1.
溜まった。
溜まってしまった。
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異世界トリップ、と言ったが。
まだ異世界と決まったわけではない。
もしかすると隆司が気付かぬうちに気を失ってこの場に連れて来られたのかもしれない。
しかし、もう一度確認しようじゃないか。
今の隆司の恰好は、エプロンと右手に包丁。
運んできた誰かがいると仮定しようとすると、意図が全く分からない。拉致してきた人間に武器を持たせてどうするのだろうか。それにエプロンだとか。締まらなさすぎる。
それに、隆司はまだその左手に触れていた生々しい感触をありありと思い出せる。
若鶏の感触。
折角、唐揚げをつくろうとまな板に置いたところだったのに!
誰かに拉致されたにせよ、時空の歪み的な何かが原因だったにせよ、隆司の心は荒れ狂っていた。
腹は減ったし、ここがどこかも分からない。
遭難したときは一カ所にいた方がいいらしい、との知識が脳裏をよぎったがすぐに切り捨てた。
遭難したわけじゃない。気付いたらここにいたのだから、待っていたところで誰の迎えがあるというわけではない。
それよりも何よりも腹が減った。
餓死してしまいそうだ。
そんなわけで森を暫くの間彷徨ってみた隆司。
異世界説に信憑性が増してきた。
蔦は暴れ回っているし、植物は闊歩しているし、何やら飛んでくる虫は無駄にデカい。
虫を食す文化はいくらグルメな隆司でも、純日本文化に染まった人間には踏み込めない領域であった。
そこで何となく理解した。異世界の冒険もので飛び回る小さい虫の描写がないのは、虫がデカいからだろう、と。
暴れ回っていた蔦は千切ってみたが、紫色の何かが出てきた。
食べる気が失せた。
紫色の食べ物で許せるのはサツマイモだけである。茄子は頂けない。
自称美食家の隆司の非常に少ない嫌いな食べ物だ。
否。
隆司に言わせてみれば、茄子など食べ物ではない。あんなもの、年に一度帰ってくるじいちゃんの乗り物である。
ぶにょりとした食感、口に残る特徴的な風味。
許せない、あれが入っているだけで味噌汁が支配下に置かれる。通称味噌汁殺しが起きる。
考えていたらムカついてきたので、思わずめったぎりにしてしまった。
動き回る花に至っては、近付く前から悪臭を放っていた。納豆と腐った卵を混ぜて発酵させたような臭いだ。あんなもの嗅いでしまっては、美食家の命たる鼻がひん曲がってしまう。
隆司は即決でそそくさと逃げ出した。
まあ要するに隆司の知らない動植物にたくさんお目にかかれたのだ。
単にまだ発見されていない新種なだけかもしれないが、それにしたってあの蔦の動きはいくらなんでも非科学的だと思う。
そんなわけでこれは異世界トリップというやつなのだろうと隆司はあたりをつけた。
だからと言って、何かが変わるわけではないが。
何よりも食糧である。
ぎぶみー食糧ず状態である。胃が悲鳴を上げているのである。
空きっ腹はすでに暴れまわることも諦めたらしく、ねちねちじわじわと内側から少しずつ溶かしていく戦法にかえはじめた。
大体、なんだというのだ。
これだけの動植物にエンカウントしているわりに、一つも食えそうにないじゃないか。
「…ちっ」
そんなことを考えていると、今度は巨大キノコが隆司に襲いかかってきた。ちなみにその傘は赤の地に、白い斑点である。
明らかに毒を持っていらっしゃる。
「……はあ」
深い溜め息を吐き出して、自分の身の丈の二倍はありそうなキノコを包丁で真っ二つにする。
包丁のポイントは押すではなく、引く、だ。
綺麗に切れたキノコを後ろ手に見やって隆司はポツリ。
「……ソテーにしてえ」
傘の色を見なければ、キノコは巨体に見合わずきめ細かで柔らかな身で美味しそうなものであった。
名残惜しそうな目を一瞬してから、また歩きだす。
虫や植物だ。殺すことにこと罪悪感があるわけではない。しかし、隆司とて何も好き好んで殺害しているわけではないのだ。
この世は、弱肉強食。
最も分かりやすく、最も本質を射抜く自然界の摂理である。
それに従って彼らは隆司を襲っているわけであり、弱者を食にできないのは何とも申し訳ない気分になるのだった。
何だかこの森は食せそうなものがいなさそうだ。
そう思い至ると、隆司は一気にやる気が萎んだ。
この森で食料を調達をするのは諦めて、ここを抜けて人里か、まぁとりあえず現地人を捕まえよう。
そうすれば、ここが異世界かもわかるし、何より食料が確実に得られそうだ。
そう決めたところで、包丁右手に、左手をエプロンのポケットにしまって歩いていた隆司がふと立ち止まった。
「ん?」
すん、と鼻から空気を吸う。
少し悩んだかと思うと、隆司はスキップしそうな勢いで走り出した。
木々の間をぬって、200mほど爆走したころだろうか。
隆司がまた急に立ち止まった。
顔には、今までのやる気という気がすべて抜けきったような表情は何だったのか、と言いたいくらいの笑顔を浮かべている。
「食料きたー!やっぱな〜、匂いがしたんだよ!」
思わず叫ぶ。
森に入ってから独り言が多い気がするが、気にしたら負けだと隆司は考えることは止めた。
