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揺蕩いの魔女が死ぬとき  作者: 麻川要
7/10

七章

 縁側から望む世界は実に変化の様子が無かった。雑草が地面を寿司に添えられているバランの如く彩り、木々は時折吹く風に揺られている。蝉は相変わらず鳴いているし、空はどこまでも青い。どこまでも高く伸びる入道雲はその青さを湛え、誰がどう見たって今は夏だ。

 亮は昨晩ここで一夜を過ごした。

 特定の相手がいるわけではなかった(少しの時間だけなら例外だが)が、もし最後まで付き合ってくれる誰かがいたのであればここで眠り呆けるなんてことはしなかっただろう。硬い木材で作られた床は亮の体に痛覚を呼び、とても快適とはいえない朝を迎えることになった。不幸中の幸いは今の季節が夏ということで、決して二桁を下回らない気候により亮は風邪を引くことはなかった。

 今の時刻は昼過ぎ。

 紫音と会話が上手くいかないなりに朝食と昼食を共にして、午後は二人の自由時間となった。紫音は自室へと戻り、亮は外に出るのが億劫だったので再びここに来ていた。もっとも、二人は社会の枷を受けない人間であり彼ら彼女らが望めば明日も、その先もずっと自由時間であるのだが。

 だから、亮は手元の携帯に募る友人からの大学での自身の状況、はたまた心配するメールを一切無視した。指先一つで世界情勢から有名人の不倫。明日の天気さえも知れる近未来デバイスは時刻を知るための機械になり果てていた。

 亮はジッと携帯を見つめる。家電屋で買ったそれは同じく家電屋で安売りされていた今となってはボロがきたカバーを身に纏い、無表情な顔で亮を見つめた。横部分の最近ヘタってきたボタンを押せば時間と曜日が画面に表示される。あとは適当に撮ったどこかの風景の写真。更にロックを解除すれば「紫音との話し方」以外のことはたいてい知れる。

 「宿題、か」

 ここで昨晩響に言われたことを思い出す。宿題と言っても大学から出されたであろう(ないのがたいていだけど)ものではない。紫音とできるだけ長くいてやれないかという提案のことである。響は亮が大学から課せられている宿題が終わるまでの間だけでもと言っていた。そもそもその宿題自体が存在しないのだから期限は無限にも等しい。

 それは終わらない宿題だ。小中学生ならば吐き気を催すほどのワードだなと亮はふと思った。

 けれどそれは期限をずっと先までに設定してるからそう思うのであって、締め切りを明日に変更すれば途端に明日には終わる宿題に変化する。これには子供たちもウキウキだ。

 ……馬鹿な。この宿題を喜ぶ子供なんていない。いるのは社会から目を背けた末に親とも縁が切れた「どうしようもない」子供だけ。だから明日どころか今日にでもこの宿題を終えて、いるべきところに戻ってもその場所は明るくはない。

 いったいどうすればいいのだろうかと亮は昨晩と同じように寝転んで遠い空を眺める。昨日とは一転変わって曇天ではなくどこまでも青い空がそこにはあった。その空に一羽の鳥が翼を広げてどこかに羽ばたくのが目に入る。あの鳥のように、どこかに行けたらいいのになと亮は思った。そう、できることなら一羽だけじゃなく、番い揃っててどこか遠くに……

 亮はトタトタと玄関付近の廊下から誰かが足音を立てるのが耳に入った。昨夜のように泥棒を心配する必要は皆無である。この足音には心覚えがあるからだ。きっと紫音が二階から降りてきて居間に来たのだ。自分の部屋にいたってやることには限りはある。テレビでも見に来たか、麦茶でも注ぎに来たのだろう。

 しかし、玄関のタイルを靴のつま先で叩く軽快なリズムでそれが亮の考える「紫音が取るであろう行動」から外れたことであることを知らせた。それだけは取ることはないと思っていたので反射的に横になっていた体を起こして放たれた弓矢の如く玄関に駆ける。縁側に横になるとやはり体中が痛い。しかしそんな痛みを感じさせないまでに不安が痛みを麻痺させた。それは紫音が外の世界に身を晒すという不安。彼女に危害が及ぶかもしれないという不安……。

 玄関に着くとそこにはドアノブに手をかけて外行きのあのワンピースを身に纏った紫音がいた。どうしたの?と言わんばかりの表情を浮かべて亮を迎える。そんな紫音を見て開口一番に亮は言う。

