第2章 山エルフ編 第8話 涙 ☆
俺のうつろな返事に傷ついたセリスは、大粒の涙を流しながら、俺の部屋を飛び出していってしまった。俺は慌てて後を追いかけたが、後の祭りである。
しかも祖父から、問題のベストセラーを持参して部屋まで来るよう命じられてしまった。何でも怒ったセリスが、泣きながら言いつけに行ったらしい。
セリスよ、お前は何てことをしてくれるんだ。か、勘弁を……。
◆
屋敷の執務室では、直立不動の俺の目の前で、祖父は例の本の表紙をしげしげと眺めていた。
「レオン……」
普段から口数の少ない祖父が、静かに語りだした。
「話は、セリスから聞いた」
「はい……」
「……セリスは、こう言うのだが、間違いはないか」
「……はい」
確かに俺も悪かった。しかし、あれくらいのことで……。
貴族としてはともかく、武人としては、当代一とまで言われている祖父だぞ! そんな人から叱責を受ける俺の気持ちも分かって欲しいぞ! 妹よ!!
何だか、セリスより、こちらの方が被害者のような気がするのだが、これは俺の気のせいなのだろうか。
「まったく……このような、低俗な書物にうつつを抜かしておるなど……」
いくら祖父の発言とはいえ、“低俗”という言葉には、俺としては、少しばかりひっかかるところもあるが、今はうつむくしかない。
「まず、第一に……いくら自分がひどい目にあったからといって、“ざまあ”とは、何だ。他人に仕返ししてスカッとするのは、自分の気持ちだけなんじゃないのか」
……そ、その通りです。
「今の世の中、やられたらやり返して、留飲を下げる風潮が、まかり通っているそうじゃの……」
「……」
「我が、クラーチ家の家風には、そのようなものは無い。どんな相手であれ、他者を貶め、ひとり悦に入るなど、クラーチ家の風上にも置けぬ恥ずかしき所業!」
「……」
は、はい。その通りだと思います。俺は、もし、どんなにいじめられたとしても、自分の立場が上になった途端、いままでの恨みを晴らそうと、ざまあなんてする気はありません。本当です。信じてください。
「次に、奴隷をメイドとして雇い、慕われているというのは、ここまでなら、まことに良いことなのだが……」
そう言って祖父は俺に咎めるかのような、鋭い視線を向けた。
「ハーレムとは……。使用人と遊びほうけるなど、情けない!」
よく、タイトルを見ただけで、内容を正確に言い当てることができたものだ。俺は変な所に感心してしまったのだが。そんなことはともかく……。
い、いや、それは本の中の話であって、別に俺がそうしたいわけじゃあ……あ、い、いや……そ、そりゃ、後半部分に関しては、少しは興味はありますけど……。
で、でも、それは、この本の主人公のことでして、俺じゃないです。分かってください。そ、そんなこと、普通、分かりますよね。“普通”の人だったら……。
しかしこの後、俺の願いもむなしく、信じられないことが起こったのだった。
え? ……あ、あ、ああっ……。
( 中 略 )
*誠に申し訳ありませんが、自主規制させていただきます。
その日、俺は、一晩中、枕を涙で濡らしたものだった。
数日後、俺の部屋の前には、どこで手に入れのか、品切れ中の例の本が、そっと置かれていた。
今では版を重ねて、王都では簡単に手に入るが、あの頃は入手が困難なはずだったと思う。
黙っているが、恐らく、祖父に違いない。というか、祖父しかいない。
◆
「レオン様!」
キールに俺の愛読書をプレゼントしながら、ひとしきり感傷にひたっていた俺だったのだが、そんな俺に、突然、背後から声がかけられたのだった。
「お久しぶりですの。レオン様!」
……。
俺は数秒、固まってしまっていた。
え、あ、あれ、も、もしや……。
「ご無沙汰していますの」
「に、ニーナか……。ひ、久しぶりだな」
「ほ、本当に……、ニーナが、ニーナが、レオン様にお給仕できる日が来るなんてぇ……」
顔を紅潮させた、白狼族の女の子が、尻尾を恥ずかしそうに振っている。黒のミニのワンピースに、フリルの付いた白エプロンとカチューシャ。胸の大きな宝石は、彼女の瞳と同じく透き通ったマリンブルー。
確か、ニーナは、子供のいないキール夫妻に引き取られ、養子として実子同然に育てられていた子だったはず。
そう……。この子のことは、俺は、よ~く覚えている。
今日は俺の来訪を知って、メイドからエプロンやワンピースを借りてきたのだとか。そんなニーナに、キールもあきれ顔である。
「せっかく、新しくドレスを仕立ててやったのに、メイド服で給仕したいと言って聞かんのじゃ」
ニーナとは、俺が、祖父に連れられ、キールの館に行ったときはいつも、二人で遊んでいたものだ。
そう。常に俺はお父さん役で、お母さん役のニーナのままごとに付き合わされていたのだった。
俺たちが中庭で過ごしているとき、セリスは何故かいつも、館のメイドたちに連れられて、部屋で絵本の読み聞かせや、人形遊びをしてもらっていたように思う。
「セリスちゃんも、久しぶり」
笑顔のニーナが話しかけているにもかかわらず、セリスは怪訝そうな顔で首を傾げている。どうやら、彼女のことを、うまく思い出せない様子だ。
逆にニーナは、セリスのことをよく覚えているという。なぜだろう。
しかし、そんなことより……。
い、いかん、あの頃の悪夢がよみがえってきた。
(糸 さまより)




