9-終章-
1
病室の窓から見えていた灰色の建造物群や、その眼下を行き交う人々の群れは果たして夢だったのだろうかと疑ってしまう程に高坂家の窓から見渡す世界には数日前と変わらぬ景色が広がっていた。色彩感覚を崩壊させかねない緑。疎らに建つ築数十年の民家。そして今日も止むことの無い蝉の合唱――。
あぁ、戻ってきたんだなと亮はその風景を見て思った。先日の事があるので念のために窓を開けることなく、カーテンの隙間越しに見た世界は紛うことなき雨崎村だった。
「もう、ここ以外に俺がいれる場所は……ないんだな」
思えばおかしなことになったと亮は思う。
この場所に来たのは現実が嫌になって懐かしさに浸りたいというただ一時の逃避行のはずだったのに、本来自分がいるべき場所は無くなり、逆に存在できる場所は雨崎村しかなくなっていた。
まさかこんなことになるとは想像もつかなかったが、それが人生の妙なのだろうか。ふと、亮は眺めている景色の中で唯一変化のある雲の流れを見て思う。天高く登る入道雲が青空を背景に亮を見下ろす。
「いてて……」
先日まで一応は入院患者として扱われていた身であり、今も安静を言い渡されていた亮は、未だに鈍痛が走る頭部をいたわりながら床に臥せた。それでも当初よりはマシになったので、あと少し横になっていれば回復するだろう。
「……」
亮はふと、枕元に置いていた携帯を手元に手繰り寄せた。慣れた手つきで今朝から何回も見た画面を開くと、これまた何度もついたため息が自然と口から洩れる。
気が付くと世界は八月に入っていた。なるほど、だから蝉は鳴き声を止めるどころかさらに隆盛を増し、暑さも気だるさに拍車をかけたのか。
亮は雨崎村に来て以来、社会からの束縛を失ったことで曜日感覚が薄れていた。毎晩三人で食べるときに見るテレビで甲子園や終戦記念日と言った夏特有のワードが飛び交う度にそろそろ八月に入るだろうという目測で日々を過ごしていたが、携帯のディスプレイに表示される日付表示でようやく八月に入ったことを知るのだった。
二木亮の本職は大学生である。世の中の肩書を持つ人間には何かしらの成果を求められるが、それは大学生も例外ではない。では大学生のそれは何か。言わずもかな学業の成績である。その具合を可視化したものが亮の手元にある携帯の画面に映し出されている。
成績通知書が届いたということは春学期が終わりを迎えたことを意味していた。もっとも、そんなことは分かりきった話だと亮は思っていたが、こうして現実を突きつけられると改めて思い知らされる。
その成績通知書は悲惨な物だった。
修得できた単位は一桁を数え、大多数の単位は来年に持ち越し、あるいは無に帰していた。底抜けの馬鹿ならば、来期来年で巻き返してやると言ってそのまま飲み会にでも行くのだろうが殊更亮に関しては違う。彼の場合は単位を一つでも零してしまえば親との縁を切ることになっているからだ。
それが、今。この瞬間に確約されたのだ。生まれてから苦楽を共にした家族はこの安っぽいディスプレイに映る一枚の紙で袂を分かつことになった。
すべての元凶は自分にあるから、喚いたりすることはしない。受け入れるしかないのだ。されど、そう言った亮は切れかかった糸でつながる両親の顔を思い浮かべては少しの悲哀の念を憶えた。……細い糸とはいえ、手繰り寄せれば、まだ――。
その糸を手にかけようとして携帯の電話帳に登録されている母親の名前を探した。自分と同じ苗字、血を持つ親だ。実は体調を崩してテストが受けられなかったんだ。これは間違いだから来期はなんとかするから――。
「やめだ」
あまりに未練がましい自分の行いに嫌気が差して携帯を枕元に投げた。そんな言い訳が通じるほどに成績には善戦の兆しは見えない。見つける方が難しい。
目をつぶると途端に暗闇が亮を包む。それと共にそよぐ夏の暑さを孕んだ微風。最後に辿り着いた場所としては申し分のない場所だった。こうして身に委ねれば自然と自分を安寧の眠りへと誘ってくれるだろう。よく人が田舎暮らしをしたいという気持ちが分かるような気がする。ただ一つ、恋をした人間が不条理に喘ぐ現状だけが気に入らなかったが。
……結局、この村に戻ることになるならあの時、紫音と一緒にいることを選べばよかったな。
そんな、もう取り返しのつかない後悔がふと過る。
もし、そのIFを選んでいれば、紫音はどうなったのだろう。俺が……彼女を守れたのだろうか?
――そういえば紫音はどうしたのだろう。今日は一回も顔を合わせていない。さっき居間に朝食を食べに行っても俺を迎えたのは焼き魚にご飯とサラダで、それを作った紫音はそこにはいなかった。あの時は、自室にいるのかなって思ったけど、それにしたっている気配がしない。
「おーい、紫音」
今出せる限りの声で紫音の名前を呼んだが、呼応する声も、トテトテと駆けてくる足音も聞こえてこない。寝ているのだろうか?いや、それは無いだろう。高坂家の家事を任されている紫音がこんな朝から二度寝するところは見たことが無い。
――熱さからこみあげる汗とは別に流れる冷や汗が亮の体温を冷ます。
嫌な予感がする。そう、亮は直感的に感じた。自分の一件があるのでうかつに外には出ていないと思うが、声をかけても反応が返ってこないとなると不安は増す増す募る。
亮は一応は念のためだと自分に言い聞かせ、重い体を起き上がらせ部屋を出た。暑さがこもる廊下に紫音の名前を伝播させても当の本人は顔を見せてはくれない。
その後も居間や庭、物置と紫音がいそうな場所を鈍痛と共に探すが彼女の姿はない。そして最後に辿り着いたのは紫音の自室だった。
トントンと軽いノックで入る意思表示をする。反応は無い。さすれば寝ているか、この部屋にもいないかの二択になる。
「紫音、いいかい?入るよ」
前者であってほしい。亮がその期待を込めて入った扉の向こうは気だるいまでの女の子の匂いと、その宿主を失った部屋だけがあった。もぬけの殻である。部屋の隅から隅を見渡しても紫音の姿は無い。そんなことはないと思うが扉の内側を除いてもいない。
――いよいよ嫌な予感がピークを迎える。
亮は衝動のままに玄関へと向かい、土間に置かれている靴を確認した。
自分の靴、響の普段用の靴。予備で置いてあるサンダル。
亮の額に浮かぶ汗は熱さではなく、冷や汗で埋め尽くされた。ここにあるはずの紫音の靴が無いのだ。先ほど庭を探した時には紫音はいなかった。さすれば導き出される結論はただ一つ。
「外に出たのか……!?」
亮は焦る気持ちを抑えようと苦心しながらも自分の靴に足を収めようとするも、体は本心を隠せなかった。何回かやってようやく両足を靴に収め、ドアノブを捻り外へと出れたのは結局いつもよりも時間がかかった後だった。
ドアを開け、外の光を身に浴びる間の数秒。亮は外に誰かいたらどうしようとか、また石が飛んでこないだろうかとか考えたが、そんなことはどうでもよかった。ただ……紫音のことを思っていたからだ。
紫音が行きそうな場所を痛みが走る頭で考える。今日は響は仕事で街に出ているから一緒に買い物に行ったという線はない。そうするとこの村にいるのは確実である。
「どこだ……」
考えている間すら惜しくて亮は突き動かされるままに走り出した。走っている間に考えればいいことだ。それに、怠け切った体を動かせば冴えた思考もできるはず――。
まず最初に訪れたのはこの村で紫音と思い出を重ねたあの境内だった。鳥居をくぐり周囲を見渡してもそこには紫音の影も形も無かった。相変わらず伝承を記した看板はこの村の狂気をものがたり、鳥居は亮を見下ろす。
どうやら違ったようだ。それを確認するなり亮は再び走り出した。所々破れている靴元に地面からの抵抗がぶつかって痛いが、そんなことはどうでもいいのだ。
「ここでもないか……」
次に当たったのは自分が昔住んでいた家だった。ここに紫音と来たことは無いが、彼女も自分との思い出を重ねた末にここに来ることも無いと考えたからだ。ただやはりここも、管理会社の看板と荒れ果てた空家が変わらずそこにあるだけで、祖父母が自分を迎え入れたりすることはなかった。
「おうい魔女の彼氏じゃねえか?今日は女は居ねえのか??」
ふと、そんな声が聞こえた。
「お前が死ね!!」
「なっ……」
近くで蚊が羽音を立てたような不快な音が聞こえてきたので本心のままに口走ってしまった。音のした方向を見ると、今にも本当に死にそうな老人が自分を呆気にとられた表情で見ていた。
これくらいでひるむくらいなら本当に……
「お前が死ね」
そう言って亮は再度駆けだした。自分たちに敵意のある人間のことなどどうでもいいのだ。
2
