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揺蕩いの魔女が死ぬとき  作者: 麻川要
6/10

六章

 1

 人は社会という枷によって人たらしめるのだと二木亮はすっかり見慣れた高坂家の天井を眺めてそう考えていた。それは何故夏が暑いのかという疑問よりもはるかに明解であり、その所以を自身でもって証明していた。

 その証明材料はいくつかあった。

 まず一つは携帯の画面に表示される10時過ぎの時刻表示。それを未だにまどろんでいる頭と重たい瞼で確認する。その状態が意味するのは亮はたった今目を覚ましたということである。

 そして二つ目は今後の予定が皆無であるという偽りの安心に浸った体。何もやることが無いというのは人を堕落させることを実感させる。

 以上二つのことから分かるのは自身が昼手前に起きても何も焦ることなく天井を見つめても社会から何の制約がない故に怠惰な状態になっていることだった。

 こんな生活に陥ってすでに数日が経過していた。

 勉強に身を費やしていたとき、自暴自棄になっていた大学に通っていた時ですら昼前には起きていたので一時は携帯の時間設定を疑ったがどうやら本当らしい。亮はそのことに自分の中で何かが崩れ始めている気がしていたが、それを今現在の唯一の枷である「高坂家に居候」しているということが崩壊の一歩手前で亮を留める。

 居候をしている以上、自分は何か響のために何かをしなくてはならない……それが亮に与えらている社会とのつながりだった。

 とはいえ明確に何か仕事を与えられているわけではない。それでも何かをしなくては自分を縛るものがなくなる焦燥感が彼を急かす。

 「……起きないと」

 亮は緩慢な体を無理やり起こして部屋の隅に仕舞われている自分の服に着替えて部屋を後にした。

 

 いつもの居間に紫音の姿は無かった。

 あるのはテーブルに並べられた朝食だけで、この家の住人の姿はどこを見渡してもいない。声をかけても返ってくることは無く、この場所にいるのは亮一人だけだった。もう彼女たちは自分の時間へ身を投じてるのだろうかと思うと、こんな時間に起きてきて用意された朝食を貪るのは罪悪感を募らせた。それでも用意されたものをふいにするわけにはいかないので朝食に手をかける。

 衣食住が提供される今の状況は家主の響の一声で崩壊する。

 もう君は出ていってくれ。

 そんな宣告を受ければ亮は何も言う資格なく高坂家を出て行かざるをえない。

 「……」

 それとは別に思うのは紫音のことだった。

 思い浮かぶのは雨が降りしきる昨日の境内でのこと。そして自分が言った言葉。

 『君と……このまま一緒に居たい』

 我が強すぎたと反省するには十分なくらいにその言葉を思い返しては後悔した。果たして紫音はその言葉を聞いたときなんと思っただろうか。

 明白な言葉を紫音が言ったわけではない。それは嫌。今のままでいい。喜んで……

 肯定でも否定でもない、何も言ってはくれなかった。いや、あやふやだったとはいえ「ダメ」と言っていたのだから否定に類されるのだろうか。だとしたら……あんな言葉を吐いた後にどうやって紫音に顔向けすればいいのだ。

 「ごちそうさまでした」

 朝食は味を感じさせることなく空となっていた。一体どういう料理だったのかも、どういう味だったかもわからないままに残滓だけが残る皿を台所に持っていき、泡立たせたスポンジで洗う。それはまるで昨日の自分の言葉を洗い流すように……

 「紫音と……話したいなあ」

 

 亮の起床が遅いので彼の分の朝食をテーブルに残して紫音は自室に戻っていた。

 亮が起きるまで居間にいてもよかったのだが、昨夜の境内での一件以来どういう感じで彼に接すればいいのかわからなくなった紫音は顔を合わせることに戸惑いを感じていた。

 何を話せばいいのだろう?

 いや、そもそも亮くんは私のことをどう思っているのだろう?

