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揺蕩いの魔女が死ぬとき  作者: 麻川要
5/10

五章

 1

 その異変に亮が気付いたのは家に戻って「ただいま」と声をかけても紫音の声が返ってこなかったときだった。最初は未だに紫音が自分に心を開いてくれていないからだろうと亮は思っていたが、それにしては何度か声をかけても返ってくる様子はない。そこまで自分は紫音に信用されていないのか……そう思いつつ彼女が夕飯の準備をしている台所に入ると、そこにはどうして紫音が声を返してくれなかったのかという疑問を氷解させる理由がそこにあった。

 紫音がこと切れたようにして床に倒れていた。

 亮はこのとき初めて人間が意識を失って倒れている姿を見た。睡眠で意識を失うのとは性質が違う。睡眠は休息を取るべくして意識を失うが、目の前の紫音にはその様子はない。つまり「何か理由」があって意図せずしてこういう状況になってしまったのだろう。

 「……紫音!」

 亮は手にしていた缶とペットボトルを無意識のうちに離して空いた手で紫音の肩を掴み名前を呼びかけた。こういった場合、どういう風に対処すればいいのか分からない亮はそうすることしかできなかった。視界の隅で落とした缶がコロコロとのたうち回っているのが目に入る。それはまるで亮をからかうように見えて、亮はわけもなくいら立ちを覚える。

 返事は無い。何度呼びかけても反応が返ってくることはなく、焦りが滲み始める。唯一その焦りを一定のラインで抑えたのは微かに指先から伝わる紫音の体温であり、死という最悪な場合を否定していることだった。

 このままではよくない。どこか、横になれる場所へ紫音を連れていかないといけないと思い立った亮は肩に置いていた手を離し、抱きかかえるために紫音の腰元と背中に手をかけた。伝わる体温と初めて触れる異性の体に亮は健全な男子らしくドギマギしてしまうが、今はそういうことを考えている場合でない。力を入れて紫音を抱きかかえると、まるで羽毛布団のように軽い彼女の体は持ち上がった。華奢な見た目から想像はしていたが、まさかこんなにも軽いとは思っても無かった。されどやはりそんなことに耽っている場合ではないのだ。急いで亮は胸に眠るお姫様を借りている自室へと運んだ。

 

 外がオレンジの世界から暗い闇を落として姿を変えたころ、あのマフラー音を轟かせ、響が仕事から帰ってきた。その音を合図にして亮は玄関に向かい、ちょうど扉を開けて姿を見せた響に挨拶もほどほどに事情を説明し、二人は早足で紫音の眠る部屋へと向かった。そこには安らかな寝息を立てて眠る紫音がいて、それを見た響は心の底から安堵したのか深い息を一つ吐いた。

 「すいません……」

 「なんで君が謝るの?それよりも私は感謝してるよ。ありがとね、紫音を看病してくれて」

 響は眠る紫音のそばに寄り、まるで母親が子供にするようにして紫音の頬を撫でた。陶磁器のような彼女の肌は飲み込まれるように白くきめ細かい。果たしてその感触は如何ほどなのか知る由は無いが、そんなことを考えられるくらいには思考に余裕ができたことを亮は実感した。

 「僕が外に出ている間に起きたんです。だから……」

 「仕方ないよ。それに……たまにあるんだ。こうしていきなり倒れちゃうことがさ」

 「えっ……」

 亮が驚くのは無理もなかった。こういったことが今日に限った話ではなく、頻発していると言われれば紫音が何かを抱えているのではないかと否応なしに心配された。

 「なんでも自分を魔女と罵る声がどこからか聞こえてくるんだってさ……それがトラウマになっている紫音には耐えがたいストレスで、あの子の限界を超えちゃうと……こうなっちゃうんだよ」

 響はトントンと紫音の柔らかい頬を指先でつつく。うみゃあと猫のような声を上げるも紫音は起きることはない。深い眠りに就いているようだ。

 「……っ!」

 亮の中で怒りがこみ上げる。突発的に近くの本棚を拳で叩きたくなる衝動にかられるが、家主の前でそれを行ってはいけないという理性がその衝動をセーブして次第に冷静さを取り戻した。その様子を見ていた響も伊達に歳を取っていない。亮がどういった心境であるかも理解しており、ひょっとしたら近くの物に当たるのではないかと想像もしていた。幸いにもその想像は現実に変わることはなかったので、響は話を続けることにした。

 「いつからだったかな。私がこの子と住み始めて……何年か経ったとき。あぁそうだ。高校生くらいのときだ。授業中に意識を失ったと学校から連絡があってね。そのときは貧血とかそんな感じなのかと思ったら、その後もこの子は倒れることが増えた。何か病気があるのかもしれない。そう思って色々な病院にも行ったけど特に何も罹っている様子はないって言われてね……けれど何か原因があるはずだって、それとなしに紫音に訊いてみたら話してくれたんだよ。声がするって。村の人が、私のことを魔女だという声が。この子ね、いろいろなものを抱えちゃうんだよ。初めて倒れたときにも同じことが原因だったのに、卒業間際にやっと言ってくれたの」

 「……なんとかならないんですか」

 「それは私たちには分からないよ。そりゃあ私だって紫音をこんな風にはさせたくない。けれどダメなんだ。幻聴がいつまでもこの子を苦しませる」

 亮は頭が痛くなるのを感じてその場に座り込んだ。一体なんでこの子がこんな目に遭わなくてはならないのか?なにをしたというのだ?

