【第2章:夫との旅の決意】
【第2章:夫との旅の決意】
夜明け前の薄明かりの中、私は荷造りをしていた。
普段使いの服、薬草、最低限の食料、そして、使い慣れた剣。革袋に荷物を詰め込みながら、私は複雑な心境だった。まさか、再びこの剣を手に取るときが来るとは。魔王を倒した後、私はこの剣を自分の中で封印していた。もう二度と、血で汚すことはないと思っていた。
でも、今は違う。
守るべきものがある。リク、そして、この村の人々。
彼らの笑顔を守るためなら、私は再び剣を取ることだって厭わない。
荷造りを終えたころ、リクが起きてきた。彼は寝る前に自分の荷物をまとめてしまっていた。彼の荷物は多くはなく、きっとこの村のこの家に、戻ってこれると信じているのではないかと思った。
まだ眠そうに目をこすっているリクを、からかうように言った。
「おはよう、リク。もう、出発の時間よ」
「おはよう、アリシア。もう、そんな時間か」
私達の村での最後の朝食は、簡単に済ませた。パンとチーズ、そして、温かいミルク。いつもより質素な食事だが、二人とも食欲はなかった。言葉にはしなかったものの、これから始まる旅に、不安を感じていたのだ。
朝食の後、私たちは村長の家を訪れた。私たちが旅に出ることは、既に村の中に伝わっていた。村長からは思い直すように何度も言われたが、私たちの決意の強さを受け入れ、最終的には納得してくれた。
「アリシア、リク。最後に聞きたい。本当に、旅に出るのか?」
「ええ、村長。私たちも、もう、見て見ぬふりはできません。魔物の脅威から、この村と、この国を守るために、私たちは戦わなければなりません」
村長は、しばらくの間、沈黙して、そして、深く息を吸い込むと、ゆっくりと口を開いた。
「わかった。アリシア、リク。どうか、気をつけて。そして、必ず、無事に帰ってきなさい。我々はいつまでも待っている」
村長は、私たちに、そう言ってくれた。
私たちは、村長の家を出ると、村はずれにある馬小屋へ向かい、旅の相棒となる馬を借りた。名前は、ベル。穏やかな性格の雌馬で、私たちを優しく乗せてくれた。
ベルに荷物を積み込み、私たちは村を出発した。
振り返ると、村の人々が、私たちを見送ってくれている。
------みんな、ありがとう。必ず、無事に帰ってきます。
私は、心の中でそう誓った。私たちは、ベルに乗って、ゆっくりと村を後にした。
さて、まずは、どこへ向かえばいいのだろう?私は、不安な気持ちで、前方の道を眺めた。リクが口を開いた。
「アリシア、まずは、トプカプの町に行ってみよう。小さな町だけれど、このあたりの流通の要所になっている。そこで、情報収集をするんだ」
「そうね。それがいいわ」
私は、リクの提案に同意した。トプカプの町を目指して、馬を進めることにした。
------そして翌日の昼過ぎ。私たちは、小さな町に到着した。トプカプの町だ。
町は、活気に満ち溢れていた。市場では、様々な商品が売られ、人々が行き交っている。私たちは、馬小屋にベルを預けると、町の中心部へ向かった。
まずは、落ち着く場所を探そう。そう思って、あたりを見回していると、一軒の宿屋が目に入った。
「リク、あそこはどうかしら?」
「ああ、良さそうだな。行ってみよう」
私たちは、その宿屋に入った。
宿屋の中は、人で賑わっていた。冒険者らしき人々、商人、旅人…。様々な人々が、酒を飲んだり、食事をしたり、談笑したりしている。
私たちは、カウンター席に座って食事を注文し、主人らしき人物に声をかけた。
「すみません、部屋は空いていますか?」
「ああ、空いてるよ。二人部屋でいいかい?」
「ええ、それでお願いします」
とりあえず今日寝る場所は確保できた。草むらでも、床ではない、普通のベッドに寝れることの素晴らしさは、昨夜の野宿で痛いほど理解していた。
私たちの前に、食事が運ばれてくる。メニューは、シチューとパン、そして、サラダ。シンプルな料理だが、旅の疲れを癒してくれる。
食事をしながら、私たちは、今後のことを話し合った。
「リク、これから、どうする?」
「まずは、情報収集だな。この町で、魔物に関する情報が得られるかもしれない」
