【序章:平穏な日々】
朝露がキラキラと輝き、草木が朝日に照らされて緑鮮やかに光る。小鳥たちのさえずりが、心地よい朝の訪れを告げる。
私は、柔らかな羽毛布団の中で目を覚ます。窓から差し込む光は、まだ少し冷たい。だが、その光は、私の心を温かくしてくれる。
深い眠りから覚めたばかりの頭は、まだぼんやりとしている。だが、すぐに、自分がどこにいるのかを思い出す。
グリーンフィールド村。
緑豊かな丘陵地帯に囲まれた、小さな村。
そして、隣には…
私は、そっと隣に目を向ける。
------リク。
愛する私の夫。
彼は、まだ眠っている。規則正しい寝息を立てて、穏やかな顔をしている。
私は、彼の寝顔を見ながら、静かに微笑む。
リクは、この村で生まれ育った農夫だ。温厚で心優しい、まさにこの村の風景にぴったりの人。
そうだ、ここは戦場ではない。そのことに毎朝のように安心する。
私はかつて、『竜殺し勇者』と呼ばれていた。名前はアリシア・フェンリー。アリシア・ザ・ドラゴンバスター。暴走したブラックドラゴンを討伐し、世界に平和をもたらした英雄。数年前のあの災禍は、「暗黒竜の狂乱」として、いまだに恐怖の対象になっている。
だが、今はただの村人だ。リクの妻であり、この村の一員。
私は、リクの寝顔をしばらく見つめていた。
彼の顔には、深い安らぎが漂っている。まるで、この世界に何の不安もないかのように。
……いいえ、そんなことはない。
この世界には、まだ、闇が潜んでいる。
私は、最近見るようになった不吉な夢を思い出す。
暗黒の渦が世界を飲み込み、人々が苦しみ叫ぶ夢。 親しい仲間たちが、次々と闇に呑み込まれていく。私は剣を振りかざすものの、力なく地面に崩れ落ちる。
あの夢は、ただの夢ではない。きっと、世界のどこかで、何かが起きようとしている。そんな予感が、私の胸のあたりを、ざわざわとさせる。だからなおのこと、目覚めて最初に見るリクの寝顔が、私にとっての救済なのだ。
私は、リクを起こさないように、そっとベッドから抜け出す。
白いリネンのワンピースに着替え、窓辺に立つ。
窓の外には、どこまでも広がる緑の草原。点々と家が建ち並び、人々の生活の音が聞こえてくる。鶏の鳴き声、牛の鳴き声、子供たちの笑い声。すべてが、平和で穏やかだ。
……この平和は、いつまで続くのだろうか?
私は、不安な気持ちを抱えながら、朝の支度を始める。
パンを焼き、卵を炒め、サラダを作る。
どれも質素な料理だが、リクはいつも喜んで食べてくれる。
「おはよう、アリシア」
リクが、眠そうな目をこすりながら、キッチンに入ってきた。
「おはよう、リク。よく眠れた?」
「ああ、ぐっすりだよ。アリシアの隣は、世界で一番落ち着く場所だからね」
リクはそう言って、私の頬に優しくキスをする。
「もう、朝から……」
私は照れくさそうに顔を赤らめる。
朝食の後、リクは畑仕事に出かけた。
私は、家事を済ませ、庭の手入れをする。色とりどりの花が咲き乱れる庭は、私の小さな誇りだ。花に水をやりながら、私はリクとの出会いを思い出す。
ブラックドラゴンを倒した後、私は戦いの最後に寄ったこの村に戻ってきた。
長い戦いの日々で、心身ともに疲れ果てていた私は、静かで穏やかな場所で暮らしたいと願っていた。この村は、まさに私の理想の場所だった。人々は余所者である私を受け入れてくれた。親切で、自然は豊か。そして何より、かつての私を知る人は村長を覗いて誰もいなかった。
私は、村はずれの小さな家に住み、畑を借りて野菜を育て始めた。土を耕し、種をまき、水をやる。太陽の光を浴びて成長していく作物を見ていると、少しずつ心が安らいでいくのを感じた。
……だが、心の奥底には、拭い去ることのできない影があった。
ブラックドラゴンとの戦いの中で、私は多くのものを失った。信頼していた仲間。愛する故郷。そして、普通の少女としての青春時代。私は、勇者として戦うことしか知らなかった。剣を振るい、魔物を倒す。それが、私のすべてだった。
……でも、ブラックドラゴンを倒した今、私は何のために生きていけばいいのだろう?
