八章
1
雨崎村は日本の高齢化社会を先取りした限界集落である。
老人の人口比率は雨崎村の全人口において実に8割を数え、更にその高年齢層を詳しく見てみると明日にでも逝去しそうな年齢の人間は多い。
事故、病気など高年齢の人間を死に攫う要因は多々あるが、雨崎村において最も多い死因が寿命。すなわち天寿を全うすることによる死である。
その偏った人口比率からある種、雨崎村は人の死亡率が他より多い地域とも言える。
そして今日。雨が降りしきる雨崎村で一人の老人が死んだ。
死因は事故でも病気でもなくやはり寿命だった。90余年も生きていれば長く生きた方である。
その老人の死因は老衰以外に他はなかった。
しかし……ここは雨崎村である。村に伝わる魔女の伝承は村民の意識の中に常にあり、魔女は人殺しの気狂いであるとされている。
魔女に目をつけられた者は惨殺される。
少し前までは遠くに忘れ去られた昔話に過ぎなかったが、宗宮家夫婦が自殺を遂げたことで状況が一変し、その娘である紫音が現代における雨崎村の魔女として村民の間で再臨した。
……本人の意思とは無関係に。
死んだ老人の弔いに訪れた人間たちは次々に言った。
こいつが死んだのは魔女のせいだ。あいつが殺したのだと。
その怨嗟の声は次々に上げられ、遂には地面に響く雨音をも凌駕する。その本来常識の範囲内であれば起こりうるはずのない憎しみの矛先は魔女……宗宮紫音の元へと向けられた。
あいつが殺ったんだ。あいつが殺した。
死んだ老人が生前過ごした居間にその声が響く。葬式の手配をするべく葬儀社に電話をかけようとダイヤルに手を触れていた者はその指を止め、あるいは友人だった男はその言葉に同意するように頷いた。
「このままじゃ俺たちも殺される……」
雨崎村の伝承を信奉する信者には今の状況はその再現だった。この村に気狂いの魔女がいる限りそこに住まう村民には安寧は訪れない。魔女は人殺しであるのだから。
「高坂さんは……」
「そんなことはどうでもいいんだよ!」
昂った男を諫めるように老人の親戚が言葉をかけるが、どうも都合が悪かったのか最後まで聞かずにシャットアウトした。
男の言葉がきっかけとなって彼に賛同する声が周囲から上がる。やがてその怨嗟の渦巻は行動につながり、ジメリとした湿った老人の家から男を先頭にして群衆が這い出た。
外は気だるい暑さと雨による冷気が混ざった不快な空気が漂っていた。その空気の中を群衆は進み、舗装が進まない雨崎村の道路の窪みには水たまりを踏むごとに水しぶきが上がり、その先にある魔女の住まう高坂家の下へと向かった。
それはまるで教主に教えを請うために巡礼に赴く教徒のようである。ただその行き先に待つ少女は教主ではない。ただ一人の普通の少女である。奉られる理由も、人殺しと言われる所以もなければこうして憎しみのはけ口にされる理もない。
雨崎村には今日も狂気が渦巻く。
2
どうやら外の世界の状況は佳境を迎えていることを唯一のパイプラインである携帯が持ち主である亮に教えた。
第三次世界大戦が起こったわけでも、大規模な天災が生じたわけでない。ここで言う外の世界。すなわち亮が本来いるべき場所でのことである。大学で行われた期末考査は全て終了し、あとはその結果に応じて単位を出すか出さないかの評価が下される。
無論、その考査に参加していない亮にはその資格すら与えられない。取得単位は0かお情けで貰える程度である。大抵の学生なら春学期の単位がそうだとしても残る期間(間に合えばの話だが)でリカバーすればいいが、亮の事情において単位を一つでも落としたら訪れる親との絶交という抗いようのない事象が亮の胸を痛みつける。
「……」
自分のことを心配してくれている友達のメールが表示されている携帯を見えない位置に遠ざけ、窓越しに見える灰色の曇天に目線を映した。雨滴が窓を滴り落ちるのが見える。なるほど、どうやら外は雨らしい。少し前までは草木が干上がるのではないかと思うほどにカンカン照りだったのに。
その天候の移り変わりは亮の心境に似たものだった。
昨日は紫音と思いを分かり合えたこと、自分を信じてくれたことで気持ちはあの太陽のように明るかったのに、それを覆い隠すようにして現れた本当の現実は亮に文字通りの暗い影を落とさせた。
紫音は響と街へ買い物に行った。亮も誘われたが、響の運転には凝りているので「体調が悪い」ともっともらしい方便を使って難を逃れた。一体紫音はあの運転をどのようにして慣れたのか聞いてみたいものだと、亮は依然として降り続ける雨を見て思う。
高坂家の屋根瓦に着水した雨滴は水流となり雨どいを経緯して地面に浸透していく。その過程で生じた音は母親の胎内にいるかのような安心感を亮に与え、次第に睡魔がその影を見せ始めた。落ちかける瞼の間から見た時計が示した時刻はまだ昼前である。もう平日休日の区別すらつかなくなった逃避行の中で失っていけないと亮が思っているのは人として当たり前の時間の使い方で、少し前に起きたばかりなのに再び惰眠を貪るのはそのルールから外れる行為だ。