「そうね。でも、どこで情報収集すればいいかしら?」
「この町にギルドは残っているかな。昔はどの町にも冒険者ギルドがあったって聞いているけれど」
ブラックドラゴンが倒されてからは、魔物と人が接触する機会も減ってしまい、魔物退治で大金を稼ぐ冒険者そのものがほとんどいなくなっている。だからギルドという組織も成立しなくなっているという話は聞いたことがある。村から出ないと、本当に情報に疎くなるわと、少し反省する。
リクの提案に、私は思案した。
「そうね……。まずギルドの集会所を探すところから始めないと」
「そうか、やっぱりそういうものなんだ」
「あ、分かんない、分かんない。もう、私もリタイアしたみたいなものだから」
「お客さんたち、ギルドのことを話していたかね」
割り込んできたのは、宿屋の主人だった。
「そうですけど、ご主人はギルドのことを知っているのですか?」
リクがあまりにも無邪気な質問をするが、宿屋の主人はニヤニヤと口の端を歪めるだけだった。リクは、こういう時にどうしたら良いのか分からないのだろう。当然のことだ。
私はコインを一枚出して、机の上に置いた。主人がそれを手に取る。
「こりゃ珍しい。奥さんのほうが話が通じるとはな。だが一枚かい」
「マスター、話したそうな顔をしているわ。そういう人にはこれくらいが妥当よ」
「こりゃ面白い。奥さん、年季が入っているね」
「で、ギルドの集会所はどこ?なんならギルドマスター教えてくれるだけでもいいわよ」
「集会所はこの酒場だ。ギルドマスターは、残念ながら俺じゃあないがな」
「場所貸しってことね。その割には受付がないわね」
「まだ始まってないからな。冒険なんて今時流行らないから、ギルドと言っても勉強会っていう名前で、一日に四時間だけ営業だ。ほら、見てな」
フロアのテーブルと、見るからに冒険者の装束の男女が移動させ、車座に配置していた。その上座に、ひとりの少女が座る。彼女を取り囲むように、冒険者が座った。
宿の主人が言った。
「あんたらも、末席に潜り込みな。別に会費はいらない。奥さんのほうは、あんまり目立たないほうがいいな。……ああ、そうだ、旦那に忠告だ」
「え?」
「奥さんから離れるんじゃない。生き残りたかったらな」
「ああっ……はい、そうですね」
リクは素直に頷いたものの、ギルドの勉強会の後ろのほうに席を移動して、私の隣になった時に、
「やっぱりアリシアは勇者で、僕は凡人ってことなんだろうな」
少し寂しそうに言った。私は否定も肯定もできず、「始まるわよ」と上座の少女に意識を促した。
少女は、見た目の想像よりも低い声で話しだした。
「冒険者のみなさんにお話があります。良いお話なのか、悪いお話なのか、それは受け取る人によって変わってくるでしょう。ただ、私たちがこのような勉強会という名前であっても、ギルドの連携を保ち続けたことに意味はあったということは正しかったようです」
冒険者たちがざわつく。勉強会というおだやかな名前にはそぐわない、深刻な話題がはじまろうとしていると感じたのだ。
「近くの村々に、魔物が現れています」
冒険者が静かになった。
「これまで時たま出現していたような、小物ではありません。森や山間部に近い村のいくつかで、普通とは違う魔物が出ています」
「マスターよ、違うってのはどういうことだ?」
冒険者の一人が言った。なるほど、あの少女がギルドマスターってことか。
「人を喰らいます。人の味を知っています」
再び、ざわつく。
「その体は大きく、凶暴です。この数年……つまり、ブラックドラゴンが倒されて世界が平穏になって以降に出現した魔物とは、違うということです」
「何かヒントはないのか?次に出てくる場所とか、倒すための弱点とか」
「襲われて生き延びた村人はこう言っていたそうです。『闇の力に操られている』、と」
闇の力……黒い力……。まるでブラックドラゴンの再来のような。闇という言葉から私が連想したのは、数年前の戦いの記憶だった。
「もうひとつ、私の元に流れてきている噂があります。……新たに生まれた、『影の暗黒竜』についてです」
なっ!
