37話「風」
1日1〜2話を目標に執筆できればと考えています。
陽が少し高くなり始めた頃、
訓練を終えた三人は短い休憩を取っていた。
草原の端、焚き火の跡のそばに座り、
リーネは槌の柄を布で拭っていた。
釘を打ち込んだ回数が数えきれないほど多く、
手のひらは赤く、少しだけ皮が硬くなっている。
「ほんとに……昨日より手が痛くない気がする」
「慣れってすごいね」
セリアが笑いながら、水袋を差し出す。
「無理しないで。釘を打つ手って、意外と細かい力が要るでしょ?」
「うん。でも、スコルさんの言った“支点を意識しろ”って意味、やっと分かってきたかも」
少し離れた場所で、スコルは荷をまとめていた。
焚き火の灰を掻き、残った木片を足で埋める。
太陽の光が外套の肩を照らし、斧の刃が一瞬だけ鈍く光った。
「支点ってのは、腕でも槌でもねぇ」
「え?」
リーネが顔を上げる。
「心だ。焦って打てば釘は逃げる。落ち着けば真っすぐ入る」
「……そういうことかぁ」
「戦いも同じだ」
「スコルさんの言葉、時々格言みたいですね」
セリアがくすっと笑い、リーネも頬を緩めた。
スコルは特に反応を返さず、布袋を締めながら言った。
「笑ってる暇があるなら荷をまとめろ。昼には丘を越える」
「は、はいっ!」
二人は慌てて寝袋を畳み、釘や工具を布に包む。
風が少し強くなった。
草が擦れ合い、地平の方から乾いた音が流れてくる。
朝の湿気が抜け、日差しの角度が変わり始めている。
荷を背負い、三人は野営地を後にした。
踏みしめる草が陽に照らされ、淡く金色に輝く。
リーネは肩の重さを感じながらも、どこか晴れやかな表情だった。
「サーブルまでは半日くらいだっけ?」
「平原を抜ければ見えてくる」
スコルが前を歩きながら答える。
「この辺りは風が道を作る。草の流れを見て歩け」
「風が道を……?」
「強く吹く方角は踏み跡が残る。旅人も魔獣も、同じ風を選ぶんだ」
セリアが小さく頷く。
「じゃあ風を読めば、迷うことはないんですね」
「そうだ。だが油断するな。風は気配も運ぶ」
「……気配?」
「生き物の臭いだ。草に残る、息の跡みてぇなもんだ」
スコルの言葉に、リーネは何気なく鼻を鳴らす。
乾いた風の中に、ほんのわずかに湿った匂いが混じる気がした。
それが動物のものか、風のいたずらかは分からない。
けれど、少しだけ背筋が伸びる。
丘の斜面に差しかかったころ、太陽は真上に近づいていた。
リーネは額の汗をぬぐいながら見上げる。
緩やかに続く丘の上には、空が広がっていた。
薄く霞がかかり、遠くに白い雲がいくつも浮かんでいる。
「うわぁ……これ、登るのけっこうきついかも」
「訓練の後だからね。体が少し重いのかも」
セリアが微笑みながら、手を差し伸べた。
「でも、風が気持ちいい。丘の上はきっともっと涼しいよ」
リーネは息を弾ませながらも笑った。
「うん、登りきったら――お昼にしよう!」
「おい、まだ昼じゃねぇ」
「えぇー!? もうお腹空いたんですけど!」
スコルが小さく息を吐いた。
「先を見ろ」
三人が登りきった丘の頂には、見渡す限りの草原が広がっていた。
風が丘を越えて吹き抜け、草の波を作る。
一面の緑が陽を受けて光り、風が通るたびに形を変えてゆく。
リーネは思わず立ち止まり、息を呑んだ。
「……すごい……!」
「きれい……」セリアも小さく囁く。
スコルは少しだけ目を細め、風上を見つめていた。
「風が変わった。丘を抜けた証拠だ」
「変わった?」
「さっきより乾いてる。地の匂いから草の匂いに変わった。
もうすぐ平原の真ん中に入る」
リーネは風の中で髪を押さえながら笑った。
「風の匂いまで分かるんですね、スコルさん」
「風は嘘をつかねぇ。空の流れも草の音も、全部が教えてくれる」
セリアは少し考え込むように空を見上げた。
「じゃあ……この風が気持ちいいのも、きっと意味があるのかな」
「意味?」
「うん。何かを始めるときの風って、ちょっと特別だから」
「へぇ……なんかロマンチックですね」