黙ってこんなところにいたら発狂しそうである。
どれだけの嗅覚を持っているんだ、などというツッコミは受け付けない。
何度も言うが、隆司は美食家なのだ。少なくとも、本人はそう思っている。鼻は美食家の命なのである。
とろけそうな笑顔をして視線を上に向けた隆司。荘厳な大木が、どこからか吹いてきた風に揺れる。葉がすれて、さわさわと鳴らす音は、ここが鬱陶しいくらい鬱蒼とした森だと言うのを忘れさせてくれるくらい、清々しいものであった。
隆司はその大木に向かって駆け出すと、その太い幹にぶつかる寸でのところで飛び上がった。
そして、幹を思いっ切り蹴ると、その勢いのまま先程見上げていた枝に向かって手を伸ばした。
すたっ、と軽やかに着々した隆司の手には戦利品が握られていた。
――真っ赤な林檎。
すぐさま右手の包丁でショリショリと林檎を向き始めた隆司の機嫌は驚くくらいに良い。
何はともあれ、異世界に来てからの初の食事である。
勿論、林檎は可愛いうさちゃん派だ。
うさちゃんの鼻から一口に食べると、口いっぱいに甘さと爽やかさが広がる。林檎特有の香りが鼻に抜ける。ミツマキリンゴだ、素晴らしい。
隆司は満足げに頷くと、また飛び上がった。
ひとまずの食料は手に入れたが、目的は先ほど決定している。
とりあえず林檎を持って、この森を抜け出そう。
抱えきれる限界まで林檎を集めた隆司は、エプロンのポケットからナプキンを取り出すと包丁に巻いてそのまま包丁ごとポケットに締まった。
両手は林檎のためにある。
片手で林檎を丸かじりしながら、隆司は再出発するのであった。
◆
それから隆司は2時間ほど森をうろついていた。何を目標に、と問われれば、頼るべくは勘のみである。
いいかげん飽き飽きしていたころだ。視界の遥か向こうにチラリと自然的でないものが映った。
「ん?」
目を凝らせば、向こうはどうやら砦のようになっているではないか。
それにチラリと映った何かは金属のようであった。砦の途切れた門のようなところに人型の金属が見える。
なるほど門番的なやつだろう。金属はプレートメイルとかいうやつなのだ、きっと。
やっと見つけた文明の兆しに隆司は意気揚々と歩き出した。
「こんにちは」
機嫌よく挨拶する。
「おう、こんにちは」
つられて挨拶しかえした男。そして振り返った騎士的な男は頭までは鎧で覆っておらず、30代前半であろうその顔に疑問を浮かべた。
「お、お前」
「はい?」
不躾な視線をぶつけられても隆司は気にしない。今はそれほどに機嫌がいいのだ。
「お前、いまここから出てきたか?」
「あ、はい。……駄目でしたか?」
さすがに不安になったらしい。隆司が食い下がった。
面食らった門番は少し引き気味に言葉を紡ぐ。
「ぼ、冒険者でもねえと危なくて通せねえよ。お前、そんな軽装備で、冒険者じゃねえだろ」
ふむ、と隆司は顎に手を当てた。
「それは犯罪で?捕まってしまいますか?」
恐る恐る尋ねる。
「いや、それは違うけどな――…」
「よかった!」
男の言葉を途中で遮って隆司は喜んだ。
それほどに嬉しかったのである。異世界トリップ初日で投獄だとか笑えない。どんなバッドエンドだと恨みたくなるだろう。
「よ、よかったってなお前。ここから先は危険地域だぞ、ウネルツタやらギガバグやら襲ってくる――って、それクインズジェラシーじゃねえか!?」
説教たれようとした門番は途中でなし崩し的に隆司に駆け寄った。そしてあろうことか、そのまま隆司の腕の中に抱えられいた奴らを投げ飛ばしてしまった。
「――へ?」
突然のことに隆司はポカンとしてしまう。
何だろうこのひとは。
頭が可笑しいひとなんだろうか。
ついつい変な目を向けてしまう。
隆司の可愛い子供たちが何をしたというのだろう。
頭が可笑しいひとだと言えど、食べ物を粗末にする奴は許せなかった。
隆司の目に怒りが浮かぶ。
そんな隆司の漏れ出る殺気に気がついた哀れな門番の彼は顔を真っ青にして詰め寄った。
「まっ、待ってくれよ!もしかしてアレをウドゴだと思ってる!?」
ウドゴ。
ウドゴ?隆司の頭の上に一瞬浮かび上がったハテナマークがピンと電球に変身した。
なるほど林(wood)檎か。
「え、違うんですか?」
「ばっか言え!ありゃ毒ウドゴだ、喰ったら永眠だぜ」
男がやっぱりと言った様子で声を張り上げる。
隆司は首を傾げることとなった。
「でも俺、もうさっき食べたんですけど」
ちょっとと言わずバクバクと。
そんな隆司の言葉を理解できないように門番は固まってしまった。
きっと門番さんの勘違いだろう。
ジト目で見る隆司にはっとした門番は何やら門の中に入っていくと暴れまわる植物を手に戻ってきた。
「なにそれ?」
気持ち悪い。
植物の葉を握った男の手の下で蠢いている根っこには顔のようなものがある。
男は呆れたような顔で答えるとそのまま先ほど投げ出したウドゴをそいつに食わせた。
「子マンドラゴラだ」
うごうごとのた打ち回った子マンドラゴラは、3秒ほどでその生に幕を閉じた。
「……えっ」
男の困惑した声が、門の前に響いた。
シェークスピアの肖像画にショックを受けました。
どうでもいい報告、以上。