そんな疑問が、いつも私の心を締め付けていた。
リクと出会ったのは、そんな日々の中だった。
彼は、村を出て都会で学問を修めた後、なぜか村に戻ってきて農夫をやっている。いつも笑顔で畑仕事をしている。誰とでも分け隔てなく接し、困っている人がいれば、真っ先に駆けつける。
そんな彼の姿に、私は自然と惹かれていった。
ある日、私が畑仕事に困っていると、リクが声をかけてくれた。
「大丈夫ですか? 力仕事なら、僕が手伝いますよ」
彼は屈託のない笑顔で、そう言ってくれた。
それからというもの、リクは頻繁に私の畑に顔を出すようになった。農作業のコツを教えてくれたり、収穫した野菜を分けてくれたり。
リクと話す時間は、私にとってかけがえのないものとなった。
彼は、私がかつて『竜殺しの勇者』であったことを知っても、特別扱いすることはなかった。まるで、昔から知っている隣人のように、自然体で接してくれた。
リクの優しさに触れるたびに、私の心は温かくなった。凍りついていた心が、ゆっくりと溶けていくのを感じた。リクといると、心が安らぐ。私は、そう思うようになった。
リクに結婚を申し込まれたのは、出会ってから一年後のことだった。
「アリシア、僕と結婚してください。君を幸せにする自信はないけれど、精一杯愛します」
彼は、少し照れくさそうに、そう言った。私は、彼の言葉に涙が溢れた。
「……はい、喜んで」
そう答えると、リクは満面の笑みで私を抱きしめた。
結婚して三年がたった。
かつての激動の日々が嘘のように、穏やかな日々が流れている。
……でも、私は、まだ心のどこかで、過去に囚われている。勇者だった頃の記憶。失った仲間たちの面影。そして、いつかまた世界を脅かすのではないかという、危機の予兆。
私は、この平和な日々を守れるのだろうか?
リクを、この村を、守れるのだろうか?
私は、不安な気持ちを抱えながら、午後の時間を過ごす。
村の子供たちに読み書きを教え、図書館で本を借り、夕飯の買い出しに行く。
すべてが、平凡で、穏やかだ。
……こんな日々が、ずっと続けばいいのに。
夕暮れ時、リクが畑から戻ってくる。
汗ばんだ顔で、収穫したばかりの野菜を両手に抱えている。
「ただいま、アリシア。今日は、いい出来の野菜が採れたぞ」
「おかえりなさい、リク。まあ、美味しそう! 今晩のスープにしましょう」
夕食は、リクの育てた野菜を使ったスープと、焼きたてのパン。
食卓を囲み、他愛のない話で笑い合う。
リクといると、本当に心が安らぐ。私は、心からそう思った。
夜、ベッドに入ると、リクはすぐに眠りについた。
私は、彼の寝顔を見ながら、静かに過去の記憶を辿る。
ブラックドラゴンとの戦い。
失った仲間たち。
血に染まった戦場。
そして、世界を救った達成感と、その後の虚無感。
私は、本当に世界を救えたのだろうか?
それとも、ただ、破壊をもたらしただけなのだろうか?
私は、まだ、あの戦いの傷を引きずっている。
心の奥底に、深い闇を抱えている。
リクは、そんな私を、何も言わずに受け入れてくれる。
彼の優しさに、私はどれほど救われているだろう。
私は、リクの腕に抱かれ、静かに目を閉じた。
「おやすみ、リク。どうか、この平和が永遠に続きますように…」
心の中で、そう祈った。