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揺蕩いの魔女が死ぬとき  作者: 麻川要
2/10

二章

 1 

 芹歌は驚くほど何も話してはくれなかった。ひょっとしたら嫌悪感を与えてしまったのかもしれない。亮はそんな風に感じてしまうほどに芹歌と彼の間には沈黙がひたすらに続く。

 あの場所に初対面の男女が長時間いるのは無理な話だった。

 ここがまだ栄えている場所であるならば俺は駅に、私はどこかへ。それではさようなら。なんてこともありえるだろうが雨崎村は残念ながらそうでない、正真正銘のドが付く田舎なのだ。だから、自ずと二人の目指す目的地は村の中心地となった。まずはそこに向かわないと何も始まらないのだ。

 そこに向かう途中、亮は芹歌にある質問を投げかけた。

 「高坂さんは村の人なの?」

 その質問は森を抜けてあぜ道に入った辺りで投げかけた。樹木に遮られていた陽光が二人を差し、眩い光と熱さを併せ持った熱線が肌を焼いたそのとき、いやに白い芹歌の肌が気になったのを亮は覚えている。

 どこに住んでいるのか?なんて質問はだいたいの人間なら数秒もしないうちに答えを返してくれるだろう。もし何か都合が悪い場合。例えば自分の住んでいる場所を教えたくない場合だったりしたときには少し時間を置いた後に答えは返ってくるだろう。大概は嘘だけども。

 けれど、あぜ道を超えてアスファルトの地面。つまり村に戻ってくるまで答えを返してくれないのにはやはりなにか事情があるのだろうか?

 ここに至るまで亮は何度も考えた。芹歌にはやはり何か答えにくい事情があるのではないだろうか?と。じゃないとあんな場所に一人でいるわけがない。理由を話したらきっとダメなのだろう。だから俺の質問は黙殺しているのだ。

 遠くで蝉の鳴き声がいつまでも響く。もし、彼らがその合唱を止めたなら本当の沈黙が訪れるだろう。それはまるで世界が終焉を迎えたかのように。生きているのは亮と芹歌だけ。アダムとイブだ。しかしコミュニケーションを取れないので二人揃って死ぬのだろう。どこかの国の伝説にありそうな、意思疎通の大切さを教えてくれそうな神話だ。

 「……」

 ふと、亮は芹歌の横顔を見る。

 流れるような腰まで伸びた黒髪。

 陶器を思わせる白い肌。

 見つめていると吸い込まれそうな大きな瞳……

 初めて目にした時から思っていたが、やはりこうして間近で見ると実感する。芹歌は美人だ。もし都会に繰り出したならば男は振り向き、女からは妬みの眼差しを浴びることだろう。

 けれど……それは『生きている』人間だったならばの話で、芹歌には生の感情がないのだ。瞳はうつむき、何かにおびえた表情は生を感じさせず、まるで死を思わせる。何も話してくれないことが、更に死を感じさせる。

 ……幽霊、なのだろうか。

 亮は不意にそう思う。けれどそんなわけはない。だってあの崖で芹歌の手をとったときに確かな体温を感じ取ったのだから。そう、疑いようのない。人間なのだ。

 「わ、わたしは……この村の人間です」

 「えっ」 

 沈黙は唐突に終わりを迎えた。ここに至るまで一言も発しなかった芹歌が亮の問いに答えたのだ。あまりに間の置いた後の返答で、そのことに亮は怒りだとか憤りを一切感じず、思ったのは芹歌はちゃんとした人間であることであり、そこに安堵を憶えた。

 「そうなんですね……あっ、僕は愛知県から来ました。観光ってところかな……」

 自分だけ答えないのはフェアじゃないと思い、亮は自分がどこから来たのかを芹歌に話し出した。

 自分は大学生であり、昔はここに住んでいたこと。

 不意に雨崎村が懐かしくなってきたこと。

 まるでさっきまでの静寂が嘘のようだった。けれど一方的に話しているのは亮であり、芹歌の方からは何も話してはくれない。それでも少しは発展した二人の間の関係に亮は嬉しさを感じていた。

 「ちなみに年齢はいくつなんですか?」

 ここに至るまで亮は徹頭徹尾、芹歌に対して敬語を貫いていた。それは彼女が自分より年上である可能性もあったからだ。彼女の外見は若く、亮と同年齢の可能性もあった。敬語は些か窮屈で出来ることなら使うのは止めたいという気持ちもある。

 ……女性に年齢を訊くのは失礼だったかもしれないと気が付いたのはちょっとしてからだったが。

 「……わからないの、かな」

 小声でなにかを芹歌が言ったのを亮は聴いたが蝉の鳴き声にかき消されてしまい聞き取れなかった。少しくらい黙っていてほしいと思う。そんなに生き急いでも仕方ないだろう?