 目の前の眠る紫音を見て、亮は彼女に降りかかる理不尽を思うとどうしようもない気持ちになった。その本質は守ってあげたい。救いたいというもので、きっと誰しもが今の紫音を知るとそう思うだろう。ただ……果たしてそれを実行できるかとなると話は変わってくる。人は行動に移すとなると途端に尻込みしてしまい、大多数はそこで終わってしまう。亮本人も分かっているのだ。では具体的にどうすればこの子を助けることができるのか?と。そして行動に移すための思考を頭が考えることを拒否している。必要以上に紫音に関わることを恐れているのだ。

 「……二木くん!」

 「あっ……はい」

 「どうしちゃったの?何か深く考えている様子だったけど」

 「いえ、なんでもないんです。ただ……紫音が元の通り笑顔でいてくれたらなって思っただけです」

 言うだけなら簡単だと亮は思い、本心からの言葉を響に話した。どうすれば話したその通りになるのかを言わず理想だけを言う。我ながら偽善的だと思う。

 「……そうだね。さてと、紫音を起こしちゃまずいからここを出よう。多分……夕飯は作りかけのままだから、そこからまたやらなくちゃいけないから時間はかかるけど夕飯にしよう」

 「それなら僕がやりますよ。響さんは身支度でもしててください」

 「……そう?悪いね。それじゃあ、お言葉に甘えさせてもらうよ」

 響は依然として作業着のままで仕事道具が入っている鞄も背負ったままである。それにきっと仕事で疲れているはずだから休ませてあげるべきなのだ。それに家事をするのも寝食を提供してもらっている身分としては当然しなければならない。

 「うーん……」

 亮と響が部屋を出ようとしたとき、紫音が寝顔のままに何か寝言を立てた。よく耳を傾けて聞いてみたらそれは他愛のない、子供のようなもので深い意味はなかった。

 それにしても……寝顔を浮かべる紫音は童話に出てくる眠り姫のようだと亮は口には出さずに心の中で思った。童話では眠り姫は一心不乱に眠り続け、やがて訪れた王子様のキスによりその眠りを覚まして元に戻る……確かそのような話だった。目の前の眠り姫も、誰かのキスによって眠りから覚めるのだろうか?

 「おーい行くよ」

 「すいません」

 眠りから覚めたお姫様は眩いばかりの笑顔を浮かべて周りの人や動物を幸せな気持ちにさせて物語は終えた。もしかしたら紫音も……王子様のキスの一つで昔のように天真爛漫な少女に戻れるのだろうか?果たしてその王子様とは誰なのだろうか。

 部屋の明かりを消すために壁に備え付けられているスイッチに手をかけた際に亮は再び紫音の寝顔を見つめた。自分でもそれは邪な考えだとは思う。だけど……その王子さまは……少なくとも自分でもいいのではないかという気持ちが脳裏を遮ったが、それを決して口にはせず無機質なプラのスイッチを押して部屋を暗くした。まだ再開して日も浅いのに何を考えているのだろうか。我ながら情けないとは思いつつ紫音の名残が残る台所へと向かった。

 2

 相変わらず目覚めは最悪だった。この村に来てから数日が経ったが亮の目覚めは良くない日の方が多かった。

 いよいよ大学の講義も終盤を迎えるのと同時に亮の単位取得の雲行きも怪しくなってきた。携帯に届く友人からの近況報告によるとどうやら自分は既に何単位かを落としたようで、レポートや再テストで挽回できる講義もいくつかはあるらしい。突如として大学に姿を見せなくなった彼を友人たちは心配したが、亮は「体調不良」とだけ言って本当のことは隠していた。言えるはずがない。本当は五体満足で精神にも異常をきたしていない。……もしかしたら、現実が嫌になって雨崎村なる奇村に逃げた。という行為はそれに類するのかもしれないが、悲しいことにそれが現在の二木亮における状況である。果たしてこの先どうなるかは自分でも分からない。不意に思い出すのは親と交わした約束で、単位を一つでも落としたら勘当という条件が胸を苦しませる。なにしろその条件はすでに満たされていて両親はいつでも亮とは縁を切ることが可能だからだ。そんな約束を親子間で交わすくらいの仲でも亮は彼らに愛情を持っていたし、できればそんなことにはなりたくないと思っていたが、自分が辿ってきた道を思い出すとそれは仕方のないことなのかもしれないと思う。

 いまからでも現実に戻るべきなのだろうか?答えはきっとイエスに違いないのだろうが、亮はそれから逃げるようにして居間のほうへと歩き出した。

 

 不思議と目覚めはいつもよりも良かった。

 惰眠を貪り緩慢な動作しかできない体を無理に起こして窓から差し込む陽光で今は朝であることを視認した後に紫音はベッドから体を起こして窓辺へ歩み寄る。微かにそよぐ風は新緑の匂いを乗せて紫音の頬を撫でると共に彼女の鼻孔をくすぐる。いつもならそんなことなど感じることはないのに、今日はどうしたことかと考えると、それはいつもより体調がすぐれていることに他ならないのだと紫音は次第に目覚めては軽やかに動く体を見て思う。

 それと同時に昨日自分が意識を失ったことを思い出す。最後に覚えているのは夕飯の準備をしていたときのこと。不意に聞こえてきた村民の罵詈雑言が紫音を包み、それに耐えきれなくなった理性が自分の意識を落としたのだ。

 ……それからのことが一切思い出せないということはそれ以来目覚めることなくこうして朝を迎えたのだろう。何時間寝ていたのかは分からないけど、この目覚めの具合からして長い時間であることは想像するにたやすい。