二人で肩を並べて座った川辺に来てみても、あの時に隣にいた彼女の姿は無かった。川の端から端を探しても紫音は見つからず、とうとう疲れが体に回った亮はその場で座り込んでしまった。河原に敷かれる石砂利が衣服が緩衝材の役目をしているとはいえ体中を突き刺す。果たしてあの日はこんなにも痛みを感じれただろうか。
そういえばここで紫音は唐突に死ぬとはどういうことなのか自分に訊いてきたことを思い出す。そうポツリを囁いた紫音はひどく儚げで、明日にでも、いや、今からでも黄泉の国へ旅立ちそうなあの雰囲気に嫌な感じを覚えたことも思い出した。
不意に風が吹き、水面を煽り周囲に土煙が巻かれた。そよ風と呼ぶには少々役不足の感が否めないそれは亮の中のざわついた心を更に煽った。もし、不安定な場所にでも体を置いていたら掬われてしまいそうな風だ。どこで紫音も……この風に身を晒しているのだろうか。
「もしかして……」
この村で自分が知る限りで死に近い場所を思い出す。村人が喚く言葉よりも身をもって死を感じさせる、二人が最初に再会を果たしたあの崖が並ぶ丘のことを――。
まさか、そんなはずはない。紫音が自ら死を選ぶことなどありえないと亮は思った。彼女を支えると約束し、それに応えてくれた紫音がそんなことを――。
頭部に脈打つ痛みがその予感を現実の物に変えていく。これは村人から受けた傷痕だが、その原因は自分にあると紫音は思っているに違いない。魔女を受け入れた者に災いが生じる……そんな世迷言を、あの娘は受け入れてしまう脆さがある。
「紫音……!」
未だに頭は痛みが尾を引き、体中の節々には痛みが広がっている。だがその痛みは紫音の抱く痛みを思えばすぐにアドレナリンやら何やらの効果ですぐに消え去った。
果たしてあの崖へと至る道はどこだっただろうか。
亮はこの村に訪れた日に辿った軌跡を微かな記憶を頼りにして村中を再度駆けまわること数時間の末、ようやくその入り口を見つけた。アスファルトで舗装された道が途中で途切れ、人が歩くことを想定しないあぜ道。ここから先は文明の香りを一切させない森が鬱蒼と生い茂る。
気が付けば日は暮れ始めていた。オレンジの斜陽が周囲を包み、降り注ぐ熱さにも陰りが見え始めている。日の長い季節とはいえ、確実に訪れる夜の闇が世界に落とされる前に何としても紫音を見つけなくてはならない。亮は次第に焦りを覚えていたが妙な確信があった。この先に彼女がいる。そのことだけを信じ、あの日と同じように生い茂る草木をかき分け、森を踏み進める。
思えばあの日も何かに突き動かされてここに来たのだ。こんな、何か目的が無い限りは訪れることのない場所に来たのは予感めいた何かがあったからで、それを今この瞬間も感じている。
「はぁ、はぁ……」
木々が陽光を遮ることで熱を体に浴びなくても済むのは助かるが、反面視界が悪化する。気づけば足元は土砂や草木で汚れている。せっかく紫音が洗濯してくれたのに、台無しにしてしまったなと亮は胸が痛んだ。どうやって謝ろうか。君を探していたから?そんな言い訳は彼女に酷だろう。ちょっと砂場で遊びたくなったから。そう。そんな感じでいいかな。
「――くっ」
やはり頭部に伝わる痛みが最大の障壁なのだろうか。亮は思わずその場で立ち止まった。ぐわんぐわんと梵鐘が鳴り響くように痛みが頭中に伝播する。とても不快な痛みだった。今すぐに横になりたい。汚れが少ない上着も土砂に塗れてしまうけど、仕方ない。だから……少しぐらい。
崩れゆく思考の中で両目が捉えた草木や土砂があまり堆積していない場所に体を持っていくようにして倒れ――
「クソッ!」
亮は本能のままに沈みゆく意識、体に抗い体勢を元に戻した。
危なかった。もし、あのまま身に委ねていれば楽だったかもしれないが、それでは紫音に会うことができなかった。
「紫音……!」
やはり痛みは未だに続いている。それでも、亮は歩を止めずに森の出口へと向かう。体中に伝わる汗が不快だった。泥濘に塗れた服も……そして果てには自分を囲む社会も何もかもが邪魔だと思うように至った。
人間は誰しもがそう思う時が来る。早ければ小学生の頃から、自分を束縛するあらゆる物が枷と感じ窮屈さを感じる。亮がそう思うようになったのは自分の思い描いでいた道が崩れ、気づけば自分の周りの世界が彼を突き放していたときだった。ただ、完全には突き放しているわけではなく、彼をか弱い何本かの鎖で繋ぎ留めており、それが亮と社会とを結ぶ命綱だった。
「紫音……ここにいてくれ……!」
亮が汗水と土に塗れ自分が属する社会にはまるで関係の無い一人の少女を追うこの瞬間はその鎖を破ることに他ならない。いや、鎖自体は既に解かれていて亮は社会から見捨てられた存在なのは確かなのだが、それでもなお自身に繋がる鎖を再び社会と繋ぎとめようともせず、むしろその逆を行く姿は実に哀れなのかもしれない。
しかし……時にこうして人は尊重すべき社会的地位や存在する意味を投げ捨ててでも行うべきことがある。無い人間もいるだろう。その人間たちはおおよそが社会において安定した場所を得る。
亮は思う。今俺がやっていることはそれとは真逆の事だけど、そんなことをどうでもいいと思えるぐらいに紫音が好きなのだと。社会なんてどうでもいい。逃避行なんて上等だ俺は。俺は……
「紫音が好きだから……!」
そう言った亮の表情はとても清々しいものだった。何物にも屈しない、ただ自分の追い求めることだけに純粋な人間の表情だ。そんな人間に……社会的地位や存在理由を問うても無意味だろう。
泥濘に揉まれ、疲れと痛みで鬱蒼としていた視界が急に開かれた。世界はオレンジと緑が織りなす色彩を見せ、亮は森を抜けたことを察した。それは偶然か必然だったのかは神のみぞ知るところだが、そこは紛うことなき亮が最初に辿り着いた場所と同じ位置だった。
そして神は再び彼に褒美を用意した。亮は遠くで鳴き声をあげる蝉や、どこかへ帰るカラスの羽音の周囲に溢れる音や木々の色は一切目に入らず、ただ一点だけを見つめていた。
――黒く澄んだ、陶器を思わせる流れる髪が風に靡くのが見えた。そしてその元で同じように揺蕩う白いワンピースの布地。
宗宮紫音が、そこにいた。
奇しくも彼女が浮かべていた表情はあの時と変わらない無表情でありながら虚ろ気なあの顔であり、死を感じさせる脆さを抱かせる。
その死を一層濃く感じさせたのは紫音が立つ場所にあった。この丘に切り立つ崖先に彼女は眼下を俯瞰するようにして佇んでいた。その状況もあの時と同じであり、亮は異常なまでの既視感を味わう。何故、紫音がここにいて、あんな場所にいるのか。そんなことを考える間もなくデジャヴはあの日へと亮を誘う。
ここで紫音を最初に見たとき、やっぱり俺は彼女のことを忘れていた。すごく奇麗な同い年くらいの女の子が立っていて、ただひたすらに目を奪われた。それでも死を思わせるあの佇まいは今も変わらない。
なんでそんな悲しい顔をしているの?そんなことを、あの日と同じように紫音のそばに駆け寄って訊きたかった。
確かにここでこうして亮と紫音が再開したのは二度目だが、あの時とは違うことがある。
それは亮が紫音の事を心から思っていることだった。もう記憶の彼方にはいない。目の前にいる女の子は俺の一番大事な人なのだ――。
不意に風が吹いた。風は周囲の物を揺り動かし、草木に止まり安寧を享受していた鳥が危機を感じ羽音を立てて空へと一斉に飛び立った。亮はその風に体を持っていかれそうになった。体調の悪さも原因の一つではあるが、それを抜きにしても風は亮程の成人男性を動かすほどに強い。
――これはあの日と同じだ。デジャヴは今この時を映す亮の双眸に、ここであった事を克明にそれに重ねた。あの時もこんな風が吹いて俺は体勢を崩して、そして風は容赦なく紫音にも吹き付けて……。
「紫音!」
風は既に吹き抜けた後だった。周囲には数分前と変わらぬ安穏が立ち込め、何事も無いような世界を見せていた。ただ一つ、大きく体勢を崩し寸でのところで崖から身を遥か下の草原へと投げんとする紫音を除いては。
亮は一目散に駆け出して紫音の元へ急いだ。地面から伝わる踏圧による痛みが足に広がる。それに連動したのか頭に抱える痛みも唸りを上げた。正直苦しい。だけど、ここで倒れてしまえば誰が紫音を助けてやると言うのだ。
一歩一歩が苦しかった。それは痛みによる物もあれば、紫音の事を忘れてしまっていた自分への悔いによる痛みもあった。もし、幼いころに迫られた選択をやり直せたらとここに来てから何度も考えた。
この村に残り、紫音と共に生きる道を選んでいたらどうなっていただろう。彼女を襲う災禍から身を張って守れただろうか?……それとも他の村人のように紫音を詰ったのだろうか?