だから、二人が帰ってきたときに眠っているだなんてことはしてはいけないのだ。
亮は眠気を振り払おうと仰向けの体勢から立ち上がった時、聞こえてくる雨音に不調をきたしているのを聞き逃さなかった。亮は過去に絶対音感とか、特別な音楽教育を受けたことは無いので音に関しては素人である。好きな音楽は少し前に流行ったバンドのものだし、リコーダーはドの音以外の指使いは忘れた。
雨滴に質量はほとんどないから、物にぶつかっても大抵は軽い音を響かせる。が、その音をかき消すように確かな質量を持つ物体が家に当たっているのが室内に居ても聞こえた。それが不調の原因である。
そうこれは……雹ではない。雹にしては数が少ない。更に言うと、音はこんなには鈍くはない。
とりあえず原因を探ろうと亮は窓辺へ寄る。嫌な予感がしてしょうがないからだ。その歪んだ音の正体が人の糸によるものであるならば尚更だ。
窓から見える景色はいつもと変わらぬ辺鄙な雨崎村だった。ただ、雨という人の気分を下げさせるファクターは村全体にもかかっているようで曇天の元では廃村のようにも見えた。
そういえば、紫音が自分のことを俺に話してくれた時も雨だったな……。
そんなことを思いながらカーテンを引いて視界から時代の移り変わりと共に廃れていく雨崎村を消した。ただの思い過ごし。ちょっと現実から離れすぎて疲れているとこもあるのだ。そう自分に言い聞かせた後にもあの鈍い音は継続して亮を離さなかった。
「……どこだ?」
音の歪みは次第に増加している。
壁に打ち付ける決して軽くない質量。そして、明らかにする人の「声」。
ヒヤリと亮は額に冷や汗をかくのを覚えた。それは無意識ではあったが、人がそういう状況になるのはたいてい危機が迫る時である。この場合は暴力的な恐怖によるもので、ひたすらに不安を募らせた。
音が生じている方向は玄関の方だった。先ほど様子を見た窓辺とは逆の方向であり、そこが安寧を亮に知らせたことに自然に納得がいく。
音の正体を確かめに行くか、行かまいか。
……もっともその音の原因は何であるかはおおよそ分かっていた。亮には……亮たちには暴力を向けられる由縁などない。この理不尽な暴力こそが紫音を苦しめる枷である。そして今それが、この家に向けられている。
「狂っている……」
亮は玄関に向かい、覗き穴から外の様子を見る。片目でしか見れないその小窓からでは視界に十分とはいえない光景しか収められないが、それでも亮は今何が起きているのかが分かった。
そこには数人の村人が高坂家へ向かい投石を行っている様子が見てとれた。投げられる石の放物線に紛れて彼らの口から発せられるあまりに聞くに堪えない紫音への侮蔑。
これを理不尽な暴力と言わずしてなんというのだろうか。亮は現実とは思えない光景に立ち眩みを覚えた。
亮は彼らの言葉に耳を傾けると内容が次第に分かってきた。
どうやら村民の誰かが今朝亡くなったらしい。それが老衰によるものか、病死、あるいは事故によるものなのかは想像もつかないがその原因が紫音にあると言う。根拠は言うまでもなくあの伝承だろう。魔女による呪殺……とでも言おうか。彼らは仲間が死んだ原因が紫音にあるとして、彼女に憎しみの矛先を向けているのだ。
見ると群衆は揃って老人である。その衰えた腕に込められる力は微力なもので、投げられる石にも速度はさほどなかった。
とはいえ石自体には大小あれど質量を持っているのは確かで明らかに高坂家へのダメージは無視できないものである。この壁面には窓のある部屋もある。万が一そこに当てられたら被害は大きいものになる。
「この淫売の魔女が!」
「人殺し」
「気狂い」
……そこには紫音へ向けられる無慈悲な言葉の嵐があった。これを……あのか弱い体で受け止めていたのかと思うと途端に胸が苦しくなる。この暴力の応酬が彼女から笑顔を奪い去り、かつての少女を殺したのだ。
それは殺人にも似た行いであり、確かな根拠があるのであればその行為をするのも理解は示せる。ただ、雨崎村のそれにおいては「もっとも」らしい理由付けに過ぎない。
言わばそれは殺害を行うことに無理やり合理さを見出しただけで、快楽的な殺人に近い。
「魔女は死ね!」
依然として家の壁に石が投げつけられる。何かがひしゃげた音、へこむ音。明らかに物理的なダメージが及んでいるのは想像するに容易い。
過去にはこういったことがあったのだろうか?日中は家を空けている家主の響がいなかったら、紫音は……この罵詈雑言と暴力に一人晒されていたのだろうか。
玄関の扉に石が当たった。ノックにしてはひどく粗暴な音であり、とても人に会いに来たものとは思えない。……事実そうなのだが。
それが亮の琴線に触れたのも事実で、彼はドアノブに手をかけていた。それは無意識にも似た行動であり、錠を開け、チェーンを外すことにも特段意識を向けてはいなかった。ただ、自分の好きな人が人殺しであるという言われのない汚名を着せられているのに我慢が出来なくなっただけで、それに対して怒りを向けることに考える必要などあるのだろうか?
