32話「夢」
1日1〜2話を目標に執筆できればと考えています。
夜の帳がサーブルの街を包み込んでいた。
宿の窓から差し込む月明かりが、静かな部屋の床を淡く照らしている。
ベッドの上、リーネは目を閉じたまま、深く息を吐いた。
枕元には、丁寧に磨いた槌。
明日の訓練に備えて、すべての準備は整っている。
それでも――心だけが落ち着かない。
――スコルの声が、耳の奥で反響する。
「今のままじゃ、旅なんかしたらすぐ死ぬぞ」
その言葉が胸に突き刺さったまま、抜けなかった。
冷たくも現実的な忠告。冗談でも脅しでもない。
命のやり取りを知る者だけが持つ、真実の重み。
(……すぐ死ぬ、か)
リーネは小さく息を吸い、布団をぎゅっと握る。
努力してきたのに、まだ足りない。そう言われたようで、悔しさが滲む。
けれど、それ以上に――胸の奥で、燃えるような想いがあった。
(怖いけど……それでも行きたい)
(もっと強くなりたい。あの人たちみたいに)
ゆっくりと意識が沈んでいく。
眠気とともに、世界の輪郭がぼやけ、音も遠のいていく。
やがてリーネの呼吸は穏やかになり、まぶたの奥が光を帯びた。
――そして、夢を見た。
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乾いた風が吹き抜ける。
赤茶けた草原、割れた大地。
どこまでも広がる空の下で、リーネは立っていた。
足元の岩がひび割れ、風が砂を運ぶ。
手には重い槌。掌に食い込むほど強く、柄を握りしめている。
「……ここは……?」
息を飲んだ瞬間、地響きが走った。
前方の丘の影から、獣の群れが現れる。
黒い毛並みと赤い瞳――ロックハウンド。
牙を剥き、唸りながら低く身を構えていた。
「リーネさん、構えて!」
鋭い声が風を切る。
振り返ると、少し離れた場所でセリアが本を開いていた。
その指先が淡く光り、ページの文字が宙に浮かぶ。
隣では、スコルが斧を肩に担ぎ、視線を前に据えていた。
「後ろは任せろ。お前は前を見ろ」
短く、確かな声。
リーネは頷き、喉の奥で唾を飲み込む。
鼓動が速くなる。けれど、不思議と怖くはなかった。
風が唸り、砂が舞う。
――次の瞬間、獣たちが一斉に駆け出した。
「行くよ!」
リーネは叫び、槌を構えて前へ踏み出す。
一体のロックハウンドが牙を剥き、跳びかかってくる。
反射的に身をひねり、腰を落としながら振り抜いた。
「はあっ!」
鈍い衝撃が全身に響く。
巨体が横へ弾かれ、地面を転がった。
砂と血が舞い、空気が震える。
「ナイスだ、リーネ!」
「まだ油断しないで!」
スコルの声が響き、セリアが詠唱を始める。
彼女の開いた本のページから、黒い光が溢れ出した。
風に溶けるように低く呟かれる声――
「影よ、形を得て、敵を断て……」
地面を這う影が獣の足元に集まり、鎌のように鋭く裂けた。
獣たちが咆哮を上げ、進行が止まる。
その一瞬を逃さず、スコルが突っ込む。
「ふんッ!」
地面ごと叩き割るような斧の一撃。
衝撃波が走り、二体のロックハウンドが崩れ落ちた。
「今だ、押せ!」
「任せて!」
リーネはその隙を突き、前へと踏み込む。
振り上げた槌が風を切り、獣の頭部を叩き砕いた。
鈍い音。
骨が砕け、血が砂に散る。
腕が震える。それでも止まらない。
「こっちだよ!」
叫びながら体を回転させ、二撃目を放つ。
鉄が肉を裂き、響く音が耳を打つ。
「後ろ、来ます!」
セリアの声に、リーネが振り返る。
別の個体が背後から跳びかかってきていた。
(間に合わない――!)
咄嗟に構えようとした瞬間、鋭い金属音が鳴り響く。
スコルの斧が獣の牙を弾き、火花が散った。
「甘ぇぞ、集中しろ!」
「っ、ありがと!」
「礼は後だ、まだ終わってねぇ!」
スコルが斧を振り抜き、リーネがその隙に叩き込む。
獣が呻き声を上げ、砂埃を巻き上げて倒れた。
「残り……まだ四体!」
「下がって!」
セリアが本のページを勢いよくめくる。
低い詠唱が、風に混じって響く。
「――闇よ、縫い止めよ」
地面に落ちた影が蠢き、黒い蔦のように獣の足を絡め取った。
その一瞬の隙を、リーネが逃さない。
「はあああっ!」
槌が唸りを上げ、閃光のような一撃が放たれる。
頭蓋が砕け、血飛沫が陽光を弾いた。
息が荒い。足が重い。
それでも――止まれなかった。
「まだいける……!」
歯を食いしばり、リーネは再び槌を構える。
だが、次の瞬間――風が変わった。
草原を渡る空気が、急に冷たくなる。
背筋に寒気が走る。
――何か、来る。
丘の向こう。
黒い影がゆらりと立ち上がった。
体格も、気配も、まるで“主”のような圧。
スコルが低く唸る。
「……ボスか」
「リーネさん、下がって!」
「ううん、大丈夫! 一緒に行く!」
声が風に溶け、草が波打つ。
巨大なロックハウンドが咆哮を上げ、地を震わせながら突進してきた。
リーネは槌を構え、地を踏みしめる。
心臓が跳ね、視界が狭まる。
全身の神経が――ただ“一撃”に集中する。
スコルが右に回り込み、セリアの影が伸びる。
リーネは正面から――真正面から、それを迎え撃った。
「うおおおおっ!!!」
槌と牙がぶつかる寸前、衝撃の風が爆ぜた。
砂塵が巻き上がり、音が弾ける。
世界が、光と闇の閃光に包まれる。
――そして、戦いはまだ終わらない。
リーネは歯を食いしばり、獣の巨体に再び立ち向かう。
夢の中の戦場で、彼女はただひたすらに――戦っていた。
その叫びも、息も、すべてが風に溶けていく。
−−−
砂塵の中、リーネは歯を食いしばりながら踏ん張っていた。
巨大なロックハウンドが牙をむき出しにし、地を裂くような咆哮を上げる。
その息には焦げた鉄の匂いが混じり、全身の毛が逆立つような殺気が漂っていた。
「来るぞ!」
スコルの声が響く。
その直後、地面を叩くような衝撃。
ロックハウンドの爪が砂を掻き、稲妻のような速さで迫ってくる。
リーネは体をひねり、槌を構えて受け止めようとした。
だが、重い。速い。
衝撃に押され、足元の地面が割れる。
「くっ……!」
体が吹き飛ばされ、背中が岩に叩きつけられた。
肺の空気が一気に抜け、視界が白く染まる。
手から滑り落ちた槌が、乾いた音を立てて転がった。
(まずい――!)
