罪科と功績は紙一重ですわね
「西の大国……ヴァーノン王国王太子、リアム殿下をお助け下さったご恩。国を代表して感謝申し上げます。――つきましては、五日の後、王宮へとお越し願いたい」
脳がその意味を理解するのと同時に、彼方に意識が遠のいてゆく。
「リ……アム…………」
「王太子……殿下……?」
意味もなく口をつく反芻は、これは紛れもない現実なのだと、自分達自身を余計に追い詰める。
つい昨日のことなのだ。リアムとの思い出……いや、犯した罪状は脳裏にありありと思い浮かぶ。
私達一家は彼をぬいぐるみ兼着せ替え人形にし、好き放題になで回し、挙句平民のつましい粗食を食べさせ、きっと小屋ほどに感じられた、苫屋のベッドで寝かし付けていた。
この御方がどうしてここにいらしたのか、理由はひとつしかないだろう。
処刑される……!
そう、処刑を宣告しに来たに違いない!
全身の震えが止まらない。
絶望、謝罪、哀願。様々な思いが胸を食い尽くし、私達は次々と硬い煉瓦の石畳に崩れ落ちた。
そういえば、別に長生きできるとは神様も言ってなかった。
数年良い思いして暮らせたんだから、ここで人生終了ということか。
ただ一つ言い訳させてもらえるならば、ずっと商人として生きてきた両親、同じく前世でも今世でもずっと平民として生きてきた私にとって、「もしかして貴族? ひょっとしたら王族かも?」なんて発想は浮かびもしなかったのだ。
もうあとはせめてこの貴族様が、最期の言葉としてリアムへ謝罪を伝えてくださるような、お優しい方であることを祈るだけだ。
ああ、だがあまりにも、短い生涯であった…………。
「お待ちくだされ。貴殿方は何か思い違いをしておられるご様子」
(……へ? 何が……)
もはや何も呑み込めない精神状態の中、聞こえた声に条件反射で顔を上げた。
そしてそこに映る光景に目を疑った。まだ状況に驚ける心は残っていたらしい。
初老に差し掛かる年齢と思しきその貴族様は、なんと私達に対し、恭しく紳士の礼を取ったのだ。
(ちょ……ちょっと待って、何!? 何が起こってるの!?)
一家揃って、青くなっていた顔色が今度は真っ白に変わる。貴族様に礼をされる筋合いなどない!!
狐につままれたようとはよく言ったものだけど、今この事態は狐に噛みつかれたかのよう、
制止しようとした私達を逆に手で制し、彼の方は事の経緯を話し始めた。
「申し遅れましたな。私、フォスター子爵と申す者。以後よしなにお願いいたします。私が今日ここに訪れたのはほかでもありません。エレーネ国王陛下より勅令を賜り、貴殿方アシュリー家へお伝えに参った次第」
「……き、卿……口を訊くご無礼、どうぞお許しを……。勅令とはいったいどのような……?」
「無礼などとはとんでもない。先程申しましたはず。しがなきこの私、国を代表してお礼に参ったのですと。アシュリー家の皆様こそは、――長らく縁なき隣人であったヴァーノンの要人にして、国交の架け橋――一昨夕、突如消息を絶たれたリアム殿下を無事救出してくださった、得がたき救国の恩人なのですから」
理解も反応もできず、ただ言葉を失う。馬車に控えた従者から受け取った何らかの書状をそんな私達に差し出しながら、フォスター子爵様はそうおっしゃった。
見遣ったその文面は、わずかに残された理性もいよいよ失うには十分すぎた。
「――救国の功勲をここに讃え、アシュリー家に男爵位を叙す――」
それは未だ現実味のない記憶。
フォスター子爵様は、一昨夜王宮であった一連の出来事――「リアム王太子殿下誘拐事件」。その全容について、屍同然の私達一家に語ってくださった。
「リアム殿下の祖国であるヴァーノン王国の昨今の様相について、商いを生業とする方々はどこまでご存知ですかな――我が国の最西、ブルストロード辺境伯領と国境を隔てる、統制力と軍事力に極めて優れた大陸有数の大国です。しかし確かに隣国でありながら……リアム殿下の祖父君であらせられる先代の王、故ヴェアナー陛下の御世まで、このエレーネ王国とは常に緊張状態にあったのです」
◇◇◇
長きにわたり、世界に名だたる軍事大国であったヴァーノン帝国。
袂を分けたのは、もはやいつの時代のことだったのか……他国から双子神の聖地として崇められ、常に信仰の中心で在り続けるこのエレーネ王国に、一片の価値も見出さない唯一の国だった。