 「なにかいいました?」

 「……いえ」

 聞き違い、だったのかな。亮はそう思うことにして芹歌と肩を並べて雨崎村を歩く。

 「ね、年齢は19です」

 「へえ、同じですね」

 奇遇、ということだろうか。奇しくも芹歌は亮と同じ年齢であった。そのことが分かると亮は気が楽になって敬語は使わなくていいです?と訊く。答えは言葉でなく頷きであった。少なくともノーではないだろう。

 「よろしく」

 「……はい」

 そう、気さくに話しかける。なんてことはない。友達にするのと同じニュアンスで。……だけれど、芹歌の表情はやはり死んだままで――

 2

 村に戻ってきたのはいいが、お互いどこを目指しているのかを話さなかったために当てもなく二人して村を歩き回ることになった。けれど亮は芹歌の行く先にほとんど一方通行の会話をしながら付いていっているため、薄々と辿り着く先は芹歌の家ないし用のある場所であるのは気付いていた。

 下心は無い。と言えばそれは嘘になる。旅先で自分と同じ年齢の少女。それも美人と出会うのはなんともロマンチックであり否応なくその気を起こさせる。できればもっと話をしてみたいというのが亮の気持ちだった。

 けれどそれは芹歌の気持ちを無視している。同意がないのだ。芹歌からすれば見知らぬ男が勝手にくっついてきて一方的に話しているにすぎないのだから。さすればそんな自分を律して芹歌から離れるべきであると考える。

 そのことが分かっていながら亮は芹歌から離れるのが不思議と惜しい気がした。それは下心なしに、なんだか……悲しいような気がして。

 だから芹歌が家に戻るまではこうして送り届けるという名目で隣にいれたらと思った。そうしたらさようなら。再び社会から逃避を続けてこの村を徘徊し、飽きたらまた社会に回帰する。それでいいんだ。

 それにしても気になったのはここに来るまでに村民とすれ違わなかったことだった。最初に来たときは数人の老人とすれ違い挨拶を交わしたのに芹歌と歩いているとまるで会わない。

 ……会わないはずなのに、妙に視線を感じるのは気のせいなのだろうか?

 例えば民家の窓から。

 もしくは建物の影から。

 あるいは背後のどこかから。

 亮が気付いていないだけで実は村民は周囲にいるのかもしれないという錯覚が彼を襲う。それは幼少の頃にはなかった感覚だった。村民は皆優しく、用がなくともフラリと現れては挨拶をする。そんな村のはず。だから……この感じはきっと気のせいなのだと亮は無理に納得した。

 「あっ」

 亮はなんとも間の抜けた声を出す。それは空気を伝播させ隣の芹歌に届いたようで彼の方を向いた。

 「……どうしたの?」

 「ええと……帰りのバスってさ、今日、あるのかなって」

 携帯で時間を確認すると16時を少し過ぎたころで、夕方に近づいていることを知らせてくれた。

 脳裏に過るのはバス停で見かけた時刻表。埃で薄汚れたタイムシートにはポツポツと列を超えて飛び飛びで数字が書かれていたのを思い出す。行きが頻繁に来ないのは身をもって知っているが、それはきっと帰りも同じことだろう。乗車客が少ない路線のバスの運行数など知れているのに、何故気楽で入れたのだろうかと数時間前の自分を問いただしたくなる。都会住みの性ゆえにだろうか。

 冷や汗が、にじみ出る。

 亮はここまでほとんどノープランだった。かつて住んでいた村の懐かしさを感じたい。ただそれだけの動機でここまで来たのはいいが後先を全く考えていなかった。

 宿泊先はどうするのか?

 食事は?

 そもそもここから海津に戻れるのか?