 窓から見える木々はそよ風に揺れていて、世界は今日も平和であることを察するが、それを眺める紫音の胸中に少し曇りが見え始める。

 果たしてこれで何度目なのだろう。

 響が亮に言った通り紫音が唐突に意識を失うことは頻発というほどではないにしろ時折起きていて、そのことを誰よりも実感しているのは紫音だった。

 初めはストレスや体調の具合によるものだと思っていたが、それに当てはまらない時でも意識が失うことがあった。症状が現れるときに共通しているのは紫音への心ない罵詈雑言が幻聴として聞こえてくることだった。

 不意に幻聴が訪れては意識を失うこの症状は紫音を苦しませていた。

自分はこの先幸せになれるとは思ってはいないが、それを抜きにしても突発的に意識を失い倒れることがあるとなるとこの先の人生においてはハンディとなり、生きづらくなるのは目に見えているからだ。いつまでも響に頼りきりの生活には限界がある。やがては自分ひとりで生きていかなくてはならないだろう。そしてそのときにこれを抱えて果たして自分は生きていけるのだろうかという不安が紫音の胸中で渦巻いては消えない。

 枕のそばに置いてある時計は七時過ぎを世界に知らせていた。いつもは六時くらいに目を覚ましていることを思えば寝坊なのかもしれないがこの時間は世間からすれば十分早起きである。窓から漂うそよ風を名残惜しく思いつつ紫音は朝食を作るべく台所へと向かった。


 亮が居間に顔を見せるとそこには紫音が変わらぬ表情でテレビを見ていた。おはようと声をかけると亮を見て紫音もまたおはようと返す。何ら変哲の無い朝の風景である。少し変わっているのは居候同士ということくらいだろうか。

 テーブルには目玉焼きにベーコン。サラダなど朝食の手本ともいえる料理が並べられていた。そのセットはテーブルには亮の分だけであり、この家の人間のものは既になかった。

 亮は昨夜、響が明日は休みなので少し出かけてくると言っていた旨を思い出す。なんでも用事があるそうだ。なんの用事かと詮索するのは無礼にもほどがあるので止めておいたが、今の時刻を見る限りには結構早く出て行ったのがうかがえる。

 「いただきます」

 「どうぞ」

 紫音はテレビを見るのを止めて台所へ向かい、しばらくしてから手にマグカップを携えて、もといた場所に座った。マグカップからは湯気が立ち込めていて、不意に見えたその中身からそれはホットコーヒーであるのが分かった。そんな紫音の様子を目玉焼きの黄身を箸の先で割りながら亮は観察していた。黄身を内包する膜を破るなり黄色のペンキが白のキャンバスにあふれ出る。

 それから箸を動かしている間は沈黙が二人を包んだ。相変わらずテレビからは三流の芸能人が世間に文句を言い、アナウンサーは天気予報を読み上げた。なんでも昼過ぎからこの地方は雨が降るらしい。

 「ねえりょ……二木君」

 「なに?」

 一度言い直した紫音の言葉にもどかしさを覚えながらも聞こえなかったふりをして紫音の呼びかけに答える。出会った頃からは少し変化した二人の仲が後戻りしたような気がして亮は少し、悲しかった。

 「二木君は村を出た後、どんなことしてたの?」

 それは予想にもしていなかった問いで、亮は思わず掴んでいたベーコンを落としそうになって皿に滞留している黄身に浸すところだった。そうなる前にと口に運んで咀嚼して飲み込み、口が空になってから紫音の問いに答えた。

 「……普通に学校行ってただけだよ」

 「……そう」

 その答えは嘘ではない。良い大学に合格するために他者の期待やプレッシャーを浴びながらも勉強に費やしたあの日々を端的に表すとこうなるのだ。もしかしたら紫音は自分に何か期待していたのかもしれないが、残念ながらその彼女の期待にも応えることはできなかった。


 朝食を食べ終えた亮は紫音が用意してくれたコーヒーを片手に二人でテレビを眺める。その瞬間はまるで時が止まっているようだったが、それをテレビの右上の時刻表示が否定した。やはり時間は過ぎているのだ。その60秒ごとに表示を変えるデジタルの時刻表示は否応なしに今朝の目覚めの悪さを改めて認識させられる。

 8:20

 この時間帯は日常を人並みに過ごす人間ならば常識的な時間であるが、睡眠が十分に上手くできなかったことによるストレスから表示されている時間から更に二時間は惰眠を貪りたいと亮は思った。

 現実から逃避行を続ける自分にその原因があるのだが、やはり時間の経過は無視することはできない。いつかは訪れる終わりを先延ばしにしている自分を見ているようでテレビから目を背けた。しかし目を向けた先のコーヒーの水面には反射して映るバツの悪い自分の顔があり、逃げるように目を違う方へと向けるとそこには紫音の横顔があった。

 昔の少女の頃の面影を確かに残しつつ成長した紫音をあの頃のままの彼女として意識するのは無理な話で、亮は紫音を自分と同じ年の異性として認識していた。もう、昔みたいに仲の良い友達では通らないことに亮は紫音の横顔を見て思う。仮に紫音が「こんなこと」に遭っておらず、昔の彼女のままだったとしてもそれは同じことだっただろう。

 紫音は……自分のことをどう思っているのだろうかという疑問が亮の中に浮かぶのは当然のことだった。自分と同じことを考えているのだろうか?それとも、あの頃のままの友達として、或いは顔見知り程度の仲としているのだろうか。無表情のまま世間の動向を見るその横顔に訊いてみたくなるが、それを実行に移すとなると途端に尻込みしてしまう。亮はそんな自分を情けなく思うが、それは大多数の人間も同じだろう。

  

 ポケットに入れていた携帯が小刻みの振動と共に電子音のメロディが鳴り、誰かから亮にメッセージが届いたことを彼に知らせた。亮はいつもの習慣で携帯の画面を開いてその内容を確認する。内容はだいたい分かってはいるが、誰から来たのかが気になって仕方なかった。