――自分のそれは彼らと違い「合理的」で「正当性」のあるものだ。
その意識のままに亮は築数十年の所々痛んだ高坂家の扉を開けた。やっぱりキイなんていう音がする。蝶番だろうか。今度油を指しておこう。そうすればもっとスムーズに開くはずだ。
そんなことを考えながら開けた扉の先には光は無かった。曇り空の向こうにお天道様は隠れてしまい下界にはその隙間を縫うようにして零れる僅かな陽光、そして雲が浮かべる泣き顔があった。
とても気だるい、夏の雨の日だ。
玄関から現れた亮の登場に暴力は一時的に止んだ。村民は突然のイレギュラーに戸惑っているようにも見える。おそらく、紫音に何をしても抵抗されることがなかったからこれまで一方的に自分達の思うままに詰ることができたのだろう。そしてここにきて紫音ではないにしろ、対象から初めて抵抗の意思を見せられた。それゆえの静止。
その静止された時間の間に亮は家の被害を確かめようと振り返る。
そこにはこの穏やかな天気の中ではとても説明ができない痛みがあった。モルタルで造られた壁面には白く残る石の衝突の跡が残り、扉にはへこみすら確認できる。
「お前ら……」
亮は視線を被害の跡からその加害者の方に向けると、彼らの面相は十人十色の表情を浮かべていた。
思わぬ抵抗に面食らった顔。
依然としてこちらに原因があるかのような怒り。
何かおかしいのか笑みを浮かべる者。
その面構えに亮は理解不能の色を浮かべた。
この場において表情が噛み合っている者は果たしているだろうか。亮はそう誰かに問いたくなってみるが、残念ながら判定してくれる人間はいない。
そして状況は変わった。村人の誰かが言った一言「魔女の彼氏が出て来たぞ!」
その言葉ががきっかけとなり他の者も呼応して、それまでバラバラだった村民の意思が一つなる。その意思は憎しみに染まり、元に戻っただけであったのが救いの無いことだった。
「いい加減にしろよ!あんたたち、あんなおとぎ話を信じてどうかしてるぞ!」
「おとぎ話だと!?あれは本当にあったんだ!現にロクさんは魔女に殺されちまった!」
ロクさんとは誰か亮には分からなかったが、今朝亡くなった老人のことだろう。
それは寿命だろう?と聞き返したかったが、死んだ人間のことをとやかく言うことに気が引けたし、なによりそれを発したことで彼らが激高したら面倒だったので出かかったその言葉を抑える。
それにしてもやはり村人はあの伝承を信じているらしい。高齢の人間は信仰深いのか、はたまた「本当」にあったことで村民には遺伝子レベルで信じることが刻み付けられているのだろうか。
「お前さんはこの村の人間じゃねえから分からねえかもしれねえが……」
「うるせえよ!俺も昔はこの村に住んでいた!だけど昔には……こんな話聞いたことなかったぞ!?」
亮のその言葉に彼らは一様にして言葉を詰まらせなにやらバツの悪そうな顔を一瞬浮かべた。
「何をたわけたことを。お前のような奴、見たことも無い」
「二木……二木亮だ。今は空家になってるけど、昔は通りにある二木の家に家族で住んでいた」
亮の名前には反応を示さなかったが、二木という苗字には聞き覚えがあったようで彼らは戸惑いの表情と共に何やら話をし始めた。
二木って……あの五郎さん家か
確か……五郎さんと息子夫婦が住んでいた時に子供がいたような……
そのざわめきを耳に挟むと、歳は老いても記憶にはあるようで亮の祖父の名前が出された。まさか、祖父のことをこのような形で話に出るとは思いもしなかったが。
「……なんで二木の孫がここにいる?」
「それは……」
少しの嘘を織り交ぜて亮は彼らにここに来た経緯を説明した。それは亮自身も話していてとても歪な物であり、自己嫌悪の念が募る。
一通り話し終えた後に一人の男が亮に問う。
「それで、なんでお前は魔女の所にいるんだ?旅行が終わったならば早々と海津にでも帰ればいいじゃないか?」
その問いは実に亮の痛いところを突いたものだった。確かにそうである。懐かしさに駆られてこの村に来て、その気分を味わえたのなら帰るべきでいつまでもいるわけにはいかない。亮には亮の事情がある。そのことを彼らに説明しても取り合ってはくれないだろう。いや、それは彼らだけではなく、他の人間でもそう。社会からの逃避行。すなわち、逃げることをいくら正当化しても仕方ないことである。
一たび話の運びで不利になった亮は紫音のことにフォーカスを当て、彼らの詰問から逃れる手を選んだ。そうすることで分が悪い状況から抜け出すという意図もあったが、紫音のことを魔女と呼ぶ村人に問いたいこともあった。
「あの子は魔女なんかじゃない。宗宮……宗宮紫音だろ?あんたたちも良く知って……」
「宗宮なんぞ知らん!」
その否定の声は降りしきる雨に反響してよく聞こえた。その声量の大きさに亮は思わずたじろいでしまう。
……紫音、というより宗宮という名前に反応することに亮は懐疑的な念を抱いた。あの反応はまるで隠し事をしている子供が親に見抜かれて喚く様に似ていた。彼らが大の大人ということを抜きにしても、何かがある様に亮は思えてならなかった。
