三章
1
おなか減ったよねと芹歌はまるで家族に言うような感じで亮にそう訊いた。そのときの彼女の顔は実に楽しそうで、昼間に見せていた無表情のそれではない。そんな顔を見ていたら亮は否が応でも「いや、減ってない」とは言えなかったので「そうだね」と答えた。その答えに芹歌は嬉しそうにうなずき冷蔵庫を開ける。
「何にしようかな」
亮は冷蔵庫の中を見るつもりはさらさら無かったが、彼の居た場所からだとその中が自然と目に入ってしまった。卵や納豆。その他し好品等が入っていて、肉や野菜は見当たらない。多分下段に入っているのだろう。少なくとも目に入っている段だけ見るとひとり分の食材だけだと思われる。
「……どこか適当に座ってていいよ」
「あぁ……うん」
まるでぎこちないカップルのようだ。気の利いた男なら一緒に手伝うことを提案するのだろうが生憎亮にはそういう器量は持ち合わせていなかった。
亮は芹歌の言う通りにして居間に入り適当な場所で腰掛けた。座った途端に今日の疲れが一気に押し寄せて思わず壁に背中を乗せてしまう。
……なんか、すごいことになったな。
亮はそう、壁にかけられている時計を見て思った。ただ今の時刻は20時を少し超えたくらいを時計は知らせてくれる。今から12時間前は何をしていただろうか。あぁ、そうだ。家の最寄り駅から電車に乗ったくらいだ。大学に向かう学生たちと真逆の方向の電車に乗って……
12時間という人間皆に流れる平等な時間でも、使いようによってはその内容の濃さはこんなにも変わるとは亮は思っても無かった。雨崎村へ行くのを止めて普段通り大学に言っていたのであればこの濃さを味わうことも無く、何倍にも希釈されたいつも通りの現実があっただろう。
トントントン
キッチンから小刻みに心地の良い包丁で何かを刻む音が聞こえる。芹歌が何かを切っているんだろう。何を作ってるの?と声をかけてみたくなるが止めておくことにする。
出来上がってのお楽しみだ。
……普通に雨崎村に来て、昔を懐かしむだけではここまでの濃さはなかったはずだ。昔住んでいた家を見て、通った学校に行って、それから少し歩いて終わりだったはずの旅にイレギュラーな事態が起こった。
芹歌だ。
旅先で同年齢の少女と知り合うのは亮に限らず世間一般の男なら誰しもが羨む展開ではある。亮も心躍らずにはいられなかった。
だが……芹歌は普通の女の子ではない気が亮にはしていた。何かに怯え、感情が読み取れなくて、何かを胸の内に秘めているその姿は異質なのだ。大学で見かける彼女と同世代の女子にはない危ない感じが。
「……」
亮の座っている場所からだと芹歌の白いワンピースが彼女が動くたびにはためくのが見える。
なんで俺を泊めたの?
亮はそう芹歌に訊いた。訊いたと言っても声には出してないので当然答えが返ってくることはない。返ってくるのは包丁の小刻みの音と、何かを煮る音。
……その質問は下心があるようで嫌だった。それに代わるらしいものを探すも上手い言葉が見当たらない。
「ねえ芹歌」
ここから芹歌に聞こえるか、聞こえないかくらいの声量で彼女の名前を呼んだ。これはある種の賭けだった。声が返ってくれば質問をし、そうでなければこのままでいる。思えば呼び名を高坂さんから芹歌に変えたが異論の声は返ってこない、これも反論がなければこのままでいこう。
トントントン……
ピタリと包丁の音が消えた。その後に何かの包装を剥く音がし、芹歌の料理をする手は止まらない。その一連の動作に亮はどこか安堵を憶えつつ瞳を閉じて少し眠ろうかと思った――
「……なに?」
時だった。居間とキッチンを隔てる戸から顔だけをひょいと出して亮に顔を見せた。
てっきり声は届いていないと思っていた亮は閉じかけた瞳を開かせて彼女に顔を向けた。賭けは勝ちなのか、負けなのか分からない。けれど声が返ってくるのであれば、の場合に想定していた質問を彼女にしなければならない。
「あのさ……なんで、俺を泊めたのか聞きたくて」
「えっ……?」
その質問は下心を感じさせて下品だとあれだけ自問自答してたのに、冴えた答えが無かったばかりに結局それになってしまった。
「……」
「……」
しばしの空虚な時間が二人の間に流れる。その間を鍋は何かを煮続けているし、蝉は相変わらず求愛行動の声を上げている。時間が止まったのではないかと錯覚する。けれど掛け時計の秒針の止まることを知らないその姿に亮は安堵感を感じた。時は止まってなどいないのだ。
「困ってる人を……放っておけないから」
「そっか。ごめんね、迷惑かけて」
理由は単純明快だった。しかしそれで十分だと亮は思い、芹歌に作業を中断してしまい申し訳ない旨を伝えて二人は再びそれぞれの時間に戻った。
……加えてあと二つ、聞きたいことがあった。夕方の老人の言っていたことの追求。そして自分がこの村に住んでいた時に仲の良かったしおんという少女と面識があるかどうか。
前者について訊くのはやはり躊躇われる。あの老人に問題があるかもしれない。けれどその逆で芹歌がその側にあるかもしれない。そんなことは無いと思うが、あまり触れてはいけない気がして聞くに至れない。
後者について。
亮がこの村にいた頃の記憶を探っても芹歌の存在は見当たらない。記憶から欠落しているか、自分が村を出た後に転入してきたのだろう。どちらにせよ子供の少ない雨崎村においては必然的に交流が生まれるはずだから、しおんとも顔見知りのはずなのだ。
……それにしても瞼が思い。脳が体に休めと伝令しているのだ。その証拠に意識も段々と薄れていっている。耐え難い眠気の波に逆らおうとするもその快楽には勝てない。
『ねえ亮くん』
それは遠い日の記憶。村で唯一の学校の小さな申し訳程度の校庭で二人の子供がいた。二人は何をするのでもなく、ただ並んで座っている。
『なに、しおん』
しおんと呼ばれる少女は被っている帽子が邪魔と思ったのか帽子を取った。その際に蓄えていた長い髪が広がる。亮はしおんを女の子として普段は見ていないけど、こういう仕草をするたびに異性であることを再確認していた。
『なんで引っ越しちゃうの』
『……お父さんの仕事だって』
いつか訊かれると思って用意していた答えをしおんに返した。
これは半分正解であり、残り半分は彼自身に理由があった。その理由とは彼は勉強がよく出来たがゆえにこの村ではそれを活かせないと両親が判断し、より良い教育を受けさせることのできる都会へと移住することになったからである。
この村を出るのは自分に理由がある、なんて当時の彼はしおんに告げられなかった。
『ふーん。そうなんだ』
しおんは残念そうに空を見上げる。その仕草に釣られて亮も倣う。空はどこまでも透き通る青空が広がっている。亮はふと何かのアニメで言っていたことを思い出した。空は繋がっている。だから違う場所にいても同じ空を見上げているから、一生会えないわけじゃないと登場人物が言っていたことを。
『きっとまた会えるよ』
なんだかアニメで言っていたことをそのまま口にするのは小恥ずかしさがあってそれしか言えなかった。
『……そうだね』
しおんはそうニコリと笑って同意した。その笑みが当てのないその約束を確かなものしてくれそうで、なんだか嬉しかった。
『また会えたら、一緒に遊ぼうね』
『うん』
二人はお互いの顔を見ながら笑い合い、いつか来るであろうその時を約束し合った。
「……起きて」
「……おはよ」
いつの間に意識が途切れたのだろう。亮は少しの間目をつむっているつもりだったのに本格的に眠っていたらしい。その眠っている最中になんだか懐かしい夢を見た気がするのだけど、もうすっかり内容は忘れてしまった。
「料理、出来たよ」
「ありがとう」
居間に置かれているテーブルから美味しそうな匂いが漂って亮の鼻孔をくすぐる。思えば今日は朝にパンを食べたくらいで何も食べていない。なのでその匂いを感じ取るなり胃はだらしない音を響かせて、早く栄養を摂取せよと命令してくる。言われなくてもと思いながら腰を上げてテーブルへと向かう。
卓上にはカレーとサラダの盛り合わせが並べられていた。なるほど確かに美味しそうだ。しかしテーブルの上に並べられたその料理の数々を見て亮にはある違和感が浮かんだ。
「あれ?」
「どうしたの?」
「なんでもう一つあるの?」
カレーとサラダで1セットだと思われるが、芹歌の分と亮の分に加えてもう一人分のそれがそこにはあった。
「あぁ、これは一緒に住んでる人ので……」
グオングオングオン!!
