【第6章:力の覚醒】
【第6章:力の覚醒】
魔方陣は底無しだった。
落下する感覚に恐怖を感じ、私はリクの手を強く握る。
ドラゴンは、こういう時に登場して浮遊させてくれればいいのにと思うけれど、リクの手を握って底に落ちていく感覚は、不安のような安心のような、不思議な感覚だった。
ふいに、ぽんっという音でも発したかのような錯覚を感じ、空中に放り出された。だけど、仮にも元勇者の運動神経で、ぎりぎりのバランスで着地する。
私の横で、リクは頃τがていた。──雪の上に。
雪?
「氷結の山脈だよ。本に書いてある」
起き上がりながら、リクが言った。
《黒のクリスタル》は、大陸の北端に位置する「氷結の山脈」にあるらしい。ここは、一年を通して雪と氷に覆われた、過酷な環境の地だ。
「リク、寒くない?」
私は、リクに尋ねた。
リクは、厚手のマントを羽織り、白い息を吐きながら、答えた。
「ああ、大丈夫だよ。アリシアこそ、寒くないか?」
「私は、平気よ。……でも、リクは、寒さに慣れていないでしょう?」
「大丈夫だ。……それに、アリシアが隣にいてくれるから、心は温かい」
リクは、そう言って、私に微笑みかけた。私は、リクの言葉に、頬を赤らめた。
リクは、いつも、優しい言葉をかけてくれる。その優しさに、どれほど救われているだろう。
私たちは歩き出した。落下した場所は、氷結の山脈の真ん中で、上に登るにも下に降りるにも、大変な場所だ。幸い、雪はやみ、くもり空が広がっていた。これで晴れ空だったら、逆に雪崩を心配しないといけなくなる。
私たちは、慎重に歩みを進めた。道中は、決して楽なものではなかった。険しい山道を登り、深い谷を越え、時には、小物ながら魔物に襲われることもあった。雪の季節にだけ出現する、白く浮遊する魔物だ。雪の色にまぎれて視認がしづらいのが厄介。でも弱いので、適当にやっつける。
私たちは、決して諦めなかった。『影の暗黒竜』の活動を阻止し、この世界を守るという強い意志が、私たちを支えていた。
そして、リクの《癒しと時の魔法》は、私たちの旅を大きく助けてくれた。リクは、魔術師クロノアの元で修行した成果を、遺憾なく発揮していた。彼の癒しの魔法は、私たちの疲労を回復させ、怪我を癒してくれた。また、彼の時の魔法は、敵の動きをとめて、魔物との戦いを有利に進めてくれた。
リクは、本当に、素晴らしい支援者になった。私は、リクの成長に、心から感動していた。
やがて、洞窟にたどり着いた。空は、どんよりと曇ったまま、雪は積もってはいるものの、今はこれ以上降りはしなさそうだ。でも、視界はいまいちで、足元は滑りやすい。
「リク、気を付けて」
私は、リクに注意を促した。
「ああ、ありがとう」
リクは、慎重に歩みを進めていた。
この洞窟が目的地だと、史書に書いてあったのだ。
その時、洞窟の奥から咆哮が聞こえた。
「グォォォ…!」
目を凝らすと、巨大な魔物が、私たちに向かってきた。その姿はほぼ野生の熊なのだが、雪の世界の魔物の属性を引き継いでなのか、全身を白い毛皮で覆われ、鋭い牙と爪を持っている。目を凝らしてはみたけれど、そんな必要は本当はなく、暗闇の中での白の身体はとても目立つ。白というのは、保護色を狙ってじゃないのだろうな、などと考える余裕すらあった。
だがその目は、氷のように冷たく鋭く、私たちを睨みつけていた。
──雪山の白い魔物。
非常に強力な魔物として知られている。私が今まで戦ってきた魔物とは、比べ物にならないほどの力を持っている。
「リク、下がって!」
私は、リクを庇うように、前に出た。剣を抜き身にし、魔物に立ち向かった。
魔物は、鋭い爪を振りかざし、私に向かって突進してきた。
私は、魔物の攻撃をかわし、すかさず反撃する。
だが、魔物は、私の攻撃を正面からくらいながらも、ものともせず、さらに激しく襲いかかってきた。──強い!