 町に慣れ親しみすぎてバスは少し待てば来るのが当たり前の感覚に陥っていた。下手すればもう海津行きのバスは無いかもしれない。あそこならばビジネスホテルの一つや二つ。なくても電車で更に発展した場所へと行くことができる。

 「バスはもうないですよ……」

 あまりに無計画だった――。

 無慈悲な芹歌のその言葉が胸に刺さる。なぜ、亮はあの時に時刻表をよく見なかったのだと後悔する。埃なんて手で払えばよかったし、手には文明の利器があるのだから、それで時刻表を撮ることもできた。それができなくてもネットで調べることもできたはず――。

 「……車はないんですか?」

 「……ない」

 「……そう」

 会話は終わりを迎えた。けれどそれで分かるのは亮に帰る手段はなく、あるとしたらバスで片道一時間ほどの道のりを徒歩で戻ることだろう。街灯もない、あの道を……。

 まいったなと途方に暮れた亮は近くにあった電柱にもたれかかる。夏の日の高さに気が付かなかったが着実に太陽は西に沈んでいたのだ。あと少しすれば辺りはオレンジの景色に染まり、更に経てば夜の帳が降りるだろう。

 不意に昔の事を思い出す。夕暮れは亮としおんという名の少女にとっては門限を知らせる、とても嫌な景色だった。日が暮れたらさようなら。もっと遊んでいたいけど、暗くなったら危ないから帰る。子供の頃なら誰にだってある決まりだ。

 「一応聞くけど、この村に旅館なんて気の利いたものはないよね?」

 「……」

 ふるふると芹歌は横に顔を振った。

 ノーだ。観光資源なんてものは一切ないであろうこの村に旅館はないのは目に見えていたし、過去の記憶を探ってもそれにあたるものは思い出せない。もしかしたら自分と芹歌が知らないだけで実はあるのかもしれない。けれど……その可能性はゼロだろう。

 

 亮は可能性は無くても一応探すことにした。芹歌にその旨を伝えると驚くことに彼女も探すのを手伝うと申し出た。理由を訊くと、あの時助けてくれた時のお礼だと言う。そのことに亮はありがたいと思いつつも、それではなんであんな場所に一人でいたのだろうか?という疑問が再燃したがそれは心の奥底で消火しておくことにした。

 まずは商店通り。

 衣服屋食品店と生活雑貨店が立ち並ぶ通りであり、ここに旅館が暖簾を掲げている可能性は高い。高いのだが……やはりというか、一軒も見当たらなかった。あるのはこの村で生活するのに最低限必要な物を並べる店だけで、必要のない旅館なんて施設はとっくに潰れたか、そもそもここにはないのだろう。

 「ねえ芹歌、ここ以外にはどこがありそう?」

 「……な、ないとおも……う」

 「……」

 時刻は17時を回った。

 日も落ち始めて視界をオレンジへと染めあげつつある。あと少しすれば日は完全に落ちて夜の闇が辺りを包むだろう。それまでにはなんとかして宿を確保したいと亮は思う。なんなら野宿も考慮してさっき見かけた神社の境内を候補の一つに入れておく。昔はよくしおんと拝殿に忍び込んでは秘密基地。なんて言って遊んだことを思い出す。中の詳細は忘れたけど、大人一人が眠れるスペースはあるはずだ。こんな閉鎖的な村だから、罰当たりだのなんだの言われそうだが仕方ないだろう。

 

 雨崎村が観光資源に乏しいことは誰の目にも明らかで、それは村民である芹歌はもとより、幼少の頃にしか住んでいなかった亮ですら知っていることで、そんな場所に宿泊施設を求めること自体が間違いなのだ。

 結論から言うとやはり旅館はなかった。こんな寒村にあったらそれこそ奇跡だ。

 二人は諦めて再び商店通りに戻ることにした。空の色はオレンジから黒色へ変わる手前で煌々と輝く星も見え始めている。今の時刻は18時過ぎ。もう夜と言っていい時間帯になっていた。