 メッセージの送り主は予想はしていないようで予想はしていた人間からだった。大学の友人や登録してあるサイトの広告に紛れてそこに表示されている「父」の表記は今の亮には刃のように深く突き刺さる感覚を覚えさせた。本文にはほんの軽くしか目を通していないが、そこには親子のものではないものが書かれていることを長文の文面からして感じられ、内容を見るのが怖くて仕方がない。「本文を表示する」をタップすれば現実を直視せざるを得なくなる恐怖。更には世界を変えてしまうような恐怖すら感じられる。亮は震え出した指で画面を操作しようとした矢先に紫音が開口した。

 「あの……」

 「なに?」

 紫音の声はとても静かなもので、テレビの音にかき消されそうなものだったが亮の耳にはよく聞き届いた。嫌に五感が冴えているからだろう。父親からのメールはそれほどにまで亮の神経を高ぶらせていた。紫音はそのことを彼の表情から理解していたが、先ほど同様の静かな声量のまま紫音は言葉を続けた。

 「ちょっと……外に行きたいんだけど……一緒にきてくれない?」

 亮はメール本文を見るどころか携帯そのものを落としそうになるくらいに紫音の言葉に衝撃を覚えた。訊き返すまでもなく、彼女は自分に一緒に外に出ないかと言ったのだ。それは昨日自分が紫音に持ちかけたことと同じだったが彼女が言うのでは訳が違う。そう、紫音の置かれている環境を思えばだ。

 「……どこに行く?」

 大丈夫なのかとかは一切言わずに亮はそう訊いた。紫音は亮が自身の状況を知らないと思っているからという理由もあったが、何より紫音を嫌な気持ちにはさせたくなかったからだった。

 「神社……なんだけど」

 この村に気の利いた喫茶店やショッピングモールなんてものはなく、あるのは田んぼくらいで亮が思い浮かべていたのは海津という選択肢だったがそれでもなかった。果たして神社に行って何をするのかと気になったが、今の亮からすれば現実を背ける誘いでもあったので、亮は「いいよ、行こう」とだけ言って手にしていた携帯をポケットに戻して今後の段取りを紫音と話し合った。

 今の時刻は昼の手前だ。亮は感覚でそう思ったが正確な時刻を計ろうと携帯を見るとそこには11時を少し過ぎたことを知る。体を動かすことも無く、頭も使うことも無いこの生活は摂取したカロリーを消費することがないので別段昼食を食べる必要性はないと亮は思った。

 「昼ごはんはさ、帰ってきたらでいい?」

 「うん。ちょうど俺もそう言おうと思っていたところ」

 果たして紫音はいったい何用で神社に行こうというのか気になるところだったが、そのことを胸中に仕舞い亮は紫音の後を追って玄関へと向かった。

 ちょうど二時間目の講義を終え、亮の単位がまた一つ落ちたことを知らせる友人からのメッセージが来たことをポケットの携帯の振動で亮はなんとなくわかったが、その内容を見ることも無く、外の気だるい世界へと逃げ出した。

 3

 境内は相変わらず人気もなく、あるのは変わらぬ暑さと蝉の鳴き声だけだった。

 むしろこんな過疎地域の超高齢化社会を先取りするこの村の神社に人気があったら、それは異質なのかもしれない……と、亮はすっかり干上がった御手洗を見て思う。そして目に入るのは拝殿脇に立てられている例の伝承の看板。途端に紫音が魔女呼ばわりされる原因となった気味の悪い昔ばなしが思い出されて嫌な気分になった。

 幸いなことにここに来るまでに亮たちは村民と会うことは無かった。その間、紫音はずっと無表情だったが何かに怯えて周囲を見渡す姿を亮は見ていたので、もし村民と出くわしたら彼女はどうなってしまうのかと亮もまた不安に駆られていた。

 今思えば紫音と出会った当初、彼女が見せていた不安の表情はこの村全体が原因だったのだと亮は今更ながら思う。そして今も隣でその表情を浮かべている紫音を横目にかつての彼女が彼の脳裏に姿を見せる。昔は本当に……ついこの間まで忘れておきながら薄情だとは思うが、紫音は無邪気で明るい女の子だったのだ。そのことを思うと亮は紫音をどうにかして昔のような彼女に戻すことはできないかと思うが、それはあまりに傲慢で自分勝手な考えであることも分かっていた。

 だけどもう一度、あの時の笑顔が見たい。

 亮は隣の少女の無表情で、どこか怯えを見せる横顔を見てそう思った。

 

 二人は拝殿の階段に腰掛けた。日陰になっているそこは太陽による熱さを持つことは無く冷たさを帯びていて暑さで火照った体を冷やすには十分だった。少しささくれている表面を手でなぞってみると、下手すれば皮膚に刺さりそうなくらい粗かったので亮は手を引っ込める。その間、紫音は暗い表情を浮かべながら遠くを見ていた。

 果たして何をその双眸に収めているのか。その答えを探そうと亮もまた紫音の目線の先に瞳を凝らすが、そこには鳥居に揺れる蜃気楼があるくらいで特段何があるわけでもない。紫音はここではない、どこか先を見つめているのだろうか。

 結局ここに来るまでに紫音は亮に神社に誘った目的を告げることは無かったが、亮は薄々と気付いていた。行動に理由が伴わないはずがないように、紫音が彼をここに誘ったことに真意があることに。