芹歌がそれについて説明をし始めたとき、外から野太い車の排気音が響いた。その音から察するに並みの乗用車ではないことが分かる。亮は車に詳しいわけではないが、この排気音はスポーツカーのそれじゃないかと素人ながらに判断した。
意外と物騒なんだなと亮は思った。この村で車と言ったら軽トラか軽バン。よくてカローラだったと記憶しているので、この村にも変化というものがあるのかと少しばかり新鮮だが……
「あっ。帰ってきたみたい」
「えっ!?」
車の排気音に意識を取られて思わず聞き逃すところだった。
この家には芹歌以外にもう一人住人がいて、1セット余分なカレーとサラダはその人の者であること。その事実が亮にはひどく衝撃的であった。
……もしかして、彼氏なのだろうか。
そんな想像がよぎる。考えてみてもおかしいことはないのだ。芹歌はかなりの美人である。それに年頃であるから、彼氏がいてもなんら不自然ではない……。
なぜか悲しく、イヤな気持ちになる自分がいて亮は自分をおかしいと責める。
「……あなたがここにいる理由を説明してくるから、ちょっと待ってて」
「えっ。あぁ、うん……」
想像に耽る亮をよそに、そう言って芹歌は着けていたエプロンをサラリと脱いで椅子に置いて玄関の方へとテトテト向かった。一人残された亮はただその背中を見送ることしかできない。
それから幾分かが過ぎた。決して短くはない時間だった。それは湯気を挙げていたカレーがその白い吐息を上げるのを止めてしまう程で、何か不都合なことがあったんじゃないかと予感させるには十分な時間である。
ガチャリと扉を開ける音がして複数人の靴を脱ぐ足音と会話が聞こえてきた。声色から想像するに男はいない。芹歌ともう一人は女性だ。
……よかった。
亮は安堵感に包まれた。同居人が男でないというだけで安心している自分がどこかおかしいとは思いつつ、突っ立っているのはなんなので、足音のする方へ向かう。
「あの、その……」
玄関にいたのは芹歌と、その隣にいる彼女より少し背が高いくらいの、長い髪をポニーテールにしている作業着姿の女性が一人。
「……話は聞いたよ。とりあえずさ、飯でも食いながら話しようか」
ニコリと女は笑みを浮かべた。果たして自分は好意的に見られているのか不明だが、その可能性は低いだろうというのはここに至った経緯を考えれば想像がつく。
結婚のあいさつに伺った際、相手の両親がする反応とはこんな感じなのだろうか?経験すらしことないためにそんな想像を浮かべながら亮も居間に入った。
2
カチャリとスプーンの腹が皿を擦る音が響く。
亮と芹歌の間には沈黙が続くことが多いが、そこに同居人……高坂響を加えると状況は変わり会話の数が増えた。
響は芹歌の従姉妹らしい。故に苗字が二人とも高坂であり、一緒に住んでいるのだという。
芹歌とは違った趣のある女性だと亮は思った。少々の釣り目は鋭さを併せ持ち、長い髪をポニーテールに結い、大人の女性という印象を与える。
「ええと……二木君」
「はい」
響はコップに注がれた麦茶を一飲みしてから改めて亮に向かい合う。その間も芹歌はひたすらにカレーを頬張る。意外と腹が減ってたんだろうか。
「事情はさっき……あぁ、芹歌から聞いたよ。昔ここに住んでてそれが縁で旅行に来たのはいいけど、泊るとこがなくて、ここで知り合ったこの娘に泊めてもらうことになったんだって?」
「そんな感じです……」
亮は響に事の顛末を全て話した。話している間、響は無謀な彼の旅行計画を茶化すことも無く、ただ成り行きを黙って聞いた。
全ての経緯を話し終えると、響は相変わらず何を言うのでもなく、ただ亮を見ていた。まるで蛇に睨まれた蛙だ。しかしその眼光は隣でひたすらカレーを食べる芹歌の方に向かい、軽くデコピンを彼女の側頭部にお見舞いした。
「いたっ」
「ちょっとアンタ危機感なさすぎるよ。見ず知らずの男をいきなり出会った日に泊めるなんてありえないよ。二木君がそんな悪そうには見えないからいいけれど、もっと警戒心を持ちな」
「……すいません」
バツが悪い顔を浮かべた芹歌はスプーンを置いてシュンとなる。なんだかその姿を見た亮はいたたまれなくなって響に謝罪の言葉をかけた。
「……まぁ、芹歌が泊ってもいいっていうならOKだよ。ただしどうあがいても私たちと二木君には性別という違いがある。不埒な行いは絶対にしないと誓える?」
「それはもちろんです」
「紫音がこの村で他人を家に招き入れるなんて……その……よっぽどないからさ、私も君を信じるよ」
「……ありがとうございます」
『この村で』という意味深なワードが些か気になったが麦茶と共に胸の奥底へと沈めた。
それにしても響という女性はサバサバとしている。まるで芹歌とは対照的だ。
「あー美味しかった」
響くはポニーテールを揺らしてキッチンへと食器を置きに行った。その姿を亮は目で追う。
「……いい人だな」
「うん。響さんはとてもいいひとなの」
芹歌は彼女のことを響さんと呼んでいる。親戚なのだからもっと砕けた呼び方でもいいと思うのだが、それは個人の自由である。だから俺も居間に再び姿を見せた彼女に。
「響さん、一体なんていう車に乗ってるんですか?なんか、排気音がすごかったというか……」
そう、呼んでいた。
「ん、あぁ。あれはセ……ST205って車だよ」
えすてぃにいまるご。
英数字に直すとST205であるが、残念ながら車についての知識がほとんどない亮には一体どういう車なのか見当もつかなかった。
「……外車ですか」
「ま、明日にでも見せてあげるよ。今日は疲れたから勘弁ね」
そう、バツの悪い顔で響はそう言った。それは当然のことなので亮は労いの言葉をかけるとともに、まだ残っている芹歌謹製のカレーに再び舌鼓を打った。
高坂家の人間は皆優しいことに、見ず知らずの自分のために部屋まで用意してくれた。
汚いところだけどと申し訳なさそうに言って響が案内してくれたのはちゃんと手入れがされている部屋で、すでに布団などの寝具が準備がされていた。訊けば芹歌にやっとくように言っといたそうだ。
その部屋には小難しい書籍が詰められた本棚と、机があり、装飾品などはなかった。だれか年配の方が使われていたところなのだろうか。そう思ったが答えは聞かないことにして亮は響をはじめ芹歌に過剰なくらいの感謝の言葉を述べた。
その後手持ち無沙汰になった亮は居間で一人、窓から見える夜空を眺めていた。都会にはない深い闇とそれを彩る星々がとても神秘的で不思議と亮は飽きることなく夜空を見続けていれた。
「やあ」
ひょっこりと居間に入った響はよっこらせと床に座るなりリモコンでテレビの電源を点けた。最近話題の芸能人が待ちゆく人にインタビューする映像が流し出され、部屋が一気に騒がしくなった。
「二木くんはどこから来たの?」
「愛知です」
「そりゃ、都会だね」
「そうでもないですよ」
「いいや、都会だよ」
「はぁ……」
亮は愛知を都会だとはあまり思ってはいないのだが、この村と対比すると文句なく都会に類されるだろう。流行や文化の発祥地でもある。東京には遅れるが最先端の物も手中に収めることもできれば、交通網も発達している。人もお椀から零したように街に溢れ、数えるのも億劫になるほどにうごめく。
それは紛うことなき、都会なのだ。
「いろんなものもある」
仕事、もの、人、学問。思いつく限りのことが確かに今朝までにいた場所には揃っている。そしてそれを統括するのは、社会。
「……そうですね」
チクリと、胸に刺さるものが亮にはあった。思い起こされるのは大学のことである。たまたま見かけた雨崎村の文字に懐かしさを憶えて進級に関わる講義をボイコットして旅に出たという事実は彼を苦しめている。
「大学生?」
テレビを見ると自分と同じ歳くらいの大学生が三流芸人の取材に応えていた。アナタは将来結婚したいか?したくないか?仰々しいテロップに乗せて大学生はしたいと言う。それからまたすぐに別のカット。また似たような大学生に同じ質問を投げかける。
「はい」
結婚。まだ遠すぎる現実にイエスもノーもない。だから亮はテレビの中の彼氏彼女らをどこか斜めから見ていた。
「すると……今は夏休み?私さ、大学出てないから大学生がどれくらい夏休みあるのか分からないんだよね。なんか長いっていうのは聞いたことあるけど」
まだ春学期の期間中であるため夏休みではないけれど、あと一週間すればどの学部も講義を終えて夏休みに入るだろう。
亮はふと思う。自分は……どっちなのだろう。明日にでも講義に出席すれば夏休みとは言えなくなるし、このまま……ここに居続けるのなら、もうそれは夏休みではないのだろうか?