 「どうして外に……」

 「……ジュースが飲みたくなって」

 キイと年季の入ったドアを開けて暗く湿った高坂家に光が入る。それは暑さを持った光だ。途端に二人の体を火照らせる。そして隙間から流入する蝉の鳴き声は二人の間の互いにどう接すればよいか分からない雰囲気に茶々を入れた。

 「……」

 「……」

 何故自分があの体中に痛みを伴いながらも心地の良かった空間からここに来たのかと亮は自問自答する。それは目の前のか弱い少女が心配だったからだ。ひとたび外に出れば周りは自分に危害を加える人間しかいなくて、それは言葉の暴力に飽き足らず行動にでるかもしれないのに……そんな彼女を放っておけなかったからだろう?

 それでも沈黙は続いた。その原因は二人ともアクションを起さないことで次のシーンに繋がらないからである。

 お互い次の行動をとるにはわずかな動作だけで済む。亮は紫音を説得ないし体に触れてでも外に行かせないようにするだけでいい。対して紫音はドアノブを捻り、体に鬱陶しいくらいに差す陽光を更に一身に浴びるかである。

 先に行動を起こしたのは意外にも紫音だった。

 「……行っていい?」

 その言葉を合図にドアノブを押しこみ外の世界に体を晒す紫音。白色のワンピースに負けず劣らずの白い柔肌に魔の手が差す。

 この時の紫音の心情は数日前から続くピースが合わないパズルのように複雑なものだった。

 何故亮が自分の元に駆け寄ってきてくれたのかは分かっていて、それはきっと自分のことが心配だったからに違いなかった。事実それは正解であり、今も目の前で自分を見つめる少年は同じことを考えているはずだ。

 「……俺が代わりに行ってくるよ」

 ピースが合わないのは自分の持っている物が歪だからだ。だから他人が持っている……そう、亮が持っているであろうピースを素直な気持ちで受け取り、自分の手持ちのピースでは合わないそこにはめることでパズルは完成する。そのピースを亮は自分に差し出している。これを受け取ればこの気持ちにも踏ん切りがつく。

 「何がいいの?」

 しかし果たして本当にそのピースを受け取っていいのだろうか?出来上がるパズルの完成図は見本がない故に誰もが予想できない。そこに映し出されるのは美しいものか、はたまた醜悪なものであるか。分からないのであれば手に取らないほうが賢明で、更に紫音はその絵が後者に近いものではないかと想像していた。

 自分は雨崎村の魔女で人に不幸を与える存在……。

 ピースに歪みがある理由はそれだった。自分の手で生じたものではない、他者からの横暴によるもので、それは紫音の気持ちに嘘をつかせてしまった。

 「……自分で行ってくるから」

 そう言って紫音は亮に背を向けて外に出た。眩いばかりの光に包まれた紫音は格好もあいまってまるで透明のようで、瞬きをしている間に姿を消しそうだった。唯一瞼に残るのは反対色の黒色の髪で、落ち着きなく風に揺られていた。

 残された亮はその後姿を見続けるしかなった。

 いや、今でも間に合う。さっきみたいに飛び出してあの華奢な肩に手をかけて呼び戻すんだ。ジュースくらいなら俺が買ってくると。だから君はあの家にいろと。

 ……それでも体は動くどころか言葉すらも出なかった。情けないぞ二木亮。親と縁を切るくらいのことをしたのに一人の女の子を追いかけることもできないのか。そうして今になってようやく動いた右手でドアノブを引く。再び高坂家は闇に閉ざされ、途端に暗くジメりとした空間に暑さの残滓が滞留した嫌な空気が満たされた。そして亮は放心状態のまま框に腰掛けた。

 亮は紫音に否定されたことがなにより苦しかった。自分は紫音にとってすれば既に赤の他人に過ぎないのだろうか?わずかでも触れ合うこともできないのだろうか?

 ……その思考はやはり自分のエゴに他ならなくて、紫音はそれを見透かしているのか。他者からのエゴは大抵は人を救わない。それは自己満足に過ぎず「きっと相手もそう思っているから」と一方的に押し付けるのは嫌悪感を生み出す原因になる。それが今の……自分たちの距離感の原因なんじゃないか?

