第4章 遠征編 第3話 船旅 その2
翌日、夕刻―――。
俺が日課の稽古を終え、甲板で気持ちのいいそよ風に吹かれているうち、船はカルア海を縦断し、いつの間にか大河に差しかかっていた。
このカルア海から、ハウスホールドに向かってゆっくりと流れる大河の名はエルビン河。かつて、ハウスホールド建国の忠臣の名前が冠せられているということだ。
何でもセリスは、ニーナの手伝いをするとか言って、随分前に厨房に向かったまま。今日の夕食はニーナが総料理長として厨房に立つらしい。
「今日のディナーはすごいですの」
「お兄様、私も手伝っていいですか?」
そんな二人のやり取りに不安を覚えた俺だったのだが……。
ふふふ。俺にはクラーチ家が誇る異世界食材とお抱え料理人がいるのだ。こんなこともあろうかと、こっそり用意していて良かった!
ドランブイは、交易品の確認に船倉へ。ハウスホールドとの交渉に備えて『ドラゴンソルト』の最終チェックをしてもらっている。何しろ膨大な量なのだが、俺たちが手伝うと逆に時間と手間がかかるそうだから、任せておこう。
そんなわけで、俺はモルトと二人で甲板で心地よい風に吹かれているのだった。
「遥か昔、この先の河は運河だったらしいっすね」
目を細めて、前を見遣るモルト。
『先史』と呼ばれる “審判”でアウル領が砂漠化する以前の時代には、この河の下には、大陸北部の人間の世界と、南部の亜人たちの領域とをつなぐ立派な街道があったのだという。
そしてその街道には、ラプトルやディラノといった肉食のドラゴン除けと人や物資の運搬のために、両側には運河が造られていたらしい。
それらの遺構はエルビン河の中に沈んでいるのだが、河の中には今でもその名残として石畳の人工物が確認できる場所がいくつもあるのだとか。
「何でも、この大陸南部における先史以前に造られた主な街道やそれに伴う運河のほとんどは、ひとりの偉大な魔導士によって造られたらしいっす」
「そうなのか?」
「そおっす! しかもその魔導士様は、今のアウル領の周辺を治められた領主にして名君の誉れ高いお方だったとか」
「……」
俺は、多少聞きかじったことのある話だったが、ここは、気持ちよさそうに話すモルトに水を差さないでやろう。
「昔は立派な領主がいたもんすね~」
「……そうだな」
「しかも、かのお方は、自領の領地経営に手腕を発揮されただけでなく、他国の姫を正室に迎えられるなどして、大陸の安定にもご尽力されたとか」
「まったく……立派な人もいたもんだ」
「何、他人事みたいなこと言ってんすか。王宮前の広場にも、銅像が立っているじゃないっすか」
「そうだったか?」
「全く……。少しはしっかりして欲しいっす。確か、今のレオン様とあまり変わらない年齢でご結婚されたと思うっすよ」
「……お前なあ。一体、何が言いたいんだ」
「少しは見習って欲しい所っすね~」
「は? 俺に期待されても、無理に決まっているだろうが」
「そんなの、わかっているっす」
「な、何~!」
自分がクラーチ家の当主として、そしてアウル領の領主としても、あまりやる気がないのは、自他ともに認めている所ではあるのだが、改めて他人から言われると、それはそれで腹が立つから不思議だ。
「折角の良縁もあるんすから、せめて結婚だけでもさっさと決めてほしい所っすね」
腕組みしながらこれ見よがしにもふもふ尻尾をゆさゆさと揺らしやがって。モルトめ、言うに事欠いて「さっさと」だと! 偉そうに!
そんな俺の思いなどとは全く関係なく、船はほとんど揺れず、静かな川面を滑るように進んでいく。
「レオン様、乗り心地はいかがですか?」
「さすがは、最新鋭の船……いや、ネグローニの腕だな」
笑顔で挨拶してくれる船長に、俺も満面の笑顔で応える。船は揺れていないのに、ぷるぷる揺らしているネグローニ。俺の腹立たしい気持ちが癒されるようだ。
「はあ~。……レオン様」
「何だ?」
「何、腕を褒めながら、胸を愛でておられるんすか」
「え?」
こいつは、またいらんことを!
「辺境伯様の御前です。正装でないと失礼に当たります」
そう言って真っ赤な顔をして、両手で胸元を隠しながら恭しく一礼するネグローニ。
い、いや……そんなに恥ずかしいのなら、普段着に着替えていただいても。そして俺は、そんなにジロジロ見てないからな!
いつの間にか鼻腔をくすぐる匂いも変わって来た。両脇には大森林がひろがっているせいか、薄く植物や大地の匂いがする。
しかし、さっきから自然に匂いに混じって、何だか俺が苦手な匂いが漂ってきているのだが……。
◆
その頃、王都の公爵邸では、公爵夫妻がワインを片手に、にこやかに寛いでいた。
「イザベルの奴、最近楽しそうだな」
「そうですわね。ふふふ……」
「どうしたんだ、おまえもやけに楽しそうじゃないか」
「それはそうですわ。娘の幸せを願わない母親なんておりませんもの」
「しかし……。イザベルは相変わらず、あの辺境伯にしか興味はないのだろう?」
「そのことなのですが、お兄様から良い返事を頂きましたの」
「ほう」
「実は……」
……。
「……成る程な。そういう事なら」
「何もあの娘のお相手は、王国の貴族だけに捉われずともよろしいかと」
「確かにそれならば……」
そう言ってグレン公爵はワインに口を付けると、妻の腰を抱き寄せたのだった。