「なあ、知ってるだろ?宗宮さんだ」
亮は敢えて紫音の名前を言うことなく苗字の宗宮で呼んだ。見え透いた誘導であるが、反応次第では新しい何かが見れるかもしれないという意図があってのことだ。
「だから宗宮なぞ知らんと言っているだろうが!」
若造に挑発された怒りか、隠し事を見破られたことに対する焦りで鬼気迫る表情で村人は声を荒げた。それに付随して周りの男たちも声を上げ始めた。
瞬間的に不味ったと亮は思った。
隠し事をしている子供に詰め寄った場合、それが過ぎると思わぬ痛手を負うことがある。そう、例えばどうにもならないと悟って周りの物に当たるなどの破壊行為とかがその例だ。亮もその例外でなく、昔にテストの答案を隠していたらそれが親にバレて、問い詰めた親への怒りや諦めの感情から部屋にあった窓ガラスを割ってしまったことがある。
……無論、それは子供のときの話だ。大人はその括りでないと思っていたが、老人になるとそうではないのだろうか。
再び怨嗟の声が紫音、そして亮を対象にして渦巻く。その異常さに亮はたじろぎ、果たしてこの村はいつからこうなってしまったのかと誰かに問いたくなった。
その誰かの顔はすぐに浮かんだ。この村で紫音を除いて自分と接してくれている人間。高坂響である。彼女はこの村に事情に詳しいようで、よく話をしてくれている。……もっとも、響にも何か隠していることがあるきらいがあるように見えるが。
そんなことを考えているときだった。
「この野郎が!」
老人がそう言って何かアクションを取ったが亮にはよく見えなかった。
後に目覚めたとき、亮が覚えているあの時の光景はとても情報量に乏しかった。
依然として雨は降り続いていて、気が付くと高坂家の前の道路には水たまりができていた。一体いつまで降るのだろう?そして目の前の村人たちとの諍いはどうやって肩を付ければのいいだろう?そんな、どちらも終わりが見えない事象に呆然としていたら、亮の眼前に飛来する何かが見えた。少なくとも雨粒ではない。では雹だろうか?いや、それにしては大きすぎるし、何より透明じゃなく白っぽく、所々黒味がある。そう、それはまるで彼らがつい先ほどまで手にしていた石のようで……。
そしてその物体が亮の頭蓋に衝突した時、彼はそれが石の「ような」ものではなく、石そのものであることを察した。なるほど、これは家の壁がへこむわけだ。そして意識を失うということはこういうことなのか……生まれて初めて意識が落ちる際の亮はどこか冷静であった。
状況は傍から見ると危機的だったが、説明する分には単純明快である。
村人が投げた石が奇麗な放物線を描いて亮の頭に当たり意識を失った。ただそれだけのことだった。
……雨は止むことを知らない。ただ、その雨だけが高坂家の前で倒れる彼を見守っていた。
「亮くん!ねえ、しっかりして!」
そんな、声がしばらくした後に聞こえた気がした。
3
――今は果たして何時なのだろう。不意に眠りから覚めたのはいいが、何故自分がこうして眠りに就いていたのか理由が思い出せない。自ら眠りに就く場合というのは大抵疲れ切っているときか抗いようのない眠気に折れた場合である。その何れも亮の場合には寝る前の瞬間を覚えているため、この眠りが自分の予期せぬものであったことが何となく察せられた。
思考を張り巡らせると次第に五感が冴え始めてきた。
最初に訪れたのは嗅覚だった。鼻孔に漂うこの匂いは決していいものでないことは何となくわかった。それは消毒液の匂いで、誰かが怪我をしたか、若しくはここがそういう人たちのための場所であるということを暗に知らせる。
味覚は……正直何も感じることが無い。一体今日は何を食べたのか思い出せない。つまりは味覚を刺激する食べ物を口にしていないので、強いて言うならば舌先に感じる気だるさだろうか。もっとも、これは触覚に類されそうな気がするけど。
なるほど、手先に感じる滑らかな布の感触はシーツだろう。胸元を覆う暖かさの源は布団だ。するとここは高坂家の貸し与えられている自分の部屋だろうか?いや、それにしてはいやに清潔すぎる。まるで保健室のベッドのようで、響さんには申し訳ないがあの部屋の布団はこんなには奇麗じゃなかった。
それを視覚で捉えると尚更そう思えた。自分に覆いかぶさった不気味なほどに真っ白いシーツと布団は高坂家どころか、他の家庭でも見ないようなものであり瞬時にここがどういった場所であるか理解できた。あの消毒薬の匂いがそれを裏付ける。
最後に訪れた聴覚は少女の声を届けてくれた。この忘れてしまっていた少女の声は宗宮紫音の物である。
「……亮くん!大丈夫…?」
五感は完全に機能を取り戻し、目の前にいる紫音の顔を、声を、握られた手から伝わる体温を鮮明に亮に伝えた。この時の亮の目はどんなに精巧なカメラよりも鮮やかに紫音を映した。自分を見つめる紫音の表情はひどく心配げであり、瞳は泣きはらしたのか赤くなっていた。なにか、紫音をこんな風にさせることがあったのだろうか?