「そうなんですよ。9月の半ばまで休みなんです」
「えっ。そんなにあるの。遊び放題じゃん」
テレビにはいかにも俺遊んでますと外見から中身までアピールしているバカ大学のバカ大学生がさっきと同じ質問に答えている。もちろんバカだから答えはイエス。そんな彼を冷ややかな目で響は見つめる。なんだか亮はこっちまで申し訳なくなって苦笑いを漏らした。きっとこの話題はスタジオに戻ってまで続き、さらに輪をかけたバカなタレントが持論を垂れ流すのだろう。そんな光景が容易に想像できた亮は話題を変えようとして言葉をかける。
「そういえば芹歌はどうしたんですか?」
「ん、あぁ。もう寝たよ」
「えっ。早いですね……」
時計は長針と短針が織りなすリズムで21時過ぎであることを知らせた。大学生のみらならず、同世代の人間ならあと二時間は起きているものだと思っていた亮は芹歌がすでに就寝したという事実に驚きを隠せなかった。
「まぁ、この村には見てのとおり何もないからね。あの娘には携帯なんて持たせてないし……もっともあっても無用の長物だけどね。パソコンもなければ、テレビも興味ない芹歌にすればやることがないんだよ」
確かに自分がなぜ日付が変わる手前まで起きているのかと言われれば、それは面白いテレビ番組がやっていたり、インターネットに興じていたり。はたまだ映画や外での娯楽に没頭しているからである。それらが無いとすれば、自然と寝るという選択肢が現れてもおかしくない。
ふと気になったことがある。何も自分は寝るまでの時間を遊びに興じているわけでなく、講義で出された課題やレポートを処理するのに割いていることもある。むしろ大学生であるならば、それこそが本業であるのだ。
……芹歌は、この社会においてはどこに属し、何を行っているのかと気になった。出会った当初は何も話してはくれなかったけど、この家に迎えてくれるに至るまでの間に彼女は亮に少し心を開いていた。けれど彼女が亮に教えた自身の情報はこの村の住人であり、彼と同じ年齢であるということだけ。
「その……響さん。芹歌って今何をしているんですか?仕事とか、どこか学校に行っているとか……」
「あぁ……あの娘は何もしていないよ」
テレビ番組は亮の思惑とは異なり真面目な方向にシフトしていた。今日において若者の結婚率は年々下降の一途をたどり、このままでは超高齢化社会を迎えるとどこかの大学教授が分析して、それに付随する現象を淡々と解説している光景が映し出される。
「よく言えば家事手伝い。だけど世間一般に言うと無職あるいは引きこもりになるのかな」
どうやら結婚に至るにはお互いの労働環境ないし給料の具合も関係するようで、釣り合うか、どちらかが一方より上である場合が多いらしい。コメンテーターは言う。無職ないしフリーターは今時ちょっと難しいかもしれませんと。
予想はしていた。
亮も忘れかけていたが世間は平日なのだ。だから、人は仕事あるいは学業、家業に赴き社会の歯車を動かしているのがこの世界の常識である。しかし平日にその歯車としての役目を担っていいというだけでおかしいと思うのは暴論にもほどがある。だけど……こんな辺鄙な村で昼間から崖に立ち、視界に広がる風景を見下ろす姿の芹歌を見て思った。きっと彼女も自分と同じ、社会から逸脱した人間ではないのだろうかと。
「そうなんですか」
「ちょっとショックだった?」
「そんなことないですよ」
少しの嘘が入ったのを亮は後に自覚した。自分は社会から逃げ出したのに、芹歌はすでにそちら側にいて、しかも生活を保障してくれている人がいる。羨ましいとすら思う。
「二木君はさ、この村に住んでたんだよね」
「あぁ、はい。小学生の時に都合で引っ越しちゃったんですけどね」
「そうなんだ。どう?この村は変わってなかった?」
「……そうですね」
村の景色はあの頃のままで、変わったことがあるとすれば祖父母の家が空家になっていたことだった。その旨を話すと響はあああの家ねと言ってその話題に二人で興じた。
「さて、と私も寝ようかな。明日も仕事で早いからね」
ピッとリモコンのボタン一つでテレビは口を封じられて、この場に再び静寂が訪れる。それを見届けた響は亮に言った。
「夏休みならさ、宿題の一つや二つあるんでしょ?君がいたいなら、その間ずっとここにいていいからさ。持ってきてるのならやっていきなよ」
ニヤッと含みある笑みを浮かべた響はおやすみとだけ言い残して自室へと向かった。その姿を見送る亮は返す言葉がなく、同じくおやすみなさいとだけしか言えなかった。
宿題、か。
大学で長期休暇中の課題というのはほとんどなく、尚更一年生である亮には無縁の存在であった。仮にあったとしても、このまま大学に行くのを止めていたら課題を受ける資格すらないだろう。
「今日のやつは全部落ちただろうな……」
今日の履修科目は期末テストが予定されていて、最低でもそのテストを受けないと単位は出ない。更に亮の頭を悩ませたのは翌日の講義も期末テストが予定されていることである。いずれも受けないことには単位は保障されないだろう。
ふと、今から海津まで歩き、始発を待って再び大学に戻るという選択肢が頭に浮かんだ。
それは一度浮かんだ考えだった。社会の歯車としての役目、あるいはまっとうな正しい歩むべき道である。
「……風呂入ろう」
兎にも角にも亮は疲れていた。めんどくさいしがらみが頭の中で睡魔に姿を変えて彼を眠りの渦に引き込もうとしている。睡魔にやられたが最後、この床でいつの間にか意識を失い朝を迎えることになり、せっかく好意でここに泊めてくれた高坂家の人たちを呆れさせてしまう。
だから、一刻も早くこの睡魔を鎮めるために風呂に入るべきなのだ。
そう思い立つなり疲れて鈍重となった腰を上げる。普段運動をしていない影響で体のアチコチが筋肉痛で悲鳴を上げている。情けないことだと思いつつ、さきほど響に案内された風呂場へと向かった。
3
『亮、お前は勉強ができる。だから他の人よりうんと努力して、立派な人間になるんだよ』
『うん』
それは遠い日の少年とその父親との会話。
少年は勉強が得意だった。得意というより、学習能力が素より高かったのかもしれない。
授業の内容を知識として取り込み、応用もできたので学校で行うテストは簡単に点が取れた。本人にとっては当たり前のことだったのだが、世間一般ではそれは勉強ができるということに他ならない。
そのことに将来性を見出したのは少年の両親だった。この国は学歴社会という一面があり、より程度の良い学歴であればあるほど将来は約束される。両親としては少年の未来を案じて勉強ができるに越したことはないのだ。
『この村ではいい勉強ができない……だから私たち家族は雨崎村を出たんだ』
『……うん』
少年が住んでいた雨崎村には人口のあまりの少なさゆえに教育という物は度外視されていた。中学の課程を修めさせすればいい。それがこの村ではある種の常識でさえあった。別に生きていく上ではそれで支障はない。ただ、それが村の外で通じるのかというとそれはノーである。本来は村の外で生活をし、そこの常識を得ている少年の両親からすればありえないのだ。
『だけど、お前が望めばこの村にいてもいいと思ったんだ。けれどお前は勉強をするって言ったね』
『……うん』
舗装の荒い車道に車内は揺られながらも父親の言った言葉は全て少年の耳に届いた。いや、実際にはいくつは零れていたのかもしれない。そうだとしても少年は父親の言葉は理解できただろう。なぜなら今日に至るまで何度も言われ続けたことなのだから。
――ここにいたいならば、お前の意思を尊重するよ。
少年は雨崎村での生活を気に入っていた。仲の良い友達はいるし、都会みたいな喧騒は皆無で村民は誰もが優しい。子供からすれば娯楽こそはないもののある種の理想郷だった。
そこを捨てて、自分の将来を取るか。
なんて子供に取らせる選択肢にしては重い天秤を少年にかけさせ、結果は今に至った。自分たち家族を乗せた車はいずれ舗装がちゃんとされたアスファルトに乗り、高速道路。やがては都会へと向かうだろう。
『だから……ちゃんと勉強していい大人になるんだよ』
『……うん』
少年はそれは呪いだったのだと後に気づいた。この選択肢を取った以上は勉強をして、いい大学に入って、いい会社に入って最良の人生を送るしかないのだ。
そうなると失敗した場合のときを考えなくてはならない。勉強に躓き、冴えない将来になった場合、村を捨てた代償として何が待っているのだろうか。友達を……しおんと別れてまで自身の将来を望んだのだから、確実に良い将来を築かなくてはならないのだ。