 その距離感は亮には果てしなく遠く思えた。

 それは縁側で見つめた高い空よりも遠い。いくら縮めようと頑張っても無理な距離。

 「あんなこと言わなきゃよかった」

 きっと境内での自分のエゴを紫音に与えたことがまずかったと亮は今でも思う。紫音の状況を聞き入れ、何も言わずに二人で傷痕を癒していけばよかったのだ。きっと長い時間はかかるだろうけど、それでも俺たちなら……。

 その確証はどこから来るのか?

 亮の視線の向こうにある年季の入った扉が無機質な顔してこちらに問いかける。ところどころに傷が入り、少しでも荷重をかけたら蝶番が悲鳴を上げてすぐに壊れそうだ。こんな脆そうな扉の向こうに紫音がいる。

 あの娘に会いたかったらこの扉を開けるか壊すかでもしてみろ。

 そう、扉は無表情な顔で亮を嗾ける。

 「っ!」

 亮は思わず挑発的な顔した扉をたたき壊そうと腰を上げる。しかし冷静になれと遠くで鳴く蝉が彼を諫めた。ここは自分の家ではなく他人の家である。この家での生活を保障している人間からの信頼を失くす行動だけはしてはいけない。その常識的な思考ができるラインで亮は留まり、再び腰を下ろした。

 響は自分を信頼し、紫音を笑顔にしてほしいと言った。果たしてそんなことができるのだろうか。自分を……よく思っていない女の子に。

 亮はその後もその場でどうすることもできずに頭を抱え、行動をとることなく時間だけが無常にも過ぎて行った。

 2

 視線の先の道路上では蜃気楼が揺れ、アスファルトに反射した熱が体を伝う。見上げる空はどこまでも青く、果てしなく夏の様相を少女に見せる。

 紫音が高坂家の敷地から外に出たのは境内で自分の状況を告白した日以来だった。それまでは自室の窓から望む世界から外の温度や質感を感じていたが、それを遮る物なしに身を晒すとなると違ったものを見せる。

 そう、例えば自分に降りかかる他者の悪意。

 「魔女が外に出るな」

 老人がすれ違いざまに紫音にそう詰る。既に外に出るだけでこんなことを言われるようになってどれくらいだろうか。途端に心に曇り空が浮かぶ。

 ジュースを買いに行くという目的は本当だった。

 目的地の自販機は高坂家からほど遠くない。歩いて数分の距離だ。その間なら、自分を殺す言葉位耐えられる……それが紫音が彼の提案を断った理由の一つだった。

 他にある理由はやはり亮が差しだす手をとることへの恐れからきていた。

 私は彼の手にしているピースを取るべきだったのだろうかとここに来るまでに何度も思った。自分を引き留めたときの彼の瞳には噓偽りのない、心底私を心配している色を浮かべていた。

 ……自分でも分かっている。そして私が、彼に何を求めているのかを。

 ただ、その手を取ることを許したら、きっと亮は……。

 蝉は鳴くことを止めない。人によっては耳障りな彼らの鳴き声は紫音には心地の良いものでずっととはいかないまでも聞くことに苦を感じない。種類によって鳴く声が異なり、それらが交わり一つの合唱のようだからだ。それは自分にかかる罵倒に比べれば美しいと思える。

 「死ね」

 「俺たちを殺しに来たのか?」

 「早く首を吊れ」

 「あの男にでもヤリ捨てられろよ」

 紫音に凌辱の言葉を投げる者たちは笑顔か、不快そうな顔を浮かべていた。

 その顔の一つ一つには見覚えがあった。最初に言葉を吐いた老人は幼いころによく話をしてくれた。その次に自分の死を望んだあの老婆は自分の将来を案じてくれた。その次は……

 途端に紫音の視界に蜃気楼という言葉では片付けるには無理がある揺らめきが生まれた。その視界に映るもの全てを崩す現象は遠くではなく、ずっと近い場所で起きた。その現象の原因は頬を伝い地面を濡らす。雨が降ったのではない。太陽は燦々と降り注ぎ、地面にできた紫音の下の染みを拭い風がその残滓を攫う。

 ――紫音の瞳には涙が溢れていた。

 果たしてなんでこんなことになってしまったのだろう。少し前まではこの村の人間は皆優しかったのに、”あるとき”を境にして彼らの心の奥底にある悪意が紫音に向かれてしまったのは……。

 それは紫音の両親が何も理由を告げずに自ら命を捨てたときからだ。そもそもなんで彼らはそのような目に遭わなくてはならなかったのだろう?