 そう思うと紫音は途端に亮と会うことが怖くなり、先述の通り自室へと戻った次第である。

 かといってもう何年かは変わらない生活を送っているのですることが特にない。町に行って買ってきた本は読み終わっていたし、パソコンやスマホといった若者の娯楽などこの家には無いため、することと言えば既に読んだ本を読み返すか、見慣れた天井を見つめることしかなかった。

 思えばここが唯一私が安心できる場所なのだ。高坂家という安寧のかごの中、それも家主の響ですら入るのに許可を求める聖域。それがこの部屋だった。

 「……どうすればいいのかな」

 紫音は返ってくることのない答えを承知で誰もいない部屋に問いかけた。彼女の見つめる先の天井はもう何年もにらめっこをしているというのに笑顔を浮かべてはくれない。だから答えも期待してないのだが、それでもやはり自分の中に芽生えているこの問いの答えを教えてほしいと思った。

 紫音の問いかけは主に亮の事だった。

 紫音は亮を忘れることはなかった。

 それはこの村で共に遊んでいた日々から今に至るまでであり、紫音の脳裏には亮の姿があった。

 そして再び亮が自分の前に姿を現したとき、彼は自分と同じように成長していて、亮を一人の男性として意識して見るのに時間はかからなかった。紫音の脳裏に残る彼は幼いあの日のままだったため、容姿や言動にその面影はなく、まるで別人のようであり尚更そう感じさせた。

 それでも時折見せる仕草はあの頃のままであり、やはりかつて自分と仲良く遊んでいた少年であることには変わりはなかった……が、それでも昔のようにはいかない。二人はそれぞれ離れている間に色々なことがあり、亮には亮の。紫音には紫音の問題があった。

 そして紫音はその問題を亮に打ち明けたとき、彼は自分を受け入れると言った。

 ……紫音は心の隅で期待し、そうなることを望んでいた。

 けれど……それを現実にしてはいけないのだ。自分は人を不幸にする魔女で、亮が私を受け入れてしまったら彼の人生をふいにするばかりか亮に災いをもたらしてしまう。

 客観的に見れば紫音の考えは行き過ぎたものであるが、紫音を取り巻く世界が彼女を「否定」することでそんな考えが生じてしまっていた。

 自分を受け入れると言ってくれた亮に対して明確な答えを出さないでいる自分にも嫌気が差しているし、そんな状態で亮とどう接すればいいのだろうか。紫音は誰も何も答えてはくれない安寧の中でひたすら自問し続ける。

 「亮くんと……普通に話ができたらいいのに」

 2

 高坂響は物思いに更けながら最近になって調子が悪くなってきた愛車を走らせ家路に就いていた。

 閑散としている田舎だけあってすれ違う車か形どころか影すらない。そのことを良いことに響は徐々にアクセルを開いてスピードを上げていく。木々もデコボコだらけのガードレールも一瞬のうちに過ぎては遥か後方にその姿を残していき、それはまるでは走馬灯のようだった。

 響は人生も……こんな感じで何もかもが一瞬で過ぎればいいのにと思った。

 響の脳裏にはいろいろなことが思い浮かんでいた。

 仕事の事、親族間の事、紫音の事……。

 そのどれもが響を悩ませていた。

 仕事の事に関してはこの中では最下位に順位付けされた。詰まったなら上の人間に指示を仰げば解決策を教えてくれるし、イヤになったら辞めてしまえばいいのだから楽なものだ。

 「……っ」

 コーナーを慣れた操作で滑らかにクリアしていく。路面を食うタイヤのグリップが少し落ちているのが気になった。

 親族間の事が最上位に上がるだろう。

 高坂家というのは雨崎村においては有力者の家系である。故に村内での発言にはある程度の力を持てるし、家のトップになってしまえば村全体を掌握したと言ってもいいくらいの権力が約束される。

 なんでこんなところに生まれてしまったのだろうかと、響はギアの変速に伴い唸るエンジンに思いを乗せて強引にカーブを曲がる。スポーツカー特有の硬い足が路面のギャップを拾って不快な振動が車内に伝う。

 更に悩ませるのは響は高坂家の直系であるということである。つい最近は有給を取ってまで高坂家の次期当主の後継者を決める会合に出向き、今後のことを特に親交の無い親族と話し合った。響は現当主の一人娘であり、現段階においては最も次期当主に近い存在である。その地位にあまり固執はないのだが、どうしてもこの座だけには身を置いておきたい理由が在った。

 「……」

 ハイビームの灯りが路面の先を照らしていく。走り慣れた道なのでロービームだけでも事足りるのだが、万一の事を考えて響は対向車が来ない限りはハイビームで走り続ける。

 その理由には紫音の存在があった。

 この村における彼女の扱いは常軌を逸しており、自分と二木亮を除けば後は全て彼女の敵である。そんな状況下において自分の息がかかっていない誰かがこの村の権力を握ればあの子がどうなるかなんてことは想像するに容易かった。