やりなおせるのだろうか。亮は一歩一歩ずつ紫音に駆け寄る毎に走る痛みの最中で考えた。
未来のことを思うのもIFなのかもしれない。この先に何が待ち受けているかは実際に行ってみないとわからないが、それと同時に行かないという選択肢もある。IFというものは過去を案じ、果たしてあの道を辿って良かったのか。はたまた行かないほうが良かったのかを案ずるものだが、それはきっと未来を考えるときにも同じことが言えるはずだ。
そしてその未来に通じる選択を亮は眼前で迫られていた。
紫音を助けるか、否か。
いや、正確には紫音と傍にいるか、それを否定するかになる。社会から見捨てられた少年少女が再びその社会に回帰し生きていくか。もう一度自分ひとりでやり直すか。
「……っ!」
亮は不敵に口許を歪ませた。あぁ何だ。なんて稚拙な二択なのだと。自分で提示した選択肢であるが、それは提示する必要もないことに気付き、亮は足を進める速度を高めた。それに比例して痛みも増すが、それは言われなければ気付かない程に亮自身にはその痛みが薄まって感じられた。
「紫音!」
その呼び名に反応し、亮の方を向いた紫音は『ここに来るはずの無い人間』が目の前に現れた驚きでハッとした表情を浮かべて、紫音もまた彼の名前を呼んだ。
「亮くん!」
なんとか両足を地につけようとするも不安定な体勢を立て直せない紫音のその姿は今の彼女そのものだった。一度は支えを受けて立った紫音だったが、その支えは……亮は自分といることで不幸になると思い振り払った紫音は再び自身を不幸の渦に身を投げ入れようとしている。
――そんなことはさせない!
亮は差し伸ばされた紫音の手を取り自分の方へ強引に寄越した。それにより紫音の体は亮の方へ向かう。
人は……誰だって助けを必要とするんだ。親から、社会から見捨てられた俺が言ったって何の説得力もないかもしれない。だけど、だからこそ分かる。俺も……俺も誰かに支えてもらいたいんだ。
紫音の体はやっぱり羽のように軽かった。それが幸いして彼女を自分の胸元へ手繰り寄せるのは容易だった。亮は紫音の体を包み込むように抱きしめ、二度と不安定な状態にならないように自分の体で離さないように固定する。
――だから俺を……君に支えてもらいたい。これから先もずっと……
「紫音、大丈夫だった?」
「りょうくん……なんでぇ……!?なんで助けたの!?」
途端に泣き崩れた紫音は涙を見せることを隠すこともせずに泣きじゃくった。その啼泣は暮れる夕陽のなか、次第に夜の帳が下りる世界でどこまでも響き渡った。涙が瞼から溢れ、亮の胸元を濡らす。果たして今、雨は降っていただろうかと亮は念のために空を見上げるもそこには雲一つない晴れ渡った空がある。その中には星々が輝き、もうすぐ夜になることを予感させる。
「なんで!私はあなたを殺しそうになった!そんな私を……私なんかを……」
やっぱり紫音はそう思ってここに来たのだ。自分の存在が亮を死に近づけさせ、不幸にさせてしまった責苦に追いやられた末に出された答えが……自分を殺す事。
「紫音。俺、言ったよね。君と一緒にいたいって。そして君を支えるって。だから俺は君を助けに来たんだ」
「……っ!」
風が二人の間を縫うようにして吹き抜ける。すり抜けざまに紫音の髪と心を揺らし、亮は再び風に紫音を攫われないように彼女を支える両手に力を込めた。風が空に帰った後、二人を静寂が包む。いつ風が吹くかは分からなかったが、こうして紫音を支えている間は悠久のように思える。
ずっと、こうしていたい。
亮は未だに泣き顔を浮かべる紫音に言葉に変わる約束をと、紫音の艶やかな唇にそっと口づけをした。
もう、離さない――。
未来の事はやっぱり分からない。それゆえにIFなのだ。もう過去を振り返るのは止めよう。そして、今の事を思うのも。俺が……俺たちは未来に繋がる選択肢を選ばなくちゃならない。
亮はそう、未来を共にするとした最愛の少女を胸にし、地平線の彼方に沈む夕日を見て思った。
3
紫音が泣き止んだのは世界が暗闇に満ちてからだった。空には星が顔を見せ、人工の灯りに乏しい雨崎村で見上げる夜空はさながらプラネタリウムのようである。夏の大三角もはっきりと見え、亮はなんとなしにそれを指でなぞる。アルタイル、ベガ、デネブ……名前だけしか聞いたことが無いので一体どれがどれなのかは分からなかったが、その眩いばかりの輝きの前ではそんなことはどうでもいいとすら思えた。
「ごめんなさい」
紫音は固く閉じていた口を開けてくれた。それだけで亮は嬉しくて、別にいいよと言って紫音の肩に手をまわして自分の近くへ寄せた。布越しに伝わる紫音の体温は確かな熱を持っていて、彼女がここにいることの何よりの証明だった。
二人は高坂家には戻らず、あの丘で二人して肩を並べていた。紫音が泣き顔で顔を濡らしていたというのもあるが、今は……こうして二人でいたかったのだ。陽が落ち、熱さを地表にばらまく存在がいなくなっても世界には熱気が渦巻いているが、時折吹く夜風がそれを中和させ心地よい気温となっている。まるでずっとここにいれるような錯覚すら覚えさせる。
「なんで……私を助けたの?」
その言葉のニュアンスから亮は、やはり紫音はあの場所で自らの命を絶つつもりだったことを知る。そしてそれを亮が知っていたように思えるような問い。
ふと、亮は答えを保留にしたまま紫音の瞳を、顔を見る。面持ちこそは無表情であったが、泣きはらして腫れた瞳は感情の残滓だった。
「自分は魔女だから……魔女だから人に災いを与えてしまう。現にあなたは私のせいでけがを負った」
「えっ……」
「こんなところだろ?紫音が思っていることは」
紫音は亮の言葉に無言で返す。それは肯定の意に他ならない。そんな紫音の手の平を亮は握りしめ、保留していた答えをかける。
「前にも言ったじゃないか。俺は君を支えて一緒に生きていくって。だから君を助けるのは当然のことなんだよ。だから紫音。これだけは覚えていて欲しい……君は魔女なんかじゃない。僕の好きな人。宗宮紫音なんだよ」
……この言葉をもっと早い段階で言えたらというIFが過る。しかし俺が選ぶべきは未来のIFなのだ。もう、過去は振り返らない。亮はその強い決意を紫音の手を握る力に変えて示す。
「……ごめん。ごめんね亮君。私は……私のせいで貴方や響さんがひどい目に遭うような気がして嫌だったの。魔女のお話なんてくだらないものなのに、でも色々な人に言われると本当にそうなるような感じがしてたの。……そして現に亮君はけがを負った」
紫音は指先で亮の頭に巻かれた包帯をなぞる。ザラリとして包帯の表面を柔肌のような紫音の指先が伝り、最終的には頬に至った。
「だから私は大切な人たちを守りたいから、その原因である私が死んでしまえば……それでいいと思ったの」
それで魔女は死んで全てがお終い。紫音はそう呟いて再び顔に暗い影を落とした。まるで親に怒られた子供のようなバツの悪い顔――。ああ、そうだ。そういえば紫音は子供の頃、親に怒られたときはこんな顔をしてたっけ。しゅんとした、こんな顔を。
「紫音。それは間違いだよ。もし紫音が死んでしまえば俺は……いや、響さんも悲しむ。それは果たして本当に大切な人を守ることになるのかな?少なくとも俺は違う。俺は紫音に死んでほしくなんかない」
「亮君……」
「紫音は俺の大切な人なんだ。だから……もう二度と死ぬなんてことしないでほしい」
それは心からの切なる思いだった。気づけば亮は紫音の華奢な体を抱きしめていた。もう、この脆くて今すぐにでも壊れしてしまいそうな子を離したくないが故の無意識の行動だった。幸い、ここには人目は無い。二人を見ているのは遥か頭上に浮かぶ星々と月だけだ。
だから紫音も人目を気にすることなく再び涙を流した。月明りに浮かび上がる透明な雫は頬を伝う。とても奇麗な、嘘偽りの無い人間にしか流せない涙だった。
「……うん。私ももう二度と……あなたから離れない」
程よい気温となった真夏の夜とはいえ、あのまま外にいたら二人して風邪をひいてしまいそうだったので高坂家へと亮たちは足並みを揃えて帰宅の途に就いた。雨崎村には街灯という近未来的な設備がないため二人の行く手を導くのは月明りしかない。それでも先まで見通せることが出来るのは人間の体の神秘さだろうかと亮は思う。
そんな調子で今の時刻が分かればいいのにと恨めしそうに空を拝む。太古の人間は空に浮かぶ月、太陽、そして星々の動きから時刻を推定していたらしいがそんなのは無理だと亮は見当もつかない現在時刻を推察する。亮が持つ文明の利器たる携帯電話は高坂家に置いてきてしまった。紫音の事を思うあまりに携帯のことなど眼中にすらなかったからだ。
まだ日付は跨いでいないはずだ。そんなに時間は経っていないと、亮は自分の腹時計と感覚からそう判断した。もっとも、この村に来てからの彼は時間に縛られない生活を送っているので当てにはならないのが正直なところではあるが。
