聖月の旋律
■ものすごく長くなってしまったため、二つに分割いたします。次話は明日更新します!
輝く微笑みを見せながら、私の疑問を肯定するように、殿下は大きく頷いてみせた。
ーーヴィオラってあれだよね?
“バイオリンより一回り大きいやつ”。
私が目の前の楽器に抱く印象、持ち合わせている知識とは、ただこれだけである。
……教養ゼロ人間の見本回答みたいだな……。
実際、どのような音色がするのか、楽団ではどういった役割を果たす楽器なのか。
そして何より、「バイオリンといったい何が違うのか」。
そんなことすら、私は何も知らない。
そうした基本の知識さえ持ち合わせていない以上、私には根本的な疑問も全く理解できずにいた。
『なぜヴィオラ?』
その言葉だけが、脳内を繰り返し渦巻いている。
私ついさっき、「バイオリンに再挑戦したけどダメだった」って言ったばかりだよね……?
流石に王女殿下に対して、「ガーゴイルのいびきのような音色がしたのです」とは言ってないけども。
それを踏まえた上で、……殿下は何をもってヴィオラをお選びになったのだろう?
いや、音色も響きも、きっとバイオリンとは違う。
似て非なる全くの別物なのだろう。
しかしバイオリンを一切弾けないのにも関わらず、ではこちらならという道理がわからない。
むしろ大きめである分、より弾きにくそうな印象さえ受ける。
全く予想だにしていなかった楽器の登場に、動揺と困惑が隠し切れない。
もっとこう、トライアングルとかタンバリンだとか。「私にもできそうな楽器」が選ばれるものだとばかり思っていた。
まさかの弦楽器。私にできるとは到底思えないのだけれど……。
しかし、ディアナ殿下の表情を見る限り。この選択に確信を持っているご様子。
戸惑う私を安心させるためか、もう一度笑いかけてくださった。
「大丈夫ですわ、一緒にやってみましょう。
そうですわね……まずは少々、わたくしにお付き合いいただけませんこと?」
◇◇◇
今私は手ぶらのまま、ピアノの丸椅子に腰掛けるディアナ殿下と相対していた。
ヴィオラはひとまず、豪奢な台の上に置かれている。
「少し確かめたいですわ」と、私に聞かせるでもなく、小さく呟いたのが耳に届いた。
殿下は慣れた所作でピアノの音を軽く調え、私に好きな場所で立っているようご指示を出された。
(た……確かめるって何を?)
何が何やらよくわからないまま、とりあえず指示通りに立ち尽くす。
音楽的才能に自信がないばかりに、居心地の悪さを感じさせるこの空気、そしてこの位置取りが、なぜだかどこか懐かしくもあった。
その理由にはすぐ思い至る。
別室にクラス一同が待機させられ、出席番号順に呼び出されては、一人ずつ指定曲を歌わせられる。あるいは、リコーダーで演奏させられる……前世で経験した、音楽実技のテストの光景を彷彿とさせていたのだ。
私は前世から、つくづく何も変わってはいない。
この居心地の悪さが、逆に懐古的な安心感さえ感じさせた。
自分への乾いた笑いが内心に響く。
と言うか、確かめるって本当に何を?
「吉川さんは……リコーダーもちょっと怪しいわね……」と小学校の担任の先生にまで悲しい顔で言わしめた、私の実力は伊達ではない。
何を確かめたところで、「壊滅的」から評価は揺らぎようがないのに。
先程は柔らかに笑ってくださった殿下を、今度こそ呆れさせてしまうのではないか。
……そんな一抹の不安もよぎる。
そのうち、準備は整ったようだ。
「それじゃあ、わたくしが今から弾く音を聴いていらして?」との殿下のお言葉に、「は、はい!」と威勢だけは良い返答をする。
あれこれ考えていても仕方がない。
現実に引き戻されたのを境に、身体に気合いを入れた。
ポーン……
静かに余韻を残す音が響く。
おそらく、「この音は何?」と訊かれるためのものだろうと予測できるからこそ、大真面目に耳を澄まし、真剣に考えていたのだが……
それを聴いて私が思うことは、「綺麗な音色だな」という、ただの感想だった。
音の響きが美しいな、とは感じるけれど、果たしてそれが何の音なのかはさっぱりである。
どうしたものか。何を訊かれても答えようがないぞ……。
嫌な緊張を感じながら、ただ殿下の次のお言葉を待つことしかできなかった。
「では、次に参りますわね」
「……え?」
ポーン……。再びピアノが一音だけ弾かれる。
次の行程にすぐ進むとは思ってもみなかったため、少し驚き反応が遅れる。
「さて。ルシア様。この音と、先程の音。どちらの方が高いですかしら?」
「あ……ええと」
私の戸惑った反応を咎めることはせず、殿下は先程の音と、今の音を間隔を開けてもう一度ずつ弾いてくださった。
再度聴いたら、違いがわかる。
「今の、後から弾かれた音の方が高い……です」
「……あら」
あ……あら? 「あら」って何?
