小さな森の楽園
「ルシア、着いたぞ! ほら見てごらん、綺麗な景色だろう。これからは今まで以上に、静かで穏やかに暮らせる! だから元気を出しなさい、ね?」
貴族になること、領地で暮らすことに対して、土壇場になって発狂したと思われたらしい、私ルシア・アシュリー。
叫ぶだけ叫んで、ひと心地ついた時気付くと、私は母様に水筒入りのスープを手ずから飲まされながら、父様に肩車された状態で外にいた。
完全になだめすかされていた。
いつの間にやら、すでに馬車は領地へと到着していたようだ。
少し開けた、切り株がたくさんある広場のようなところに停着していた。
ここがアシュリー男爵領。私達がこれから暮らし、治めていく土地。
父の肩から眺める景色は、普段より高く見晴らしが良い。
暖かい日の光が心地よく、気持ちが落ち着いてくるのを感じる。
優しく吹くそよ風を顔に浴びながら、辺りをゆっくり見回してみた。
小高い丘の広場から、まず目に飛び込んでくるのは、濃い緑色に染まる沼。
見渡す限りの、沼。どこまでも広がる、雄大な沼。
湖ではなく、沼である。
沼には様々な種類の鳥が泳いでいるのが、ここからも確認できる。それほどたくさんいる。
ケンカしている鳥がいるのか、ピヒョロロ……クァー、クァーという鳴き声に混じって、ギャアギャアと威嚇する声も聞こえてくる。
沼の周囲を縫い尽くすようにして、深緑の木々が豊かに生い茂っている。
この時間帯は木漏れ日が美しいが、夜になれば枝葉が月を完全に遮り、辺りは一筋の光もない暗闇に包まれてしまうだろう。
深い森の中、人影はここにいる私達の他にはないと思っていたが、沼岸近くを歩く人の姿が見えた。
目で向かう先を追ってみると、沼のすぐそばに家があり、そこに入っていった。
注意深く観察してみれば、木の幹だと思っていたもののいくつかは、木材で造られた家だった。
ぽつり、ぽつりと沼を囲うようにして建つ家々。それは領民が住まう民家なのであろう。
廃村となった廃墟の地か、もしくは打ち捨てられた忌地か。
そう考えていたのは間違いだったらしい。
ここはどうやら、男爵領の立派な集落の一つであるようだった。
人気のまるでない、ひたすら閑散とした集落。
なんて……なんて……
「「「なんて素晴らしい土地なのかしら! (なんだ!)」」」
三人の声が見事にハモった。
使用人の皆は、予想通りの反応、いつものこととばかりに平然としているが、御者をしてくれた騎士の皆さんはビクッと上体を振り返らせてこちらを見てきた。
「!!?」という文字が頭上に見えるかのようだ。
だが、私達の高揚する心は止まらない!
「もしかしたら、もっと栄えていて人の行き来が盛んなところなのかしら、と思っていたの……建物がたくさんあったり、人口が多かったりね。でも無用な不安だったわ! ここなら落ち着いて暮らしていけそうね!」
「ここが私達の新天地になるのか……! 想像していた以上に何もなくて最高だ! 貴族として、領主としてなんてやっていけるか不安だったんだが、この地なら私は頑張れる! 良いところに来られたな、みんな!」
「父様、母様、私幸せよ。こんな静かで、人もいなくて、毎日のんびり過ごせそうなところに住めるだなんて!」
アシュリー男爵家、テンションV字回復。
波打つように変化していた、ここ最近の気分。ただし限りなく低い位置で。
それが一気に高みへと引き上げられた。
急転直下からの横ばい、そして急上昇。
ここなら、私達はやっていける!
もとより贅沢はする気がないし、税は国に代納する分のみ徴収して、一家の使うお金には回さないつもりだ。
領民の方々とそれなりに仲良くやって、日々を穏やかに生きていこう!