亮は紫音に隠していたある事を紫音に打ち明けなければならなかった。それはこの先、二人が共に生きていくならばどうしても隠すことはできない重大な秘密である。それを打ち明けたとき、紫音が何を思うのかは分からない。だが、それを言わなくてはならないのだ。もし日を跨いでしまったら告白する勇気が薄れてしまうのが怖かった。だから、日付が変わる前に、この気持ちが変わらないうちに紫音に言わなくてはならない。
「紫音。俺は君に言わなくちゃならないことがある」
実際に日付が変わっているかどうかは定かではないが、もしそれを視覚的に確認してしまったら気が変わってしまいそうだったので硬く閉ざしていた口を開けて紫音に呼びかけた。
「なに?」
思ったよりも口調が硬かったらしく、紫音は亮の決意表明に悪戯な笑みを浮かべた。そんな紫音の笑みが、亮の気持ちをほんの少し楽にさせた。だが、その甘さに身を委ねてはいけないと亮は再び閉じかけた口を開き言葉を繋ぐ。
「……実は、俺はこの村に来るまで君の事を忘れていたんだ」
それは罪を告白することに似ていた。かつてこの村で同じ時間を過ごした少女はこの上ない友人だったが、今は隣で足並みを揃えて歩く最愛の人間となっていた。そんなにも大きな存在であるのに、亮は再会するまでの空白の期間において彼は紫音の事を影も形もなく頭の中から忘れ去っていた。それはあまりに虫の良い話ではないかと……亮は思ったが故の告白だった。
「この村を出てからしばらくは君の事を覚えていた。だけど……前にも話した通り、俺は勉強をすることが自分の存在理由になっていた。ひたすらに勉強に時間を、自分自身を打ち込むのに必死のあまりに色々な事を見失った。……その一つが君だったんだ」」
亮の独白を紫音はただ黙って聞いていた。その時の表情は如何なものか亮は見やると、悲しいようで、どこか予感めいた表情を浮かべていた。もしかしたら、芹歌という偽名を看破できなかった時点で紫音は薄々と感じていたのかもしれない。
亮は独白を続けた。
「気づけば時間はずいぶん経っていた。君と過ごしていた時間はとうの昔に置いてきて、残ったのはこの村を捨ててまで望んだ未来のなりそこないだけで、得たものは何もなかった。本当に些細なことから『雨崎村』の名前を見かけなかったらここに来ることも無かったし、君と再会することもなかった」
微かな頭痛が頭に過り、アスファルトを踏みしめる足は一歩一歩歩くごとに痛みが増す。それは亮の精神とリンクしていた。
果たして紫音はこんな自分を赦してくれるのだろうか?亮はその重圧に心が音を上げそうな思いだったが、紫音の一存に身を委ねる所存だった。赦されない罪を犯したのだ。だから、ここで縁が切れたとしてもそれを受け入れるしかない。
ふと、紫音は歩みを止めた。顔を伏せた紫音のその姿に亮は言いようのない気持ちになる。やはり紫音は自分を赦してはくれなかった。あぁ、いまから俺を拒絶する言葉をかけるのだろうか。
――諦めと、そして自分の罪による重みが心にのしかかる。
そんな思いの中で見つめた紫音は月明りに照らされひどく奇麗に見えた。白く透き通る柔肌を湛える艶やかな黒い髪。そして見る者を魅了する美しい彫刻のような顔立ち。こんなにも美しい少女がかつては自分の隣にいたのだろうか。やはりそれは記憶違いであり、彼女の事が記憶から欠落しているのはあの頃に見たのが幻影であり、実体のない存在を頭は記憶することができなかったのではないだろうか?
その芸術品の口許がニコリと歪む。それはとても悪戯な笑みであり神秘的ですらあった。
「しお……」
「亮くん」
亮が紫音の名前を呼びかける前にそれは紫音自らの声で遮られた。亮は何も言葉が出ずに、目の前の少女を見つめることしかできない。
亮は嫌に周囲の音が鮮明に聞こえてくるのが分かった。草むらの中から飛び交う鈴虫の声、用水路に流れる水流の音。そよ風に揺れる草木の音。これは今から紫音の話す事をよく聞けとの神……いや、自分からのお達しだろうか。
「私は……私は貴方を覚えていたよ。この村を出てからも、村の人たちに魔女と言われ始めてからも。ずっと、ずっと……」
亮は刺された。物理的に刺された訳ではないが、心に紫音の言葉一つ一つが鋭利な刃物のようにして突き刺さり胸に苦しさを覚えた。
紫音が自分の事を思い続けていた事実に亮は耐え難い罪を感じ苦しみを吐露したくなる。しかしそれをすることは自分の弱さを露呈することであり、一たびその姿を見せてしまえば紫音は自分を赦してはくれないだろう。
「村の人たちに虐げられている時、思っていた。この村で一時期仲良くしていた男の子は自分を守ってくれたんじゃないかなって」
人がこうありたかったと過去の話をするとき、大概は自分の理想的なイメージを語るものだ。
そのIFはありえた過去の事象だった。亮もそのIFに思いを巡らせた。もし、この村に残ることを選んだならば自分はどのような道を辿ったのだろうかという理想を。その中には当然、紫音の言う通りの出来事もあったはずだ。
「紫音……その……」
亮は言おうとした言葉が途中で言いよどんでしまった。紫音は続く言葉を待つように亮を見る。先ほどの神秘さを伺わせない能面のような無表情さで彼の瞳を捉える。
なんで私を助けてくれなかったの?そう言っているようにすら思える。いや、そう思っているに違いなかった。もし紫音の語るIFが現実のものになっていたら少なくとも彼女は本来の明るさを損なうことはなかったかもしれない。
「ごめ……」
「それは違うよ」
ごめんと言いかけた亮の言葉を紫音は否定する。あっけにとられた亮の眼前には再び笑みを浮かべて自分を見つめる紫音がいた。その笑顔は遠い日の紫音の面影と重なった。いや、それはおかしい。なぜなら過去の紫音も今の紫音も同一人物であり、笑顔に差異がある方が可笑しいのだ。
「亮君。こう思ってるでしょ。『もし俺がこの村に残っていれば』って」
「えっ……」
図星だった。亮はどうしてわかったのかと紫音に問うた。
「亮君はさ、自分を犠牲にしすぎなんだよ。私のことや前に話してくれたこの村を出てからのことだってそう。常に自分があるべき姿を追い求めてる。……でも現実は大概上手くいかないよ」
紫音の言葉通りだった。生まれながらの性なのか、それとも環境がそうさせたのかは今となっては分からないが亮は思い描く事に理想を求めた。そして、その理想こそが最良であって、それ以外は何物でもない。自分では気が付かなったが、そんな考えが自分の中にあった。
「でも……それでもいいんだと私は思う。……もし、魔女と呼ばれることが無かったらと思うことはあるよ。けれど……それもやっぱり現実なんだよ。もう抗いのようのないね」
「俺が……君の事を忘れたことも?」
紫音は黙って頷いた。それは赦しだったのかもしれないと亮は頷いた後に浮かべた紫音の笑みを見てそう思った。
「そう。それも私に起こったことと同じで仕方のないことなんだよ。だから私は……あなたを赦す。それに私たちに今必要なのは……先のことじゃないかな?」
「紫音……ありがとう」
「どういたしまして」
そう言って紫音はペロリと舌を出して笑顔で応えた。
紫音の事を忘れていたことに対する罪、そして自分自身を苦しめていたこと。そして……紫音が昔のように笑顔を見せてくれたことで亮は胸につかえていた物が取れた思いだった。その副作用で亮は思わず笑み零れた。それにつられて紫音も噴き出す。
間違いなく、ここが世界で一番幸せな場所だった。
「そうだよな……もう起こったことはしょうがないもんな。だから……」
「うん。私たちは……先の事を考えないとね」
先の事。それはすなわち未来だった。過去や現在にもIFを巡らすことはできるがそれには限りがある。だが未来であるならば選ぶ選択肢に限りはない。
「それと……私にも貴方に隠し事をしていた」
「えっ?」
亮は寝耳に水といった感じで紫音の突然の告白に呆気を取られた。紫音は数分前に亮が浮かべていたようなバツの悪い顔を浮かべている。
「隠し事って……?」
「私と亮くんが初めてここで会った日のこと覚えてる。そう、ちょうどあの場所でのこと」
「……覚えているよ」
亮はあの時の情景を忘れようがなかった。しかし紫音の語る秘密とそれが果たしてどう関係するのか見当もつかない。それ故に亮は紫音が語り出した真相を聞き逃さんと耳を傾ける。
「私、あの時死のうと思ったの。世界からも嫌われてこの先の道筋も何も見えない今の状況が嫌で仕方がなかった。私が生きている意味なんてないって。だからいっそここで死んだ方が世界には良いんだって」
だから紫音はあの時、あんな場所にいたのか。そうなるとあの時浮かべていた生気を感じさせない瞳の理由にも納得がいく。死を望む人間に生きる理由を問うのは無為なことである。それを紫音は瞳に映していたのだ。
「本当にあと数秒、亮君が来るのが遅れていたら私はここにはいない。誰にも看取られずにあの場所で死んで朽ち果てるか、運よく……もっとも、この村で私の死を悲しむ人は響さんしかいないから分からないけど、死んだ私を見つけられたらお葬式くらいは挙げられたのかもしれない」