 こんな閉鎖的な村だからか、村の権力者争いは醜い一途を辿っていた。

 直系であるから次期当主、という意向を気にくわない高坂家から分岐した派閥が響の座を狙い、先の会合でもその様子を見せ始めており着実に工作をしているのが響には分かっていた。現当主である親がそれに靡くとは思わないが、最悪そうなってしまった場合のことを考えると響は頭痛がした。もし私の知らない誰かが村の意向を一手に握る存在になってしまえば私でも紫音のことを守れない。

 そもそも紫音を巡る問題に関してはこの村全体に責任があって紫音には何一つ悪いところなんてないのだ。

 現状に至った経緯を思い返すたびにぶつけようのない怒りがこみ上げる。そう、この村は狂っているのだ。その狂気から守れるのは私だけであり、その責務がある。

 「……今日は何かな」

 こんなことを考えていても仕方がない。響は紫音が作ってくれているであろう料理を想像しつつ速度はそのままに高坂家へと車を走らせる。

 3

 夕食は肉じゃがだった。

 肉じゃがは紫音の得意料理であり失敗することは無い。教えたのは響であったが、紫音の肉じゃがは既に響く作るものよりもはるかに美味しいと言えた。

 それは今晩の物にも同じことが言え、それを三人分の皿が空になっていることがなによりの証明である。

 「ごちそうさん」

 響は皿を台所に持っていこうとした途端に亮が自分がやりますと言って紫音の分も合わせて三人分の皿を持って台所へと向かった。これくらいなら自分がやってもいいのにと思いつつ今度は紫音を見ると、紫音は紫音は紫音で仕事を取られたかのような表情をしている。そんな彼ら彼女らの姿はまるで子供のようであり微笑ましいもので響は思わず笑みを浮かべる。

 亮がこの家に最初来たときは正直、不安と困惑しかなかった。

 響も若い女性に入る部類であるし、なにより紫音に何か事が及ぶのではないのかという危惧がまずあった。

 紫音は亮のことを昔、仲の良かった友達と言っていたので詳しく聞くと小学生のときというではないか。響の個人的感覚からすればそれはもはや赤の他人だ。小学生の時から今に至るまで付き合いがあるのなら話は別だが当日会ったばかりとなると普通は警戒するのが当たり前である。

 もちろんこの家から出て行ってもらうつもりだったが、妙に真剣な表情の紫音に押されて彼をこの家に居候することを許した。紫音が響に何かを主張するということが珍しかったからである。この村の狂気が紫音を襲ってからというもの、彼女は何かを乞うことや人との対話に消極的だった。響はこの村においては紫音の良き理解者であるという自負があったが、それでも彼女は自分にも消極的な面があった。その紫音が……あれほどまでに自分に訴えかけてくるのは初めてのことで、そこに響も「何か」を見出していた。

 現に紫音には変化があった。

 やはり紫音も最初は警戒をして……いや、本当の自分に気付いてほしくなくて「芹歌」を名乗っていたがそれを自分からその名が偽りであることを明かした。

 そして何より……笑顔を浮かべることが多くなった。

 とはいえ変化という物は一向に良いものばかりが訪れるものではない。

 ここ最近の紫音……いや、紫音だけに限らず亮を含めた二人の様子はどこかぎこちないと響は見ていた。

 どちらも片方を気にしていて、けれどどうやって接すればいいのか分からない中学生みたいな感じ。若い顔見知りの男女がひとつ屋根の下にいるとなればこういう関係性になるのも時間の問題ではあるが、それはそう簡単なものじゃないと響は睨んだ。

 きっと互いを嫌ってはいないだろう。じゃないとこうして同じ空間の下で同じテーブルを囲んで座ることなんてしない。

 「あのさ」

 響はそれとなりに二人に聞いてみることにした。

 「あんたたち、何かあった?」

 それとなく響は聞いたつもりだったが、その問いかけが居間に放たれた途端に亮と紫音の二人の空気が張り詰めたものになったのを三人がそれぞれ感じた。

 亮と紫音は思い当たる節があるようで響の言葉を聞いた途端に揃って「えっ……」と言葉を漏らす。

 そして響は思う。あれ、私なにか不味いことしちゃった?