 遠くの空には厚い雲が見える。亮はふと、今朝のニュースでこの辺りは午後には雨が降ると言っていたのを思い出した。


 いったい何分の時が過ぎただろうか。

 亮には途方もなく長い時間が経ったように感じたが、実際に世界に流れている時間は五分にも満たなかった。その間に亮は遠目に見える蜃気楼を眺めては、ずっとこのままでも良いのにと思っていた。しかし二人が今日に至るまでに変化があったように、この時間は永久ではない。二人の間を滞留する空気は紫音の発した言葉によって破られた。

 「……この村の魔女のお話って知ってる?」

 確率は二分の一だった。

 それは紫音がこの話をするか否かの二択であり、結果としては紫音が語り始めた通りのものとなった。

 紫音の方から出かけることを提案し、更に場所を神社に指定したことに亮は薄々と彼女に何かあることを感じていた。ただの思い過ごしだと亮は何回も思ったが、それでもここに来るなり亮は感じた。

 紫音が自分に自身の過去、そして今に至る話をするのではないかと。

 確証はなく、本当に二分の一だった。別にここで今日の夕飯の話をしてもなんらおかしいことは無い。むしろそっちの方が実に建設的ですらある。

 「知ってる?」

 「……あぁ、うん。ほら、あの看板にその話が書いてあって一昨日知ったよ。ちょうど紫音が僕を呼びに来た時だったかな」

 一昨日、紫音が「馬鹿げた」ものと称した伝承が書かれた看板を亮は指さす。そのとき亮は思った。なるほど。確かに紫音からすれば馬鹿げたものに違いない。あの無茶苦茶な話が原因で彼女はこんな目に遭っているのだから。

 「私ね、中学生の時に両親を亡くしたの。自殺だった。それも遺書が無かったから無理心中だって、大人は言ってた」

 「……そう、なんだ」

 亮は初めて聞いたかのように驚いた素振りを見せた。既に響に紫音が今日に至るまで何があったのかを話されていたので、亮にはこの先の内容もおおよそ予想がついている。そのため彼はひどい罪悪感に苛まれながら黒い影を落とす紫音の話を聞くことになった。きっと紫音は相当な覚悟を持って自分に話をしているのに、既に自分は他人から聞かされて全て知っているということに罪を感じ、そんな自分に亮は嫌気がさした。

 遠くに見えていた厚い灰色の雲は亮たちの元へと風に乗って近づいていた。太陽は雲に隠れてその暑さが和らぎ始めているが、それでも気だるい熱を持った風は彼らに吹く。

 「昔話の内容、覚えてる?」

 「娘が突然気を狂わせて両親を殺して自分も後を追った……っていう話だよね」

 「……この話、私に似てない?ほら、両親が死んじゃう辺りとか」

 そう、言葉を漏らした紫音の顔はひどく切なく、悲しい表情をしていたことを亮はこの後一度も忘れることは無かった。そしてその顔を受けてなお、全て知っていると言えない自分の罪深さも忘れることはできなかった。

 「なんでそうなるんだよ。そんなの昔話だろ?紫音が……そんなこと思う必要なんてないだろう。それに君は死ぬことなくここにいるじゃないか」

 「……本当にそう思う?」

 「当たり前だよ」

 亮は本心からそう話していた。それは間違いない。その証拠に亮は紫音の目を見て話し、紫音の大きな双眸に映る亮の表情には他意がなかった。しかし、まるで自分を試そうとするように見える紫音の瞳が亮には深く刺さった。

 不意に二人の間に風が吹いた。

 それは何かの合図だったのかもしれない。ポツポツと地面に斑点が描かれていき、どうやら空が泣き出したことを二人は察した。いずれは二人がいる境内は雨を遮断する陸の孤島となるだろう。本降りになっていない今の内なら十分高坂家へ戻れるのだが、二人は腰を上げようとも、帰ろうという提案すらしなかった。それは二人が帰路に就くときに濡れても、ここで話をするべきであると暗黙のうちに理解をしたことに他ならなかった。

 そして雨脚がいよいよ駆け足になり始めたのを見届けた後に紫音は再び話を再開した。

 「村の人はさ、私のことを魔女って言うの……知ってるよね。私といるときに何度も耳にしているから」

 「……」

 「なんでも昔話の通り両親を殺した娘だからなんだって……だから、私はこの村では魔女ってことになってるの」

 自嘲気な笑みを浮かべて紫音はそう言った。その笑みは灰色の雲が落としたこの場の暗い雰囲気と相まっていやに印象的だと亮は思う。果たしてその笑みはここで紫音が正体を晒したときと同じなのだろうか。いいや、違うだろう。この笑みはあの時とは違う、初めて見るものだ。だからこうして印象に残るのだろう。

 「いつからだったかな……高校に入り始めたときから村の人たちは私のことをそう言ってきた。人殺し親殺し気狂い……」

 紫音の体は僅かに震えていた。

 それは寒さから来るものではなく、トラウマの類によるもので、紫音は相応の覚悟を持って亮に話をしているのだ。そしてその紫音の様子に亮は気付いていないわけはなかった。それでも既知の事柄であることを彼女に伝えるのはできない。更に彼の胸中に深く罪悪感がのしかかる。

 「そして私は村から人殺しの魔女として扱われるようになったの。最初は陰口のように私の前では誰も言わなかったのに、少しずつ変わって行って。最後には村中の人達が私の姿を見るなり人殺しと呼ぶようになって……」

 「紫音、もういい……止めよう」

 「違うの違うの違うの違うの!!!」

 紫音は否定の言葉を叫んだ。それはシンと静まり返っていた境内においてはこの雨の中でも求愛行動で鳴く蝉よりも遠くにその声を響き渡らせた。亮は思わず反射的に彼女の震える肩を掴んで紫音の名前を呼ぶ。その時に、紫音の膝元のワンピースの布地に雨ではない、彼女の瞳から出た涙による水玉模様ができている事に気付いた。

 「私はお父さんもお母さんも殺してなんかない。殺してなんか……」

 雨が地面に跳ね返る音と共に紫音の嗚咽が曇天の下に反響し、亮は胸元の彼女のその姿を見守ることかできないでいた。

 果たしてこの娘は何をしたというのだろうか?