◇◇◇
その後、丘の上から「領都」と呼ばれている町へと降りた私達。
街ではない。町である。
そこで王城から遣わされた案内役の役人さんと合流した。
ちなみに、流石にその道中で肩からは降ろしてもらい、自分の足で歩いていた。
「どうもこんにちは! 貴方が案内人の方ですね。ヴィンス・アシュリーと申します。お忙しい中、私共のためにご足労いただき、誠に感謝いたします。今日はどうかよろしくお願いいたしますね」
脱帽し挨拶する父に対し、大げさなほど丁寧に挨拶を返してくれる役人さん。
その後私と母も役人さんと挨拶を交わし、互いに軽い自己紹介を済ませた。
乗せてきてもらった騎士の方々は役目を終え、これから王都へと帰路につくそうだ。
役人さんは王都から乗ってきたというご自分の馬を連れていた。
騎士の皆さんとは、そもそも今日のお仕事の指示元が違うようで、案内を終えたらお一人でお帰りになるらしい。
「お嬢様だけでも馬に乗って移動なさいますか? 僕が手綱を引きますから」とありがたい申し出をしてもらって仰天した。
いくら体力ゼロの引きこもりとはいえ、この程度の距離を移動するくらいで馬に乗せてもらえるような身分ではない。流石におこがましすぎる。
父様が言うように、こちらは役人さんのお仕事の合間を縫ってわざわざ相手をしていただく身なのだ。
そもそも役人さんの馬だというのに。
役人さんを乗せて帰る体力も残しておかなければならないだろうし、馬にも申し訳ない。
見知らぬ人間、しかも乗馬の経験もない人間に乗られても、お馬さんも不愉快だろう。
その旨を拙い言葉で伝え、丁重にお断りした。
すると「しっかりされていらっしゃる。……お優しいお嬢様だ」と言われた。
いや、優しくもないし全然しっかりしてない。心が平民のままなだけなんですよ……。
騎士の一人ひとりに本当に今日はありがとうとお礼を述べ、その姿が見えなくなるまで全員でお見送りをした。
「……さて。では、改めてよろしく頼みます。まずはこの地、これよりアシュリー男爵領と呼ばれる地域について、説明をば。散歩がてらゆっくり見て回るとしましょうか」
◇◇◇
アシュリー男爵領。
先程私達が感動した、森と沼が果てしなく広がる、「エルト地区」。
この領都を含め、木々がある程度切り倒されて拓かれた、民家や集会所、民の通う学校がひとつある、ここ「テナーレ地区」。
その二つの地区で構成されている。
厳密には、この地区をさらに三つずつに細分することができる。
美しい野生の藤棚が広がり、一帯を蔦が覆うアイヴィベリー区域。
森の小さなエルフの里といった様相の、野苺畑に囲まれたラズクラン区域。
そして鬱蒼と生い茂る森の深奥、人口もごくわずかな沼のほとり、マーシュワンプ区域。
この三つの区域が「エルト地区」にあたる。
旧領主邸や学校、広場があり、領民の活動の中心であるカンファー区域。
都会の人間にはゴーストタウンに見えるかもしれない、寂れた商店通りや住宅地が広がるファンティム区域。
お隣の辺境伯領との境、水源のため池を有するポンドウィスト区域。
この三つが「テナーレ地区」に該当するようだ。
もとはクローディア伯爵様という老紳士が治める土地だったとか。
王都よりも西側にあるこの土地。
今は周辺を治めるこの国最西の辺境伯領と北西の侯爵領にそれぞれ併合されてしまっている、エルトやテナーレより栄えている街々。そこもクローディア伯爵領であった。
つまり、西の隣国ヴァーノンに面する街をも治めている、広大な領地を持つ辺境伯であったそうだ。
クローディア伯爵は、数年前に持病が悪化して、静かにこの世を去った。
まだ若いうちに先立たれた妻のあとに、ある程度お歳を召してから娶った後妻がいたそうだが、そのどちらにも子供ができることはなかった。
跡継ぎもなく、血を引く親類もいない。
この地の主、領主は長らく不在であった。
より軍備を強めるため。労働力を増やすため。より良い領民の生活のため。
西側の「バレトノ地区」、北側の「シプラネ地区」はそれぞれ併合されてしまった。
あとに残されたのは、中央部〜南部の元領都テナーレと、中北部の寂しげな森の沼地、エルトのみ。
ここ数年は、代官をたて王家直轄地となっていた。
とはいえ、代官とは名ばかりだったそうだ。
彼らはたまに思い出したように学校の視察をし、町の住民に声を掛け、税を徴収しに来るのみ。駐在すらしていなかったという。
誰からも忘れかけられていた、小さな田舎。
それがここ、元クローディア辺境伯領であり、アシュリー男爵領だ。
◇◇◇
持参してくださった資料を囲んでの役人さんの説明。
お話を聞けば聞く限り、つくづく思うのは……
「いやぁ、なんて素晴らしい土地なんだろうか!」
……父様に先に言われた。
退廃美あふれる、古びた町並み。秘境感。豊かで美しい自然。
何もかも文句の付け所が一切ない。最高すぎるほどに最高だ。
母様は珍しく紅潮した面持ちで、何度も頷き強く同意している。