亮があの場所へ辿り着いたのは全くの偶然だった。しかし紫音が語った真相を聞くとそれは必然だったのかもしれないと思えた。本当に何の気も無しに体が向かった先があの場所だった。
「……風が吹いたとき、ああこの風に乗って私は死ぬんだと思った。このまま私を死へ誘ってくれるんだって。だから私を受け止めた亮君の登場には驚きを隠せなかったの」
あの時紫音を助けられたことは運命だったのだろう。そう思えるなり亮は隣で自分を見つめる紫音が尚更愛おしく感じられた。その表情に死を匂わせる気配は微塵もない。あるのは生き生きとした表情のみだ。
「早く帰って晩御飯の準備しなくちゃ。響さん疲れてるだろうし。ねえ手伝ってね?」
「もちろん」
まずは……夕食のメニューを二人で考えよう。カレーにシチュー、和食と今からなら何でも作れる。こんな感じで二人で歩いていけばいいんだ。
亮は紫音の手を握り、それに対して紫音も握り返した。
「私を見つけてくれて……ありがとう」
「それは……俺の言葉だよ」
そう、こうして二人で――いつまでも。
4
それは同じ時間で起きた出来事だった。
紫音と肩を並べてカレーを作っている時にズボンのポケットに緩やかな振動が亮の体に伝った。発信源は携帯であり、バイブレーションの長さからそれが電話であることを察して紫音に一声かけてから貸し与えられている自室へと戻った。襖を閉め、四角い空間に自分一人になったところで亮は未だに着信が鳴り続ける携帯の画面を見る。
そこには既に自分には縁がなく、もう関係が無いと思っていた人間の名前があった。しかしその繋がりは亮が勝手に思っている事であり、電話を寄越した人間はそう思ってはいなかったらしい。
亮は電話を取るべきか否か悩んだ末に取ることを選んだ。通話ボタンに指を重ねたときに発信者の名前がより鮮明に瞳に入る。その人物は電話帳には人名ではなく記号で登録してあった。ただ一文字。『父』と。
「……もしもし」
ディスプレイに通話時間が刻まれる。一秒。
「亮か」
程なくして電波に乗って聞き慣れた父親の声が返ってきた。二秒。
そしてガサゴソと携帯越しに紙片をまさぐる音が聞こえてきた。既に手元に用意してあったようでその紙に書かれていたことを読み上げるのに時間はかからなかった。七秒。
「大学から成績通知書が来た」
「……そう」
学期終了時には成績通知書が保護者の下へ送られるのは知らないことではなかった。入学時の学科のオリエンテーションでその旨は既に言い渡さられていたからだ。その時は本格的に自分には逃げ場所が無くなったと思っていたが、それはどうやら役目を見失うことなく亮を追い込んだようだ。十秒。
「なんだこれは?単位が四つしか取れてないじゃないか。一体何をしていたんだ?」
むしろ四単位も取れていたことに驚いた。果たして何の科目だろうか。そんなことを考えるばかりで父親の言葉が上手く頭に入ってこない。けれども怒り心頭でありこれから息子にかける言葉がどのようなものかはすぐに分かった。十五秒。
「ちょっと……上手くいかなくて」
それは事実だった。十七秒。
「またあの時と同じか?……今回はあの時のようには許しはしないぞ」
あの時。それは言うまでもなく希望していた大学の試験に不合格を食らったときのことだ。あの時も確かに父親の言う通り上手くいかなかった。少なくともあの時はプレッシャーや重責といった言葉が免罪符となってもっともらしい言い訳となったが、今回はペラペラな言い分にしかならない。そうなるに至った理由も全て自分にある。それも自分が社会から逃げ出すというあまりに幼稚なことに起因している。二十秒。
どう弁解をしようかと亮は電話越しに伝わる父親の怒気を感じつつ言葉を模索するも出てはこなかった。
体調を崩した。
寝坊した。
テストが上手くできなかった。
それらは全て虚であり言い訳としてはもっとも最低なものだった。そんな嘘すらも並べて言葉を返そうとするのには亮の心の奥底には親との縁に未練を感じているからである。
終ぞ言葉は出なかった。あるのは沈黙か意味を為さない言葉の羅列だけであり、その果てに父親の呆れたような溜息だけが返ってきた。四十秒。
その溜息の後に父親は息子にかける言葉としては到底思えないことを並べた。
嘘つき。
出来損ない。
失望。
絶望。
果たして自分は何のために生きているのか分からなくなるくらいに怒りと共に亮に言葉を投げた。その間、亮は言葉を返すことなくただ黙って父親の怒りを浴びた。もし単位を落としてしまったらその時点で親子の縁を切るという取り決め自体は如何なものかと今でも思うが、自分が社会から逃げ出したことで親が支払った多額の入学金や授業料を溝に捨てさせてしまったのは逃れようのない事実なのだ。そのことを思えば父親が怒りを自分にぶつけるのはひどく合理的であり反論のしようがない。
十何分かの嵐が過ぎ去り束の間の静寂の後に父親は本題に入った。
「約束。覚えているな?」
「うん……」
そして総通話時間がニ十分に迫る頃、父は子に勘当を言い渡した。
あっけないものだった。生まれてからの十九年間で最も近しい隣人は五秒にも満たない時間でその関係を解消した。退学の処理、家の事もこちらでやっておくからお前は二木家に関わるなと亮に告げる。それはとても家族間で交わされる話ではなかったが、既に二人は血液以外に関わりが無いので当然だった。亮は改めて突きつけられた現実に茫然自失し、黙って父親の言葉を聞く。
「もういい、好きに生きろ。もうお前は知らん人間なんだからな」
弁明の機会が与えられることも、惜別の言葉を交わすこともなくして通話は一方的に切られた。通話時間は三十分少々。この短いようで長い感じさせる時間で二木亮は家族を失った。
同刻。
高坂響は今日の仕事が終わり、いざ帰らんとしたときに携帯に着信が入った。ディスプレイには高坂康とある。他でもないこの世に一人だけの父親だ。用件は察せられたが無視することはできないので応じることにする。
「もしもし」
「今仕事中か?」
「いいや、ちょうど終わって帰ろうかなってところ」
響は作業着のポケットに収めてある車のキーに備え付けられている解錠ボタンを探り当て、セリカの鍵を外した。分厚いドアを開けて車内に入ると夏の暑さがこもっていてひどく不快だったので早々にエンジンをかけてクーラーをつけた。温度のダイアルを一気に最低温度に持っていく。
その間にも会話は続き話が本筋の方に入っていた。それは響が察していた通り村の当事者問題に関することであり、それについて話したいから今日会えないかという旨の内容だった。
インパネに表示されているデジタル時計は17時を少し過ぎたことを知らせた。ここから村まで一時間少々。用事を済ませれば家に帰るのは19時近くだろうか。紫音達には悪いが一度寄り道してから帰ることにし、父親の要望に応えてセリカを雨崎村の実家へと動かした。
「――いま、なんて?」
響はたった今、父親から聞かされた言葉に疑いを持って再び聞き直した。通された部屋にいるのは響と父親だけであり、更には窓も全て閉じられているので互いの声を遮る要因は一切ない。それゆえに少し前に対面の父親から聞かされた言葉が聞こえないはずがなかった。しかしそれでも、思わず聞き直してしまう程にその言葉は衝撃的だった。
「もう一度言う。お前は次期の雨崎村を統治する当主の後継者から外された」
「そんな……」
響は寝耳に水と言った感じで呆然とするしかない。当主の地位に大した執着は無いが、その地位に就くことで紫音をこの村の悪意から守ることが出来ると思っていた。そして自分はその地位に就く人間であると。それは会合の席でも、そして自負すらもあった。
それが何故……?
「理由を……聞かせてくれますか?」
自然と響は父親にではなく当主に対して聞き質した。そして短い沈黙の後に当主はその問いの答えを話し始める。
理由はこうである。
次期当主候補の高坂響はあまりに宗宮紫音に肩入れしすぎているのが問題だった。この村において宗宮紫音は魔女に他ならない。人々に不幸をもたらす魔女が村を統治する人間の加護を受けるのは如何なものか――という声が雨崎村を担う人間たちの間から上がったのである。
この村は紫音を魔女……要は共通の敵とみなすことで均衡を保っている世界である。それが響の手によって失ってしまえば村の運営に支障を来すというのである。
「馬鹿な……!」
響は思わず拳を振り上げて床に敷かれている畳に振り下ろした。鈍い衝撃が拳に伝わり、とても不快だった。
なぜ紫音を目の敵にする!?
もとはと言えばこの村の人間の悪意が生み出したことが原因なのだ。何も言われる筋合いの無い宗宮夫婦を死に追いやり、紫音を一人にさせた。そのことに負い目を持つならば……持って当然なのだが、せめてもの償いとして紫音を守ることがこの村の人間としての責務なのではないのか?