雨崎村を出て都会の学校に入るなり少年は誰よりも勉強に励んだ。もし、成績が振るわなかったら村を捨てた意味がない。素晴らしい将来はない。その呪いは彼を勉強に駆り立てた。村には存在すらしなかった塾にも自ら望んで入った。朝から夜まで勉強漬けの日々だった。
人間は努力とそれに見合った才能があれば効果は表れるもので、少年は立派な成績を修めた。高校は県内でもトップクラスのレベルの所に入り、そこでも彼は休まずに勉強をし続けた。教師たちをはじめ両親や周りのクラスメイトからの期待は大きく、大学も旧帝大クラスに入学するだろうと思われていた。
――思われて『いた』のだ。
無情にも人生には何が起きるか分からない。
大学受験を迎えた彼は志望校を旧帝大を数校、並びにそれに匹敵するレベルの大学を選んだ。模擬試験で得られた結果はいずれもA判定。ほぼ合格間違いなしだった。
しかし模擬試験はあくまで予想に過ぎない。
結論から言うと彼は志望した大学全てに落ちた。滑り止めとして用意していた私大にも落ち、彼は浪人と言う道を選ばざるを得なくなってしまった。
その結果は彼自身を、周りの人間をひどく狼狽させた。彼は絶対に合格できると思っていたし、両親は春からの息子の新生活に備えていれば、教師たちも卒業生の進学先一覧に一流大学の名前が入ることに喜んでいた。
……しかし現実はそれらすべてを裏切る形となった。
ひどく憔悴した彼に人々は慰めの言葉をかけた。
来年がある。少し運が悪かっただけ。
それらの言葉を受け止めつつも、それは彼にとっては「呪い」を加速させる言葉でしかなかった。この頃の彼は疑心暗鬼に陥っており、その慰めの言葉は不合格になった自分への嘲笑だと思い、遂には誰とも話をしなくなった。
浪人生となった彼は更に勉強に身を捧げ、絶対に通うことなどないと思って見下してさえいた予備校にも通った。毎月行われる模擬試験もトップの成績を取り続けたが、結果を過信することなく弛まぬ努力を続けた。
時は過ぎ、再び大学を受験をする際に彼は昨年受験した大学に加えて『遊びで』3流の私大を受けた。
あくまで遊びだ。受かってもこんなところには行かない。こんなところだと将来はお先真っ暗なのだから……そう、彼は思っていた。
現実とは厳しいものであるということを再び彼は思い知らされる。試験の結果は一校を除き不合格だったのだ。あの時の心境を彼は今でも忘れない。冬の冷たい空気が滞留する自室でノートパソコンの小さい画面に映し出されている合格者発表の一覧に自分の数字がない、あの絶望感を。
……言わずもがな、合格の判定が出たのは彼が『絶対に』行くことはないと思っていた3流私大のことである。
すべての入試が終わったとき、彼はひどく狼狽した。再び浪人になるか、3流私大に通うのか。彼にとっては生か死か。それにも等しい選択だった。良い大学に入らなければ将来の成功はないだろう。すなわちそれでは雨崎村を捨てたことの意味がない。呪いに打ち勝つには再び浪人になり、一流大学に入らなくてはならない。
……ならないのだが、彼にはもう気力がなかった。合格できる確証は第三者もあれほど保証したというのに裏切られ、彼自身も出来る限りの努力をしたのにも関わらず、その結果がこれだ。ならば……今年も同じことをしても、失敗するのではないか?ならば……3流私大に入って……努力して……一流企業に入れば……。
そして春。彼は両親から条件付けという形であれほど嫌がっていた3流私大に入学する運びとなった。
再び失敗することを恐れたが故にその選択を選んだのである。決断するまでにひどい葛藤に苛まれたが、心身共に疲弊していた彼は楽になりたかった。
しかし両親はその選択を快くは思わなかった。当然である。彼を一流大に入学させようと巨額の費用をかけてきたのだから。その果てが金だけはかかるがお先真っ暗な3流私大と来た。失望を通り越し、絶望の域にすらあった。
とはいえ両親にとっては彼は一人息子だ。愛情はある。そのため情けとして条件付けという形ではあるが彼を3流私大に入学することを許した。
条件とは簡単である。単位を落とすことや留年に加えて一流企業に入れなければ勘当という至極明瞭なものだった。
その条件は当然であると彼は思った。そうしなければ今までしてきたことに釣り合わないからだ。
しかし入学して講義を受けるたびに思うのはIFのこと。もし……志望していた大学に受かっていたらどうなっていたのだろうかという想像が尽きないのだ。自分は一年浪人していることもあって学科の同級生より一つ上だ。「こんなところ」に浪人して入ったという事実がどうしても頭から離れないし、なによりこれまで積み上げた努力が全て無駄になってしまったというコンプレックスが彼を苦しめた。
次第に彼は無気力になっていった。
講義には出席し続けていたが内容は何も頭に入ってなく、頭の中にはいつも仮定のことしかなかった。
もし……浪人を続けていたらどうなっていたのだろう。あの時は失敗を恐れて「こんなところ」に来て無為な時間を過ごしているが、仮に続けていたのなら再び勉強に身を投じていただろうか。
そんなことを考えている時間すら無為なことに彼は気付いていた。けれど、それくらいしかあの時の彼には心を向けれるものが無かったのだ。
そして夏を迎える。
この頃の彼は無気力状態が続いており、それがピークに達していた。講義もチラホラと欠席をしており、単位が取れるか取れないかの瀬戸際にすらあった。一流企業に入ることで「呪い」から解放されるのだと入学時は思っていたがそんなものはどうでもよかった。両親からの条件は留年と単位の零し。更には一流企業への入社が条件であるがそれはすっかり頭の片隅に追いやっていて忘れていたからである。
大学へ自分を連れてゆく電車の車窓から見た外の世界はいつも通りだった。朝陽を反射し輝く川に、せわしそうに仕事場へと向かう通勤する人たち。窓から内へと目を向けると自分と同じ学生がひしめいていて、眠そうにしている者、勉強している者と十人十色である……世の中に不変でないものはない。この景色だって昨日とは違うものである。けれど彼からすればこの光景はいつもと変わらない、終わりのないループに放り込まれているような錯覚すら感じていた。
もし、志望していた大学に受かっていたら……
途端に彼は胸が苦しくなってポケットにしまっていた携帯を取り出してウェブブラウザを立ち上げてニュースサイトを開いた。もうこの仮定の話をいつまでも蒸し返しても仕方ない。忘れるのだ。ほら、最近話題になった動物園のゴリラの特集でも見よう。ゴリラなんて興味ないんだけど、この想像から離れよう……
『日本の人口下降は止まらず』
そんな題目のニュースが目に留まった。悲しいことだ。いずれは日本の人口は下降の一途を辿り、ついには一億人を切るらしい。記事にはどこかのお偉い大学の先生によるコラムの他に人口低下の一例として日本各地の寒村の人口グラフが紹介されていた。
「あっ……」
そこに例示された村の名前に一つ、見覚えのある場所があった。
雨崎村。東海地方の山間にあり、人口が高齢化社会の一途をたどる限界集落。
そして、かつて自分が住んでいた村。
その名前を見た瞬間。彼は……二木亮は不意に胸にこみあげるものがあった。なぜ俺はあの時村に残ることを選ばずにこんなところに来てしまったのだろう?あのままでいたら、きっと今よりは幸せだったはずだ。
雨崎村という単語は亮にとっては毒だった。その名前を反芻するたびに頭が痛み、思わず空いていた優先席に腰を掛ける。周囲の目が彼に刺さるがそんなものはどうでもいい。あのまま立ち続てていると倒れこんでしまいそうだったから仕方ないじゃないか。
それでも携帯に目を落として表示されているコラムに記載されている毒を目に収める。「例.雨崎村」程度の見出しの中にしかその名前はないのに、ひどい猛毒のように感じ亮の精神を犯す。このままだとここに座っていても倒れこんでしまいそうだったから、携帯の電源を落として周囲に目をやることにする。
そこには現実があった。自分と同じ大学の学生がひしめき合い、あと数分もすれば大学の最寄り駅に自分たちを運ぶだろう。そして興味のない講義を一日受けて、またこの電車で帰る。その繰り返し……。
果たしてこの現状は自分が望んだことだっただろうか?いや、違う。本来ならこんな大学じゃなくて、もっと良いところに行くはずだったのだ。だから……違うのだ。
……本当に?