私も機嫌の良さが表情や振る舞いに現れているのだろう。ジョセフがほっぺたの落ちそうな顔でこちらを見ていた。
油断すれば両親のみならず、従業員……今は使用人か、使用人の皆からも「かわいい攻撃」が始まるから困る。せめて身内以外の人がいる前では自重してほしい。
その後私達一同は、会話をしながらテナーレ地区の各区域を歩いて回り、およそ一周した頃合いで中心部に戻った。今は誰一人いない集会所の椅子で休憩しているところである。
「お役人さん、そろそろお昼にしません? こちら作ってきましたの。お口に合うかわかりませんけれど、良かったら召し上がって」
「いやあ、よろしいんですか! 有難くいただきます!」
今はちょうどお昼時。
母様は一日かかることを見越して、お弁当を作ってきていた。
家族と使用人全員の分、そして案内役を引き受けてくれると聞いていた役人さんの分。
一人につき一箱ずつだ。
お弁当を囲んで、和やかな時間が始まった。
なかなかトークの上手な人で、時折爆笑に場が沸いたりしながら、暫し歓談した。
私達家族もまた、良き土地に巡り会えた興奮がまだ覚めやらない。
全員が完食するまで歓喜の声が尽きることはなかった。
母様の味がお気に召した様子で、凄い勢いで口にかっ込んでいた役人さん。
ごちそうさまです、ありがとうございます。
……そう言った時、一瞬なんだか真面目な表情をしたように見えた。
だがすぐ明るい表情を取り戻し、少しでっぷりしたお腹を揺らしながら、朗らかに笑って言った。
「ははは、ここを気に入ってくださったようで何よりです。僕は叙爵式には関わってなかったものでね、このお役目を申しつかった時に初めて、あなたがたのことを知ったんです。……正直な話ね、大層ふんぞり返った、自信たっぷりのご家族なんだろうと思っていましたよ。ずっと王都住まい。そして平民から貴族に取り立てられたっていうんだからね、顔を合わせた瞬間にその輝かしい功績を自慢して来られるんだろう、ってね」
その時の役人さんの薄灰色の瞳は、私達に重ね合わせた別の誰かを見ているような気がした。
「やれこんなド田舎は嫌だ、やれもっと相応しい領地を与えろだ、ってどんな難癖を付けられるのか。……そんな風に考えていた。でもあなたがたは、そのような方々ではなかった。思いやりにあふれ、自然を好み、木っ端役人の僕にも親切で友好的。あなたがたご一家は、貴族の称号に本当に相応しい方々だった。……ご無礼を、どうかご容赦ください」
彼は途端に深刻な表情になり、机に頭突きしそうな勢いで、私達に向かって頭を下げた。
「いやいや、そんな! お気になさらず。謝ることなど何もありませんし、何も失礼なことなどされていません。どうぞお気軽に話してください」
焦った父がそう言って止め、肩を起こそうとするまでずっと、彼はそうしていた。
「……ありがとうございます。お優しいアシュリー家の皆さんでしたら、この領地を気に入ってくださった皆さんでしたら。きっとここはよりより場所になるんでしょう。領民の人たちとも、上手くやっていけるはずだ。……長いことこの地を心配されていた陛下も、きっとご安心だ。だからこそ、あなたがたにここを領地としてお与えになったんだ。僕は今ならわかる……。……おこがましい限りですがね、陛下に代わって申し上げます。――アシュリー男爵領を、どうかよろしくお願いいたします」
そう言う彼の顔は、とても真剣。
しかし私達に親しみを持っているから、真に期待しているからこそ言ってくれている、そんな暖かみのある言葉に感じられた。
ただはしゃいでいた私達もその重みが伝わり、浮かれた気が引き締まる思いだった。
私達を代表した父様が支え起こした彼の手を取り、微笑む。
「はい。しっかり務めます。次にお会いする時は、私は男爵として城に出向いている時でしょうね。次は、良き仕事相手として。一緒に良い仕事をしましょう。――お任せください! 領民の皆さんが笑って暮らせる、そんな場所にできるよう努めます」
父様と役人さんは、熱意のこもった固い握手を交わす。
わずか一日の付き合い。
だがそこには、男同士の敬意、友情が確かに在るように感じた。
役人さんは父の目を見て、安堵と思しき息を吐く。
やがて先程のような屈託のない、朗らかな笑顔を見せてくれたのだった。
そして。一通りの道を回った私達は、今後一家が住むお屋敷に向かって移動していた。
「そういえば、私達はどこで暮らすの?」と聞いてみたら、両親はまだ説明していなかったか、とエルト地区の奥を指差した。
到着したそこは、蔦が煉瓦の壁面を覆い、ありとあらゆる草花が辺りに咲き乱れ、見たこともない鳥や動物の姿があちらこちらに散見される、二階建てのお屋敷であった。
こじんまりとしつつも趣と情緒があり、お化け屋敷然としている。
周囲に建物はなく、このお屋敷とクローディア伯爵様のお墓が佇むだけだ。
ここは先程説明を受けた、人口最少のマーシュワンプ区域にあたるらしい。
ひっそり暮らすには最適なおうち! こんな素敵なお屋敷で暮らせるなんて!