 「まいったな……」

 「ごめんなさい。ごめんね……」

 「芹歌は何も悪くないよ。むしろ付き合わせた俺が悪い。ごめんね」

 そう言って亮は近くにあったベンチに腰掛けた。所々さび付いたベンチは彼の荷重でキイと悲鳴を上げて今にも崩れそうな気配を感じさせる。

 「……どうするの?」

 芹歌は表情を少し曇らせて亮に訊いた。その顔は今日出会って初めて見る芹歌の感情を表した表情なのかもしれない。そう亮は思い考えを彼女に聞かす。

 「そうだな……とりあえず今のところは歩きで海津まで行こうかなって」

 「……遠いよ?」

 「仕方ないよ。そもそも何も考えずに来た俺が悪いんだ」

 亮は背を深くかけるとベンチは更に悲鳴を上げた。まるで今の俺の心境だと亮は思う。荷重を更にかけてやるとキイキイと鳴る。このままやり続けると何れは壊れてしまうだろう。そうなったときは色々と面倒だからと思いベンチから立ち上がった。

 「もう、ずいぶん暗くなったしね」

 遠くに夕日が沈むのが見える。この村で仲の良かったしおんとは夕暮れになったらその日は遊ぶのを止めて、家に帰るのが約束だった。目の前にいる少女はしおんではない。けれど、世間一般にも夕暮れは人と人との別れの合図になっているはずなのだ。

 だから……この辺りで芹歌と別れる頃合いなのだ。

 もう、十分だ。

 ここでの滞在時間は5時間ちょっとだったが、亮は確かに求めていた懐かしさを得ていた。社会から逃避してまで得られたのか?と問われれば答えに戸惑うかもしれない。けれどこれでよかったのだ。昔住んでいた家も見れた。村の風景も変わらずだった。通っていた学校も見れた。それに……一人だと思っていた旅に話を聞いてくれる女の子にも出会えた。だから……

 「あの……その……」

 それじゃあ俺は行くよ。じゃあね。と亮が言おうとした時だった。これまで終始受け身だった芹歌が彼に話しかけたのだ。思わず亮は驚き彼女を見つめた。そこには無表情の芹歌はおらず、なにかを伝えようと必死の顔をしている彼女がいた。

 時が止まったような気がした――。けれど確かに遠くには蝉が鳴いているし、刻一刻と日は落ちている。なのに……芹歌が何かを言おうとしている。それだけで世界が変わるような気が亮にはした。

 不意に風が吹いて芹歌のワンピースを揺らした。はためく白がオレンジのコントラストに合ってひどく幻想的な光景だった。思わず目を奪われそうになるが、亮は芹歌の顔を見つめ続ける。

 「よかったらここに……」

 「魔女が男といるぞ!」

 「!?」

 唐突に男の野太い声が近くから聞こえた。声が上がった方を見るとそこには年老いた老人が立っており、亮たちを睨みつけていた。

 魔女。聞き慣れない言葉に亮は戸惑う。

 魔女。おそらくは絵本やファンタジー映画に出てくるあの魔女だろう。その言葉は創作物に用いられる言葉であり、こんな風に現実世界で使うことなどめったにない。魔女とはいったい何を指しているのかと亮は心当たりを探す。

 ――心当たりを探すも何も、この場に女は一人しかいない。だから、自然と亮の目線は男から隣にいる芹歌の方に移る。そこには無表情でも何かを伝えようと懸命になっている顔の彼女ではなく、いるのは怯える顔を浮かべる芹歌だった。

 芹歌が、魔女?

 あまりに現実離れした出来事にしばし亮が言葉を失う。ただ出来るのは老人と芹歌の顔を交互に見ることだけだった。

 「今度はその坊主を殺すのか?」

 殺す。少なくとも魔女という言葉よりは現実味を持つがある意味現実を飛躍したワードが再び老人の口から飛び出す。

 殺す。殺める。殺。

 意味通り、人を絶命たらしめる行為。

 どこかで蝉がけたたましく鳴いている。世界がオレンジに世界に染まっている。遠くで誰かが植えた向日葵が揺れている。なんてことはない。毎年繰り返されている夏の風景だ。

 けれど今の亮にはそれをそうとは思えない心境に陥っていた。まるでわからない。これは果たして現実なのだろうか。

 今度はその坊主を殺すのか?

 嫌な汗が流れる。坊主というのは言うまでもなく亮のことを指している。芹歌が俺を殺す?

 まるで意味が分からなかった。

 ……自分のことを話したがらないのは、そういう事情があるから?