 亮は肩から伝わる紫音の震えを受け、天を仰いで「誰か」に問うた。物事の始まりには何か原因がある。それは紫音が村から迫害されるこの状況にもあり、きっとそれは人為的な物で「誰か」が紫音を魔女と称したことが始まりなのだ。

 なにが発端だったのか。

 なぜ紫音を村に伝わる伝承の娘とトレースしたのか、そして他人を心ない言葉で痛みつける行為に異常さを感じなかったのか。

 「いいんだ、大丈夫だよ紫音」

 「……亮くん」

 紫音が自分の名前を口にしたのは久しぶりのような気がした。

 久しぶりという感覚はおかしいのかもしれない。事実、ここで彼らが本当の意味で再会したときに紫音は亮のことを名前で呼んだ。それはつい一昨日のことである。

 ただ紫音はそこから今に至るまで亮のことを「二木くん」と呼称していて、これが違和感の原因だったのだと亮は納得した。

 「二木くん」というのは自分を指しているのは誰の目から見ても明らかであるが、それはまるで知り合いでも何でもない、自分の世界に干渉することがない人間に接するような呼び方であり、それが紫音が示す亮との関わりであることを感じていた。

 「亮くん」の場合は彼が紫音の世界に干渉する人間であることを意味している。それは恋人でも家族でも他人でもない。あの頃のような友人の間柄である。

 だから……友人として見てくれているのなら、抱えているその辛さを少しでも分けてほしい。それで君を支えることができるなら……

 そんな台詞を言葉にすることができたならと亮は思った。けれどそんなことはしなくてもいいのだと、亮は冷たく震える紫音の手を強く握った。

 

 雨は依然として降り続き、遂には地面の窪んだ箇所に水たまりを形成するに至った。それはまるで鏡のようであり、空の薄暗い空を映している。そこには太陽の光を感じさせることはなく、しばらく空は機嫌を損ねたままであるのを亮は感じ取る。

 自分のことを話し終えた紫音はポツリと言った。

 「私といても何もいいことはないよ……もう、昔みたいに笑うことなんてできない。それに……いずれは亮くんにも村の人の矛先が向かうかもしれない」

 ふと、昨日話しかけてきた老翁のことがよぎる。自分がここに来てから間もなくしてああなのだから、紫音の話していることは何らおかしくはないどころか既に事実として起こっている。なので亮は紫音の言葉にあまり動揺しなかった。

 なにより亮が気になったのはそう話す紫音の真意だった。

 私に関わると貴方は不幸になる。だからここをすぐに立ち去った方がいい……と紫音は言っているのだ。

 もし自分が紫音の立場だったら同じことを言っただろうと亮は思う。それも直接的に「俺といると君は不幸になる。だからここを今すぐにでも出てこの村のことを忘れて生きていくべき」と。

 亮は分からなかったが紫音の言葉には彼女の弱さもあった。本当に相手のことを思うなら亮のようにきっぱりと言った方がいいのだが、紫音は曖昧にして亮に話した。それは亮にこの村を出てほしくない。そして傍にいてほしいことの裏返しであった。

 「俺さ、引っ越したのは親の事情だなんて言ったけど本当は俺に理由があるんだ」

 「えっ……」

 唐突な話題の変化に紫音は戸惑った様子だったが、亮はそれでも話し続けた。

 「紫音、覚えてるかな。俺が成績良かったの」

 コクリと紫音は頷く。そんなことまで覚えていてくれていたことが嬉しくて、ますます彼女のことを忘れていた自分に嫌気がこみあげてくるが話を再開する。

 「俺の親はえらく教育熱心でさ、雨崎村にいると進んだ教育ができないって言って俺に都会に引っ越すことを勧めたんだ。二択だったよ。ここで紫音と楽しく過ごすか。それとも勉強をしていい将来にするために都会にでるか。……その答えは知っての通り。俺はこの村を出たんだ。俺自身の意思でね」

 紫音は黙って亮の話を聞いた。雨が地面にぶつかり反響した音が空気を伝播して耳に入る。その空気に紫音の声が乗ることは無い。果たして彼女は何を思って自分の話を聞いてるのか亮は気になった。

 「高校生のときまでは自慢じゃないけど勉強できたんだよ。それも全国トップクラスくらいにね。この成績だったら将来を保証してくれる大学に入学できるのは間違いないって、先生も親も言ってくれたし、俺もそうなるだろうと思ってた」

 亮の話はいずれも過去形だった。そこに進行形はなく、過去の事を回想しているに過ぎないことは紫音も薄々と感じ取っていた。そして浮かぶことはただ一つ。

 「今は……じゃあ、その大学に合格したんだ」

 紫音が気になるのは今のことで、現在のことを彼女は亮に問うた。その紫音の問いに亮は少し苦笑いを浮かべながら答える。

 「――上手くいかなかったんだ。試験当日に緊張しちゃって集中できずに不合格。それも二回。……怖かったんだ。雨崎村を捨ててまで勉強に身を捧げたのにそれが無意味になるのに。でも結果としてはそうなったのかもしれない。それで俺は滑り止めの落ち目の大学に入って今に至る……って感じ」

 「……そうなの」

 紫音は何と言ったらいいか分からないと言った表情を浮かべていた。その声のトーンは気遣いの色が見えたが、その実は何を思っているのかと亮は気になった。村を……自分から離れてまで得たものがその程度の物だったことに呆れているのかもしれない。