何から何まで「素晴らしい」「最高」以外の感想が出てこない。
私は目を輝かせ、感嘆の息を漏らすばかりだった。
叙爵にあたる陛下からの手紙には、「以前の領主が使っていた屋敷にそのまま住まうも良いし、新たに家族のための家を建てても良い」という内容が記されていたそう。両親はせっかくあるものを活用しないのはもったいないと、伯爵様のお屋敷を再利用させていただくことを選択したという。
二つあるお屋敷のうち、迷わずよりひそやかな暮らしが送れそうなこちらを選んだのだとか。
こちらは伯爵様が数人の使用人だけを連れ、静寂の晩年をお過ごしになったという別邸。
テナーレのカンファー区域には、豪奢で立派な本邸があるらしい。
今度見に行ってみようという話で落ち着いた。
――そろそろ日も落ちようとしている。
自宅まで案内してもらった今、役人さんのお仕事はこれでおしまいだ。
名残惜しいが、何も今生の別れではない。きっとまたどこかで会えるだろう。
笑顔で、別れを惜しむ思いは顔に出さず、互いに今日のお礼を交わした。
「本日は本当にありがとうございました! ぜひまたお会いできる日を楽しみにしております」
「ええ。僕の方こそです」
全員で手を振ってお見送りをする。
小太りの役人さんは、予想に反してひらりと馬に飛び乗り、片手を離して後ろ手を振る余裕さえ見せながら。
王都をその先に見据える丘の上の向こうへと、軽やかに駆けて行った。
「ねえ、ロニー」
近くにいたロニーに、引っ掛かっていたことを訊いた。
「優しいとか思いやりがあるとかいう言葉、どこをどう見たら出てくるのかしら」
「そうね、私も思っていたのよ。まるで家族全員できた人格みたいにおっしゃっていたけど、私達、ただはしゃいでただけだものね」
私の質問に対し、首を何度か頷かせて両親も同意してくれた。
良い感じの雰囲気で別れたものの、何がどうして「私達であれば役人さんも陛下も安心」なのか、正直「……?」と思いながら話を合わせていたのだ。
しかしロニーはと言えば、「いや、ホントそういうトコ……それです、それ。全部。まあ、そこが皆様のいいトコっスよ」と軽く流すだけで要領を得ない。
なぜか他の使用人からも、まともな意見が得られることはなかった。
とっぷり夜も更け、沼に月明かりが爛々と浮かぶ時間。
騎士団の方々が別働で運び込んでくれていた家財道具を一通りセットし終えた辺りで、それぞれ入浴を済ませていた。
入浴が終わった順に、使用人の皆は解散。疲れを癒し明日に備えてもらった。
明日は、領地運営のために皆で会議をする予定。
代官の人がまとめてくれていた領地の基礎情報を元に、これからどう運営していくのが最適か話し合い、必要であれば領地を挨拶回り。
男爵家として初めての仕事をするのだ。
私もあとは寝るばかり。おやすみの挨拶をしに両親がいるダイニングを訪れていた。
私が使う部屋を教えていないことに気付き、またすでに寝付いた使用人の皆を起こすのも憚られたらしい両親は、以前住んでいた家からは考えられないほど長く広い廊下を、案内と共に歩き出した。
「本当に素敵なお屋敷ね。クローディア伯爵様のためにも、おうちも領民の皆も大切にしないといけないわね」
「その通りよルシア! ああ、なんて賢い子なのかしら。教えてもいないというのに! きっと貴方に似たのね」
「いやいや、君に似たに決まっている。一言っただけで十覚える。料理も勉強も素質がある! やはりこの子は女神エレーネが遣わして下さった娘なんだ!」
始まった。始まったよ。スイッチが入ってしまった。一事が万事この調子である。
いつ「うちのこかわいい自慢」が始まるかわかったものではない。しかも張本人の目の前で。
