第1章 王都追放編 第12話 最高師範
王国の最高師範を務める、シーク=モントは、コロシアムに特別に設けられた控室で全身の皮膚が静かに粟立つのを感じていた。
瞼に浮かぶのは、忘れもしないあの感覚。
そして、その後自分の全身を包み込むように襲ってきたのは、全身が寒気でひりつくような悪寒。あ奴と試合で相対した時以来だ。鳥肌が立って身震いするほど寒気がするのに、冷や汗が流れる。
そんな中、シークは控室でひとり自分の集中力を限界まで高めようとしていた。
「すう……は~……」
「すう……は~……」
「すう……」
さっきから小さく呼吸を繰り返し、何とか平常心を取り戻そうとしているシーク。
「は~……」
何とか呼吸を整えて対戦相手に思いをはせる。
「これは……本当に……危ない相手に違いない」
この会場にいる数千人のうち、彼だけはこれから始まる試合のことを正確に認識していた。これから始まるものは、単なる特別試合ではない。
もうすぐ出番である。
脳裏には忘れられない敗北の映像。そして、幾度も繰り返される己の未熟さを後悔する気持ち。
毎年行われている大会に、今年も例年どおり招待された。いつものように、特別試合へのエントリーである。当然、自分は今年の試合も例年同様、貴族の子弟相手のお遊びという認識だった。あくまで国王の命に従い“仕事”として出場するつもりだった。
貴族の子弟の力を存分に引き出し、光らせた上で、相手をケガさせることなく試合を終える。
このようなことをするには相当な技量がいる。この国でこの役が務まるのは、今となっては自分くらいのものだろう。誰が見てもそうだという自信が自分にはある。
そういえば、あ奴はこんな風に言っていた。なんでも、今回のような“仕事”を称して“風車の理論”と。
もっとも、あ奴は自分には到底不可能な芸当だとも言い添えていたのだが。
シークはこの度の“仕事”を受けたことを、今更ながら後悔していた。
まさか、あ奴の孫が出ていたとは……。
正直、王国側に対してクレームのひとつでも言いたい気分である。せめて、こんなことなら、何倍か手当てをはずんで欲しい。いや、銭金の問題ではない。最初から教えて欲しかった。
しょせん、就活、婚活イベントに過ぎないこの大会。自分は最初、退屈気味に暇を持て余していたのだが……。
「く、くう…………」
トーナメントが進んでいくにつれ、試合を見つめるシークの額からは、何やら嫌な感じの冷や汗が滲み出してきたのだった。
◆
「シーク様、シーク様はいますか」
自分の控室に、無遠慮にも、王の執事とかいう者がやって来た。しかもそいつは来るなり、無礼にも、いきなり自分に耳打ちしてきたのだ。
「これは、もしものことですが、仮にあの伯爵が勝ち上がった場合……」
自分は、少し呼吸が乱れたのを感じたが、平静を装った。おそらく、目の前のこの執事にも気付かれてはいないだろう。
……。
ここで執事は一旦動きを止めて、注意深く周囲を見回すようなしぐさをする。この控室には、自分たち以外、人がいるはずもないのに念の入ったことだ。恐らく、長い宮廷生活で、その身に付いてしまった、一連の動作なのだろう。
「……ま、まあ、もしものことですが……」
「……」
「陛下は、もしも、決勝であの卑怯な伯爵家の跡取りが勝った場合、シーク様には、どうしてもらってもよいとの仰せです」
「ふむ」
「どのような結末になろうとも、国の方で始末はつけるので、ご安心ください。ただ……あまりにもあっさりと勝たれると、王太子さまをはじめ、他の対戦相手の方々のお力が軽んじられることになります」
「……」
そこで言葉を区切って、執事は冷たい目で、じっと自分を見据えてきた。
これは、いささか失礼な態度にも思えるが、自分にとっては、試合前の大事なとき。特に咎めることもなく、何事もなかったかのように、流すことにした。
おそらく、これから始まる特別試合は、一瞬も気の抜けないものになるだろう。そして、そのことを理解しているのは、この世で自分だけだと思う。
全く……。
返す返すも、こんな大役、特別に報奨を積み上げてもらわねば、やってられない。今となっては、もう後の祭りなのだが。
そう、これから始まる試合……いや、戦いの中で、ほんの一瞬の遅れで、自分は今の地位から陥落する可能性すら、はらんでいるのだから。
やっとの思いで自分が手に入れた、『最高師範』の座。最強との呼び名は、逆に一度でも敗北すれば、そこにはいられない。何戦しようが、無敗が絶対の条件なのである。
貴族のお坊ちゃんたちのお遊びに付き合うつもりが、まさかこの首をかけた大一番になろうとはな……。
「失礼ながら、シーク様、そのあたりのことを、くれぐれもお忘れなきよう」
そう言い残し、この執事は、やって来た時とは違い、音もなく慇懃に部屋から出て行った。