「……紫音、どうしたの?そんな顔して。それよりここは……いたたっ」
亮は心配そうな顔を浮かべる紫音を何とか安心させようと、少し体を動かした途端に頭部に鈍い痛みが走った。激痛と言うほどではないにしろ、少なくとも無視できない痛みである。そしてその痛みによって、亮は何故自分がこんな状況になっているのか理解できた。
そうだ……確かあの時、あいつらが投げた石が頭に当たって……それで……。
亮は痛みがする個所に手を当てる。そこには包帯のザラリとした触感があり、どうやらこれが現実の出来事で昼間に起きた出来事は決して白昼夢でないことを改めて知った。
「……紫音が、俺をここまで?」
雨崎村には医療施設などないため、ここは海津の病院であることは病室の窓の外を流れる幾筋ものの車のライトの尾びれから察せられる。時折聞こえてくるクラクションの音、病院の近くで酔っ払いが騒いでいる声。どれも雨崎村では聞こえない音だ。
「……帰ってきたら亮くんが玄関で倒れてて、頭から血を流してたの……。このままじゃいけないって、響さんが車に亮くんを乗せて病院に来て……」
事の経緯はこうだ。
投げられた石によって気を失った亮は玄関前で倒れこみ、その現場を買い物から帰ってきた紫音と響の二人が発見し、頭部から流れる血を見て命の危機を察して来た道を車で戻って海津の病院に亮を運んだ次第になる。
「ごめんね、灯り、付け忘れちゃってた」
紫音はそう言って病室の入り口辺りのスイッチを押して灯りを点けた。蛍光灯の人工的な灯りが周囲を包み込む。
もしかして、紫音はずっと俺のことを看ていてくれたのだろうか。亮はふと思った。
「紫音、俺がここに来てどれくらい経ったのかな」
「ええと……6時間になるかな」
「ちなみに俺がこうしてベッドに寝てからは?」
「……4時間ぐらい」
二人を包む無機質な病室同様に素っ気ない掛け時計は今の時刻が20時近いことを世界に知らせた。
20時。すると紫音は16時くらいから亮のことをここで看病していたことになる。なるほど、道理で起きたときに部屋が暗いわけだ。きっと紫音のことだから、夜の帳が降りても灯りを点けなかったのは亮を起こさないようにとの配慮だろう。そのまま、亮のひたすら眠る横顔を見つめながら、時折涙を浮かべて……
そうか、紫音の浮かべていた涙の理由は俺か。
亮は未だにズキズキと痛む頭に手を当てる。熱を持ち、不気味なほどに脈動するその個所は思ったよりもひどいらしい。
「……ごめんね、心配かけちゃって」
「よかった……本当に。このまま、もしかしたら私の前からいなくなっちゃうんじゃないかって……」
そう言った後に一筋の涙が紫音の頬を伝った。それはとても表情を持たない人間の流す涙ではない、確かな暖かさを持つものでだった。亮はそれが無表情に白い顔を浮かべる床に落ちるのが嫌で、思わず手で拭った。その際に伴った痛みなんて気にもしなかった。それよりも指先で感じられた紫音の感情の方が嬉しかった。
「大丈夫だよ。俺は……どこにも行かないよ」
そう言って、亮は紫音を安心させようと笑みを浮かべた。少し口許を緩ませると鈍い痛みが走るけど、そんなものはやっぱり紫音のことを思えばどうでも良かった。
「そういえば響さんは?」
少し経ち、色々と落ち着いた後に亮は自分をここまで運んできてくれた命の恩人の行方を尋ねた。
「何か、怖い顔をして車で村に戻っちゃった。用が終わったら戻ってくるって言ってたけど……」
紫音はあんな顔した響さんは初めて見たと言ってその怖さを亮に教えてくれた。その話を聞くにどうやら相当なものらしい。
果たしてその怒りの原因は何だろうかと亮は考える。
居候の身でありながら当地の人間といざこざを起こし病院沙汰になった自身に対して?
ならば自分の意識が覚めたときを待って、その時に怒りをぶつけるだろう。そうでなければ紫音を置いて村には帰らないはずだからと隣にいる紫音を見て亮は思う。
それならば自分に危害を加えた人間に対して?
仮にそうだったとすれば、自分の身を案じてくれたが故の行動に亮は申し訳なさを覚えてしまうが、実際これが一番近いのかもしれない。しかしどうやって加害者を特定するのだろうか。当事者である亮ですら、もうその人間の顔は忘れてしまったというのに。
窓に打ち付ける雨は止むことを知らない。雨崎村のような常闇の場所と違ってここはネオンやヘッドライトの灯りが交錯し、それが雨滴に反射しディスコライトのように病室に映る。雨脚から察するに日付を越えても止むことは無いだろう。
「……ごめんなさい」
いきなり紫音は頭を垂れて顔を見せないままにそう言った。その対象が誰であるかは明白であり、亮自身もその言葉の意味をすぐに理解できた。口では心配しなくていい。なんて言っても間接的な原因は自分にあると思い込んでいる紫音には気休め程度にしかならなかった。
「いいんだよ紫音。俺が……俺が悪かったんだよ。軽率に外に出てあの人たちを刺激したのが悪いんだ」
そういえばと思い、亮は何故自分が怪我をするに至ったかの経緯を紫音に説明した。
……そこで何故、亮は軽率に紫音に。自分が事態の原因であると思っている紫音に対して話してしまったのかと後悔したのは全てを話し終えた時だった。この話は響にだけすればよかったのに。そう思ってしまう程に暗く影を落とした紫音の顔がそこにあった。
「私を……私のことを受け入れてしまったから、亮君はこんな目に遭っちゃって……」
「そんなことない。そんなことないよ紫音。今回の事で君が気を病む必要なんてないんだよ」
亮は紫音の考えていることを痛いほどに理解できた。亮がこのような事態になってしまった原因は村人が彼に石を投げたことであるが、その原因を更に探ると紫音が魔女と祟られていることにつながる。ここに……自らが原因でなければと紫音は悔いているのだ。
そしてなにより紫音が思うのは、自分という存在を亮が受け入れてしまったことで彼に災いが降りかかってしまったという事実があるということである。
一度は受け入れたパズルのピースを、紫音自身の手の隙間から落としそうになっている。
その手を、亮は自分の手で包み紫音に言った。
「紫音。俺を……俺を信じてほしい。君は自分のせいで俺がこんなことになったと考えているけど、それは間違いだ。俺は……紫音と一緒にいたいからここにいて君の手を取っているんだ。だから、君は君のままでいて欲しい」
亮は細くか弱い紫音の手を優しく包み込んだ。一度離してしまえば、二度と自分の元には帰ってこない。そんな気がしてさらに強く握る。
「亮くん……」
「ね、紫音。昔みたいにさ。もっと二人で……一緒に居ようよ」
やはり表情を変えると痛みが走るのは変わらなかった。それでもこの痛みは紫音のことを思えば何も思わない。