部屋の位置する場所は教えてもらったので、もう私の用事はない。これ以上付き合う義理はないだろう。
ああ疲れる。私も早く寝なくちゃ。
今後の話に花が咲き盛り上がり始める両親を尻目に、なるべく足音を立てずに早足で進む。
「私達も学校になんて行ったことがないからなあ。ルシアが将来学園でやっていけるのか、どうサポートすればいいのか心配だったんだが。何しろルシアの学年は、この国の王女王子両殿下と同じでもあるからな。他学年に比べて、きっと教師のやる気もレベルも俄然高くなるに違いない。でもルシアなら大丈夫だ! 私は何を心配していたんだろうな、こんな気立ても良くて賢い、しかも世界一可愛い娘であれば、慣れない学園生活も絶対やり切れる!」
「そうよね、ルシアも学園に行ってしまうのよね……ルシアは何寮に入るのかしら。色んな能力に恵まれたこの子だったら、王宮教育選考委員の方々も、どこに選考したものかきっと困ってしまうでしょうね!」
ビタッ!! ゴッ! ガン!
轟音の後の激痛に、思わずその場にうずくまる。
ちなみに何が起こったかと言えば、バカップル……もとい両親の会話を上手く聞き流しつつ、部屋に向かって高速で歩いていた足を急停止させて振り返ったために、ちょうど頭くらいの位置にあったくぐり抜けたばかりのドアノブに、強かに頭を打ち付けたのであった。
「頭を打った瞬間に過去の記憶がよみがえる」という話はよく聞くけれど。
随分前、ぼんやりした前世の記憶を「何か衝撃があれば思い出せるかも」と考えたことがあったけれど。
自分の身に、しかもこんな予期せぬタイミングで巻き起こるとは思わなかった。
今なんだか聞き捨てならない単語がいくつか聞こえた気がするのだ。
頭を打ったせいで水流のように脳内にあふれ出す記憶。
私は……いや、今生の私である「ルシア」は。
王族と同学年になるだとか、王宮で会議の末に寮が決まるなんていう話は、たった今初めて聞いたはずだ。
でも違うんだ。『私』は、なんだか以前に……それも最近ではなく、随分前に聞いたことがある。その『設定』。
……いや違うな……「聞いた」ことじゃなく、「見た」ことがある。
どうして今の今まで忘れていたのか。
いや、まだ勘違いの可能性もある。聞き間違いの可能性も……。
一日のうちにどれほど冷や汗をかけばいいのか。
嫌な悪寒と汗で、背中が凍るように寒い。
震える肩を抱きしめるように抑えながら、同じく震えが治まらない口をなんとか開いた。
「ね、ねえ……父様、母様…………。たぶん違う、いや絶対に違うと思うけど、エレーネの王女さまと王子さまって、一卵性の双子なんだったかしら……」
「ああ、そうだよ。よく知っているね。教えたことはなかったと思うが……」
嫌な予感、一つ的中。
いやまだだ! まだそうと決まったわけじゃない。
父様の言葉も遮り、次の質問を繰り出す。
「王女さまがお姉さん? 確か……ディアナさまと……王子さまのほうが、アーロンさま」
「そうよ。何かの本で見たの? それとも、誰かに教えてもらったのかしら。すごいわ! 勉強に関係ないことまでちゃんと覚えているのね」
全身を包み込む悪寒と鳥肌。
神様は言っていた。
――地球に存在する漫画やゲーム、劇にアニメなどの情報媒体。
それは人間を介して物語に変換され、異世界に反映された実在の世界の出来事、実在の人々の現実なのだと。逆に異世界では、地球の風景が何らかの物語として反映されているのだと。
ここは遠く知らない世界なんかじゃない!
意味のない自問自答をせずにはいられない。どうして忘れ切っていられた? どうして気付かずにいられたんだろう?
間違いない。ここは『学園シンデレラ』の世界だ……!