 紫音はやりきれない理不尽さや自分の亮に対する気持ち、あらゆることが重なって瞳には溢れんばかりの涙が零れ、頬を伝って地面に落ちる。

 

 いつしか自販機の前に辿り着いていた。もうジュースを買う気などとうに消え失せていたが、亮に自分で買ってくるからいいと言った手前、何も持たずに帰るのは彼に対して申し訳が無い。そう思うなり紫音はポケットから小銭を取り出して無機質な硬貨投入口に入れる。チャリンチャリンと硬貨が吸い込まれて飲み物を購入することができるランプが点灯する。

 「はやいとこ死んでくれ」

 「魔女め」

 紫音の背からの死を望む人間の怨嗟が投げかけられる。途端に紫音は眩暈を起こして目の焦点が合わなくなり、眩いランプの光が尾を引いて幾重にも重なり蛍のように見える。そして目線をさらに落とすと、目当ての飲み物を買おうと差し出した指先は震えているのが分かった。

 紫音には間もなく自分に起きることが分かった。もう何度か自分を暗い闇の淵に落とすあの感覚で、次第に意識を失うことを察した。それは眠りに落ちるような安らかなものではなく、自分にかかる障害から身を守るべく起こる、あるいはキャパシティを越えた負荷に体がついていけないことからくるブラックアウト。

 体から力が抜けていくのが分かる。涙をたくわえた瞳はシャッターを下すようにして閉じられて瞼の隙間から零れた涙が宙を舞う。その涙の行方を見守る者は誰もいない。既に彼女は糸が切れた人形のようにして地面に崩れ落ちたからだ。舗装が荒いアスファルトに籠る熱が紫音の肌を通じて彼女に伝っていく。そんな熱さも狭まる視界と共に薄れていく。

 「助けて……」

 次第に薄れる意識の中で紫音は助けを呼んだ。その声の向かう先は響ではなく自分に手を指し伸ばしてくれた亮である。

 ……ふと、昔のことを思い出す。

 亮と一緒にかけっこをしたとき、小石に足をすくわれて転んでしまって泣きじゃくったことを。あの時は幼かったから、何か自分に痛みが生じた際にはいつも涙を浮かべていた。お母さんに叱られたとき、頭に物をぶつけたとき。そして誰かに悪口を言われたとき。

 ……そうか、私はあの頃から詰られると泣いていたんだなと紫音は思う。けれどあの頃は心理的な痛みより体に伝う痛みの方が嫌だった。目に見えない傷よりそうでない傷の方が子供心にはそれが痛みに直結していると目で分かったから。

 先に走る亮は倒れた紫音に駆け寄って、手を差し伸べた。「大丈夫?」そんな優しい声だった。いまでもあのときの彼の手から伝わる温かさは覚えている。土で汚れた私の手を気にせず引っ張り、そして私も彼の手を頼りに立ち上がって、また二人して駆けまわったっけ……。

 そうだ。何か辛いことがあったとき、人から差し伸ばされた手を取ることに躊躇う必要なんてないのだ。例えそうしたことで相手の方に支障が起きても……。

 本当に?

 それは紫音の心の奥底にある自分自身に対しての疑いの声だった。亮を思う度に心の内で反芻しては自分の願いを否定するほかでもない紫音自らの声。彼は既に自分は幸せではないと言ったが、私はそう思ってはいない。そんな彼に私のような人を不幸にする魔女がその手を取っていいわけがないのだ。

 「……りょうくん」

 人の幸せを願う少女は蜃気楼で揺れる世界の中でその思い人を脳裏に浮かべた。そして世界は次第に崩れていき、闇に染まった時に彼女の意識もまた暗い淵へと落ちて行った。

 3

 亮は縁側で変わり映えの無い世界を観測することに飽き、居間に戻ってテレビを見ていた。それは右上の時の時刻表示と共にリアルタイムで変わる世界である。最近話題の芸能人が結婚をしたり、地方の町で豚コレラが発生したりしている。全く変化の無い事象などこの世にはない。

 それにしても遅い。

 亮は画面右上のデジタル文字で刻まれた時刻を見て思う。それは雨崎村と都市部での番組の放送時間のことではなく、少し前に紫音を見送ってから経過した時間の事である。既に30分は過ぎているだろうか。ここから近い自販機までは徒歩5分もかからない。往復すると10分未満。だけど飲み物を選ぶのに時間がかかるとその限りではない。