響はその思いを胸中に留めるだけでなく言葉にして当主に問うた。
その時、当主……父親が浮かべていた苦虫を嚙み潰したような顔を見たとき響は察する。きっと父親もこっちの側の人間なのだと。しかし現実という壁は厚く、この世界で自分を。そして関係する人間を円滑に維持するにはそういった判断をすることも時に必要なのだと……そうとも捉えらる顔色だった。
「それじゃあ……私があの子にしてやれることは……?」
「……もう厳しいかもしれないな。今日まで宗宮のお嬢さんに目立った危害がなかったのはお前が次期当主であるという威厳からだったが、それが失われるとなると……な。次の当主は早々に決まったよ」
そう言って挙げた名前に響は思わず目が回りそうになった。高坂家の分家出身のひどく狡猾で日ごろから紫音を魔女と罵る人間だったからだ。こいつが当主になってしまえば紫音の扱いが今よりも苛烈になるのは想像するに容易い。
「……もう一度言うぞ。響」
私は……どうやって紫音を……
「大人になりなさい」
再び響は紫音を守れない悔しさから畳に拳を入れた。畳は顔色一つ変えることなく、嘲笑うように響を見つめるだけだった。
5
高坂家はまるで座礁した船のようだった。
皆一様にして何もないように振舞ってはいるがその実は航路の地図を失っていた。
ある者は社会との繋がりを完全に失くし、またある者は世界からの悪意に身を晒されていた。そしてまたある者は手にしていた力を失い、愛する家族を守ることができなくなった。
現状を維持することが難しくなっているのだ。二木亮は完全に社会から落伍し、もはや学生でも何でもない人間となっていたし、宗宮紫音は高坂響が手にしていた権力による加護が失った今、自身に降りかかる敵意に身を晒されることになる。このまま三人で高坂家にいるのは……そろそろ限界が来ていた。
ついに親からも見放されてしまった。
割り切っていたはずの現実が目を瞑った途端に押し寄せて亮を苛んだ。眠ってしまえば忘れることが出来るのだが、そう簡単に行かないのが人間である。亮は羊の数を数えようが、いくら寝返りを打とうが終ぞ眠れることが出来ずにいつかの夜と同じように縁側へと体が行っていた。
そこには既に先客がいた。縁側の縁に座り、気だるそうに空に浮かぶ月を眺める高坂家の家主。高坂響だった。あの夜は響から亮に声をかけたが今回は逆の構図になる。
眠れないんですか?
そう調子よく訊けそうな感じではないのが響の後姿から見てとれた。思えば夕飯の時も響は暗い表情をしていたことを思い出す。何かあったのだろうか。そう思うのが自然であり、それを踏まえるとやはり声はかけづらかった。
「二木君?」
響は振り向くことなくして亮の存在に気付いた。名指しまでされた以上、素通りすることはできなかったので、そうですと返して亮は響の近くまで寄った。キイキイと木材で出来た床が悲鳴を上げる。京都にある二条城では鴬張りという廊下を歩いた途端に音が発して侵入者を感知する仕組みがあったことをふと思い出した。響はその床と同じ作用を図らずももった床から聞こえてきた音から自分の存在を把握したのだろうか……亮はそんなことを思いながらも響の隣に腰掛けた。
「眠れないんですか」
「そんなところかな……君も?」
「はい」
これはいつかの夜の再現だった。あの時は亮が先にここにいたが、今回はその逆になる。されど構図は同じでありその再現となると話す話題は必然的に紫音の事になった。
「そういえば響さんと紫音って従姉妹なんですよね。なんだかちょっと実感がわかないっていうか……」
亮は隣で虚ろ気な瞳で自分の家の庭を眺める響に訊いた。あの視線の先には何があるのだろうか。亮は響のその視線を追うが、そこには夜風に揺れる木々の葉しかなかった。それから響は微笑を浮かべた後に空を仰いだ。
「……そんなに似てない?私たち」
その時の響の表情は紫音が時折浮かべる悪戯なあの笑みによく似ていた。少なくとも、その表情だけを見れば二人は従姉妹どころか姉妹として通用しそうである。
なぜ自分は響にこう訊いたのだろうか?
二人の間にある年齢差……亮は響の年齢を詳しくは聞いてない。もとい聞けないのだが、少なくとも自分達よりも5,6歳上であるのは彼女が仕事に身を費やしていることから感じ取れた。その不確かながらも一定の差はある年齢差による見た目の違いでそう思ったのだろうか。
それとも二人には実は血縁関係がないのか。そんな妙な勘繰りも起こしている自分もいた。
……実はそれが根底にあるために亮は響にそんな問いを無意識ながらにかけたのかもしれないが。
「もう、すっかり家族みたいなものだと思ってたのにな」
「え?」
響が漏らしたその言葉は夜風に乗り亮の元へ運ばれた。
家族みたいなもの。それは血縁関係があるならば使われない表現であり、まるで響と紫音の関係が模造品のような家庭であることを思わせるニュアンスに亮は思わず訊かざるをえなかった。
「どういうことなんですか…?」
わずかな沈黙が二人を包む。その沈黙の間に亮は考えられる要素を今更ながらに訪れた眠気の中で思案するが、その淀みを払う程複雑なものではないことをすぐに浮かんだ結論が物語る。
二人は……従姉妹でも何でもない赤の他人なのだろう。
答えは必ずしもそうではないが、そんな予感は前々からしていた。従姉妹という間柄なのに響に遠慮がちでな態度で接する紫音と、村で災禍に苦しむ紫音の唯一の味方であり続ける響。この村において魔女と扱われる紫音と生活を共にすることはそれなりに事情があるのは何となく察していた。紫音の響に対する遠慮がちなところはそこに何かあるのではないか……。
「もう察しているんでしょ?私が……私たちが本当の従姉妹じゃないってことに。それどころか血縁関係なんてこれっぽっちもない赤の他人だってことに――」
その時響が浮かべた微笑みはやっぱり紫音のそれとそっくりで、彼女の話した事と真逆であり実に皮肉だと亮はその微笑みに見える紫音と重ねて、なお思った。
時間を指し示す機械がない世界で流れる時間は緩慢だった。それは視覚的に時間の経過を知る術がないことによる時間という束縛からの解放が故なのか、響の話を理解するのに時間を要したからだろうか。亮はいずれにしろ流れる時間がやけに遅く感じた。
響は亮に自分の事、そして紫音が何故このようなことになったかの原因を語った。
亮は思えば響のこと、紫音の件を断片的にしか知らずその真相を知らないでいた。高坂響は紫音の従姉妹でありこの家の家主という認識で、紫音の方に関しては両親が自殺を遂げた事で村の人間から古くの伝承から魔女として認められてしまった……ということしか知らない。
まず自分はこの村の名家であり統治する権力を持つ家の生まれであることを話した。そしてその権力を実の父親が握っており、娘である自分は次代の当主であることが決められていて、その威光で紫音を守っていたことを淡々と語った。そして高坂家と宗宮家には何一つ関係の無い家系であることも。
この家は高坂家所有の別宅の一つで、紫音を自分の元に置くために父親に頼んでここに住まわせてもらっているとのことだった。
そして……響は目に見えて話すことを躊躇う様子を見せた後に、その固く閉じていた口を開いて語り出したのは紫音を取り巻くこの村の環境の真相だった。
すべてを聞き終えたとき、亮はイヤに周囲の音がクリアに聞こえた。葉が擦れ合うざわついた音、風に軋む家のどこかからの幽かな悲鳴。怒りや悲しみ、救い……いろいろな感情がごちゃ混ぜになって思考は複雑なのにどうもこうして感覚は冴えるのか理解ができなかった。
「この村は……どうかしてるんですか?」
「私もそう思うよ」
亮は宗宮家がこの村に引っ越してきたことは知らなかった。おぼろげな記憶を辿ってみても紫音は既にこの村の人間として生きていた。てっきりこの村の生まれだと思っていたのだ。
そして世界はそんな彼女を残して自分たちのエゴのままに拠り所である両親を殺した。実にくだらない理由だ。外部から来た人間はこの村の者ではないという子供じみた理論で人を苛むなど異常だ。ただそれは雨崎村では例外でもない、ごく普通のことであり結果として宗宮夫婦を殺した。それにより生じた唯一の救いである人を殺してしまったことに対する罪を感じる良心は紫音を魔女とし、すべてを彼女に償わせることで無に帰してしまった。
それがすべての原因であり、この村を取り巻く全てだった。自分たちの罪を覆い隠すために紫音を生贄にしたのだ。
不意に子供の頃の紫音が過る。いつもニコニコしていて笑顔を絶やさなかった少女は今は……僅かに笑うことしかできないでいる。あの頃の紫音は両親共々殺されてしまった……そのことを思うと亮には怒りの感情が渦巻き今にでも近くに住む村人の家に押し入り紫音が受けた痛みを与えたくなる衝動にかられた。
「君の思っていることはよくわかるよ。でもそれは……ダメなんだよ」
「……はい」
響は生まれながらの気質か、はたまた経験則からか亮の思っていることを理解し彼を諫めた。その言葉は亮に冷静さを取り戻す冷水のようであり、事実として亮は怒りが沈んでいった。
「もうあの娘と一緒に住むようになって7年近くなる。長いようで短かった……」
そう言った響は遠くに浮かぶ月を望んでいた。真円でなく窪みが生じて部分的に欠けた十日夜の月。それはまるで何かの暗示のように亮には思えた。月が常にその身を満たしていることは無い。時間が経てば闇に身を蝕まれその形を瓦解していく。今の……自分達の状況はまさにあの感じではなかろうか。