 「……っ」

 芹歌と目が合う。彼女はまるで恐怖に怯えるばかりの子犬のような表情を浮かべていた。

 「芹歌……」

 「違う違う違う違う違う!!!」

 空気が割れんばかりの芹歌の声量に思わず亮は心臓が口から飛び出しそうになった。視線は彼女に釘付けになり、本当にあの芹歌なのかと疑ってしまう。

 「違うの……」

 芹歌はそれっきり何もしゃべらなくなり、うつむいた。その様子に亮は黙っていることができなくなり、目の前にいる老人に声を上げる。

 「アンタ、一体なにを言ってるんだ?」 

 「あぁん?そんなのお前、コイツが魔女だから……あぁ。そうか。お前、この村の人間じゃないな」

 「それが?」

 横目で芹歌が顔面蒼白のまま怯えているのを見て、尚更この老人が憎らしく思えた。そうなると自然と亮の目つきはそれに準じたものに変わる。

 しばしの空白がその場に流れた。相変わらず蝉の鳴き声だけしかこの世界に音はない。芹歌は怯え、亮は老人を睨む。その睨みは如何ほどの効果があったのかは分からないが、老人は沈黙を保ち続けている。

 「まぁいい。お前はいずれ……死ぬだろうよ」

 そう言い残して老人は一瞥もくれることなく踵を返してどこかへ消えた。亮は老人の姿が完全に見えなくなるまで目で追う。

 その間考えていたのは老人が最後に言った自身に対する死の予告について。誰が殺すのか、もしくは事故によるものなのか、具体的なことは何一つ言わなかったので詳細は不明だがこの一連のやりとりで想像ができるのは……芹歌に殺されるという場合である。

 そんなことは全く想像できなかった。隣にいる抱きしめたら折れそうなくらいに弱さを感じる女の子が人を……俺を殺すなんてとてもできるとは思えない。

 きっとあの老人は気が狂っているんだ。狂言吐きなんだ。イカれてるんだ……。

 「……すいません」

 老人の姿が完全に見えなくなってどれくらい経っただろうか。時間にすると一分にも満たないのだが亮にとっては途方もなく長い時間に感じられた。その放っておくと永遠にも感じられる亮の中の時の流れを通常に戻したのは芹歌の言葉だった。

 「……なんなんだよ。アイツは」

 亮の口調は荒くなっていた。無理もない。いきなり見ず知らずに人間からあのように言われたら誰でもこうなる。

 亮の脳裏にはかつての雨崎村での光景が浮かんでいた。村民は皆優しく争いごとは好まなかったように思うのに、なんであんな人間がいるのだと。

 ……ただそれは幼少の時の記憶。つまりは小学生の時の感覚でしかない。大人は子供には醜い姿は見せたくないものだ。だから、さっきの老人のような態度は自分の前では隠していて、見えないところではああいう感じだったのかもしれない。

 けれど……それを抜きにしても発言の内容がおかしすぎる。

 常識を突飛している。なんだ魔女とは。芹歌が俺を殺す?

 ……やはり理解ができない。

 「この村にもああいうおかしいやつはいるんだね。都会だけかと思ったよ」

 「すいません……」

 すいませんすいませんとそれしか繰り返さない芹歌に亮は少し辟易した。少しくらい、あの老人の言ったことに触れてほしいと思ったからだ。

 「なあ芹歌……」

 あいつが言っていた、お前が俺を殺すっていうのはなんなんだ?

 そう、続くはずだった言葉の羅列は喉元で止まって胸に落ちた。

 気になるじゃないか。早く続きを言えよ。そう心の中でもう一人の自分が叫ぶ。

 確かに気になる。しかし、芹歌に真実を求めておきながら情けないことに亮はそれに自ら触れることに躊躇してしまっていた。

 所詮は老人の戯言かもしれない。きっとアイツはこの村で有名な精神がおかしい人なのだ。だから四六時中、ああやって訳の分からないことを言っているのだろう。

 ……そんな都合のいい自己解釈が亮の中に浮かぶ。

 もし、ここで真実を訊いたら芹歌はどういう反応を見せるのだろうか。不意に浮かぶのは先ほどの老人の発言を絶叫をもって否定する芹歌の姿。あの姿から自分から彼女に答えを求めることができない。