 ……嫌な汗が頬を伝う。いや、すでにその状況になって25分過ぎ。正確には紫音を見送った時からで、彼の心を不安が包み込んでいた。

 やはりあの時紫音にどういわれようと俺が行くべきだったのだ。君は外に出なくていい。俺が……代わりになるからと。

 果たして人を心配することがエゴなのだろうか?それを向けられる紫音からすればそうかもしれない。けれど、やっぱり何か彼女にあることを思うと亮は居てもたってもいられなくなり、得意げなコメンテーターが機関銃のように言葉を乱れ撃ちする番組をボタン一つで消して玄関へと飛び出した。

 冷静に考えなくても近くに飲み物を買いに行くだけで30分弱もかかるのは何かあったに違いない。

 亮はくたびれた靴に足を収め、気だるい熱気がこもる外へと踏み出した。

 

 風は熱を孕んでいて、不快な温度で肌を艶めかしく撫でては吹き抜けていく。その触れられた箇所は汗をにじませ、世界はやはり夏であることを思い知る。

 自販機が置かれている道には車に踏みしめられた荒いアスファルトが敷き詰められていて、その黒色に滞留する織り成す蜃気楼が遠くに揺れる。

 その蜃気楼に混ざって一輪の白百合が路上に咲いているのが見えたのは気のせいではなかった。その花は力なく萎れていて、その身を横たえていた。最初は蜃気楼の作り出す幻かと亮は思った。しかし次第にそれに近づくにつれ、どうやら「おかしい」ことに気付いた。そしてその正体を知るやいやな、息を切らしてその花の下へと駆け寄った。

 花の正体は紫音だった。紫音はアスファルトの道上に横たえていて意識を失っていた。亮は慌てて彼女の体を起こし、名前を呼びかけた。再び触れた紫音の体はまるで羽のように軽く、生を感じさせないことに冷や汗がにじみ出る。されどその予感を確かに律動する血管が否定し、とりあえずの安堵を覚えた。

 「紫音!紫音!大丈夫か?」

 名前を何度か呼びかけても紫音からは返答がない。一体彼女が意識を失って何分になる?こんな炎天下で長時間いたら熱中症に陥ってしまう。その兆候を布越しから伝わる紫音の体温が亮に知らせ、額には汗をにじませていることから暑さに体が火照っているのは目に見えていた。

 「おおう魔女の王子様がご登場だ!」

 「せっかく死んだのかと思ったのによお」

 ケラケラと下衆な笑い声が遠くで聞こえた。亮は咄嗟にそっちの方へ顔を向けるとそこには中年の男が二人。

 「お前ら……!」

 亮はギリリと奥歯を噛みしめ蜃気楼でその性格同様歪んだ中年の姿に怨嗟の声を上げた。

 「紫音が何をしたっていうんだよ!」

 亮の手に眠る紫音の体は少しでも力を込めれば折れそうなガラス細工のようで、彼らに対する怒りでその美術品にヒビを入れないように怒声を投げた。しかしその状況は中年二人にはさらに事を面白くさせたようでケタケタと笑い声にして亮に返した。

 亮は少しでもこの怒りを彼らにぶつけたかった。彼らにぶつけたところで、それで紫音を取り巻く状況が好転するわけではないことは百も承知である。それでも……この娘を襲う悪意に少しでも報えたかったのだ。

 紫音を熱い地面に伏せたままにして彼らに立ち向かうか、それとも紫音を助けるのが先か。

 ……答えは一択だった。亮はそんなことを少しでも悩んだことを後悔した。

 「……行くよ、紫音」

 紫音の体を横抱きにして、来た道を戻り高坂家へと帰すことにした。こんなとこでしょうがない小競り合いをして紫音を危険に晒す事は、結局彼らの目指すことと一緒である。早く家に戻り、紫音を安全なところで寝かしてやらないといけない。それこそが最優先事項だ。

 「おいおいおい逃げるのかよ!!!」

 「家に帰ってハメハメしておいで!!!」

 ……無視だ。アイツらに構うことで紫音は危険な目に遭う。胸元で苦しそうな顔を浮かべるこの娘を守ることが……今の俺に課せられた「宿題」だ。

 そう思うことで彼らの挑発を跳ね除け、腸が煮えくり返る心中を何とか落ち着かせる。

 その後も彼らは何かを言っていたが、亮の姿が見えなくなるとその声は聞こえなくなった。聞こえるのは蝉の声と近くを流れる用水路のせせらぎの音だけで、二人に束の間の平穏が訪れたことに亮はとりあえずの安堵を覚える。