紫音のみならず亮の今の状況は隣にいる響によって保たれている。紫音は響の加護で実害的な被害を被らず、亮は身寄りのないこの村で生活が保障されていた。逆を言えば響がそれを放棄、あるいは維持することができなくなってしまえば二人の足場は崩れることになる。
そよ風が草木を撫で、夏の気だるくジメりとした空気が漂う。その中で二人は沈黙を保持し続けたままであったが、何かをきっかけにして響は時計仕掛けのようにして呟いた。
「私さ、今日父親……この村の当主に会って言われたんだ。次の後継者はお前じゃないってさ」
「えっ……」
その言葉を聞いた亮は途端に紫音のことを思った。紫音の身に被害が生じていないのは他でもない響の存在によるものが大きい。それは先ほど響の口から聞かされた通り、彼女はこの村の権力者の娘であり次期当主であるが故に他の村人は暴力に訴えることが出来ないのだ。しかし……その権力が無くなってしまえば紫音を守る傘は無くなってしまう。つまり、紫音は今よりも過酷な状況下に置かれる可能性が高いことを意味していた。
「それじゃ……紫音は……」
「今はまだいい。そのことを知っているのは一部の人間だけだからね。だけどその内それが公になると私ではあの娘を守ることが難しくなる」
「そんな……」
「悔しいけどそれは事実さ。私は自分に与えられるであろう未定の権力を我が物にしていたんだ。それはやっぱり未定に過ぎなかった。もう私にはあの娘と一緒にはいられない」
時折鳴き声を上げる鈴虫はリズムを崩すことなく音色を奏でる。それはまるで夜想曲のようであり響の独白に華を添える。
自分はどうとでもなっていい。親に勘当されたのも自分に原因がある。元居た場所、そしてこの村に居場所を失くしても、どこかに新しい居場所を探せばいい。だけど紫音は……紫音はどうなる?この村にしか存在を置ける場所がなく、自分に降りかかる災厄を守ってくれる傘も失う少女はどうすればいいのだろうか。
――答えは出ていた。亮は世界で一人取り残された少女を救うにはこれしかないと思った。それが正解なのかは分からないが、少なくとも今の現状よりも冴えたものであるのは確かだと思うのだ。
「響さんには謝らないといけないことがあるんです。実は……」
重苦しい雰囲気の中で亮も自分の置かれている状況を語り始めた。
「大学生じゃない、とか?」
「半分正解です。大学生なのは間違いありませんけど、夏休みになったからここに来たっていいましたよね。あれは嘘なんです」
そして亮はここに自分が訪れた本当の経緯、そして過去の事。それが起因する親子の縁が切れた話を響に語った。
時間の経過がやけに遅く感じた。時計があれば時間を可視化できるのでその感覚は正されるが、今はこうして誰かに自分の気持ちを打ち明けるときは際限を感じさせないほうが良かった。
そしてその緩慢な時間の中で全てを話し終えたとき、響はただ黙って亮の顔を覗き込んでいた。嘘を見透かすようなその表情の前には自分の独白すらも意味がないもののように思えた。
「……そう。君も大変だったんだね」
「……いいんですか?俺は響さんを騙していたんですよ?」
「いいんだよ。君が夏休みと称して現実から逃げたとしても、それは時には人間には必要なことだからね――誰にだってあるよ。そういうことはさ」
「響さん……」
「それに君は私の『妹』を笑顔にしてくれた。それだけで君をこの家においてよかったと思ってるよ」
妹。それは血のつながりは一切ない紫音の事に他ならない。それでも響は紫音を妹と呼んだ。そこに嘘偽りはない。それが例え世間では嘘と呼ばれても本質は真実なのだ。
「ありがとうございます」
「それは私の言葉だよ」
そして二人はお互いの顔を見てほくそ笑んだ。その笑みにあるのは純粋に紫音の事を思う気持ちだけである。そうでなければ人を思う時に笑うことなどできないのだから。
その笑みのまま亮はある提案を切り出した。それが果たして正解かどうかは分からない。響が既に亮のそれよりも冴えたやり方を見出しているのかもしれない。それでも紫音と共に生きていくにはこれしか術はなかった。
亮の提案を響は真剣な面持ちで最後まで聞き届けた。否定することも、かといって肯定することもない。
話している最中は恐ろしく時間の流れが滞留しているように思えた。それはまるで授業中に答えの分からない質問を問われて答えを述べるあの瞬間に似ていて、少しばかり緊張したけれど、亮はその答えが自分なりに正解と信じているが故に自信をもって響に面と向かって話せた。
「――なるほどね」
亮の提案を響は咀嚼し吟味した上で出た言葉がそれだった。響の瞳の先には何が写っているのだろうか。亮は気になったがきっとそこは今を映していない。見ているのは未来、そして過去だ。紫音と長い間共に生活してきた故に彼女の未来を案じる気持ち。そして今に至るまでの過程。到底自分では踏み込めない場所であることは亮は察した。
響の感情は愛娘をどこの馬の骨かもわからない人間に奪われる親の気持ちに似ていた。聞けば亮は紫音に未だ話していないという。つまりは同意を得ていないことになる。独りよがりの、紫音を救えるというエゴが垣間見える亮の話に響はどうしたものかと考える。
――いや、きっと紫音にどうしたらいいか問うても無駄な事だろう。答えはもう決まっている。あの娘に必要なのは未来だ。しかし悲しいことにその未来にあの娘の隣にいるのは自分ではないことは分かっていた。
今の……これからの自分に紫音を守れるほどの力はあるだろうか。答えは否である。ただしそれは雨崎村に限っての話であり、ここを出てしまえば村の災禍とは無縁になり紫音を救えるだろう。
だけど……そこまでするとそれはあまりにあの娘の未来に介入しすぎている上に自分もまたエゴに塗れていることに気付く。『自分ならば』紫音を守ることが出来るという思い上がりである。この数年はずっとその思いのままでいたが、その資格を失ったのであればもうそれを背負う必要は無い。それに自分にはこの場所を離れられない事情もある。社会から束縛されているが故にその糸を切り離すことは容易ではないのだ。
本当に大事な人を想うのならば、時には別れを受け入れることも必要なことなのだろう。
気づけば世界は夜明けを迎えていた。鳥はさえずりを青白い薄明かりの光に添え、世界は眠りから覚めていく。それも何かの暗示なのだろうか。亮は今になって重たくなった瞼に入る光を感じてそう思った。
そんな時、響は前触れもなく倒れこみ仰向けになった。それはまるで背負っていた物を下したようにも見えるが、その表情には苦労の色を見せていない。むしろ清々しさを感じさせる。
「すっかり夜が明けちゃったね。今日が休みでよかったよ」
「なんか……すいません」
「謝ることじゃない。もういいんだよ」
鳥のさえずりに混ざって夏の象徴が合唱を響かせ始める。もう少しすれば太陽は上がりこの世界を明るく照らすだろう。先の見えない暗闇が覆う世界から時が経てばこうしてすべてを見渡せる灯りを手に入れてどこにでも行けそうな気にさせてくれる。何故世界が昼夜を迎えるのかは理屈を知っていれば誰にだって理解できる。けれどそれだけでは到底片付けられない神秘的な何かなのだ。
「私たちは似ているな。紫音を含めてさ。この先どうなるかなんて誰にも分からない」
そう呟きを漏らした響の顔は瞳を閉じたままであり、果たしてどのような気持ちなのか知りえない。
「それは違いますよ。俺たちだけに限った話じゃありませんよ。この世界の……誰だってそうです。誰もが明日の事を分からないまま生きてるんですよ」
「……確かにね」
「だから俺たちは……未来の事を考えなくちゃダメなんです」
「……そうね」
響は仰向けにしていた体を起こして伸びを一つした後、亮に背を向けた。どうやら眠気に身を委ねるらしいとのことで自分の部屋へ戻るとのことだった。そしてその去り際に響は言葉をかける。
「二木君。紫音を頼むよ」
そう言って響は亮に背を向けたまま軽く手を振って自分の部屋へと戻って行った。
紫音を頼む。それは紛れもなく亮に紫音を託すことの意に間違いなく、亮の提案に同意したことに他ならなかった。
「はい」
まだ自分の視界の消えないうちに……まだ自分の言葉が届くうちに亮は紫音の姉に決意を込めた言葉を返した。響が見せたその背中は重荷が無くなり軽くなったように思えたが、その重さをいつまでも背負っていたかったのだと、言葉にせずともその姿を見て分かる。これからは自分が紫音と共に生きていくのだ。
日は完全に昇り朝を迎えた。眠気による支配が体を掌握し始め、次第に体を眠りの淵へ落そうとする。このまま睡魔に身を委ねるのも悪くはないが、あと数時間で目覚める紫音に自分の話す事をちゃんと整理しておく必要がある。
まずはこの眠気を取り払うことからだな――。
亮は台所へと向かい、コーヒーメーカーを作動することから始めることにした。
5
少女にとって世界を指す言葉は雨崎村しかなかった。
何も少女には学がないわけではない。世界=雨崎村という意味ではないことは理解していて、それがこの地球。はたまた宇宙すらも総括する言葉であることなど重々分かっている。
