすればいいんだ。どうにかしてくれと田畑に食って掛かった。
「愛想尽かされてたんだろうよ。引受人が決まらないから満期を覚悟しなきゃいけなかった。お前さんもそうだっただろ? そこにトンマな奴が現れた。こいつをカモにしてやれ。そんなところさ。もっとも、最初からカモをさがすための嘘だったかもしれんがな」
哀れむように俺を見て、トンマと指を突きつける。その田畑は、哀しそうに首をふった。
「うそ、……どうすりゃいいんだよ」
俺はおもわず田畑の腕を掴んだ。それを引き剥がされ、頭を掻き毟る。
「そんなことは自分で考えろ。引き受けるのも良し、断るのも良し」
ぞっとするほど冷酷な言い方だ。しかも、心なし笑いを堪えている様子だ。
「断ればいいんだ、なっ? そうだろう?」
「釈放されたら訪ねてくるかもしれんな、どうして断ったと言って」
即座に俺は断った。だがそれで解決できるのかはわからない。不安になった俺は田畑をそっと窺う、すると奴は間髪入れず否定した。
「じゃあ引き受けろっていうのか? どうなるんだ、そんなことしたら」
「そりゃあ喜ぶだろうよ、仮釈の可能性が出てきたのだから」
「だから、どうなるんだ?」
「決まってるだろ? ここで生活することになる」
田畑は指先で畳をトントンと叩き、じっと俺を見据える。皮肉な笑みを浮かべて。
「マジか? えぇっ、マジか、それ。……そんな莫迦な! 冗談じゃねぇぞ、迷惑だ」
ぶるっと震えがきた。知らぬ間に指先がぶるぶる震えている。
「怖いか? 怖いだろう、自分の莫迦さ加減がわかっただろう。もっと用心深くなれよ、えぇ、川島さんよぅ。あらためて訊ねるけど、どうしたい? いや、どうする?」
すっと視線を下ろした田畑が、短くなったタバコを灰皿に圧しつけた。グイッグイッと圧しつけた。
「断る。絶対にことわる」
「引き受けるという考えは?」
「冗談じゃないって、絶対に駄目だからな」
俺の返事を聞いて、田畑の表情が柔らかくなってゆく。しかし、現住所を知られたことが心配だとも言った。そして、善後策を考えるから不用意なことをするなと念を押して帰って行った。
じっとりと湿った日が続いて一週間、陽射しがないだけましとはいうものの、少し作業するだけで汗が噴出してくる。なまじっかの風が吹くから、生乾きのシャツが貼り付いて気持ち悪くてしかたなかった。
「川島よ、お前、寮に引っ越せ」
日陰で休憩をしているときに、不意に社長が話しかけてきた。
「寮があるんですか?」
歳下を相手に、俺は言葉遣いをあらためていた。体格もさることながら、気風のよさに惹かれたというのもある。
「ないよ。だけど、面倒なことになったそうじゃないか、先生から聞いたぞ」
面倒なこととは、きっと門馬のことを指しているのだろう。
「先生、心配してさぁ、駆けずり回ってくれてるぞ。それでな、近くにアパートを見つけてくれたんだ」
ジュースを飲む手を止め、俺をじっと見た。
知らなかった。あれから連絡がないので、てっきり引受人を断って解決したものと思い込んでいた。
「アパートを? 田畑さんが?」
「お前知らんのか? 暢気でいいなぁ。役所へ出かけて相談したそうだ。それで、引越しをさせるのがいいだろうって相談が煮えたそうだぞ。じゃないと、お前みたいなのはワルに利用されちまう」
知らない、そんなことをしてくれているなんて、全然知らない。
「実言うとな、俺もさんざん世話になったんだ。頭上がんない人だ」
残ったジュースを飲みきって、社長が言葉を継いだ。
「そういうことは絶対に言わない人だ。うちの若いのも大なり小なり世話になって、飼い馴らされちまってる。お前も惚れると思うぜ」
それきり口をつぐんでタバコをふかしていた。
その日の夕方から降り出した雨は、夜半には本降りとなり、明日は休みと連絡があった。
生憎の雨というより、俺にとっては久しぶりの休日をもたらしてくる恵みの雨だ。安心して朝寝をきめこんだ俺は、さすがに昼前には寝ていられなくなり、ぶらぶらと駅前へ出かけた。そこへ行けば、何軒かのパチンコ屋が出玉を競っていたからだ。その道すがら、携帯が鳴った。
見慣れぬ電話番号だったが、相手は門馬の弟だと名乗り、奴の様子を知りたいという。
さすがに断ろうとしたのだが、それなら自宅へ出向くと言う。それだけは困るので、駅前の喫茶店で待ち合わせることにした。
一時間ほど話しただろうか、弟は予定があるらしくソワソワと席を立った。そのとき、弟の電話が鳴った。暫くやり取りをしていた弟は、急用ができたのだがと申し訳なさそうに相談をもちかけてきた。顧客の水道が噴き出したので、すぐに修理に行かねばならなくなったのだそうだ。が、間の悪いことに、別の客先に忘れ物を取りに行く約束があるという。そこで、ただ受け取るだけでいいからと、俺に五千円札を握らせた。
どうせ暇つぶしに出てきただけだし、事情もわかった。金を握ってしまったから無下に断ることもできず、これきりで関係を絶つことを条件に、俺はそれを引き受けた。落ち合うのは二時間後ということだった。
教えられた家で、俺は何の不審も抱かずに紙袋を受け取った。大事なものですからと心配そうな老婆に頷いてみせた俺が中を覗いてみると、かなり厚い茶封筒が入っている。老婆がしきりと息子を気遣うことを奇妙には思ったが、調子よくその場をごまかすのは得意なものだ。何も心配することはないからと老婆を安心させた俺は、通りに出たところで男に呼び止められた。気がつけば何人もに取り囲まれている。そして全員が、俺がもっとも嫌いな臭いをプンプンさせていた。
洗いざらい正直に話したのに、許してくれるような奴等ではなく、ようやく俺は、落とし穴に嵌ったことに気付いたのだった。
おわり