私は、魔物の力強さに、驚愕した。かつての戦いと比べて、やはり魔物の強さが数段増している。このまま、危ない。私は、そう思った。
その時、リクが、私の前に飛び出した。
「リク──ッ!」
私は、思わず叫ぶ。リクは、魔物に向かって、杖を振り上げた。
「時の導きよ、癒しの光よ、我の元でその力を!」
杖から、まばゆい光が放たれた。光は、私を包み込む。体に力がみなぎるのを感じた。まるで、柔らかなベッドで思い切り睡眠をとったような。
そしてもうひとつの光は、白い魔物の巨大な身体を包む。魔物は動きをとめる。
リクの魔法──私を助ける、彼だけの力。
私は再び、魔物に立ち向かう。リクの魔法を受けた私は、以前よりも、はるかに力強くなっていた。何より、速度が違う。まるで止まっているかのように見える魔物の攻撃をやすやすと受け流し、鋭い剣技で、魔物を切り裂いていく。魔物は、私の攻撃に耐えきれず、悲鳴のような咆哮を上げて、地面に倒れ込んだ。
私は、息を整えながら、倒れた魔物を見下ろした。
──勝った。私は、安堵の息を吐いた。
リクが、私の隣に駆け寄る。
「アリシア、大丈夫か?」
リクは、心配そうに、私の顔を見つめた。
「大丈夫。リクのおかげよ」
「…良かった」
私がリクに感謝の気持ちを伝えると、リクは、安堵したように、微笑んだ。
魔物の身体を、帰路の邪魔にならないように壁沿いに移動させて、洞窟の奥に進む。
洞窟は、暗く、寒かった。壁や天井からは、氷柱が垂れ下がり、床は、氷で覆われている。私たちは、滑らないように、注意深く歩を進める。
曲がりくねる洞窟の中を歩き、何度目か数えられないくらいの角を曲がると、ふいに明るい空洞に出た。光だ。
ここが洞窟の最深部のようだった。
空洞は光り輝いていた。壁面から天井まで伸びた氷が、まるで宝石のように光り輝いている。天井のどこかから外の光が入って反射しているようだった。
そして空洞の中央には、巨大なクリスタルが、輝きを放っていた。黒の光──《黒のクリスタル》が目の前にある。クリスタルは、漆黒の闇をたたえており、不気味なオーラを放っている。
「あれが……」
私は、クリスタルを見つめ、呟いた。
「そうだ。あれを破壊すれば、『影の暗黒竜』の力を弱体化できる」
リクは、真剣な表情で、言った。
──その時、クリスタルの背後から、ざっという足音とともに、一人の男が姿を現した。
「よくぞ、ここまで来たな」
男は、黒いローブを身につけ、顔は、フードで隠れている。
「お前は?」
私は、男に尋ねた。
「お前らが『影の暗黒竜』のしもべのひとりと言えば、話が早いだろう。クリスタルを守ると同時に、これを破壊せんとする者たちを葬り去るためにここにいる──つまりお前らのことだ」
男は、低い声で、そう言った。
しもべ……だって?男の言葉に、身構える
男は、私たちに向かって、手をかざした。すると、男の体から、黒い煙のようなものが立ち上り始めた。黒い煙は、たちまち、洞窟全体を覆い尽くし、視界をゼロにする。
男の姿を完全に見失った。いや、まさか男が煙に変化したとでもいうのか?