少しばかり、殿下の呟きと共に、海色の瞳が丸くなったのが一瞬目に映る。
余程とんでもない間違いをしたのだろうか?
よもや一オクターブ以上も低い音が鳴らされたにも関わらず、それを「高い」と抜かしたとか……?
それとも質問の意図自体を間違えていた? 音楽ができる方、あるいは貴族ならばわかって当然の、別の意味があったのか?
ぐるぐると巡る考えに、自分一人では答えが出せない。
ディアナ殿下はと言えば、「もう一度よろしくて?」となぜか輝く表情で私に問いかけてきていた。
結局、その真意を問うことはできず、また先程と同じことが行われた。
「この音をまず聴いてくださいまし」
全神経を集中させ、懸命に聞き取る。相変わらず何の音かはわからないけれど。
「今の音を覚えていらして?」とのお言葉に、目を閉じたまま強く頷き返す。
「では、次ですわ」
……続けて、「違う」ということしかわからない音が鳴らされる。
「これは低い? それとも高い?」
「今の方が……低いです」
先程はこれで終わったが、続いて「それでは、さっき『覚えて』と言った音を思い出して。その音と、」
ポン、とあえて短く弾かれた別の音。
覚えていて、と仰ったのは、あれを基準の音にするということだったようだ。
「……今の音は、どちらが高いですかしら?」
「さ、先程の音……です」
今度の音は、基準の音よりも、今さっき鳴らされたばかりの音よりも、だいぶ低く聴こえた。
考えても答えは出ない以上、ありのままを答えることしか私にはできない。
そしてこの質問は、数回にわたって繰り返されたーー。
「お疲れ様」
にこやかな表情で労いのお言葉をかけてくださるディアナ殿下。
それに曖昧な笑顔で応対する。
……結局、今の行為には何の意味があったんだろう?
その矢先、疑問を文章として思い浮かべるよりも前。「驚く」という感情も、あとから。
殿下は私の両手を、その白く美しい手でぎゅっと包んで。日光に照らされる海面のような、キラキラしたお顔で声を張った。
「素晴らしいですわ!
貴女、芽が出ないなどと仰っていましたけれど……全問正解でしたのよ? 貴女にはちゃんと、人並み以上のご才能がおありでしてよ」
「……え?」
予想もしていなかった言葉に耳を疑う。
それが現実とわかっても、目を白黒させるばかりだった。
今しがた行っていたのは、音程を把握できるかどうかの簡単なテストだったらしい。
基準音よりも、高いか低いか。
本当に音の違いがわからない人であれば、明らかに違う音を鳴らしても、全く音域の差を理解できないそうだ。
私の話から、ある程度の認識のズレがあるだろうことを承知で、それを矯正していくところから始めようとしていたと言う。
それを私は、全て当ててみせた。
つまり音程の「違い」をきちんと認識できているということ。
殿下のお言葉を、あえて鵜呑みにするならば。
私は思っていたほど音痴でも、センスがないわけでも……決してないらしい。
「もっと自信をお持ちになって?
