箱
分かりやすさとは麻薬であり、箱である。
電車で、バスで、街中で、彼らはしきりに箱を覗き込んでいる。それが何らかの儀式に思えて仕方がない。
自由と時間と愛を供物に捧げ、箱から漏れ出る光を貪るように眺める。まるで何かを召喚しようとするみたいに。敬虔で熱心な信者のようである。どこかに祈りでも捧げているのだろうか。
ふと気づいたのだが、こうも言えないだろうか。
彼らはそれらを覗き込もうとしてるのではなく、あれらを覗き込まないようにするために、必死に箱に頭を突っ込んでいるのだと。
彼らは恐れからすぐ真横にある箱を覗き込まないように必死で目を逸らしているのかも知れず、それらは特有のポーズであり、頭隠して尻隠さずのように尻だけが露わになっているのに過ぎないのだと。
彼らは何かの中毒なのではなく、それ以外の選択肢が与えられていないのではないか。つまり、彼らは自ら望んでそうなっているわけではなく、半ば強制的に対外的なシグナルを飛ばす中継点としてそう振る舞っているに過ぎないのだと、そんな気もしてくる。
そこに我々の慮るような自由は存在せず、足枷を引きずるようにのろのろと這うゾンビのような群れがいるだけなのだと。
スマホは、文明の利器は、「箱」なのだろうか?
彼らは分かりにくさから逃れるために、嫌なことを忘れるために、逃避するために、分かりの良い箱に殺到するのだろうか。
あるいは、身の毛もよだつような怪物から一時の間だけでも恐怖を忘れられるように、防御的な反応を示しているだけに過ぎないのだろうか。しかし……この表現もしっくり来ない。夢遊病のようにのほほんとしているからだ。では、分かりにくさという怪物が跋扈している現実から逃避するために、箱に閉じこもっているのではないとしたら、彼らは一体どのようなシグナルを身体全体で標榜しているのだろうか。
あるいは……
私がうっすらと箱が嫌いなのはそれが故である。そこから、嘘を嘘で塗り固めたような胡散臭い香りが漏れているように感じられて仕方がない。
とにかく嘘くさいからだ。何となく。でも嘘ではないだろう。決して。嘘ではないのだ。
ある人にとっては嘘であることも別のある人にとっては嘘ではないし、ある人にとって箱であることも別のある人にとっては箱ではないのだから。
だから、写真は、一回きりのものであるはずの写真は、幾度となく立ち現れるのだろうし、幽霊にはいつも足がない。
幽霊は箱だった。何とも味気ないことに。それらは都合の良い箱に詰められて登場するしかないのだし、きっと幽霊自身もぷかぷかと浮かんでいることを望んでいるのだろう。望……んで?
あぁ、箱が浮いている。
いつもそうだ。こういう段になるとふわふわと浮き始めて収集がつかなくなる。
浮いている? 泣いているの間違いでは? いやはや、ひしゃげているのでは?
箱から足が出ていようが、棘が突き出ていようが、ともかくそれは箱だった。それが現実に何か危害を及ぼさない限りそれらはいつまでも箱なのだ。
罪。罪。罪。
箱の中には何もなかった、と言ってもただの狂人扱いされて終わりだろう。箱の中にはありとあらゆる願望が詰まっているのだからそれが空っぽなはずがない。……はずがないのだ。
人はあらゆる箱の中に閉じこもって何をしようというのだろうか? とにかく人生は箱じゃないし、私も箱ではない。
しかし、それらが箱であることを誰もが望んでいるし、そうであることを誰もが認めているのだ。だから、それを箱と呼ばずして何を箱と呼ぼう。
最も箱であることを望まれているものが、最も箱から遠い。
箱