「……いいの?」
「いいんだよ」
無機質な病室は白に少しの灰色が織り交ざった世界で色なんてものはない。ただ違うのは二人の周囲には間違いなく色があり、それはとても温かみのあるものだった。
4
高坂響は夜の街が嫌いだった。
理由は特にない。強いてあげるとすれば雨崎村にはいない人種が騒々しかったり、公道を走る車の台数が多くて運転するのが少し疲れることぐらいだろうか。車という物は前方後方左右斜めと全方向に注意を向けていないと上手く走らせることが出来ないというのは響の持論であり、自車以外は全て障害物としてみなしている彼女からすれば、夜中なのに何台もの車が行き交う海津は走りにくいことこの上ない。東京とか名古屋みたいな大都市で車を走らせるのは気が引ける……とギアを変えながら響は思う。
そんな夜更けの海津市を愛車のヘッドライトを頼りにして走らせる。上述のことに加えて夜中の雨という運転するには最悪のコンディションだが、どうしても車を走らせなくてはならない理由があった。
響は少し前の出来事を思い出す。いや、思い出すという表現は些かおかしい。用事を済ませた後にもずっとそのことを思っているからである。
買い物から帰ると玄関前で居候をしている二木亮が頭から流血して倒れているという異常事態を見て、響はすぐにその原因がこの村の人間である事を察した。その後に亮から視線を家の方に向けるとチラホラと見受けられるへこみの跡。ここで何もなかったとはとても言えない暴力の跡である。
響と親族の間にはある決まり事があった。それは紫音にも明かしていない秘密である。いや、もう実際には気付かれているのかもしれない。
その決まりごとが破られと判断した響は鉄の馬の手綱を取った。
前方に車がいなくなることを確認するなハイビームに切り替える。セリカの独特な形状のライトによる四つの光条が夜の街を駆ける。ナビがないこの車で土地勘が乏しい場所を走らせる上で頼りになるのは己の記憶である。何か目印を見落としてしまえば目的地までたどり着くまでに時間がかかってしまう。
……話を戻すと、その決まり事とは雨崎村における宗宮紫音との関わりだった。
高坂家は雨崎村において実質的な権力を握る一家であり、村政に深く関わっている。響も何故高坂家が雨崎村で絶大な権力を有しているかは分からないが、その影響たるや、村長という雨崎村を統治する人間がいるのにも関わらずその存在は傀儡に過ぎず決め事は高坂家が行っている。
響はその苗字が示す通りこの家の人間であり、更には現当主の娘に当たる。故に自然と響にもそれ相応の力が与えられており、現にその力は雨崎村に敷かれていた。
それは如何なる村民も宗宮紫音に暴力を加えてはならないというものであった。
響は生まれながらの性分で弱いものを見捨てること、迫害することをひどく嫌った。なのである日を境に始まった紫音に対する魔女狩りは響にすれば無視できない所業だった。不当に忌み嫌われる存在となってしまった紫音を助けたい。響は当時から今もその思いは変わらない。
更に響のその思いを強めている要因があった。
それは「紫音が魔女とされてしまった原因はもともと雨崎村、もといその村民」にあるからだった。しかもその問題には紫音は本来関係することではない。それが尚更、響の怒りを強める。
宗宮家は村に古くから住む者ではなく、移住という形で雨崎村の住人となった経緯がある。響が聞いた話によると脱サラして田舎暮らしがしたかったからという理由らしい。響からすればあんな寂れた村に来てくれるだけありがたいので、理由なんてどうでもよかったが、それを良しとしない者たちがいた。それは村に先祖代々住み続ける土着の村民たちである。彼らは自分たちだけの世界に突如として現れた宗宮家を忌み嫌った。村の風紀が崩れる。伝統がよそ者によって踏みにじられる。
実にどうでもいい話だ。響は当時中学生ながらにそう思っていた。そんなことよりも宗宮家の一人娘である紫音と仲良くなりたいという思いの方が強かった。
雨崎村の人間は実に陰湿で、村民たちは宗宮家に嫌がらせを行った。ただ一つの例外は紫音で、まだ幼い彼女だけには手を出さないことにするのが村民たちの決まり事で、それが唯一の救いだった。ターゲットとなった夫婦は紫音にマイナスなところを見せたくない一心で彼女の前ではこの村での暮らしが満足であることを見せていたこともあり、紫音は両親が日に日に心に陰りを見せていることは露にも思わなかった。
そして数年の時を経てダムは決壊した。
来る日も来る日も行われる村民の嫌がらせに音を上げた宗宮夫婦は揃って首を吊るという悲劇的な結末を持って自分たちを覆う魔の手から逃れた。ただ一人、紫音を残して。紫音を残した理由は村民が彼女に手を出さなかったのを知っていたため、彼らの良心に期待したか、愛娘を殺すのが忍びなかったか。今となっては遺書すら残されていなかったので知る術はない。
これが宗宮夫婦が自殺を遂げた真相である。
そして村民たちは思った。これでは自分達が宗宮家の人間を殺してしまったことになるではないかと。事実そうなのだが、それを否定したい彼らはふと思い出す。そういえば、この村には伝承があったよな。確か魔女伝説とかいう――。
誰もが記憶の隅にしかなかった雨崎村の魔女伝説は都合のいい理由として再び現世に現れた。一家の気を狂わせた娘が両親を惨殺し、一人残り死を遂げる――。そんな昔話が「本当」の人殺しの理由逃れとして村民たちは都合よく使い、紫音を両親殺しの魔女と罵ることで自分たちを正当化した。
その真相を当主たる父親から聞かされた響は愕然とした。少なくとも嫌いではなかったこの村の人間が、宗宮家の夫婦を死に追いやり、更にはその死を正当化して娘の紫音にも危害を加えているという事実は響の怒りを買った。
そしてその場で響は父親に――当主に言った。
私があの娘を引き取って一緒に住む。だから紫音に危害を加えないでほしい、と。
娘の懇願である。血のつながりの無い人間からの言葉ならば一蹴されるが、情愛に負けた当主は首を縦に振った。
だが、その約束は常識ならば考えられない理由で条件付けで果たされることになる。それは当主の面目を守る理由を潰されないために「暴力行為。例えば傷害などの目に見える形で宗宮紫音が傷つくことは許されないが、口頭でならば良しとする」というものであった。
響はその条件に反発したが、当主にとってこれができる限りの譲渡であり、これ以上踏み込めば自身の地位が危ういと言われれば返す言葉見つからなかった。
……なぜ私はあの時に言葉が出なかったのだろう。うなだれる父親の顔を見たから?それとも自分も高坂の名前に未練があったから?