 「親は一流の大学に入れなかった俺を許さなかった。当然だ。かなりの投資をしてきたのにそれが裏切られたんだからね。その裏切りの代償に親は不合格になって三流大に入る際にある条件を俺に突きつけてきた。それは単位を落としたり留年したりすれば即勘当っていうやつだった」

 「そんな……そんなこと……」

 両親を自殺によって失った紫音からすればその条件を提示した亮の親が信じられなかった。親子の縁というものは深いもののはずで、それに未だ名残を惜しむ彼女には「そんな理由」で切ろうとすることが考えられなかったのだ。

 亮は天を仰ぎ、青空を遮って広がる曇天と降りやまない雨に自分の行く末を案じた。この空模様に少しでも陽光が差していたりすれば少しは希望を持てたかもしれないが、どこを見渡してもその気配はない。

 ……それは紫音も同じなのかもしれない。

 「本当はさ、今が夏休みなんてのは嘘なんだ。今もこの時に大学はやっていてテストの真っ最中。それも単位が出るかでないかのね」

 「……なんでここにいるの?」

 ごく当然な疑問だった。

 「……俺は逃げたんだ。社会や親、そして自分から。成功すると思って信じていて歩いていたレールを外れた俺には目指すものもない、屍のような存在になっていた。そんな自分を直視するのも嫌だったし、それによって生じた無気力で大学の成績も落ちているのも分かってた。……俺も親と縁が切れるのは嫌だったけど、そうなってしまうのがなんとなくわかったんだ」

 いつしか亮の目線ははるか頭上から地面に向いていた。

 「そんなときさ、『雨崎村』の文字を見たんだ。途端に懐かしさがこみあげたよ。またあの頃に戻りたいなって。それで……立ち向かうべきの現実から逃避してここに来たんだ。けれどその現実は止まることなく今も進んでいる。その代償で俺はすでに単位をいくつか落としているらしい。それが意味するところは……分かるよね?」

 「……亮くん」

 「気づけば俺の世界は無くなっていた。何も失うものも無い……っていうのはオーバーだけど、今はそれに近い状態なんだよ」

 既に両親とは縁が切れている前提で亮は話した。実際には勘当を言い渡されたわけでないので彼と両親の間に親子の縁は未だ存在するのだが、それが何れ意味を為さなくなるのは確かだった。家族という最も自分と縁のあるコミュニティを失くし、それに類するものを築けなかった亮には帰属する場所が無いのも確かで、彼の言っていることにおかしいことはなかった。

 亮の独白は何も意味がなく行ったものではない。その独白が終結するところは彼の内では最初から決まっていて、話す内容も浮かんでいた。あとはそれを言葉にするのみなのだが……それを口にしようとすると途端に声が出なくなった。

 「……」

 不意に紫音の顔が亮の目に入る。あれほど泣きじゃくんでいた顔に流した涙は既になく、あるのは少し赤いその瞳と、亮を気遣うような心配そうな表情。

 違うと思った。亮が見たい紫音の顔はそんな暗い表情じゃなく、明るい……笑顔が眩しいあの頃の少女なのだ。……自分勝手で傲慢なのかもしれないけど、それこそが本当の宗宮紫音なのだ。

 そう思うなり胸の鼓動は収まりを見せ、言葉は実体となる。

 「だからさ……紫音と一緒にいて何か遭ったとしてもいいんだ。もう、俺には何もないから」

 「えっ……」

 「君と……このまま一緒に居たい」

 亮のその言葉を聞いた紫音は驚きの表情を浮かべた。それは予想だにしていなかったものであり、紫音の期待していた答えとは正反対のものだったからだ。

 きっと亮は自分を見限って村を出ていくと思っていた。これ以上ここで自分といても何も良いことは無いからだ。早いところこんな懐かしさに浸ることしかできない村を出て、再び現実に戻るべきで、そのことに気付いているはずなのにどうして……

 「ダメ……駄目だよそんなの。だってこれ以上私といても……」

 紫音は自分といることで起こる災いに亮を巻き込みたくない一心で彼の言ったことを否定した。更に言えば昔のような「私」になることはできないことを知っているのは亮も同じはずなのに、なぜ自分と一緒にいることを望むのか紫音は理解ができなかった。しかしその反面、数日前から抱いていた亮への気持ちが自分でも確かなものになっているのが分かり、その両方がせめぎ合って断固とした拒否を紫音は亮に示すことができなかった。

 そんな繊細な心の在り方は戸惑いの表情になった。その表情の本質は「否定」ではないのだが、亮にはそれを読み取ることができなかったために、紫音が自分を肯定している気という物が感じられなかった。そして訪れたのは沈黙であり、その時間が募るほどに亮は自分が発した言葉が次第に紫音を傷つけてしまったのではないかと不安が彼を襲う。

 

 こみあげるのは後悔の念だった。なぜあんなドラマ的な台詞を吐いてしまったのか。それは果たして本当に紫音のことを考えていたのか。あまりに我が強すぎたのではないか……

 

 思うことは何故自分の境遇をベラベラと話してしまったのかということと、亮に対して自分の気持ちをちゃんと伝えなくてはいけないことだった。なんで私はさっきからうつむくばかりで彼が言ったことへの返答をちゃんとしないのか。分かっているはずなのだ。自分が……彼のことを受け入れ始めていることに……

 

 気づけば雨脚は弱まっていた。

 境内に響く雨音も静かなものになり、傘を差さなくても歩けるほどになったことを二人は肩を並べてその様子を見ていた。そして言葉にせずとも雨宿りという一過性の逃避行に終わりが訪れたことを察した。