「くっ!」
呼吸が苦しい。この煙をこれ以上吸うのは危険だ。
「リク?」
リクは杖を身体の正面に掲げ、目をつぶっていた。口の中でなにかをつぶやいている……呪文だ。
私は待った。いや、全身全力の感覚を鋭敏にさせて、リクの呪文詠唱を邪魔する攻撃があったらすぐに飛び出せるように身構えていた。
リクが目を開けた。ひときわ高く、杖を掲げる。
「刻、止まらんとす!」
え、時間が止まるってこと。……と思った次の瞬間、霧が晴れた。
「動なるもの、静にならんとす!」
そして、煙は地に落ちた。言葉のとおりだ。霧を作っていた小さな粒子が、動きをとめ、その結果地面に落ちたのだ。
私はあわてて自分の服に落ちてきた粒子を払い落とした。
これが、リクの魔法……。
彼は、魔術師クロノアの元で、厳しい修行に耐え、ついに、ここまでの力を手に入れたのだ。
「この魔法は?」
「時間を制御する魔法だよ。僕が教わったのは、基本的に時間を制御する魔術だけ。あとはそれの応用でしかないんだ」
「回復魔法は?」
「あれも結局本人の自己治癒能力を早回しして回復させているだけなんだ。だから回復能力が劣った老人になんかは、あんまり効かない」
「この敵も、時間を止めているだけ?」
「そういうこと。自分から煙になってくれたので、あとは煙の粒子の時間をとめてやれば、浮いていることができなくなって粉になって落ちる。種を明かせば簡単なことだね」
いやいや、簡単ではないと思う。リクはもはや、凡人の夫なんかではなかった。
「それで、この粉はどうするの?」
「時間がたてば時は動き出すようにしてある。それよりも、クリスタルをなんとかしよう」
私たちは、《黒のクリスタル》に近づいた。クリスタルは、依然として、不気味なオーラを放っている。
「これを破壊して……有利になるのかな」
「待って、リク」
私は不安に思っていることを言った。
「クリスタルが破壊されたら、そのことを『影の暗黒竜』はすぐに気づくと思うの」
「なるほどね。アリシアの言うことはもっともだね」
「誰にも知られずに、クリスタルの力を弱める方法はないかしら」
ふたりで頭をひねること、しばし。
リクが言った。
「こういうのはどうだい?まず、クリスタル周辺の時間の進み方を極端にゆっくりにするんだ」
「うん、それで」
「クリスタルの存在は消えない。だけど、もし『影の暗黒竜』がその力を頼ろうとしても、反応は信じられないくらい遅くなると思う」
「ここのしもべはどうするの?」
「そのまま戻るに任せるさ。クリスタルはそのままの場所に存在するんだし、痛い目にあったことをわざわざ『影の暗黒竜』に報告はしないだろう」
「いいわね。うん、いいと思う」
リクは、頷いた。杖をクリスタルに向けた。呪文の詠唱が始まる。
「《黒のクリスタル》を囲む、時の歯車よ……永遠に錆にまみれんとす!」
リクの杖から、まばゆい光が放たれた。
光は、クリスタルに命中すると、その周辺を取り囲み、光の皮膜を作った。皮膜は明滅した。鼓動のようだった。だが、その鼓動は徐々にゆっくりになり、しまいには動いているのかどうかすら分からなくなった。
「動いてはいるさ」
リクが言った。
「ただ、その動きは果てしなくゆっくりになった。人間の時間感覚では分からないくらいにね」
「人間の感覚……ってことは、違う感覚なわかるのね」
「そうだね。人間よりもはるかに長生きな生き物──たとえばドラゴンとかなら」
リクの言葉を肯定するかのように、彼の杖──その実態はグリーンドラゴンだ──は三度ほどぶるっと震えた。
私はたちは顔を見合わせて、同じタイミングで肩をすくめた。こういうところの気があるのは、夫婦ならではだわと、ちょっと嬉しくなる。
「リク、次の目的地は」
「もうちょっと史書を読み込まないとわからないな。どこかで休みをとりたいね」
「そうね……」
私たちは、洞窟を出て、山を下りた。再び、旅を続ける。次の目的地がどこになるか、少しの休息が得られば、それもはっきりするだろう。
私たちの旅は、まだ終わらない。私たちは、この世界を守るために、これからも、戦い続けなければならない。
リクと共に、未来へと歩みを進める。
そして、いつか、この世界に、真の平和をもたらすことを、心から誓っている。