 亮は不意に、何故彼らは自分たちを追いかてくる素振りを見せなかったのかと不思議に思った。悲しいことに自分の体格はそこまで偉丈夫ではない。それどころか彼らの方がそれに近く、少しでも取っ組み合いになれば数の利点という面もあるが亮は無事ではなかっただろう。なのに、自分たちの姿が見えなくなるまで雑言を言うに留まっただけに収まったのは不可思議なところである。

 「んん……」

 「紫音……」

 イヤな夢を見ているのだろうか。紫音は先ほどからうなされている様子だった。とても苦し気で、何かに怯えたその姿に胸が痛む。少しでもそんな紫音をなだめてやりたいと亮は彼女の名前を呼びかけるが、それでも紫音の苦悶の表情には変わりがない。

 亮は自分が彼女を思うことに力が、意味があるのかとその表情を見てそんなことを思う。この行いも自分のエゴによるもので、あの時あんなことを言わなければこういう事態にすらならなかったのだろうか?

 「あれ?」

 不意に亮は今歩いている道を見て妙な既視感を感じた。くたびれて所々に凹凸ができているこのアスファルトの道は見覚えがある。前にここに住んでいたという事実があるので当然なのかもしれないが、それでも確かに……。

 アスファルトの無機質な感触と胸元で眠る紫音の苦し気な表情が亮の奥深くにある曖昧な記憶を呼び起こす起爆剤となった。

 そうだ。昔ここで紫音とはしゃいでいた時にこの娘が勢い余って足を取られて転んで、それによって生じた痛みで泣きじゃくったことがあったんだ。遠い日のことだ。もう十数年前になる。けれど今になってその時の情景を映したフィルムが鮮明に脳裏に映す。

 昔はこんなに背も体も大きくなかったから痛みに泣く紫音を抱きかかえることもできなかった。だからあの時は紫音の手を取って立ち上がるのを支えることしかできなかった。

 「大丈夫?」

 あの時は自分では大きくなったと思っていた手のひらを紫音に差し出した時はちょっと恥ずかしかった。それは男の子が女の子と遊ぶという行為に気恥ずかしさを感じていたのもあるけれど、何より紫音は強い子で、そんな彼女の泣き顔を見るのがどこか気まずかったからだ。けれどその表情を浮かべている紫音は確かに辛そうで、助けてあげたいという本心から来る行動で手を指し伸ばしたのだ。

 ぐすりと手にかかる土を払うこともなくそこに座り込んでいた紫音は差し出された亮の手を取った。亮もかかる土など気にしない。そんなことよりまた二人で遊ぶことを再開したかったから。……ちょっとの恥ずかしさを覚えながら。

 ――そうだ。そんなことがあったっけ。もうどのあたりで紫音がこけたかは忘れたけど、それでもその出来事は……忘れていたけど今になって鮮明に思い出せた。困っている人を助けることに理由なんていらない。それが例え自分のエゴだったとしても……紫音を助ける……笑顔にすることができるならそれでいいじゃないか。

 本当に?

 紫音同様に彼の心の奥底にある問いが亮に向けられる。ただそんなのは今となっては愚問である。

 「本当だ」

 亮は腕の中で眠る紫音を助けたかった。この理不尽な仕打ちを受ける彼女を。そしてまた昔みたいに二人で過ごしたい。その気持ちもまた本心だった。そのことを紫音に伝えたかったがまずは家に戻って横にしてあげないといけない。その使命感に駆り立てられた亮は高坂家へ戻る足取りを早めた。

 

 4

 気づくとそこは見慣れた部屋だった。

 年季の入ったテーブルにくたびれた青色のカーテン。それに今自分が体を横にしているソファ。それらの情報からここが高坂家のリビングであることを紫音は理解した。

 紫音が目を覚ますと瞳にオレンジ色の淡い光がよぎる。それから時計を見ずとも今が夕方に近くになったことを知る。そして一定の仕組まれた動きで上下するエアコンの羽。そこから送り出される冷気がこの部屋の冷たさのもとだった。何度に設定されているかは分からないが、上昇した体温を冷ますにはこれくらいがいいのかもしれない。

 果たして一体どれくらいの時間を私は眠っていたのだろうと紫音は未だ起きない頭を動かして推察する。確か昼過ぎに外に出て、そこで……意識を失った。それからどうなったかは分からない。少なくともここにいるということは誰かが私を運んできてくれたのだろう。