 「ここを離れよう」

 「……はい」

 それくらいしか、亮には言えなかった。社会から逃避し、今度は自らも逃げた。

 3

 老人の一件の後、亮は芹歌を家に送り届けてから徒歩で海津まで戻ろうと決めていた。ここで夜を越すのは無理だと判断したからだ。神社で野宿するなんてことも少しは考えていたが、夜でも気だるい暑さが渦巻くなかでそれは遠慮したいと思い、その線は考えることも無くなっていた。

 すっかり辺りは暗くなり、街灯なんてない雨崎村においては月明りだけが頼りだ。その暗闇の中を歩いた末に一軒の家屋で芹歌の足が止まった。

 高坂という表札が門に掲げられているのが目に入った。

 芹歌の苗字は高坂である。そこから思案するにここが彼女の家であることは明白である。二階建ての日本全国各地にありふれたモルタルの壁の家である。所々はくすんで入るものの確かに手入れはされていて、昼間に見たかつて自分が住んでいた家に比べるとはるかにマシだと亮は思った。

 ……もっとも、あれと比べるのはおこがましいのだけど。

 「今日は会えてよかったよ」

 亮はそう切り出した。我ながら少々キザだと思うが、もう会うことはないと考えると次第に照れくささは無くなる。

 そう、もう会うことなんてないから。

 「……えっ」

 「俺はこれから海津に戻るよ。その……歩きで」

 亮はバツの悪い顔を浮かべつつも苦笑いをした。元は自分の計画性の無さからこんな状況になっているのだから。

 「……もう暗いよ?」

 「仕方ないよ。もとは俺が悪いんだし」

 海津に通じている道を遠目に見る。こんなところに予算なんて回す必要はないと言わんばかりの暗さがそこにはあった。街灯なんてものはやはりない。幸いガードレールはあるので転落なんてことはないだろうが、それでも骨が折れるのは目に見えている。

 ……こんなことなら、来るんじゃなかったか?

 そんな考えが浮かぶ。

 社会から逃避したツケは重い。今日無断欠席した講義のテストは確実に0点であり単位は出ないだろう。それに続く講義もテストが重なっていて、それによる顛末は以下同分だ。

 留年は確定していないが、最悪一歩手前の状態にある。今からでも遅くない。これから海津までみじめに歩いて始発を待って大学に戻るのだ。そうすれば留年は回避できるはず――。

 いや、それでももう時すでに遅し、か。

 「それじゃあね高坂さん。今日は本当にありがとう」

 じゃあ。と軽く挨拶をして踵を返して芹歌を背にする。もっと気の利いたことを言えばよかったかもしれないと思いつつも亮は暗い夜道を歩き始め――

 「まって!」

 歩き始めようとした亮の背中に芹歌の声が届いた。その声に応えんとして亮は振り返る。そこにはこれまでに数回しか見せてくれなかった芹歌の感情が現れた顔があった。

 悲しくも、けれどどこか嬉しそうなそんな表情――。

 「……高坂さん」

 「りょうく……二木さん」

 「どうしたの?」

 「あの……」

 芹歌は亮を呼び止めたはいいが続く言葉が見当たらないといった様子で、必死にその言葉を探しているのが彼には分かった。

 なにか忘れ物をしたのだろうか?亮はそう思うも芹歌に何かを貸した記憶はない。思い当たる節も探してはみるも心当たりは一切なかった。

 しばしの沈黙ののちに、芹歌はこう言った。

 「……よければ、ここに泊ってください」

 「へ?」

 亮は思わず目が点となる。初対面の異性から今日、家に泊ってなどと言われたのは人生で初めてだったので何をどう喋ればいいのかと思考がフリーズしてしまい、彼の世界は静寂に包まれた。

 遠くでは蝉が未だに鳴いている。

 風の靡く音が聞こえる。

 ……芹歌の息遣いが、聞こえる。

 「あー、その、気持ちはありがたいよ。けど俺たち今日初めて会ったばかりで……」

 「……行かないで!」

 「高坂さん……」

 芹歌の訴えは必死さを伴っていた。そこには男女のそういう仲を期待する心情は一切感じられない。あるのは純粋に亮がここから離れることを恐れる気持ちだけ……

 「わかった。それじゃ、今晩はお世話になろうかな」

 亮は芹歌の提案を飲んだ。それまで村の外に向けていた足を一歩ずつ彼女のいる方へ向ける。そのたびに芹歌は今日初めて見たような気がする、笑顔を浮かべて彼をその場で待っていた。

 

 

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