エレーネが芸術に心血を注ぐ傍ら、軍拡に勤しむ。哲学を語らう暇があれば、地形学を、軍術を。
神のもたらした洗練されし美をエレーネとすれば、ヴァーノンは肉体が築きし力の礎。
そんな中、一人の皇帝が戴冠の日を迎えた。
大陸の多くの国々にとって、かの方は革命者だった。
軍拡から軍縮へ、孤高から外交へ。
いつその凶刃が向けられるとも知れぬ矛を、心強い助力として得られるようになったのだ。
それはまるで、誰かがうそぶいた理想譚のように。
ヴァーノンの多くの人々にとって、かの方は反逆者だった。
栄光を捨て、誇りを捨て……妄言の中に生きているのだと確かに教わった国々と馴れ合うその人は、自分達を強く導くべき、その対極におわすはずの皇帝。
それはまるで、誰かがうなされた悪い夢のように。
その名は、ヴェアナー・スタンリー=フォン・ウント・ツー=ハイリゲス・ヴァーノリヒ。
リアムのおじい様にあたる方である。
前述の通り、誇り高き孤高に生き、言わば「力」のみを信仰するヴァーノン。
その皇室に生まれ育ったヴェアナー様が、どうして「平和」というものを知り、その道を志されたのか……それは当時、そして今となっても、誰にもわからなかった。
今各国が振り返るヴェアナー様の御世とは、他の国々には多くの友好と恩恵を。そしてヴァーノン国内には、多くの分断と反発をもたらすものだった。
数十年にわたる治世。
やがてヴァーノン国民の中に、現の平和を謳歌する者は増えてきた。
貴族や知識人、かつて高官の地位にあった軍人の中にさえ、「友好国の援助、中立国の仲裁を得られるようになり、もう独個たる要塞である必要はなくなった。要点だけに多大なる資金を注ぎ込める。ヴァーノンの栄光と国力はむしろ高まるばかりだ」と公言する者が現れる。
新生ヴァーノンを讃え支持する声は、時が経つにつれ雨後の筍の如く増え続けた。
その勢いまさに、隣国の子爵家がそれを漏れ聞くほど。
しかしそれは、帝国回帰を切望する国民との齟齬をも高め続けるということだった。
いつしかヴァーノンには、戦に明け暮れたびたび飢饉が発生した御世、目に余る悪政に廃位を嘆願する運動が起こった御世よりも……取り返しの付かないまでに深い争いと憎悪、分断が生まれていた。
……その光景は、ヴェアナー様が望み、造ろうとしたものとはあまりにかけ離れていたのだろう。
ある日を境に、各国の宮廷どころか王家にすらその動静が届かなくなり。針が進んだとある日、ひっそりと、失意のうちに御隠れになった事実が突如伝えられた。
各国の王宮が深い哀しみに服す中、実は戦々恐々としていたのがエレーネ王宮だった。
かつての凶刃が強靭な庇護へと変わり、わざわざ迂回せねばならなかった旅路が一本道となり、その独自の文化にご興味を示されていた王女殿下のお望みが、国交回復によって叶い……新生ヴァーノンによる恩恵を誰より受けていたのが、他でもないこのエレーネであったからだ。
新たな王、いや、皇帝となるのか……その方が父王を憎み、帝国への回帰を望み、真逆に転換した針路を逆戻りさせる方である可能性は十分に考えられる。
ああ、夢を見ていただけで終わってしまうのか。
わずかな希望は一時の異端時代として片付けられ、全て無に帰してしまうのか……。
だが案ずるには及ばず、無に帰すかもしれない懸念は水泡に帰した。
間を置かず即位されたアクセル陛下は、故ヴェアナー陛下のご遺志を固く受け継ぐ御方だったのだ。
現にその政策は、父の繋げた細い糸を盤石な綱へと強化していくようなものばかり。
お父上の悲願を、きっといつしか御自らの理想と変えていたのだろう。
そればかりか、進むべき道を決定的に違えていたはずのエレーネ王国との国交維持、相互理解促進を最重要政策と掲げている。
聖地エレーネと協力関係にあれば、親愛の念を抱く国は多い。
それはヴァーノンにとって確かな利である。
他国からの支持を集め、安定した政情が保てることに間違いはないだろう。
しかしそれは、近年におけるまで二国間には決して起こり得ないことであった。
それが現実に続いている今、奇跡とお二方の志を讃え感謝せぬ貴族は、もはやエレーネにはただの一人も存在していない――。
◇◇◇