 そう言葉には出さず二人の顔を交互に見ながら響は果たして自分の発言は失言だったのかと考える。

 まさか本当に「そういう」関係になってしまったのだろうか?紫音を預かる者として、または高坂家の主としてはそこは見逃せない。

 「……何も無いですよ。ね、紫音」

 「……うん」

 亮の同意を求めに紫音は頷きで返した。ただそれは果たして本当の同意だったのかは疑問であると響は二人の目を合わせないどころか顔を合わせないやりとりにそれを感じた。日中を仕事で留守にしている響にはあずかり知らない出来事があってもおかしくはない。二人はかつての少年少女ではなく、大人の一歩手前の男女だ。

 本当のことを言ってほしい。

 そう出かかった言葉を胸に返して響は一度紫音を見やると思わずハッとした。紫音の表情は感情の色を失っておらず、心の奥底にこそばゆさを感じている年相応の表情を浮かべていた。

 ……よけいな邪推はするべきでないか。響はそう思うなり再び二人に声をかけた。

 「悪い悪い。冗談だよ」

 ニコリとバツの悪い笑顔を二人に向ける。それが氷解の合図となり高坂家に束の間の笑顔が戻った。

 4

 夜になると日中の暑さは随分と和らぎ、時折吹く風が心地よく感じられる。特に今夜は眠りの世界に入るのにもってこいの気温となっていた。気だるい暑さと夜風の冷たさが織り交ざったそれは、どこか冬の日の抜け出せない布団の魔力に似ている。

 しかし亮は布団に入ることなく縁側で一人佇んでいた。瞼には確かな重さがあるのだが、そうすることを命じている脳が妙に冴えて眠ることができないのだ。

 人が眠れないときには原因がいくつかある。

 カフェイン等の興奮作用がある成分を摂取したことによる影響。

 午睡の取りすぎ。

 ストレスによる自律神経の狂い。

 今現在の亮においては最後の症例が最も当てはまった。そのストレスの原因を考えないようにしようとしても逃れることはできず、今晩は特にその存在に囚われて仕方がない。

 社会から逃亡したことにより自分に課せられる罰。親との関わりが断たれる事実である。

 そうなることを覚悟してこの村に来たというのに今更何を思っているのかと自問自答を重ねた末に睡魔も降参してどこかへ去ってしまった。胃に微かな痛みが伴う。果たして現実とは一体何なのだろうか?

 「……わかんね」

 亮はその場で寝転んで夜空を仰ぐ。この時間帯になると明かりがついている家の数など数が知れるほどで、毎晩空が泣かない限りは星が良く見える。こんなにも夜空には星が瞬いているなんて忘れていた。子供の頃はこれが普通だったのに、いつの間に忘れてしまったのだろう。

 ……紫音の事も。

 ふと、キイと床を踏みしめる音が近くから聞こえた。

 泥棒だろうか。咄嗟に横になっていた体を起こして、得体のしれない何かに対して身構える体勢を取ったが、それは音の正体が亮の前に現れたことで無意味となった。

 「……響さん」

 「やあ少年。どうしたの?眠れない?」

 灯りの無い空間からうっすらと響の姿が月明りの元に浮かび上がる。スウェットにジャージというラフなスタイルな出で立ちだった。その様子から察すると眠っている最中にトイレか何かで目を覚ましたのだろうか。

 「そんなところです」

 「なるほどね」

 よっこらせと亮の近くに腰掛けた響は亮と同じように夜空を見上げた。その仕草とその間の表情は普段の響にはないもので亮は少々驚く。もしかしたら自分たちに接している高坂響とは表面上の物で、これこそが本質なのだろうか。

 「……星、きれいですね」

 「こんなもんだよ。田舎なんて」

 「そんなものですか」

 「そう」

 この暗闇のキャンパスに浮かぶ一面のパノラマは言わば社会の構図だ。

 無数の星々がひしめき合いながらもその一つ一つは確かに瞬いて自己を主張し、夜空に美しい光景を浮かび上がらせている。一つの輝きはか弱いが、それが集合することで巨大なものになるその様を見て亮はふと考えた。

