16話「泣き虫」
1日1〜2話を目標に執筆できればと考えています。
ギルドへ駆け込んだ夜から、一晩が明けた。
サーブルの街はいつも通り朝の喧騒に包まれていたが――その中で、ひとりだけ時間が止まっている少女がいた。
リーネは宿のベッドの上で、毛布を頭までかぶっていた。
何度も寝返りを打ち、何度も目を閉じようとしたが、眠れる気配はない。
頭の奥に焼きついて離れないのは、あの丘陵地帯での光景だった。
――黒い影の群れ。地響きのような咆哮。
――ガルドさんたちの背中。
――「走れ!」という声。
走りながら振り返った瞬間に見た、戦斧の残光。
それがずっと、目の裏に焼きついていた。
「……本当に、置いてきちゃったんだ」
声に出した瞬間、胸が苦しくなった。
悔しさも、恐怖も、全部ごちゃまぜになって喉の奥に詰まる。
宿の外からは、パン屋の鐘と子どもたちの笑い声。
その明るい音が、今の彼女には遠い世界のもののように感じられた。
「……でも、行かなきゃ」
そう呟き、リーネはゆっくり毛布をはねのけた。
ぼさぼさの髪を手で整え、重たい体を引きずるようにして立ち上がる。
床に置かれた槌に一瞬、手を伸ばしかけて――けれど、指先が震えて掴めなかった。
(……今の私が、これを握る資格あるのかな)
小さく息を吐いて、槌を置いたまま部屋を出る。
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その頃、サーブルの冒険者ギルドは静かな緊張に包まれていた。
夜遅くに届けられた報告書が、今も受付の机の上に広げられている。
「……やっぱり、間違いないんです。北丘陵で魔獣の群れが出たって」
ミリアが震える声で報告書を読み上げた。
彼女の隣では、記録員ハルドが黙ったまま内容を確認している。
その隣で、リスティアが腕を組み、眉間に皺を寄せた。
「群れの規模は三十から五十……。Hランクの冒険者が遭遇すれば即死です」
リスティアの声は低く冷静だったが、指先はわずかに震えていた。
「報告者は《リメナス》の二人だけ。……《ウルフバイン》は?」
ハルドの問いに、ミリアは唇を噛む。
「まだ、戻ってきていません」
沈黙が落ちる。
「……あの人たちは、逃げなかったのね」
ミリアの声が震えた。
ハルドはゆっくり頷く。
「その判断があったからこそ、今こうして情報が届いている。彼らの犠牲を無駄にしてはいけない」
リスティアが報告書を閉じ、立ち上がった。
「ギルドマスター・セリーネへ報告を。これは支部単位で処理できる案件ではありません」
「わかりました」ミリアが頷く。
「でも、その前に……《リメナス》を休ませてあげたいです」
リスティアは一瞬、表情を緩めた。
「そうですね。彼女たちは十分すぎるほどの働きをしています」
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ギルドの奥、執務室へと続く階段を上がるリスティアの背を、ミリアは不安げに見送った。
(どうか、みんな無事で……)
扉の向こうには、まだ報告を知らぬギルドマスター・セリーネがいる。
彼女の判断ひとつで、サーブル全体の対応が決まる。
ミリアは震える手を胸に当てた。
「泣いてる場合じゃない、よね……」
彼女は深呼吸をして、再びカウンターに向かう。
その時、扉が静かに開き、リーネの姿が現れた。
「リーネさん……!」
ミリアは思わず駆け寄った。
リーネは疲れきった顔をしていたが、その瞳には確かに“生きて帰ってきた者の光”が宿っていた。
「……おはようございます、ミリアさん」
「本当に……よく、戻ってきてくれました」
ミリアの目が潤む。
リーネは困ったように笑って、首を振った。
「……報告、ちゃんとできてましたか?」
「ええ、完璧です。あなたたちのおかげで、サーブルが一歩先に動けます」
「……よかった」
その言葉を聞いた瞬間、リーネの膝から力が抜けた。
ミリアが慌てて支える。
「リーネさん!」
「……ちょっと、安心しちゃって……」
その笑顔のまま、リーネは小さく息を吐いた。
ミリアはその手を強く握りしめた。
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ギルドの最上階――そこは通常、一般の冒険者が足を踏み入れることはない場所だ。
木製の重い扉の前で、リスティアは一度だけ深呼吸をしてからノックした。
「――入れ」
扉の向こうから落ち着いた声が響く。
執務室の中は広く、整理された書類棚と地図の並ぶ壁。