私は思わず声をあげ、立ち上がりそうになる。リクに腕を掴まれなかったら、本当に立ち上がってしまっていたかもしれない。
「マスター、そこまで言っておいて、他に情報がないとは言わせないぜ」
冒険者が追求する。
「詳しいことは、私もよく分かりません。ただ、ギルドマスターの間に伝わる古文書によると、ドラゴンには常にその力の、そう、保険的存在と言えばいいのでしょうか、影の存在を用意しているとのことです。黒竜の狂乱から月日を経た今、影の黒竜が現れ、再度狂乱を引き起こしている可能性が、ギルドマスターの間では囁かれています」
「どこまでが噂で、どこまで事実なのかが分からねえ。気に入らないな」
「噂と古文書に共通して述べられていることは、影の竜は、元の存在をはるかに凌ぐ力を持っているということです」
「待ってくれ。確かにドラゴンの力は強い。だが、本来、世界に七体いるドラゴンは守護神なはずだ。過去の戦いはそのドラゴンが狂乱したから世界は恐怖した。影のブラックドラゴンも、狂乱しなければ、世界を守護する存在なんじゃないのか?」
「わかりません。『暗黒竜の狂乱』についても、どうしてブラックドラゴンが狂乱したのかまでは、まだ解明されていないのです。原因が分からない以上、それを取り除くこともできません」
影のブラックドラゴン。その言葉を聞いて、私は、全身に鳥肌が立った。
……まさか、そんな。
ブラックドラゴンは、私が倒したはず。……なのに、なぜ?あの戦いがもう一度繰り広げられるっていうことなのだろうか。それこそ恐怖じゃないか。
私は、恐怖していた。混乱とか、疑問とか、そんなものじゃない。純粋に怯えていた。あんな戦い、もう二度としたくない。
リクもまた、驚いた表情を浮かべている。
「影の黒竜って、一体……?」
もし、狂乱の再現が本当なら、この世界は、再び、闇と恐怖に包まれてしまうかもしれない。恐ろしい、本当に恐ろしい。
私は、身震いする。武者震い?まさか。恐怖を感じているのだ。
逃げることはできないのだろうか。
私は、かつて勇者として、この世界を守った。今一度、この世界を守るために、立ち上がらなければならないのだろうか。
私は、リクの手を握りしめた。
リクは言った。
「大丈夫だよ、アリシア。アリシアは最強じゃないか」
ちがう!違うの、リク!私が言って欲しいのは、そんな言葉じゃないの!
「ああ、勇敢な、アリシア。僕も、君と一緒に戦う」
リクは、力強く頷いていた。
そうじゃない!そうじゃないの!
私の思いはリクに届かない。この部屋の中にいる冒険者たちにも、決して届かないだろう。
ギルドマスターの少女と目があった。少女は声を出さずに、口の形だけで私に伝えてきた。
『た・た・か・っ・て』
それが総意なのか。確かに私には守るべきものがある。リク、村の人々、町の人々、そして世界の人々。彼らの生活と笑顔を守らなければならない。
でも、その責任を全部私だけが背負わないといけないのか。
そんな思い思い重圧を。世界のすべてが乗った重圧を。
私はもう一度戦いに飛び込まなければならないのか。
苦しくて苦しくて……。
私は食べたものを、全部床に吐き出した。