 ……少し病気なのかもしれない。星空を見てそれを単に奇麗だと思えばいいのに、それを社会に絡めるなんてどうかしてる。再び亮の胃は痛み、眠気も冴えた。

 「響さんはどうしたんですか?」

 「ん、あぁ。私も眠れなくてね。眠れない時はこうして外に出るんだけど、そこに先客がいたって話」

 「……すいません」

 「なんで謝るわけ。別にいいんだよ。アンタは今はこの家の住人なわけだし」

 「――っ」

 その言葉は亮の胸に突き刺さった。どこの馬の骨かもわからない人間を泊め、ロクに高坂家に貢献すらしていない男に対して贈られる言葉とは到底思えなかったからだ。

 ……なぜ、この人は自分に優しくするのだろう。亮は響に問えない疑問を胸中に収め、ついぞ気になっていた別のことを彼女に聞いた。

 「紫音の事で聴きたいことがあるんですけど……」

 「なに?」

 「なんで紫音はこの村を出ないんですか?あんな目に遭ってるなら逃げ出してしまえばいいんじゃないかと思ったんですけど……」

 逃げ出す、なんて単語を言葉にした後に軽い自己嫌悪に陥る。果たして逃げた先に正解があるとは限らないのは自己を持って立証済みだったから。

 響は少し言葉を詰まらせた後に口を開いた。その間二人の世界を沈黙にさせずにいてくれた鈴虫の鳴き声は遠くに響く。

 「それはきっとあの娘の中では世界は雨崎村しか無いからだろうね。中高は海津の方だったけど、それでも雨崎村の範疇を出ない。……提案はしたよ。この村を出ないかって。ただそこに私はいない。私はどうしてもこの村に留まらなくてはならない事情があるからね。すると紫音は断った。……怖いんだろうね。やっぱり自分の知らない世界に足を踏み入れるのが」

 「そんな……」

 「誰だって知らない世界に単身飛び入るのは勇気のあることだよ。……それは私だってそう。ただ、その勇気のハードルがあの娘には高いんだ。私という保護がなくなったとき、紫音が抱える苦労は想像に容易いよ。……過保護なのかもしれないけど、あの娘を案じることが私の責務だからね」

 「……従姉妹、だからですか?」

 「それもある。けれどそれ以上に……私にはあの娘を守る義務があるのさ」

 義務というあまりに堅苦しい言葉の登場に亮は思わず訊き返した。

 「義務?」

 「君の宿題が終わるころになったら教えてあげるよ。答え合わせまでのお楽しみだ」

 いたずらな笑顔を響は浮かべた。まるで子供のようで、それでいて大人の陰を潜めたもので、亮はその笑顔が妙に頭に残ると共にその真意を探りたい気持ちにかられた。

 紫音と響の関係は単なる親戚と片付けるほど容易でないのは薄々と亮は気付きつつあった。この二人には何かある。それはきっと紫音の事が絡んでいて、響には何かしらの事情で彼女を保護する立場にある――。

 「それよりどうなの?宿題の進捗は」

 「なかなかうまくいきません。ちょっと手詰まりしちゃってて……」

 「まあ、ゆっくりやっていけばいいよ。宿題も、そのほかのこともさ」

 「はあ」

 「それが今の君に課せられている義務でしょ?」

 再び亮の胃に痛みが走る。そんな義務などはなから存在などしていないからだ。まるでその言い逃れのための言い訳は小学生が学校を休みたいときに使う仮病に似ている。親が問いただせばすぐにそれが嘘とわかる、あまりに稚拙な言い訳。それを親ではなく、知り合ったばかりで家に泊めさせてもらっている人間に対して使うことに罪悪感を募らせる。

 「……そうですね」


 夜も深まる深夜2時過ぎ。二人が肩を並べてどれくらいの時間が経ったかは定かではないが、それを忘れさせるくらいに二人は話を続けた。会話をするということは脳を活性化させることであり、次第に二人の睡魔は影を潜めていった。

 「……紫音さ、最近よく笑うようになったんだよ」

 「そうなんですか。僕はてっきり響さんといるときはいつもあんな感じなのかなって思ってたんですけど」

 「ううん、あの子はさ、村であんな扱いを受けてからというものすっかり無表情になってね。それは私の前でもそんな感じだった。……自分を養ってくれていることに引け目を感じているのかな。無理に私に笑ってるような気がしてた。そんな気遣いなんていらないのにね」

 亮はふと、出会った頃の紫音のことを思い浮かべた。表情一つ変えずに言葉を発することはしない。けれど何かに怯えていたあの表情を。それを……紫音はこの村での唯一の理解者たる響にも見せていた。その事実に亮は胸が痛んだ。そして浮かぶのはかつての、笑顔を振りまいていたあの時の紫音。