リーネが笑い、セリアも照れくさそうに頬を染めた。
スコルは無言のまま斧の柄を軽く握り、草原を見渡した。
風に揺れる草の中に、ほんの一瞬だけ違和感があった。
草の流れが不自然に乱れ、短く逆立つ。
「……風下に何かがいるな」
「えっ?」
リーネとセリアが同時に振り向く。
しかしスコルは首を横に振った。
「まだ遠い。気にするな。昼までに草原を抜ける」
三人は再び歩き出す。
風が背を押し、草の音が遠くで鳴った。
その音がただの風音なのか、それとも別の何かの足音なのか――
今の彼らには、まだ分からなかった。
草原の空気が、ぴんと張り詰めた。
セリアが目を細める。リーネも、槌を握る手に力を込めた。
風の音が止まり、どこかで乾いた音がした。
「……いる」
リーネの声に、スコルが短く頷く。
「無理に探すな。流れを感じろ」
それだけ言って、スコルは一歩下がった。
視線は前を向いたまま、二人の背を静かに見守っている。
次の瞬間、草が弾けた。
黒い影が地を滑るように現れ、鋭い爪が陽をはね返す。
スラッシュハウンド。二体。
風の切れ目から滑り込むように、一直線に迫ってきた。
「セリアさん、右!」
「はい!」
リーネが釘を放ち、セリアが影を伸ばす。
金属の音と低い唸りが交差し、地面に光る線が走る。
風を切るような動きの速さだったが、二人の視線はぶれなかった。
リーネは槌を振り下ろし、一本の釘を撃ち込む。
跳びかかった獣の前脚が釘に当たり、わずかに体勢を崩す。
その一瞬を逃さず、リーネが踏み込んだ。
「もう一発!」
重い音が草の中で響く。
獣の身体が地に叩きつけられ、静かに動かなくなった。
「左は抑えました、リーネさん!」
セリアの声。振り返ると、影の帯がもう一体の脚を絡め取っていた。
黒い糸のような魔力が、獣の足元を固めている。
セリアが詠唱を終えると、影が地を這って形を変えた。
その影を引くようにして、獣の動きが止まる。
「今です!」
「任せて!」
リーネが駆けた。
息が速くなる。腕が重い。けれど、それでも止まらない。
槌を振りかぶり、全身の力をこめて一撃を放った。
鈍い衝撃が走り、空気が震えた。
スラッシュハウンドの身体が崩れ、草を押し倒す。
それきり動かなくなった。
息が荒い。
リーネは槌を支えながら、大きく深呼吸した。
セリアが肩に手を置き、穏やかに微笑む。
「落ち着いてましたね、リーネさん」
「セリアさんのおかげだよ。あの影、すごく頼りになる」
「あなたの槌も、音で流れを作っていました。……良い連携でしたね」
二人が顔を見合わせ、少し笑った。
少し離れた場所で、スコルが歩み寄ってくる。
斧は持たないまま、ゆっくりと二人を見た。
「……よくやった」
「ありがとうございます、スコルさん」
「見てて、少し冷や汗が出たけどな」
「ひどいなぁ」リーネが笑うと、スコルの口元もわずかに緩む。
「動きは悪くねぇ。風を読む力も出てきた。
でも、戦いが終わっても気を抜くな。どこかに群れが残ってるかもしれねぇ」
「はい」
「わかりました」
二人が答えた声が、草の揺れる音に溶けていく。
倒れたスラッシュハウンドの身体はそのまま残っていた。
毛並みの隙間に光が反射し、刃のような爪がきらめく。
リーネがそれを見つめ、少し息を吐く。
「……終わったんですね」
「ああ」スコルが短く返す。
「静かになった。風が戻ってきたってことは、もう危険はねぇ」
セリアが辺りを見回し、草原の先を指差した。
「サーブルの方角、あっちですよね」
「そうだ。夕方前には着ける」
スコルの言葉に、リーネが笑みを浮かべる。
「帰ったら……ちゃんと報告しなきゃですね」
「そうだな。素材もある。運ぶ準備をしろ」
リーネが頷き、セリアと一緒に動き出す。
その背中を、スコルは静かに見送った。
草の音が優しく耳に届く。
陽の光がゆるやかに降り注ぎ、空は青く広がっていた。
草原に、静けさが戻った。
誤字脱字はご容赦ください。
時間を見つけて訂正していこうと思います。