「……ただし、それはあくまで外つ国の事情に過ぎませぬ。ヴァーノンの内情は今日も不穏さを増すばかり……。王室を狙う者は、もう一人二人ではない有様。あろうことにも、誰より平和を望む方々の周辺にこそ、無秩序と混沌が渦巻いているのです。その最中エレーネ王宮は、現ヴァーノン王アクセル陛下よりご懇請を賜りました。平和の王国の後継者であり、大切な一粒種。リアム殿下のお身柄を、ご成人の刻までお守りしてほしいと」
……というのが、子爵様が語るところの昨今の概要だった。
お話を聞く限りでも、葛藤と混乱の中にあるのだということ、リアムがいかに大変な立場にあるのかがよく理解できた。
リアムは言わば、大切で尊く愛しい人質。
平和を望んだがゆえの分断か…………。
この国の王女王子両殿下と歳が近いらしく、対外的には友好留学という体を取っているそうだ。
そしてそのお申し出を、エレーネ王宮は諸手を挙げて歓迎したという。
かつて歩み寄ることを諦め、背を向けられるままにこちらも背を向けた。そんな大国の方から手を差し出してきてくれたのだ。
そのお気持ちは私でもよくわかる。
大切な王太子を託された。それは確かな信頼の証であり、二国はもう敵国ではなく、そこには確かな友好が生まれていた何よりの証左だ。
リアムはヴァーノンとエレーネどちらにとっても、永遠の希望をその身に宿された平和の象徴なのだ。
……もっとたくさんの本を読んであげればよかった。
エレーネ芸術の解説書、現代詩集、絵図解古聖歌譜。
そんな本に目を輝かせていたっけ。きっと自分の身の回りでは見かけない本だったからだ。
悔やんでももう遅い、それはわかっているけれど……それでも、今想うのは。
――再会が叶わないのなら、許されない時間だったのなら。
リアムにもっと、もっと多くの思い出をあげたかったな…………。
◇◇◇
希望を託された平和の小国。
しかし、事件は起こってしまった。
一昨日の夜、リアムは王宮から突如行方をくらました。
諸侯貴族や王国騎士団による厳重な守護管理下にある彼に、その日の外出予定はなかった。
常に危険に晒され、秘匿されるべき御身だということを、幼いながら理解している様子。
こっそり城下へ遊びに出るとは考えにくいうえ、仮に事情をよく知らない下級使用人たちが連れ出したにしても、許可も護衛もなしになど有り得ない。
そもそも、発覚したのも遅かった。
使用人たちの間で、すでにお昼過ぎにはお姿が見えないと騒ぎが起こっていたのにも拘らず、上層部へ伝達がなされることはなかったという。
事態を把握するや否や泣きわめく者、恐れおののくあまり言葉も呼吸も忘れ、その場に卒倒する者、茫然自失に佇む者……。
事態がじわりと知れ渡る頃、下級使用人や新兵たちに事情を聴取しようにもこの調子だった。
根気強く聴取を続けた上級使用人、上官もいた。
「『どなたか高位の方がお連れしたに違いない。公務がおありなのかもしれないし、気晴らしの外出を望まれたのかもしれない。ならば……_達には与り知らぬこと。だから探す必要はない』と……誰かが、私共の誰かが言いました」
「私共は、それでひどく安心して……それもこれまでに感じたことのないほど強い、強い安堵を覚えて、それぞれ持ち場に戻ったのです」
だが苦心して聞き得た、なんとか口の聞ける者たちが必死に話す情報は、誰かを庇っているとも誰かに責任を擦り付けようとしているとも取れぬ、そんな夢現の言葉だけだった。
「……そういえば、あの人は誰?」
誰かがそう呟いた後は、屋根裏は一層の混乱と狂騒に包まれたそうだ。
そこで臨席していた貴族たちは場を上級使用人たちに託し、自らが出席すべき会議へと疾走した。
責任の取れない下級使用人たちに情報を求めることがそもそもの間違い、無意味な行いだったのだ。
自分達から糾弾されているように感じたのだろう。
進展があるかと無責任に期待した我々のやったこととは、あれではまるで下々の者を加虐し、抗い難い恐怖と苦痛を与えてしまっただけではないか。
それに気が付いた時には、すでに刻一刻、貴重な時間は取り返しがつかないほどに過ぎ去ってしまっていた。
やがて晩餐の時間にお姿を現さないと国王陛下がご心配されたとほぼ同時、最上層部にそれが伝わる。
この時、ようやく王宮全体が事態を把握するに至った。
これは誘拐に違いないと。
時刻はもう、夕刻をとうに回っていた。
誘拐は初動が重要になる。
およそ三十分が経過するたび、生存確率、および無傷でいる確率はどんどん低下してゆくからだ。
その身分もさることながら、敵が多いリアムのこと。