自問自答しておいて本当に?とはなんだ。この大学に通うことを自分で……本心で選んだというのか。確かにここに行くことを選んだのは俺だ。けれど、それは心から望んでのことではない。仕方なかったからだ。あのまま浪人を続けていても展望は望めなかった。だから……。
あのとき、村に残っていればよかったんじゃないか?
……自分に問われた本当に?という質問の意味が理解できた。本当に望むべきは村に残ることではなかったのだろうか?あのまま村に残り、自分を捉える「呪い」なんてものに束縛されることもなくただそこに住む人たちと生きていく方がよかったのだ。
「あれ?」
そこに住む人たちの顔を思い出そうとするも亮は誰一人として思い出せなかった。唯一の例外は祖父母だけだったが自分と血縁関係のない他人の顔が浮かばない。そこには再会することを約束し合った少女も含まれていた。更に悲しいことに名前すら思い出せなかった。ただ覚えているのは少女のよく着ていた白いワンピースと眩い笑顔だけで、それ以外は全く覚えていなかった。もちろん、再会することを約束したことも……
いつしか電車は大学の最寄り駅に着いていた。亮は周囲の波に飲まれる形でホームに吐き出され、その勢いのままに改札を抜け。そして皆と歩幅を同じにして大学へ向かう。その一連の流れは抗いのようのない現実のようだった。決してこの波から出ることは許されず、はみ出してしまえば人生が終わる。それはまるで人生の縮図のようであり、亮を深く悩ませることになった。
俺は……本当にこれで良かったのか?
再三繰り返した疑問を再び亮は自分に問いかけた。幼いながらに漠然とした「いい」将来を得るために村を去り、周りの人間の期待に応えようとした果てがここで、それでも未だに漠然としている「いい」将来を望んでいる。ここに至るまでの過程を無駄だったとは言わない。努力もしたし、両親も多額の資金を亮に費やした。
ただ……何か大切なものを見失ったような気がするのだ。その大切ななにかとはかつての自分が望んだ漠然とした将来と同じでハッキリとはしない。けれど……それは今のままでは見えてこない。そう、亮は思った。
「雨崎村、か」
ポケットにしまっていた携帯を取り出して電源を入れ、乗換案内アプリを開いて現在地から雨崎村へのルートを表示すると、どうやらそうはかからないらしい。今出れば昼過ぎには着く時間だ。
「……っ」
ふと、周囲を見ると学生の数は疎らになっていた。画面の右上の時刻を見ると一限目の講義の時間が迫っている。どうやらここに長居しすぎたようだ。早いところ先に行った彼らに追いつかなくてはと亮は足を踏み出す……。
――いま、ここを出れば昼過ぎには雨崎村に行ける。
そんな、乗換案内アプリが教えてくれた所要時間が亮を捉えては離さない。流し目で見た必要経費も財布にある。だから、今ここで踵を返してホームに戻ればあの場所に行ける。そして、何かが……見つかる様な気がする。
必要なのはそれを決断する勇気だけ。そう、ここから行くべき道に背を向けて、自分が望む方に向かう勇気が……
「……俺は」
亮はアスファルトの舗道と同化しかけていた両足をそれまで向けていた大学の方から来た道へと戻した。その単調な動作はひどく重く、彼の中では10分以上も時間をかけたような気がした。そしてその足を一歩ずつ駅へと向かわせる。彼の生涯の中で一番重い歩行であった。
すっかり人気がなくなった構内の切符売り場で乗換案内を頼りにして中継駅までの切符を買う。タッチパネルの画面がいつもより硬く感じる。そもそも最近切符を買っただろうか?そんな考えを浮かべつつも目的の切符を手にして改札機に吸い込ませる。もし、何かの不具合で通れなかったら諦めよう、なんていう考えも浮かんだがそれは杞憂に終わり、あっけなく改札機のゲートは開いて彼をホームへと誘う。
その改札機のゲートは分岐点だったのかもしれない。もし、通るのを止めたならば大学に戻っただろう。しかし今はその向こう側のホームにいる。その選択を他でもない彼自身が行った。今からでも引き返すことはできる。手元の切符を駅員に見せれば手続きをしてくれるだろう。しかし彼はその切符をポケットにしまい、普段は行くことがない乗り場へと向かった。
――そして二木亮は自身を取り巻くあらゆるものから逃避して漠然とした、不確かな何かを探しに雨崎村へと赴いたのである。
4
暑い気温に体が音を上げたのを合図にして亮は目を覚ました。とりあえず今の時刻を知ろうと携帯を立ち上げると8:15の文字が目に入る。そのデジタル表記の文字に心を曇らせたが、今となってはどうでもいいことだと思い画面から目を離した。そう。時刻と日付、バッテリー残量以外に表示されている『今日のテスト内容』のリマインダーすらどうでもいいことなのだ。
大学に行くことはまずありえなかったが高坂家から出て行こうと考えたのはごく自然なことだった。自分がここにいるのは昨晩泊るところが無かったからで、高坂家の温情により泊めさせてもらっているに過ぎない。それにもともとは雨崎村に滞在するのは一日だけの予定である。村で懐かしさに浸り、それで……。
「……とりあえず動こう」
亮は軽く身支度を終えて居間に顔を出すと、そこには芹歌が何も色がない瞳でテレビを眺めているのが目に入った。彼女の表情とは対照的にテレビ中ではリポーターがどこかの町を笑いながら闊歩している。
「おはよう」
「……っ!」
唐突に話しかけられたせいか、芹歌は背筋を動かすまでの反応を見せた後に恐る恐る亮の方に視線を移した。
「あっ……おはよう」
オドオドとした挨拶で亮を迎えた。なぜそこまでオドオドとするのだろうかと思ったが、よく考えなくても自分はこの家にとってすれば異物なのだ。だから、普段は存在しないはずのそれに驚くのは無理もない。
「それ、朝ごはん。よかったら食べて」
「ごめん、こんな……朝ごはんまで作ってくれるなんて」
「……いいの」
そう言って芹歌は若干の微笑みを浮かべて再び顔をテレビの方に向けた。亮はそんな芹歌の心遣いに感謝しつつ椅子に腰かけてテーブルに並べられた朝食に目をやる。焼き魚に白米。それに納豆とサラダ。とても日本人らしい健康的な朝食だった。
「…いただきます」
なんとなしにそう言ってから芹歌の方を見ると、彼女も亮に視線を向けていた。そのときの表情は相変わらず暗いままだったけど、目が合ったときはどこか照れのようなものが頬に染まった赤色から感じ取れて亮も思わず意識してしまう。亮は高鳴り始めた鼓動をなんとかして収めようと焼き魚を解体しようとするが、上手い具合に解せずに小骨が身に散らばり、最終的には箸の先には魚の頭部だけが掴まれていた。なにも彼は焼き魚の解し方が下手なわけではない。ただ……指先に力が入っているだけなのだ。なぜ力が入っているのかというと……
「二木くん、へたくそ?」
「違うと思うけど……」
芹歌の発したその言葉のニュアンスはどこか艶めかしくて更に亮の鼓動を加速させる。言葉だけでない。彼女の上目遣いにそれを湛える奇麗な容姿。健全な男子なら意識しないほうが可笑しいだろう。
「……いただきます」
ようやく解体し終えた焼き魚を口に運んでいき、芹歌はその亮の様子を見届けてから再びテレビの世界へと入った。亮が食べ終えるまで二人の間は沈黙で満たされていたが、悪い空気ではなかった。
亮は朝食の皿を台所で洗い終えた後に再び居間に戻ると芹歌は相変わらずテレビを見ていた。その姿は変りがなく、まるで時が止まっているように思えたがテレビの中では生放送であり、顔は知っているレポーターが何か言っているのを見て世界が止まっていないことを再認識した。
画面の右上に表示されている時刻テロップは9時過ぎを表示している。今日は水曜日。世間一般で言う平日にあたる。
どうやら昨晩響が言っていたことは本当だったらしい。芹歌は仕事をしているわけでも、どこかの学校に通っているわけでもない。
正直言うと亮はまだ芹歌にどうやって声をかけようか悩んでいた。出会ったときに比べれば表情を見せてくれるようになった。
けれどだ、普通の感覚で話を振ってもどんな反応を見せてくれるか予想ができないので踏み出せないでいる。例えばテレビを二人は同じ番組を見ているのだから、共通しているその話題を基にして話をすればいい。しかし芹歌はまるで興味がなさそうに番組を見ている。もしかしたら内容なんて最初から聞いていないのかもしれない。ただそこにある虚無を見ているだけ。だとしたら話を広げることなど不可能だ。