 それが誰かという疑問は最初に氷解していた。自分のすぐそばで安らかな寝息を立てて眠る人間がきっと私を助けてくれたに違いない。私なら設定することのないクーラーの冷たさはきっと熱くなった体を冷まそうとした結果で、額から落ちた濡れタオルもそう。たぶん、熱中症寸前だった私を思ってのことだ。

 「亮くん……」

 亮は穏やかな顔をしていた。紫音に覆いかぶさらない体勢で寝ているのは彼女に寄り掛かってしまえば目を覚ましてしまうという彼の配慮によるものだろう。その体勢は少しばかり窮屈で、起きたときに体が痛みを訴えるかもしれない。

 ……そこまでして、私を――。

 紫音の瞳に涙が溢れた。それはポツポツと零れ落ちてかけられた布団に染みを作り、その数は次第に増えていく。外の天気とは不釣り合いな通り雨だった。

 紫音は自分と関わることで彼は不幸になってしまうと思っていた。

 だからそのことをちゃんと彼に話してこの村と……私との関わりを断ってほしかった。

 だけどそれが出来なかったのは紫音自身の中に在る亮の存在が大きくなったからで、別れることを嫌がっている自分がいた。

 紫音に対して共に生きていこうと約束を持ち掛けてくれた亮の言葉が今でも心に響く。そして、遠い日の幼い彼が差しだしてくれた掌。

 ……そしてその手を取った自分。そう、あの頃みたいに素直に、自分の思うまま……

 遠くで蜩が鳴いた。オレンジの世界に鳴り響くその鳴き声は目覚ましにも似た効果があるのか、不意に亮が重たい瞼を開けて目を覚ました。その瞼が完全に開かないうちにと紫音は瞳に貯まる涙を指で払う。

 「おはよう」

 紫音は母親のように亮にそう声をかけた。果たして自分に瞳は涙を浮かべていたことを隠せているだろうかと気になったが、下手にまた涙を拭う動作をすると亮に気付かれそうなので行動には移さなかった。

 寝起きの重たい思考のまま、亮もその呼びかけに応える。

 「……おはよ。ごめんね、寒くなかった?」

 亮は指先でエアコンを指差した。やはり冷房をかけたのは彼らしい。紫音と亮は二人して規則正しい機械的な動きで羽を揺らしこの空間に冷たさを提供する機械を見つめては改めて室温の冷たさを思い知る。

 「……ちょっと、寒いかも」

 「じゃあ消そう」

 そう言って亮はそばにあるエアコンのリモコンのボタンを押してその律動を止めさせた。世界に冷気が送られることは無くなったがそれでも冷たさは滞留する。ただそれも次第に外からの熱気を孕んで消滅するだろう。

 「何か飲む?」

 「うん」

 亮はそう言って立ち上がり冷蔵庫のある台所の方へ向かった。すっかり高坂家の人間として板がついたその素振りのまま冷蔵庫を開けて麦茶を取り出し、紫音の分と自分の分をグラスに注いで彼女の下へと戻る。

 「あっ……麦茶にしちゃったけど良かった?」

 「うん……ありがとう」

 亮から手渡されたグラスを取って二人はほとんど同時にグラスに口づけた。結露で生じた水滴に指先が取らて落としそうになるくらいに部屋の気温は戻りつつある。それに比例するように二人の寝起きによる重い頭もクリアになっていく。

 「亮君が……ここまで私を?」  

 分かり切ったことを訊くのは意地悪かなと紫音は思った。この状況で彼以外に誰が自分をここまで運び、介抱したかなんていうのは火を見るよりも明らかなことだからだ。

 紫音の問いに亮はそうだよとだけ言った。なんてことはない。ただ当然のことをしたまでといった亮の受け答えに紫音は彼のこの優しさを素直に受け取れなかった自分を恥じた。

 「本当にありがとう」

 「いいんだよ。ほら、もっと休んで」

 「……ありがとう」

 亮に促されるまま横になった紫音は一つ目を閉じた後に自分がどういう状況だったかを彼に訊いた。

 話を聞くと、どうやら自分は自販機の前で意識を失っていて地に伏せていたらしい。それを聞く限りでは概ね紫音が想像していた通りの出来事だった。ただ亮は彼女の近くには中年の男が二名いて、紫音を犯すこともできた……という真実は伝えなかった。教えた方が良かったのかもしれないが、あの地面に咲く萎れた百合のような紫音を不安がらせることはしたくなったが故である。