 「雨、止んだね」

 「うん」 

 亮のその言葉が契機になって二人は立ち上がった。果たしてここにいる間に何分の時間が過ぎたのだろうか。携帯を見て時間を確認しても、ここに来た時間を覚えていないのでそれは無駄な行いである。ただ分かるのは途方もなく長く感じたことである。

 遠くに見える雲は未だに灰色の空を映し、目下の木々の緑の色を暗く染めている。その風景にさっきまでの雨に自分を重ねたときと同じように今の心情がトレースされた。

 キイと軋む拝殿の木造の段差を降りて、ポツリと降る雨の元へと二人は体を晒した。その水滴の量は目測の通りほんの少し程度でこれならば高坂家へ体を冷やさずに帰れるだろう。

 「……」

 「……」

 拝殿を後にして鳥居を抜けても二人は無言だった。

 

 4

 神社から帰ってきた二人はそれぞれ自分の仕事に就いた。紫音は夕飯の用意を、亮は彼女から頼まれた庭の草刈りを。

 「あっついなあ」

 夕方になっても一向に冷たさを感じさせることなくただ蒸し暑さだけが周囲を支配していた。これが日本の夏なのだから仕方ないと自分に良い聞かせて手持ちの鎌で雑草を刈ってはゴミ袋へと入れていく。単調な仕事だ。

 ある程度草を刈り終わった後に亮は夕涼みとばかりに縁側に腰がけた。響か紫音かは分からないが、高坂家の庭は手入れが定期的に行われているようで亮の仕事はさほど多くはなかった。しかし居候をさせてもらっている身としては、半端なことはできないと思い、ザッと見渡して草が多く茂っているところに目ぼしを点ける。

 そう、あそこだ。それじゃやるとするか……

 そう思った時、心にのしかかっていた重荷が亮を呼んだ。数時間前に訪れて以来、黙殺することで忘れていたそれは今になって彼を睨む。単位を落とした。という既に完結した事象ではない、予想ができない故に無視した父親からのメールである。何れは訪れる結末を予感しながらも、観念した亮は携帯を開き未だ未読のままになっているメールを開いた。

 内容はいたってシンプルで、そろそろ学期末なので単位の取得の状況を報告すること。もし落とせば勘当。更に言うと一流企業に入れ……とのことだった。

 これが親子の間に交わされるやりとりだと思うと途端に胸が痛くなった。悪いのは全て自分なのだが、どうしてこんな風になってしまったのだろうか?昔は……親との関係も良かったはずなのに。

 思うのは過去の出来事ばかりだった。紫音とは子供ながらに仲が良かった。両親は自分のことを何よりも思ってくれた。一体……何を間違えたのだろう。

 雨崎村を出たことだろうか。

 受験に失敗したことだろうか。

 ……ここに来たことだろうか。

 雨崎村にいるときは現実を彼方に置くことができて、ある種の理想郷と化していた。ここにいると携帯を見ることさえしなければ現実は襲ってくることはなく、ただ自分の思うことをすればいいのだから。

 しかし現実を切り離せないのが人間というもので、携帯は毎日充電し、本当の自分がいる世界との関わりを監視し続けた。夢の中に居ながら醒めている、そんな感覚のままに亮は生きている。そして日に日に現実へと意識が覚醒しているのが分かっていた。いずれ、この生活にも終わりが来ることを。

 

 玄関の鍵が解錠される音が聞こえ、ほどなくして「ただいま」という声と共に家の主である響が居間に顔を見せた。

 その顔は疲労の色を見せていた。それはいつも見る仕事による疲労のものではなく、なにか心理的なものでないかと推察されたが、亮はその原因を訊くべきでないと思い何も言わずにただ「お疲れ様です」とだけ言った。

 「響さん……」

 紫音も響の表情を見て何か察したようで、冷蔵庫から麦茶をコップに注いで彼女に差し出した。それを「ありがと」とだけ言って一気に飲み干してテーブルに置いた。そしてから溜息を一つついて、響は椅子に腰かける。

 掛時計の針が動く音だけが室内に木霊する。あとは窓をすり抜けて聞こえる蝉の声と遠くに鳴くカラスの鳴き声。これ以上ないくらいの夏の夕暮れだった。

 立っていたままの亮と紫音もそれぞれ近くの椅子に座り、高坂家の住人は一つのテーブルに就く。かと言って何もあるわけでもないが、家主がこんな様子なので心配するのは言葉にしなくても分かる二人の間の共通認識で、揃って響を心配する。

 「なに……どうしたの?」 

 「……響さん、疲れてるなって」

 「……ごめん、わかった?」

 響はバツの悪い表情と共に苦笑いを浮かべた。自分が思っている以上に疲労の色が出ていたのだが、どうやらそれに気が付かなかったようだった。

 「なにか、あったの?」

 「ちょっとね。まったく疲れるよ、大人の世界ってやつはさ」

 そして表情を難しいものに変えた。何を思い浮かべているのかは当人しか知らないが、それはきっと亮たちのような子供では分からないものであることは想像するに難しくはなかった。

 「……ごめんなさい」

 紫音は何かを知っているのだろうか。会話の流れからするとそう思わざるを得ない謝りの仕方だった。

 「いいんだよ紫音。アンタが気にすることじゃないんだ」

 そう言ってわしゃわしゃと紫音の頭を撫でた。そしてそのまま立ち上がり夕飯が出来たら呼ぶように亮たちに言ってそのまま自室へと向かった。

 まだ……自分の知らない何かがこの村……いや、紫音にあるのかと二人のそんな様子を見て亮は思った。

 

 

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