事態はより深刻だった。
焦燥ばかりが募り、官民一体となった決死の捜索は何の成果も上がってはこない。
ただただ、時間だけが過ぎていく。
◇◇◇
「もはや、開戦もやむなしか……。誰しもの脳裏に浮かびました。決してあってはならないことを、あろうことか、我々自身の手によって引き起こしてしまったのだと。――しかしその時、鮮やかな赤の希望が現れた。そう、ヴィンス・アシュリー殿。貴殿のことでございますぞ」
……そう名指しされた父の顔をふと見ると、もうどういう感情なのかわからない顔色をしていた。
そりゃそうだ、急転直下だもん。そんなとんでもない事態とは誰も思ってなかったもんね……。
なんでも父様が王宮に走った時は、王都中をくまなく捜索しても一向に手がかりすらなく、このまま再びお会いすることすら叶わないかもしれない。
またヴァーノン側に知られるのも時間の問題だと、皆が絶望の淵にいるさなかだったという。
あの子がいたのはあの倉庫だもの、確かに見つけられないだろうな……。
街道からは大きく外れており、そこに辿り着く道を知る人がごく少ない。
優雅な夜行馬車を装って捜せば道自体に入れず、王都出身者や街の人々に聞き込みをしても無駄足だっただろう。
事実、どの部隊の捜索範囲にも含まれておらず、よりアシュリー家への感謝は深まるばかりだったとか。
「貴殿とお話しされたというドートリシュ候、ならびにマーカス軍曹の感服、ご叙爵への強きご推挙たるや、尋常なものではありませんでしたぞ。このご功績を称えぬとしてなんとすると。リアム殿下が無事お帰りになった時にはすでに、此度のことは評議会にて正式決定しておりました」
……いや、いやいや! 待って待って!
きっとここは普通ならば、信じがたい僥倖におののきながらも、涙して喜ぶべき場面なのだろう。
しかし何も言わずとも、この時家族の思いは以心伝心だった。
「勘弁してください」と……!
つまりは王宮ぐるみで勘違いしているということか。
「……い、いえそんな、滅相もございません! 私共は何も……!」
「そうですわ、しっかりとお世話もして差し上げられず……。それに私共は殿下に対し、散々なご無礼を働いてしまって……!」
おお! いいぞ父様! その通り! 母様もナイスアシスト!
……と思ったのも束の間のことだった。
子爵様はそれを謙遜だとお感じになったようで、私達にさらなる美徳を見出す始末。
その後何を言っても、この「マジ勘弁」感を悟ってくださることはなかった。
まさか「貴族になるなんてまっぴらごめんです」などと正直に言い出せる空気ではない。
しかも貴族様方がアシュリー家を褒め称えていること、無礼を咎める声は一つとして出ていないこと。
それらは子爵様のご所感などではなく、どういうわけか百パーセントの事実のようなのだ。
「何をおっしゃいますやら。私もリアム殿下より、皆様のお話をお聞かせいただきました。『とても楽しかった、とっても優しくしてもらえたよ』とーー。それはまさに花の綻ぶような、愛らしいご尊顔で。きっと殿下の御心の中に、アシュリー家でお過ごしになった思い出は一生残り続けることでしょうな」
と、なんとか絞り出した謝罪の意、リアムへの非礼を詫びる言伝も通用しない。
そこからはもう記憶が曖昧だ。
ただ三人揃って「滅相もございません」「もったいない御言葉です」「私共は何もしておりません」の三言しか発さなかったことと、ずっと百面相をしていた覚えはなんとなくある。
「叙爵式には地方の領主貴族や詳細を存じ上げないご夫人方まで、多くの貴族がこぞって出席を望んでおります。皆一様にアシュリー家の功績を国の誇りと思っておりますからな。それでは五日後。今度は式典の場で、同じ貴族として。再びお目にかかれることを、心待ちにしておりますぞ」
……そう微笑み、停めていた馬車にお乗りになったところまでは覚えている。
でもそれになんと返したのか、せめて最低限のお見送りくらいはしたのかについては、何一つ記憶にない……。
どれほど経ったのか。気が付けば私達は、その日非番だったはずのメンバーも含めた従業員全員に囲まれ、いつの間にか商会のソファに座らされていた。
暖かい室内。温かい好物のスープ。包み込む毛布の温もり。全てが他人事のようだった。
呆然、唖然。
無意識に震える身体の感覚は、未だ残り続ける煉瓦の冷たさだけを伝えていた――……。