そのまま時間は経ち、気づけば10時に迫っていた。案外にも番組は面白く亮は時折笑顔を零したが芹歌はそんな仕草は見せず、ただ無表情に画面を見続けている。さっきの焼き魚を解したときみたいに、何か言ってくれればいいのにと心の中で思うが彼女にその素振りは一切見受けられない。
「……そうだ、ねえ芹歌。この村を一緒にもっと案内してくれないかな」
昨日は二人であれだけ村中を歩き回ったというのに亮はそんな提案を芹歌に投げかけた。自分でもおかしいことに気づいている。それでも何か彼女と話す理由が欲しかった。もう、ここにいるのはそろそろ終わりなような気がするから。
「いや」
「えっ……」
それは断固とした拒絶だった。とても軽いものではない、絶対的な拒否。芹歌のそれに思わず圧倒された亮は戸惑いを隠せない。その戸惑いの表情を、芹歌の無表情で、意思を持った双眼が捉える。
「いや」
そして再び重なる拒否。
――なぜ、芹歌はそこまでして家の外に出るのを嫌がるのだろう。次第に戸惑いと謎が亮を支配していく。そしてそんな彼を見続ける芹歌が、どこか怖かった。
「……ごめんね」
「……あっ、いや、その……私は……」
訪れた空気は重苦しく酸素が枯渇したのではないかと思う程だった。このままでは酸欠で死んでしまう。なんとか酸素量を増やそうと話題を探るも適切なそれは見当たらない。いや、もしかしたら今の自分たちにはないのかもしれないと亮は思った。二人の間の沈黙をひたすらテレビの中の芸能人が埋める。しかしそれが逆に沈黙を際立たせる結果になっている。
「……ちょっと外行ってくるよ」
亮は逃げることにした。彼の中ではさっき自分が提案した村に出るという行為の大義名分があり、それを実行したまでだが誰が見てもそれは逃げだった。その選択を選んだ彼の行動は早く、部屋に戻って財布をポケットに収め、玄関に並べられている自分の靴に足を収めてそそくさと扉を開けて外に出た。陽光が眩しくて暑かったが室内の「冷たい」空気に比べればマシに思えた。
5
高坂家から……芹歌から逃げた亮は当てもなく村を歩いていた。夏の日差しは容赦なく地面を、彼を焼きやっぱり暑いから戻ってきた、ともっともらしい理由で戻ることも考えたが、再び冷たい空気に晒されてまた外に出ることになりそうだったのでその選択は取らなかった。
やっぱり自分は芹歌によく思われていないのだろうか。理由は十分にあるし、それに加えて彼女を不快な気持ちにさせてしまったようだ。
けれど……なぜ芹歌は一緒に村を歩くことを拒否したのだろう。自分のことが嫌いだから?単に暑いから?それとも別に理由があるから?
――ふと、昨日の老人の件を思い出す。芹歌と一緒にいることで自分がいずれ彼女に殺されるという妄言を吐いたあの老人のことだ。亮は老人を街を歩いていれば一人や二人出くわす患った人だと思っていたが、芹歌の恐れた表情を見るにあの妄言には信憑性に近い何かがあるのかもしれない。
「そんなバカな」
思わず言葉に出てしまい、咄嗟に周囲を見渡すがそこには誰もいない。よかった。もし聞こえていたらあの老人と同じだ。一つ安堵の息をついた亮はトボトボを再び当てのない散策を始める。
亮は気になることがあった。この村は果たしてこんな平日の昼間でも人はいないのだろうか。高坂家を出てからここに至るまでに村民の一人も見ていない。高齢化社会の縮図ともいえる雨崎村では先を行きすぎて老人は死に絶えてしまい、ここはゴーストタウンになり果てているのか。……そんなはずはない。亮がここに訪れたときには数人の村民とすれ違い挨拶を交わしたので人がいないというわけではないのだ。
ただ……そこら中から誰かに見られているのは気のせいだろうかと亮は気味の悪い感じがしていた。
亮が行きついた先は神社の境内だった。村の主要部はあらかた昨日の宿探しの際に歩き回ったこともあってあまり目新しさだとか、懐かしさを思い起こさせるものがなかったので、たまたま目に入った鳥居に惹かれて彼はここに来た次第である。
「……そういえば、ここでもよく遊んだな」
亮はしおんとここで遊んでいたことをふと思い出す。あぁ、そうだ。あの鳥居の柱に自分たちの身長を勝手に刻んでは背比べをしたり、かけっこだとか、ごっこ遊びをしたっけ。そんな他愛のない、けれど大切な思い出が湯水のように亮の頭の片隅から思い出される。
「あの子は、どうしているんだろうな」
やはり亮はしおんのことが気になっていた。この村にまだ住んでいるのか、それとも自分と同じで村を出て学生をしているのだろうか。……成長した彼女はどんな女性になっているのだろう。きっとあの頃と変わらぬ笑顔を浮かべて、楽しく生きているに違いない。ただ一度でいいから会ってみたい。亮はそう、柱に刻まれた幼いころの自分たちの身長を見てそう思った。線は石か何かで刻んだ記憶があり、どれも不均一で歪んでいる。それはここに自分たちがいたことの証にほかならない。
蝉の求愛行動が境内にも響いている。その音は夏の熱さを倍増させる効果を持っているらしく、亮は暑さにやられて体の赴くままに建物の日陰に移動した。夏はなぜ暑いのかという疑問には神秘的な何かがあると結論づけた自分がありえないと亮は思う。あんなのはやはり自転と公転の話なのだ。太陽に近いところに来たから暑い。以上。
改めて持論の撤回をした亮は建物……おそらく神社の備品を仕舞っている倉庫に背を置いたままにして境内を見渡してみる。鳥居に手水舎、拝殿。それに誰もいない社務所。これ以上ないほどにここは神社であることを如実に感じさせるには十分だった。唯一気になったのは本殿の近くに置かれている立て看板みたいなもので、そこには何か神社に由来するものを説明しているよう内容のものが書かれているのが何となくわかった。看板は所々薄汚れていて設置されてから結構な何月が立っていることを察せられる。亮はあの看板に見覚えがないか自身の記憶を探ってみるもそれに類するものはない。きっとあの頃にも看板はあったのだろうけど、眼中になかったのだ。
人間の本能とは不思議なもので、いったん意識してしまうとそれにしか目に入らなくなる機能が備わっている。それに加えてあの看板に書かれている内容が知りたいという知識欲も加わり、亮の意識は完全に看板に持ってかれていた。この安全圏から出て、あの看板を読みに行くのか、それともこの場に留まり安寧を享受するか。恐らくこの世界で一番平和でくだらない選択を彼は自身に突きつける。
「あっつ」
亮は倉庫の影から出て再び太陽の熱気に身を晒した。それでも承知の上だと自分に言い聞かせながらも熱を孕んだ敷き詰められた砂利を、空気を体に感じながら看板を目指す。
「……雨崎村の魔女伝説?」
亮が予想していたものとは違う内容であった。この村に立ち寄った歴史上の偉い人に由来しているとか、何かの分社かと思っていた彼は予想以上の内容に看板の文字の羅列に目が奪われる。
内容は陰惨なものだった。かつてこの村には仲睦まじい家族がいて、両親とその娘が平和に暮らしていたそうだ。しかしある時、娘が突然気狂いとなり両親を惨殺してしまい自身の命も手にかけた。なぜ娘が気狂いと化したのかは不明だが、おそらく不本意に両親を殺してしまったのだろう。せめてもの慰みでここに娘を慰霊するために社を建立した……らしい。
亮は伝承を読み終えた後に本殿の方を見やると、そこには言い知れぬ冷気が漂っているような気がして彼の火照った体を急速に冷まさせた。とても暗く、誰にも迎え入れられていない、深い悲しみがそこにはある気がしたのだ。
誰かが玉砂利を踏む音が近くから聞こえた。亮は思わずドキリとしてすぐに音のした方を見ると、そこには芹歌が立っていた。その立ち姿はまるで幽霊のようで、彼は思わずたじろいでしまう。生気の無い白いワンピース。それを強調する彼女の無表情さ。なぜ……そんなにも芹歌の表情には表情がないのだろう。
「や、やあ芹歌」
「……なに、してるの?」
芹歌はそこから一歩も動かず亮を冷たい瞳で見つめる。まるでそれは悪事を見破った親のようであり、亮は彼女に圧倒されるしかない。それでも無言のままでいるよりは何かを話した方がいいと思い、正直に事の顛末を彼女に話す。特段彼にはバツの悪いことなどないのだ。
「そう」
彼の言い分を聞き終えた芹歌はザッザッと玉砂利をかき分けて亮の元へ寄る。
――不意に思い出すのはあの老人のこと。
あれは妄言にすぎない。なぜ彼女が自分を殺すのか。殺す理由があるのか?そう何度も昨日の一件の事を思い出すたびに思った。しかし眼前に迫る芹歌はまるで死神のようであり、否が応でもありえないはずの、老人の言葉通りの結末をイメージしてしまう。
今度はその坊主を殺すのか
……今度は?