中央の机には、サーブル支部を統括するギルドマスター・セリーネが座っていた。
白銀の髪を肩でまとめ、静かな瞳がこちらを見据えている。
「……報告を」
リスティアが一歩前に出て、書類を机に置く。
「北丘陵にて魔獣の群れが確認されました。推定数、三十から五十。
報告者はパーティ《リメナス》。遭遇時、《ウルフバイン》が足止めに残り、未帰還です」
セリーネは黙って書面に目を通した。
長い沈黙のあと、深く息を吐く。
「……想定以上に早いわね」
「はい。ここまで大規模な群れは、過去十年でも前例がありません」
「この件、中央本部にも通達を。討伐隊を要請する準備を始めなさい」
「了解しました」
リスティアが一礼して下がると、セリーネは椅子の背にもたれかかり、
窓の外の灰色の空を見上げた。
「……北の封域、再び動くか」
小さく呟いたその声を、誰も聞き取ることはなかった。
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その少し後、セリーネの執務室にミリアが入ってきた。
「マスター、リーネさんたちが……」
「通して」
短く答えると、扉が開き、リーネとセリアが姿を現した。
リーネはまだ疲れの色を残していたが、真っ直ぐに頭を下げる。
「ご報告、遅くなりました」
「構わないわ。あなたたちはよくやった」
セリーネの声は穏やかだった。けれど、その眼差しには強い光があった。
「……《ウルフバイン》は、戻っていないのですね」
その問いに、リーネは唇を噛んで頷いた。
「はい……。私たちに“走れ”って言って……」
声が震えた。セリアがそっと肩に手を添える。
セリーネは静かに二人を見つめ、そして机の上の書類を指でなぞった。
「あなたたちがここにいること、それ自体が何よりの報告よ」
「……でも、私たちは何も……助けられませんでした」
「助けることだけが、冒険者の仕事ではないわ」
セリーネは目を閉じ、ゆっくりと言葉を続ける。
「生きて報告する者がいなければ、次の命も守れない。あなたたちはその役目を果たしたの」
リーネは俯いたまま、小さく息を吸った。
「でも……悔しいです。怖かったのに、何もできなくて……」
その声は、泣き出す寸前の子どものように震えていた。
セリーネは静かに立ち上がり、リーネの肩に手を置いた。
「――泣いていいわ」
「え……?」
「泣きたくなるほどの痛みを知った人間だけが、次に進める。
あなたのその涙は、逃げた証じゃない。立ち向かった証よ」
その言葉に、リーネの目からぽろりと涙がこぼれた。
セリアが慌ててハンカチを差し出す。
リーネは受け取り、震える手で涙を拭った。
「……私、もっと強くなりたいです」
「その想いがあれば大丈夫。あなたはもう、ただの見習いじゃない」
セリーネは優しく微笑んだ。
「リメナス…。その名に恥じない選択をしなさい」
リーネとセリアは顔を見合わせ、同時に頷いた。
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会談が終わり、二人が部屋を出たあと。
執務室には再び静寂が戻る。
セリーネは机に手を置き、深く息をついた。
「マスター……」
声をかけたのはリスティアだった。
「討伐隊の派遣について、北部からも確認が入りました。正式な調査隊が数日以内に到着するそうです」
「そう……ならば、サーブルはその準備に入って」
「はい」
リスティアが出て行ったあと、セリーネは窓の外を見上げた。
曇り空の下、街のざわめきが遠くから響く。
その瞳の奥には、わずかに不安の影が揺れていた。
「……この流れ、放ってはおけない」
小さく呟いたその声は、風の音にかき消されていった。
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その日の夕暮れ、リーネとセリアは再び宿の前に戻っていた。
街灯が灯り始め、空には早い星がひとつ瞬いている。
「リーネさん、少し元気出ましたか?」
セリアの言葉に、リーネは少し笑って頷いた。
「うん……。マスターの言葉、ちょっと沁みたな」
「ええ、私も。あの人、すごく優しかったですね」
「ね。……でも、次はちゃんと“泣かない”ようにしなきゃ」
「泣いていいって言われたばかりですよ?」
「うぅ……それは、そうなんだけど!」
二人の笑い声が、静かな夜風に溶けていく。
その先に待つ未来がどんなものであれ――彼女たちはもう、立ち止まることはなかった。
誤字脱字はご容赦ください。
時間を見つけて訂正していこうと思います。