 「きっかけはきっと君だよ。君がこの村に来て、あの娘と出会って話をして一緒に時を過ごしたことで紫音に笑顔が増えるようになっている。本当に嬉しいよ」

 「……そうですかね」

 果たして自分は紫音をそうさせているのだろうか。亮の中では昨日から胸中に渦巻く靄が晴れずにいて、それは未だに続いていた。

 あのとき、自分はどういう言葉をかけるべきだったのか。やっぱりあんなことを言うんじゃなかった。そんな「IF」ばかりが自分を責める。

 そのことを考えている時の亮は表情に出るようで、響はそれを見逃さなかった。夕飯の時と同じだ。紫音もそうだったが亮も何かを考えているときに思いつめたような表情をする。

 ……それはきっとお互いが片方の事を思っているからという持論は揺るがない。ただその原因を問いただすことはやっぱり難しくて、それを胸の中にとどめていた。

 響はふと昔のことを思い出す。中学生の時、仲の良かった子が好きな男の子のことを自分に話してくれたがあった。あの時は今よりも幼い。そんな無邪気さから響はその男の子に自分の友達があなたのことを好きであるという旨を伝えた。

 結果としてはそれは裏目に出た。

 響は親切心からそう行動したが思春期の繊細な心というものは儚い。それに女子間の友情も。友達は知られたくなかった、あるいは自分から知らせるつもりだったその秘め事を第三者から伝えられたことにひどく憤慨して響とはそれっきりの縁となった。

 そのことが未だ響の後悔の一つとなっていて、その轍を踏まないようにこういう人と人との間の出来事に首を突っ込むことはできるだけしたくないというのが彼女の信条である。

 「紫音のことはさ、君にもお願いしたいんだ。君の宿題が終わるまでの間でいいからさ、あの子と……できるだけ長くいてやってほしい」

 「……僕でいいんですか」

 一抹の不安が亮の脳裏をよぎる。雨崎村に来たきっかけは元はといえば自分の逃避行が起因している。社会という枠組み、あるいは親から逃れたくて懐かしさを求めることを理由にしてこの村へ逃げ込んだ。それは言ってしまうとただ面倒なことから目を背けたに過ぎない。

 不安の種とはこれだった。このことを誰よりも分かっているのは亮自身であり、紫音から逃げてしまうのではないかという不安があった。それゆえの自身に対する疑問視である。

 「さっきも言ったけど君といるときの紫音はやっぱり表情が明るいんだよ。そうしたのはほかでもない君。だからさ……お願いできないかな」

 それは亮がここに居続けられる理由ができることでもある。衣食住を提供している響からの願いを無碍にすることは難しい。それに……亮自身も紫音とそうありたいと思っているのは事実である。

 「……わかりました」

 「期待してるよ」

 そう返した響はおもむろに立ち上がりひとつ伸びをした。夜風が二人をすり抜けて木々の葉を揺らす。草木も眠る丑三つ時というが、その様子はあまり感じられない。まだ草木は眠ることを知らない時間。つまりは二時手前くらいだろうかと亮は思うが実際には3時近くである。

 「眠くなってきたからもう戻るよ。こんなところにいると風邪ひくから君も早く戻りな」

 そう言って響は手をヒラヒラと振って明かり一つない家の奥へと戻っていった。その姿に亮は「おやすみなさい」と返して姿が見えなくなるまで見送った。

 「期待、か」

 社会からの逃避行から始まったひと夏の旅は一人の少女と再会したことでアバンチュールへと姿を変えた。亮は再びその場に寝転がり夜空を仰ぐ。果たしてこの先僕らがどうなるかはわからない。昔の人は天に占ったようだが、そんなのでうまくいくほど人というものは簡単でない。

 「……紫音」

 夜空の星々は止まっているようで地球の自転に合わせて位置を変える。その変化量は少ないけれど、季節の移り変わり、あるいは夜明けを迎えるにあたって次第に、着実に表情を変えている。

 再会したころの、表情を変えずに何もしゃべらない紫音がふと浮かぶ。

 自分の本当の名前を告げた時に浮かべたいたずらな笑み。

 自分の置かれた状況を教えてくれた時の涙。

 ……どれも宗宮紫音の本当の顔だ。だけど曇り空が浮かんでいてその顔を拝むことができないでいる今の現状は絶対におかしい。

 「今度は離さない」

 次第に薄れゆく意識の中で浮かんだ最後の紫音は遠い日の彼女だった。そしてまどろみは意識を飲み込んで眠りの淵へ彼を落とした。

 


 

 


 

 

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