引き返すことが出来ない後悔はステアリングに爪痕ととなって表れた。赤信号で止まり、ステアリングから手を離した時に響はそれを見て思った。果たして今日、一体何回後悔をしただろうかと。
響の脳裏に亮が倒れている姿を見たときの紫音の顔がフラッシュバックする。あんな顔をした紫音を見るのは初めてだった。まるで自分の大切にしていた宝物が悪意によって破壊されたときに浮かべる、誰もがしたことのあるあの顔である。私が最後にしたのはいつだったかな……なんて他愛のない思い出をよそに、響は紫音のあの顔が忘れられないでいた。事実、紫音の中で亮という存在は既に宝物ないしそれに近い存在になっているのは確かなのだ。そうでなければ、あんな悲しそうな表情は浮かべない。
紫音の今にも壊れそうな儚げな顔が響を突き動かし、亮と紫音を病院に送り届けた後に一路、響は雨崎村へと車を走らせた。今朝から降り止まない雨で道路が水浸しになっていようが関係は無かった。それどころか、セリカの屈強な動力性能を持ってその道路状況をねじ伏せた。
幸いにもすれ違う車は一台もなかったため響が高坂家の本家へ辿り着くまでにかかった時間はさほど要さなかった。……もっとも、赤いサイレンを頭に付けたパンダは到底許さない速度であったためであるが。
雨が降りしきる中、会合の席以外で対峙した父親を見て響は思った。そういえば、この人は私の父親だったのだと。ずっと長らく父親を雨崎村の当主としてしか見ていなかったので、こうして高坂家としてでなく、親子として対面するのは久しぶりのように思えた。
それゆえ、響の直訴には熱がこもった。それは紫音を守ろうとしたあの時と同じだった。高坂家の人間ではなく、娘からの懇願である。響は話している最中、周りのことなど目を向けなかった。屋根にぶつかって反響する雨音も、二人を隔てる襖の隙間から覗く従者の目、それに自分の立場。そんなことはどうでもよくて、ただ……血は繋がってはいない赤の他人だけども、家族のような存在である紫音を守りたい一心だった。
しかし現実は無情だった。父親はあの時と同じように首を縦に振ることは無く、むしろその逆。横に振ったのである。
「なんで……」
響のあっけらかんとしたまま父親の顔を見た。そこには適当にあしらったようなものではなく、娘からの願いを真剣に受け止めた父親の、そして雨崎村の主としての顔がそこにあった。
首を横に振った理由は二つあった。
まず一つは、この村に敷いたお触れは「紫音に直接的な被害を被らせてはいけない」というものであり、村の人間ではない亮は当てはまらないどころか問題外ですらある。故に決まり事には反していないから。
そして二つ目は……既に雨崎村における紫音の扱いは神的なまでに魔女として昇華してしまったことにある。集団を統治する上で重要になってくるのは、それを構成する個々の足並みを揃えることで、その役目として紫音が魔女であることは必須条件であるのだ。今回の件を飲んで、紫音を魔女として扱うのを止め、今後如何なる障害を与えてはいけないとなるとこの村の統治に支障が出てしまうのは目に見えている。
要はこの村を維持するためには紫音を魔女として存続させなければいけないというのだ。
当然響は反発をしたが、それこそあしらわれてしまい二人の会見は終わりを迎えた。
「大人になれ、響」
静かに立ち上がり、響を尻目に襖に手をかけた父親はそう言った。それは父親から娘への懇願だったのかもしれない。
一人、高坂家の屋敷の中でもとりわけ大きい部屋に残された呆然としたまま自分を悔いた。前みたいに父親を説得して、あの娘を守ることができると思っていた自分の浅はかさ。そして弱さに。
もう私が、紫音を守ることはできないのかもしれない。そんなことを思っていた。今までは父親に村に出したお触れの効力に加えて自分が高坂家当主の娘であるという存在価値であの娘を傷物にさせないでいたが、それももう……終わりを迎え始めているのかもしれない。
そのことを察し始めた響はその場で立つことも、動くこともないままに変わらない世界を映す窓の外を眺めるしかできなかった。
5
響が夜の海津を紆余曲折の末に走り抜け、病院に辿り着いたのは消灯時間間際だった。消毒薬の匂いが鼻孔を掠める廊下を抜けて病室の前に立ったとき、病室から声が聞こえてきた。
その声はとても見知ったものだった。儚げでありながら、それでも過去の明るさを秘めた少女の声と、その過去を知る少年の声。二人の会話に耳を傾けると、どうやら昔の話に花を添えているようである。昔、鬼ごっこをして紫音が転んだ時の事。二人して海津に行こうとして親に怒られたこと。