けれども少女……宗宮紫音の世界はやはり雨崎村しかないのだ。ここで人生の過半数を過ごし、この村の人間しか知らない。こんな人里離れた村で生きてきたが故に外の世界を知らないのだ。
そのため紫音は亮の話す内容を理解するのに時間がかかった。
「えっと……その……」
テーブルに置かれた麦茶が注がれたグラスに自分の顔が反射して映る。見るからに戸惑いの表情を浮かべているのが見えて紫音は内心思っていたことが表情に出ていることを知り、それが対面に座る亮に読み取らていることを察した。
深夜もとい早朝に響に話した内容はこうだった。
紫音と共にこの村を出て二人で一から始めるというものである。社会から見捨てられそこに居場所を持たない少年少女が後ろ支えがない場所で生きていくというのは無謀にも見える。いや、事実無謀なのだろう。しかし悲しいことにこの選択が現状では一番冴えているのが紫音を見守る響すらも認める次第である。それゆえに響は亮に紫音を託したのだ。
亮は紫音が戸惑い、困惑することは予想していた。その理由は上述したとおりである。それはいつしか響が言っていた通りで、やはり外の世界に踏み出すことを恐れているように見える。
「この村で……俺たちが生きていくのは限界があると思う」
それはやはり事実である。響の後ろ盾を失った今、紫音がこの村で生きていくのはより過酷なものになる。いずれは平穏が訪れるのかもしれないが、それは果たしていつになるかは見当もつかない。それまで日々を無為に過ごすというのはいつか羽ばたく日を夢見る蝉に似ている。そして地上に姿を出した時に察するのだ。もうすでに自分には命が残り少ないことに。
「紫音。君がここに留まってもいいことは無い。このまま人々の悪意に晒されて消耗される必要なんてないんだ」
「でも……」
「一体紫音は何を怖がっているんだ?」
不意に黙る紫音の表情は何かに怯えたものだった。それは自身を詰る「わかり切った」恐怖に対するものではなく、全く予想しえない恐怖に対してだった。見知らぬ土地に一歩踏み出す事への恐怖。自分を唯一守っていた物から離れる恐怖……。
「言ってくれたじゃないか。『一緒にいる』って……これはあまりに自分勝手で紫音の気持ちを無視しているのかもしれないけど……この村の悪意から離れて一から君と始めたいんだ」
そう言う亮もまた社会から、親からも見捨てられた存在である。自身もある意味での悪意から逃れてこの村に訪れた。結果としては悪意どころか社会との繋がりを失くし何もなくなってしまった。しかし……目の前にいる少女は自身と世界を繋ぐ線なのだ。紫音がいることで自分はこの世界にいれる。紫音がいてくれるおかげで自分は再び前を向けれる。
「私は……私はこの村しか知らない。ここ以外の場所で暮らすなんて想像がつかないの。だから……怖くて」
「そんな恐怖、俺が払ってやる。だから……一緒に生きよう」
しばしの沈黙が続いた。その間にグラスに注がれた麦茶と氷が溶ける際に互いにぶつかる儚げな音が響く。エアコンの律動に蝉の鳴き声。どうしようもないほどに夏である。しかしそれらの音は聞き飽きており、亮は紫音の話す事だけに全神経を集中させる。
紫音が自分を否定するとは思っていない。紫音も分かっているはずだからだ。今の状況が決して良いとは言えないことに。それに共に誓った共に生きていくというあの約束はそんなに脆いものではないはずだ。
「私ね……ずっとこの村にいるとき外に出るのが嫌だった。また何を言われるのだろうって。それでも私にはここで……この村で生きていくしか術がなかった。その繰り返しだった。外の世界に一人で生きていくことは私にはできない。だから響さんの元でこうして……」
「紫音……」
「けどね。けど……やっぱり亮君の言う通りそれは長続きしない。それが許されるのは子供間だけ。もうすでに私も子供とは言えない年齢になっている。だから……もうこの生活ともサヨナラしなきゃならない」
そして紫音はオズオズと手を亮の下へ差し出した。その手は震えていて、とても儚げでありながら精一杯の勇気を込めているのが分かった。
「私を……連れてって」
「……うん。一緒に行こう」
亮は紫音の手を取った。亮の手から伝わる熱が紫音の恐怖を氷解していき、やがて震えも収まりを見せ始めた。そして紫音は笑顔を浮かべて更に開いている片手も繋いだ手に重ねる。言葉ではない、確かな約束の現れである。
二人の少年少女の夏はその約束を持って終わりを迎えた。もう後戻りはできないことは二人は十分に理解してなおその選択を取った。それが正解であるかそうでないかは分からない。ただ一つ言えるのはそれが誰にも答えることができないものであるということだけである。
6
「そうか……やっぱり出ていくんだね」
「はい」
夕飯を食べ終え、高坂家の三人が揃って縁側で夕涼みに浸っている時に紫音はこの家……この村を出ていく所存を家主の響に話した。既に響はその内容を亮から聞かされているのでショックはあまりない様子だったが、それでも悲しさはこみあげるのか不意に悲し気な表情を浮かべるのを亮と紫音は見逃さなかった。
「いずれはこんな日が来ると思っていた。もっとも、まさか男の子と一緒だとは思わなかったけどね」
ポッと紫音の顔が赤く染まった。そんな紫音に響は微笑みを浮かべて答える。
「ほら、そんな顔もできるようになった」
「響さん!」
「まあまあ」
顔を赤くしたままの紫音を見て響はあははとからかう。それはとても血のつながりがない関係には思えないほどに姉妹のようだった。
「私さ、アンタを引き取った時は本当にこれでよかったのかなって思った。この村の理不尽が許せなくてその矛先を向けられていた紫音をどうにか助けたくてね。けれどそれが今度は自分の方に向かうんじゃないかってさ」
響は手にしている麦茶を一飲みした後に言葉を続けた。
「けど……やっぱり後悔はしなかった。確かに昔の頃と違って笑顔も口数も少なくなってはいたけどそんなのは関係なかった。むしろ妹が出来たような感じがして嬉しかったよ」
「響さん……」
「ねえ覚えてる?あのとき――」
その後も響は別れを惜しむように紫音と共に培った思い出を語り合った。
この家に紫音が来た時、あまりに表情を失っていたのでどういう風にコミュニーケションを取ればいいのか四苦八苦した話から始まり、やがて互いに打ち解け合い紫音は笑顔を見せるようになったこと。
そして季節が巡り二人は他人から家族になった。世間から見ればそれは偽りの家族に過ぎない。血は繋がっていないし、何の縁も無い。ただそんなことはどうでもいいのだ。表層はそうだとしてもその実は家族のような間柄になっていたのだから。
「紫音……ありがとね」
いくつもの思い出を話し終えたとき、響は涙を浮かべていた。思えばそれは響が見せる初めての表情だった。大人であるが故に決して見せない弱さ。その弱さも内に秘めていたのだろうか。その涙に紫音も心を吐露し始める。
「私も……誰からも見捨てられて独りぼっちだった私と一緒にいてくれて……ありがとうございました」
「そんなの……気にしなくていいんだよ。だって私は……アンタの姉なんだからさ」
そして感情の堤防が決壊し、紫音は声を上げて泣いた。それにつられて響もまた、人目をはばからずに涙を流した。
今朝の天気予報には表示されていなかった雨模様が雨崎村のごく一部の場所に降りしきる。ただそれは冷たい雨などではない。とても暖かい温もりに満ちた雨だ。亮はその雨の中ならば傘を差さずにいれたが、その雨を浴びることは許されないような気がした。
それからも今まで辿ってきた道のりを話す二人を残して亮は一人席を立った。ここには本当の高坂家の人間しかいちゃいけない……そう思うからこそだ。
自室に戻り、体を布団になだれ込ませる。布団に体が包まれると同時に柔らかい反発が起きる。決して悪くない心地よい痛みだ。そして同時に訪れる睡魔の影。人は何故布団に身を委ねると眠くなるのだろうか。
「もう……後には引き返せない」
気だるい暑さが部屋を包む。少しでも冷気を求めて閉じていた扉を開けて滞留していた暑さを外へ逃がす。気持ち少し気温は下がっただろうか。それを肌で感じた後に亮は再び布団に体を倒した。
脳裏には先ほどの響と紫音が焼き付いていた。紛れもない家族の姿であり、そこに介入することなど許されないまでの……。そして亮はその光景を思うと胸が痛んだ。響から紫音を連れ出して見知らぬ世界へ旅立つことに対してである。響もそれを肯定したが……実際あの二人の絆の深さを見てしまうと本当に良かったのだろうかと自分に問いたくなる。
響ならば例え権力を失くしたとしても紫音を守ることが出来たのではないだろうか?響がこの街を出るという選択肢もあったかもしれない。思えばそれが最適解のようにも思える。
しかし自分は響に言った。紫音と一緒に生きていくと。それを飲んだ響に対して今更止めるとは言えない。もう後には引き返せないのだ。
「俺は……紫音を幸せにする」
その決意は本物である。そこに歪みなどない。紛れもなく本心からの言葉だった。
故に――もう迷う必要などなかった。自分達二人に必要なのは不安定ながらも確かな可能性がある未来なのだから。
そして訪れる緩慢な眠気は亮に休息を求めた。思えば昨夜は眠っていない。このまま起き続けていてもしょうがない。
だから……今は寝よう。そう、亮は瞳を閉じる間際に紫音の笑顔を思い浮かべながら安らかに意識を失った。