芹歌が自分を殺すということに意識が行っていたばかりに老人の言葉全てに目を向けていなかった。「今度は」ということは……芹歌は既に誰かを殺めたというのか?あの少しでも力を加えれば折れそうな手足で、無表情な顔のままに、誰かを。その白いワンピースに返り血を跳ねらせて真っ赤に染めて――。
「ねえ」
「……えっ、あっ」
亮が疑心暗鬼にとらわれている間に芹歌は亮の目の前にまできていた。亮は意識が完全に外でなく内の方に向けていたため、急に現れた彼女に驚き思わず一歩退いてしまい、後ろの看板にぶつかってしまった。
「いたたた」
肩辺りに走る鈍痛をよそにして看板を破損させていないか不安になり全体をチェックする。幸いなことに壊れている個所はない。安堵した亮はホッと一息つくのを見て芹歌はニコリと口元を緩ませた。
「二木君、心配しすぎだよ」
そう言った芹歌は僅かながらに笑っていた。その表情を見た亮はそれまで包んでいた自身の暗く冷たい疑心暗鬼の気が晴れて、つられて自分も彼女と同じく笑顔になった。
はは、なんだ、芹歌が人殺しなわけないじゃないか。そう、口には出さずに心の中でつぶやいた。
「……別に、そんなくだらないこと書かれている看板なんて壊してもいいんだよ」
「それはだめだよ」
「いいの。そんなバカげたもの」
「芹歌……」
なにか、芹歌にはこの伝承に嫌な思い出でもあるのだろうか。普段は感情の色を見せない彼女が見せた怒気に亮は乾いた声で彼女の名前を呼ぶことしかできなかった。その間も芹歌はジッと看板を睨みつけている。
「……昼ごはんができたよ。だから、呼びにきたの」
すっかり時間は昼間に片足を踏み入れた頃合いになっていたらしい。冷やし中華を作ったらしい。早くしないと麺が伸びると言って芹歌は来た道を戻り始めた。亮も彼女の背中を追って玉砂利を踏みしめていく。
……芹歌、君は一体……何者なんだ?
言葉には出せない、そんな台詞を胸に留める。その秘め事を攫うかのように風が吹き、芹歌の白いワンピースが風にはためかせた。それが記憶の起爆剤となりいつしかここで一緒に遊んだ「彼女」のことを不意に思い出させた。
思えば亮と芹歌の年齢は同じ19歳だ。この村で同じ年齢の若者なんてそういないはず。だから……芹歌が「彼女」のことを知っていてもおかしくはないはずだ。
「ねえ、芹歌」
「なに?」
ザッと玉砂利を切る芹歌の足先が止まり、亮の方を向いた。彼女の顔はまるで彫刻のように整っていて、亮は不意に胸を高鳴らせてしまう。
もし……「彼女」が大人になったらこんな風になっているのだろうか?
「あのさ……しおんって女の子、知らないかな。昔さ、俺がよくこの村で一緒に遊んでいた女の子なんだけど」
「……」
そう、亮が訊いた刹那、まるで時が止まったかのようにさっきまで合唱を織りなしていた蝉はピタッと鳴き声を止め、彼らの体温を冷ましていた風も吹き止んだ。そして、芹歌の表情も振り向いたときには浮かべていた柔らかいものではなく、あの無表情で、けれども悲しさを伴ったものに変化していた。
「俺と同じ歳でさ、だから芹歌とも同じなんだ。知らないかな。多分、学校とかでも同じだったと思うんだけど……」
亮はそう言ってから「ある疑問」に気づいた。雨崎村は知っての通り高齢化社会の縮図ともいえる場所で、若者の数は少ない。そうなると若者は自ずと自分以外の同年代の人間を把握するもので、幼いころの彼もそうだった。今となっては誰がいたかなんて思い出せないが、同年齢の子供は「彼女」だけだったことは思い出した。しおん以外にはいないはずで、その記憶には確かなものである。
「あれ……」
そうなると芹歌は果たしていつからこの村にいるのだろうか。少なくとも自分がいた頃にはいなかったはずだ。自分がこの村を去った後に引っ越してきたのだろうか。……けれど芹歌の家族は親戚の響だけであり両親はいないという。
「……この村に、二木君が引っ越してから新しくここに来た人はいないの」
「えっ」
まるで思考を読み取ったかのように芹歌は亮の考えていた内容を言い当てた。しかも言い当てただけでない。亮の考え、疑問に思っていたことに対する回答を返したのである。
……無意識に口にしていたのだろうか。おもむろに手を口許に寄せて自分の行った行動を思い出してみるが、無意識に行っていたのであればそれは不可能である。
「いま、俺は芹歌に何か言ったっけ?」
「……ううん。ただ、しおんって人を知らないかって聞いただけだよ」
「……だよね」
どうやら亮は無意識に抱いていた疑問を芹歌に投げかけることはしなかったようである。ただ、なぜ芹歌は彼の疑問に対する回答を聞く前にして用意できたのかという疑問が残る。やはり思考を読み取られたのだろうか。
「そのしおんって女の子はよく知ってるよ。誰よりも……ね」
「本当に?」
「ええ」
その時見せた芹歌の表情は悪戯をして微笑む少女の顔だった。おそらく、出会ってから数回しか見ていない芹歌の人間らしい顔のひとつで、思わず亮は息を飲んだ。
その微笑を浮かべつつ芹歌は鳥居の方へ歩き出した。それは亮を誘っているようで、彼も彼女に倣って後を追う。玉砂利が靴底を刺して不快な痛みが体に走るが、それすら気にならない程に芹歌の話す言葉の一つ一つが彼を離さなかった。それは麻薬のように亮の体を支配する。
鳥居のそばで立ち止まるなり芹歌は白く細い指先を沿わせて柱を撫でた。その動作が妙に艶めかしくて亮は自身に沸いた劣情に嫌気がさした。けれど、彼女が行う動作に目を離せない。その目の先にある指先はある地点で金属の道を這うのを止めた。そこには――歪に刻まれた幼いころの自分が付けた線があった。その線の少し上には同じような線が走っていて、「そうみやしおん 9歳」の文字が刻まれている。言うまでもなく、亮としおんが昔ここで遊んでいた名残だ。
「……なんでそれを?」
亮は芹歌に問う。この背比べの思い出は自分としおんだけしか知らないものだから、第三者が知るはずがないのだ。それを何故……芹歌が知っているというのだ。芹歌の指先はその歪な線を往復し、そうみやしおんの文字の所で止める。その時の芹歌の表情は先ほどの微笑ではなく、なにかを懐かしむ顔をしていた。
「なぜって……知っているからだよ」
知っているから。それはこの柱に刻まれた背比べのことか。それともしおんのことか。誰よりもしおんを知っていると話す芹歌はいったい何者なのか。考えられるところでしおんの友人、というのがある。この背比べのこともしおんから聞いたのだろう。亮はそう解釈するなりその旨を彼女に聞いてみるとそうではないらしい。友人なのか?その問いに対しても芹歌の答えはノーであった。
「それじゃあ私からも……質問」
トンと柱にもたれかかった芹歌は一息吸った後に亮にこう問うた。
「なぜ、あのとき引っ越しちゃったんですか」
「……それは……親の都合で」
ジジリと、遠くで蝉が苦しい鳴き声を上げて絶命しかけているのが聞こえてくる。なぜ、芹歌は亮にこの村を去った理由を訊くのだろうか。その理由が分からない亮は彼女に自分の事情を隠しつつも質問に答えるがその声色から誰の目から見ても苦し紛れであるのが分かる。それは無論、芹歌も例外でない。