どれも響の知らない紫音のことだった。あぁ、そうだ。これが……本当の宗宮紫音なのだ。決して無表情のままに鳥かごの中にいる少女が本当の紫音ではない。そして、その素の紫音が鳥かごから開け放して隣にいることを許しているのは二木亮である。
……私の役目は、そろそろ終わりに近いのかな。
そんなことを思いつつ響はノックをした。扉の感触は硬く、冷たかった。
「おーい、いいかい?」
ここに自分の顔を映す鏡はないため、果たして今自分がどのような顔をしているかは定かではない。ただ分かるのはそれが決して明るいものではないということで、その姿を二人に見せては余計な心配をさせてしまう。だから、響は無理に明るい表情を作ろうと抵抗する表情筋を歪ませる。
「あっ。響さん。どうぞ」
そんな紫音の声を合図に表情を切り替えて病室と廊下とを隔てる引き戸をスライドして中に入った。二人の様子を見ると、亮は頭部に痛々しく包帯を巻き、紫音は亮が寝ているベッドの脇でそんな彼を見守っていた。それはまるで彼氏彼女のようだった。まるでお互いが支え合って生きているような、そんな二人だ。
「どう、二木くん?体の方は」
「えぇ……大丈夫です。それよりすいません。僕のせいで響さんにも迷惑をかけてしまって」
そう言って亮は頭を下げて響に許しを請うた。当の響は「まあ落ち込まないで」と言って病室の隅にあった余っているパイプ椅子を広げて紫音の隣に腰掛けた。キイなんて失礼な音がするのが少し気になった。
……遠くで聞こえる雨音は三人の間に流れる空気を淀ませた。この場にいる三人にはそれぞれ思うことがあるが故である。
二木亮は自分の行動によって響と紫音に迷惑をかけてしまったことに対する罪悪感を。
高坂響は村の当主家の身でありながら紫音と亮を守ることが出来なかった後悔を。
そして宗宮紫音は自分の存在が原因で亮がこのような目に遭ってしまったという思いからの苛み。
「あの、響さん。こうなってしまった訳なんですけど……」
そう言って亮はこれまでの経緯を響に説明した。響も事情はある程度は知っていたが、それが未だに憶測の域を出なかったので、確かにするために彼の言葉一つ一つに耳を傾けた。
そして最後まで聞き終えたとき、不謹慎ながらに自分の想像は間違っていなかったことに安堵した。そうでなければ自分は……不確かなまま父親を問い詰めたことになるからだ。ただそれでも改めて当事者から事情を聞かされると事の重大さに響は胸を痛ませた。
「……申し訳なかった」
響は深く頭を亮に下げた。それは高坂家の当主家の物でありながら亮を守れなかったことに対する懺悔であり、家主としての責任を形にしたものだった。
「響さん、やめてください。俺が……俺が彼らと言い争ったのが原因なんですから」
「いや、それでも原因は私にあるんだよ……だから、申し訳なかった」
亮には何故、響がこれほどまでに謝罪を重ねるのか事情がよく分からなかったが、彼の傍にいた紫音は響の抱えている物を知っているが故にその謝罪の意味をより理解した。
その理解には痛みも伴った。響の背負う業には他ならぬ自分……紫音が何よりも関与しているのだから。もし、自分が存在していなければ響はこうして『隠してはいる』けれど辛い姿を見せることは無かったと紫音は響を見て思う。
――私は、果たしてこの世界にいていいのだろうか?
紫音は無機質な天井を仰ぎ、誰かに問うた。
亮は念のために安静を取る様にと医師から指示が出されたので病院に一泊することになっていた。入院棟の消灯時間と共に紫音と響は亮に別れを告げて退室し、その足のまま一路雨崎村へと車を走らせた。二人は声には出さなかったが村に戻るのが億劫だった。響はいつもよりもステアリング、ギアを変える動作の一つ一つが重いと感じ、紫音も鬱屈な気分に沈んだ。
「……ねえ、紫音。アンタが気にする必要はないんだよ」
「……えっ」
「多分さ、紫音は自分のせいで私や二木君に迷惑が掛かっているとおもっているんじゃないかなって、そんな風に見えたんだよ。……それは間違いでさ、アンタは何も悪くない。悪いのは……全部あの村さ」
「響さん……」
「だからさ、いつも通りの紫音でいてほしい。……ね?」
「……はい」
その肯定の言葉は二人を包むセリカの屋根に打ち付ける雨音にかき消された。車内に残る音はワイパーの律動する音、路面の突き上げに車体が軋む音。そして雨、雨、雨――。
果たして一体いつまでこの雨は続くのだろう?高坂家の娘と、居候二人は同じことを思って空を恨めしく仰いだ。