~花の記憶:『さみしい』~
「駆くん…好き…。」緊張に声を震わせながら、すみれが言う。
「えぇぇえぇえぇえっ!?…ってアレ?」ベットの上で飛び起きる。心臓が暴れ、全身が汗だくだ。
「夢オチとか…マジだせぇ。そんなことあるわけないし。第一すみれは今そんな場合じゃ…。」ぶつぶつと独り言を言い、軽く自己嫌悪に陥る。
今日は山梨県まで行くことになった。富士河口湖町とメモには書かれている。
「…かわぐちこまち?湖の近くなのかな?」と、高速のインターで休憩をとっている時にすみれが首をかしげる。
「う、うん。…湖の近く…。」変な夢を見た手前、普通に話ているだけなのに気まずい。
「へぇ、行ったことあるの?」感心したようにすみれが言う。
「バイクを買ってすぐの頃ツーリングに行ったんだ。…すごく大きな湖で、近くに富士山も見えた。今日も天気良いし、きっと富士山が綺麗に見えるよ。すみれにも早く見せたいな。」なんとか落ち着いてきてぎこちない笑顔で返す。
河口湖の近くに近づくと、すみれに話した通り、壮大な富士山が見えてきた。湖面も太陽の光を浴びてキラキラと輝いている。湖畔の近くでバイクを降り、遊歩道まで行く。
「綺麗…。」すみれは余程感動したのか、ぽつりと呟いたまま立ち尽くしている。
「自然てさ、本当にすごいよな。こういう景色見ると心からそう思う。」駆は以前と変わらない素晴らしい眺めに安堵と畏怖の混ぜ合わさった様な感情を抱く。
「うん…本当に。」返事はしたが、まだすみれは湖の方を眺めている。
「気に入った?」すみれの顔を覗き込む。
「うん!あ…それもあるけど…私明日にはこの景色覚えてないかもしれないから。無駄かもしれないけど、しっかり見ておきたいなって…。」苦笑いのすみれ。
「……。」すみれには笑っていてほしいとは思っていたが、無理をして笑っている姿に心が痛む。フォローの言葉も見つからなくて、途方に暮れる。
「ここだ。」
メモに記してある住所に到着した。そこには年期の感じられる古びたアパートがあった。大家さんらしき人が玄関前の草むしりをしている。
「あの人に聞いてみよう。…すみれ?」先ほどから黙ったままのすみれの様子が気になった。
「…っ…こ、怖…い…。本当にあるの…かな…。」すみれの顔は青ざめ、肩が小刻みに震えている。
「大丈夫。きっとある。俺を信じて?」立っているのがやっとの状態のすみれの肩に両手を置き、安心させるように笑う。
「俺が行って聞いてくるよ!だからすみれは…。」言い終わる前に、
「ま、待って!大丈夫だからっ…一緒に行く。これは私の問題だから私が行かないと意味ないっ。」と言うすみれに、腕にすがりつかれ、内心驚いたが、なんとなく安心もした。
「あぁ…澄川さんとこの親戚のお嬢ちゃんかい?美人さんになったねぇ〜わからなかったよ。」昔を懐かしむように大家が言う。
60代くらいの女性の大家はどうやらすみれがここに住んでいたころからここアパートの管理人をやっいたらしい。
『あの…何かその頃のもので残っている物とかありませんか?』駆とすみれが同時に同じことを聞き、顔を見合わせて、お互い照れ笑いをする。
「仲が良いねぇ。うーん…そうだねぇ…とりあえず中に入ってお茶でも一杯飲んでっとくれね…何かあったと思うから。」にこにこと大家がふたりを家に招き入れる。
アパートの中は外見と変わらず古かったが、手入れは行き届いている様に見える。
「…オンボロで驚いたろう?でも何年も大家やってると、こんなアパートでも愛着が湧くんだね。おかしいだろ?」お茶を駆とすみれの前に置き、大家が愛しそうに部屋を見渡す。
「おかしくなんかないです。とても大切にしてらっしゃるのが伝わってきます。」本心だった。
「思い出がこのアパートにたくさん詰まっているんですね。」大家と同じ様に部屋を見渡すが、すみれの目は、迷子の子供の様だ。
「そうだ…年寄りのつまらない話に付き合わせて申し訳なかった。…今探してくるから、くつろいでいておくれ。」ふたりを残して大家が席を立つ。
30分ほどが過ぎ、大家が戻ってきた。何やらノートの様なものを持っている。
「これだよ。澄川さんが引越しの時、部屋に落ちてたノート。お嬢ちゃんが書いてたみたいだね。引越し先に連絡したけど、預かってた女の子はもう違う家に預けたからそのノートももう必要ないって言われちゃって…。冷たいねぇ。」ふぅと溜め息をつく大家。
「でも…とっておいてくれたんですね!?」すみれの顔が見る見る明るくなる。
「当然だよ!お嬢ちゃんがいつも大切そうに抱えていたからね。」そう言いながら大家が微笑む。
中を開いてみると、ちょうど退院直後から半年分の1日1日の記録がすみれの字で丁寧に書かれていた。退院当日の日、つまりそのノートの書き始めの日は『さみしい』その一言だった。彼女が一瞬にして無くしたもの、取り戻せなくなったもののことが、この一言に集約されている気がして、やりきれない。
「……。」黙ってしまったすみれ。
「すみれ?」
(いくら過去が知りたいって思ってても、知ったら逆に知らないままの方が良かったって思うものもあるのかも…。)
「う…嬉しい…。…私にも…ちゃんと…か、過去がっ…。」すみれは悲しかったのではなく、嬉しかったのだ。泣いていて、言葉が続かない。
例えどんな過去であろうと、それはその人が確かに在った証拠。それはきっと私たちが気づかないだけで、とて愛しいものなのだ。
来た時に寄った湖畔に戻ってきた。
「あ、えっと…さっきはいきなり泣いちゃってごめんね。びっくりしたよね。」まだ少し涙目のすみれ。
「ううん。よかったよな、見つかって!なんか俺も嬉しかった!」
(記憶の有り難さが、改めてわからったから。)