「でもいいの。こうしてまた会えたんだから」
芹歌はワンピースを翻して彼に背を向けた。そのワンピースが揺れる仕草は見覚えがあった。いうまでもなく、しおんがよく着ていた服装で、遊んでいるときに彼女を追いかけるといつもこうして布地がはためいた。それは遠い日の記憶。しかし、その記憶がフラッシュバックし、しおんの表情。声。あらゆるものが思い出される。
「……」
「……」
無為な風が芹歌のワンピースを、長い髪を揺らすのを横目に亮にはある一つの可能性が浮かんでいた。そんなはずはないと思うが可能性はゼロではない。その可能性をゼロに近づけさせないヒントはついさっき芹歌が発した「また会えた」という言葉である。
ただ……それが仮に正解であったならなぜ芹歌がそのようなことをする必要があるのかと問わざるを得ない。
二人の間には変わらず熱気と静寂が渦巻いている。気づけば亮の頬には幾筋も汗が流れていて、それは芹歌も同様だった。彼女は柱に再びもたれてさながら待ちぼうけをくらった人のように見える。相変わらず蝉はへたくそなりに合唱を響かせ、どこか遠くで軽トラのエンジンが唸る音も聞こえる。けれどこの世界は亮と芹歌の二人きりのようだ。
「……あのさ」
最初に口を開いたのは亮で、それに芹歌は無言で答える。けれどただの無言ではない。ちゃんと彼の目を見て向き合っている。
「君に聞かなくちゃならないことがある。それは……君の名前は」
「……」
依然として芹歌は無言だったが亮は続けた。
「本当は宗宮紫音じゃないのかな」
そう、亮が目の前の少女に訊いたときに蝉は甲高く鳴き、狭い境内に木霊した。まるで世界が本当に二人だけのように感じさせ、その間も亮は少女を見つめる。風に揺れる髪、規則正しい呼吸に伴う体の律動。そして微笑と不安とを織り交ぜたその表情。
……どこかで気づいていたのかもしれない。それは出会ったときからだろうか。夕方に二人して宿を探した時。あるいはこうして一緒に話をしているときだったかもしれない。
昔、この村に住んでいた時に一緒にいた少女。宗宮紫音。そして高坂芹歌と名乗る少女がその本人であることに――。
「……亮くん」
それは仮面を脱ぎ捨てた道化だった。芹歌は……紫音は人目をはばからずに瞳から涙を流し、彼の名を呼ぶ。彼女が亮に見せた微笑みも無表情も全てうそで、今見せているこの泣き顔は本当の紫音だった。
「やっと会えたね」
「うん……」
それは数年越しの再会だった。かつていつか再び会おうと約束し合った二人がこうしてこの村でその約束を果たしのだ。その喜びを亮は嬉しく思っていたが同時に陰りも見せていた。それはやはりなぜ紫音が芹歌という偽名を名乗っていたのかということ。そしてなにより……あれほど明るくニコやかだった彼女は何かに怯えて、不安な表情を浮かべ、昔の面影を見せなくなっていたことがいつまでも心に溶けない氷のように冷たく残った。
胸の奥に居座る紫音への疑問を認識しつつも亮は彼女を連れて一路高坂家へ足を進めた。境内に敷き詰められていた砂利からアスファルトの舗道に足を置くと、そこに滞留していた熱が足元を伝って体温を上げる。早いところ戻って紫音特性の冷やし中華に舌鼓を打たんとして亮は足を進める。
もう少しで高坂家に着くというところで道の真ん中に一人の老婆が立っているのが見えた。そんなところに立っていると車に撥ねられてしまいそうだが、この村に車が往来することなどそうない。だから老婆自身もそれに対して心配することはないのだろう。
一歩一歩歩くたびに老婆に近づく。老婆はどうやら歩いてはいないようで、そこに立っているようだった。人を待っているのだろうか?それもこんな道の真ん中で。そう疑問に思いつつも老婆のそばを通り過ぎようとしたときだった。
「やあ」
ニコリと老婆は皺だらけの顔を歪ませて亮たちに笑みを浮かべた。まるでそれは長らく会っていない孫に見せるかのような笑顔で、亡くなった祖母の事を思い出す。屈託のない笑みである。亮は老婆に対し挨拶をかけると老婆は頷きを返した。なんてことはない、人と人とのコミュニケーションだ。
「……」
てっきり自分と同じように紫音も老婆に挨拶をするだろうと思っていたが彼女から声が上がることはない。人に挨拶は強要するものではないが、何かあったのだろうかと紫音の方を見ていると、彼女の表情は畏怖に塗れた顔を浮かべているのが見えた。
「今度はこの男を殺すのかい?」
老婆は笑顔を浮かべたまま、そう紫音に問うた。そのニュアンスはまるで今日は楽しい一日だったかい?と孫に聞くのと同じようだった。あまりに現実離れした展開に亮は思考が追いつけずに何も言葉を発することができない。
「ち、ちがう。わ、わたしは……」
紫音の表情は恐怖におびえる少女のものだった。あと少しでも揺すられれば崩れてしまいそうな脆さがその顔から読み取れる。しかし老婆はそんな彼女に更に詰め寄る。
「ねえ、宗宮の娘さん。この男の次は同居してる高坂の娘さん。そして次は私らかい?」
老婆は小柄ながらもキッと自分より目線の高いところにある紫音の顔を睨みつける。
……いったいどうなっているんだ?
亮は未だに現実に思考が追いつかずに目の前の状況を見ることしかできない。ただ分かるのは昨日の老人の件と全く同一であるということと、異常な状態にあるということ。
なぜ紫音がこれほどにまで追い詰められなくてはならないのか。人が人に何かを問い詰めるという行為には必ず何かしらの原因が伴う。目の前の状況を見る限りその原因は紫音にありそうだが到底そのようには思えない。その原因というものにはどうやら人の殺害というものが根底にあるようで、それを紫音が行ったというのだろうか。
……そういえば、昨日の老人も紫音が俺を殺すのかと言っていたな。
不意に嫌な汗が亮の頬を伝う。思考は一向にクリアにならないくせに感覚だけは研ぎ澄まされて蝉の鳴き声や木々が互いに擦れる音が鮮明に耳に入ってくる。
本当に、紫音は……
「行こう」
「あっ……」
冷静さを取り戻した亮は紫音の手を取り歩き出した。その様子を見た老婆は立て続けに何か喚いていたが、一切反応することなく老婆を尻目にして高坂家へと早足で向かう。手のひらから伝わる紫音の体温は確かな熱を持っており、ふやけてしまいそうなほどに汗をにじませていた。
この手で、誰かを殺めたというのだろうか。それを純粋無垢な白色の手先が否定する。そんなはずはない。こんな華奢な女の子が人を殺すだなんてありえない話だ。あの老婆は昨日の老人と同じでイカれているのだ。
「ごめんなさいごめんなさい」
顔をうつむかせたまま紫音は何度も謝罪の言葉を口にしていた。その姿はまるで壊れた人形のようで、亮はいたたまれない気持ちになる。隣にいる少女は紛れもなくかつてこの村で一緒に過ごした、笑顔が印象的な宗宮紫音その人なのだから。
それが、なんでこんなことになっているのか。
言い切れない様々な感情を抱きつつも亮は紫音の手を取って高坂家へとなだれ込むように入った。