目の前で、獣がゆっくりと口を開く。
赤い瞳が闇の中で燃えるように光っていた。
その奥から漏れる熱気が、肌を焼くほどに熱い。
――動け。
心が叫ぶ。
けれど、身体が言うことを聞かない。
「リーネさん!」
セリアの声。
けれど、音が遠い。
砂の音、風の唸り、血の鼓動――すべてが混ざって、世界が歪んでいく。
ロックハウンドの牙が閃いた。
夜の光を反射し、鋭い白刃のように迫る。
その瞬間、リーネは本能的に腕を上げた。
防御にもならない。
それでも、動かずにはいられなかった。
――死ぬ。
そう思った、まさにその瞬間。
眩しい閃光が走った。
それは、セリアの詠唱の光でも、スコルの斧の火花でもなかった。
世界そのものが、ひび割れる。
砂が光に変わり、風が凍りつく。
音が消え、色が溶け、獣の姿が霞む。
リーネは息を呑んだ。
何かが崩れていく――足元から、現実そのものが。
「えっ……なに、これ……?」
重力が失われ、身体が宙に浮かぶような感覚。
目の前で、ロックハウンドの姿が揺らめき、闇に溶けていく。
代わりに、淡い光の粒が舞い、耳の奥で自分の鼓動だけが響いた。
――カタンッ。
次の瞬間、リーネの視界がひっくり返る。
身体がぐるりと回転し、何か柔らかいものにぶつかった。
「っ、いたっ!!」
鈍い衝撃と共に、視界が戻る。
そこは――宿の部屋。
床に転がり、掛け布団の端を掴んだまま、リーネは目を瞬かせた。
頬には冷たい木の感触。
耳には、夜の静寂。
「……ゆ、夢……?」
しばらく息が乱れたまま動けなかった。
心臓が暴れるように脈打っている。
腕も脚も、まだ戦っていた時のように震えていた。
「……はぁ……はぁ……もう、びっくりしたぁ……」
額の汗をぬぐいながら、リーネは壁にもたれかかる。
窓の外では、月が穏やかに光っていた。
その静けさが、現実の証のように感じられる。
「夢……だよね、あれ」
小さく呟く。
けれど、まだ胸の奥では、あの戦場の熱が消えない。
獣の咆哮。
スコルの声。
セリアの詠唱。
すべてが、まるで今この瞬間まで本当に起きていたかのように、鮮明だった。
「……殺される、かと思った」
手のひらを見つめる。
小刻みに震える指先。
けれど、その中には、恐怖だけでなく、確かな“何か”があった。
(怖かった。でも……逃げなかった)
リーネは深呼吸をし、布団の上に座り込んだ。
心臓の鼓動が少しずつ落ち着いていく。
夢の中で見た自分――
それは、怯えていない自分だった。
痛みも恐怖も、ちゃんと感じながら、それでも前に出た。
(……あんなふうに、なりたい)
窓から入る夜風が、頬をなでた。
月明かりに照らされた部屋が、ぼんやりと輝いて見える。
リーネは立ち上がり、落ちた槌を拾い上げた。
磨き上げた鉄の表面に、月の光が淡く反射する。
それを胸の前に掲げ、静かに呟いた。
「……もっと強くならなきゃ」
その声は、夜の静寂の中に溶けていった。
どこかで鐘が鳴る。
日付が変わる音のように、遠くから響く。
リーネは再びベッドに腰を下ろし、布団をかぶる。
けれど、もう眠気は来なかった。
月の光がゆらめく天井を見上げながら、
彼女は静かに、心の奥で決意を固めていた。
――あの夢は、きっとただの幻じゃない。
自分に必要な“何か”を見せてくれた。
(怖がるだけの私には、もう戻らない)
その想いを胸に刻みながら、リーネは目を閉じた。
夜の静けさが、彼女を包み込む。
眠りの中へと再び沈みながら、リーネの唇がかすかに動いた。
「次は……勝つ」
その言葉だけが、闇の中に響いた。
まるで月明かりに誓いを立てるように。
誤字脱字はご容赦ください。
時間を見つけて訂正していこうと思います。