 一方で紫音も思うところはあった。

 屋外で意識を失ったことは今までなかった。自分が意識を失うときは決まって建物の中だった。しかし今回はその限りではなく、もし誰かの助けが及ばなかったら死につながるリスクが高まる屋外でとなると今後の生活に影響を及ぼすのは明らかで、そのことを思うと息が苦しくなった。

 「ごめんね」

 紫音は亮に許しを請うた。それは自分を介抱してくれたことに対して、そして迷惑をかけてしまったことに対するものだった。別にいいんだよと亮は声をかけるも、紫音は謝罪の言葉を止めない。

 やはりこんな日常生活で支障をきたすような人間は他人に受け入れるに値しないのだ。自分は世界の人間が言うように魔女で、あの掌を取ることなど許されない。

 「ごめんさいごめんなさい……ごめんなさい」

 そんな思考は言葉として形になった。まるで調子の悪くなった音飛びをするオーディオのようで、その音を聞いている亮は戸惑った表情を浮かべているのを紫音は両の目で捉える。

 壊れてしまったオーディオは捨てるしかない。完全には壊れてはないが、その機能を並みに動かすことができないのであれば手にするわけも、その必要性も無い。不良品を無理して抱えて痛い目を見るのは不幸にしかならない。

 だから、やっぱり自分を忘れて元の世界へ亮は戻るべきなのだ。

 「紫音」

 亮は紫音の名前を呼んだ。その声色は心配がる様子でもなく、まるで恋人に話しかけるようなトーンだった。それでもなお繰り返し謝罪の言葉を連ねる紫音に今度は彼女の手を取ってもう一度名前を呼んだ。

 「ねえ紫音。いいんだよ。君がいくら俺に迷惑をかけても気にしないからさ。だから……もうやめよう」

 「……いいの?」

 「いいんだよ」

 亮と紫音の合わさった手は歪な物だった。重なっている部分は手の平だけで、指先は手の甲に触れてはない。互いの指先は着地する場所を求めて宙を彷徨う状態になっている。ただ、あと少し意識を込めるだけでその場所に辿り着けることは二人も分かっていた。

 紫音を想い、彼女に寄り添うことは自分のエゴなのかもしれない。けれど紫音を想うことに嘘偽りはない。それは本当だった。思えば自分はこの気持ちを紫音に伝えてはいなかったことを亮は思い、言葉として、そして行動にして具現化する。

 「俺は……君のことが好きだ。だから君が大変な目に遭っていれば助けもするし、支える。だから……」

 亮は指先を彼女の手の甲に置いた。触れた指先から伝う紫音の体温はひどく冷たかった。それは今の彼女の気持ちそのものなのかもしれない。それでも……亮は掌を握りしめ続ける。そう、あの日のように。

 「……私、私は……」

 紫音の目に涙が潤む。そしてそれは雫となり、頬を伝って何かの力に惹かれたのか重なる二人の手に落ちた。

 両親が自ら命を絶ち、その原因が遠い昔の村に伝わる伝承から起因してると他人から言われいつの間にか自分は人を殺す魔女となった。自分は魔女だなんて思いたくはないが、世界からかかる火の粉は不幸以外の何物でもない。そんなことに、亮を巻き込みたくはなかった。

 ……だけど、そんな自分を受け入れると言った亮の言葉が嬉しかった。好きな人から向けられたその言葉を負として捉えようがない。

 その二つが織り交ざる紫音の心の内は繊細でシルクのようですらあった。彼を受け入れれば思い人は不幸になる。だけど明確に否定の言葉を返せば亮はこの村を出ていく。そんなジレンマを抱えていた紫音は再度問われた。

 亮の手を取るべきか。取らざるべきか。

 もう、迷う必要なんてない。紫音は亮の体温と同化した掌の先、未だ冷たい指先を亮と同じように彼の手の甲に合わせた。

 幼いあの頃と同じように、自然に……

 「私も……同じ。私も亮くんが好き」 

 お互いが片方を想いすぎたが故にすれ違いを起こしていた関係に終わりを迎えたときだった。折り重なる二人の手に温もりが通じ、わだかまりが氷解していく。それはまるで春を待った冬のようで、二人は二度目の再会を果たした。

 

 

 


 

 

 

 


 

 

 

 

  

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