今まで試してみた楽器が、たまたま貴女には合わなかっただけのお話ですわ」
私は所詮、上級者の方々には決して届かない地点にいる。
今やってみせたことなど、できる方からしてみれば当然の範疇なのだろう。
しかし私には、殿下のお言葉が何よりも温かく、優しく感じられて。
目の前の御方への尊敬、敬愛の思いは、より強まるばかりでいた。
ふと思い出されるのは、乙女ゲームにおけるこの方の姿。
当初は警戒していたけれど、「気に入るか否か」で人を差別するような方かもしれないという危惧は、どうやら端から間違っていたらしい。
ルシア・エル=アシュリーが、本当にどうしようもない人間であったということ。
話はそれに尽きていたようだ。
……このお優しい方にあんな冷たい瞳で睨まれる、「『エル』の方のルシア」。
いったいどれだけ目に余る、ろくでもない存在だったんだろうか……。
おそらく私に「音に慣れる」段階を踏ませてくれる目的もあったのだろう。
現に今、うっすらあった抵抗感は一切なくなっている。
それに留まらず、思わぬ褒め言葉までいただき、調子に乗りやすい私の気分は、とうに有頂天に達していた。
「それじゃあ、そろそろヴィオラを弾いてみましょうか。
大丈夫、貴女にきっとぴったりの楽器ですわ!」
お優しいこの方の、きっとお世辞も最大限に込められているはずの言葉に対しても。
先程までは考えられなかった確かな自信を感じ取りながら、力強く頷き返してみせていた。
◇◇◇
「では、まずは構えてご覧になって?」
程よい緊張感はあるものの、殿下の優しい声色に逆らおうとする思いや、苦しさのある緊迫感は一切感じなかった。
「は、はい」と短く返事をして、バイオリンの構えを取る。
……ヴィオラの場合の正解を知らないのだが、これで果たして合っているのか。
当然のことだが、バイオリンよりも一回り大きいこの楽器は、よりずっしりとした重量がある。
支えているのがなかなかキツい。
しかしこれは、ガーベラ宮の資産。
おそらく、私の想定額なんて目ではないほどの高級品だ。
取り落としたが最後、きっと前世の給料半年分くらいの借金が発生するだろう。
眼力強く、顎に少々痛さを感じながら、力を込めて持ち支える。
「正しく持てていらっしゃいますわね。
ふふ、でも肩の力が入りすぎですかしら。
ほら、リラックスして。そうですわ、力を抜いて、肩は台として。顎に引っ掛けるイメージですわね」
そっと触れられながら、姿勢を矯正される。
身を委ね、言われた通りに構えてみると……確かに随分楽になった気がした。
自然体で楽器を支えられている。
「逆に、弦を持つ手の力が弱いですわね。もう少しぐっと力を込めても平気ですのよ。
……そう、手のひらというより、指先と指の腹に力を集中させて」
こちらも指示通り、力の具合を調節してみる。
……そう言えば、前世でも今世でも似たような注意を受けたっけ。
リコーダーから変な音がするのも、指先が恐る恐るな感じで、きちんと押さえられていないからだ……と。
そうか、入れるべき部分に力を入れていなかったからこそ、まともに音が出なかったんだな。
殿下の仰るままに姿勢を整えていけば、形式通りにしていたつもりの自分の体勢が、相当ぎこちないものであったことに気付く。
だが今は、肩の重みが多少気になる程度。
「顎で押さえ、肩で挟まない」
これを意識するだけで、楽器が身体になじんでゆく感覚さえある。
「弦の押さえ方はおわかりですかしら? ……そう! では、ゆっくり弓を弾いてみましょう」
その指示を耳に入れた直後、ごく自然な手つきで弓を握る手が動いていた。
〜♪
「あ!! お、音が出た……っ!」
「やりましたわね!」
信じられない……!
楽器を生まれて初めて、演奏することができた!
とても綺麗な音色が、自分の手中から響いたのだ。
感動のあまり、思わず殿下とまじまじと視線を合わせてしまったけれど。
殿下は私と対等な目線で優美に微笑み返し、共に手を取り合って喜んでくださった。
それにしても……。
「わ、私、とても信じられない思いでおります。殿下のご指導の成果はさることながら、バイオリンの時は音がまともに出てもくれませんでした」
そう。姿勢はある程度治ったにしても、私はドの付く楽器初心者。
お手本のような完全な弾き方で臨んだとは、とても言えないだろう。
それなのに、「音」というものの出しやすさが格段に違っていた。
今演奏したのが仮にバイオリンだったなら、せいぜいガーゴイルのいびきからガラスを引っかく音に進化したくらいで終わっていた気がする。
「いいえ、わたくしは何もしていませんのよ」
◇◇◇
ディアナ殿下曰く、「ヴィオラは音が出しやすい楽器なんですの」とのこと。
バイオリンは大きく、強く。
なんとなく私の中にもイメージがあったが、バイオリンは大きな弓幅で弾く楽器。強めの圧力を上手にかけつつ、弦を擦る感覚で弾くらしいのだ。
対して、ヴィオラは弦を擦る感覚では弾けない。
むしろ弓幅は狭く、弱い力で弾く楽器なのだそうだ。弓を巧みに操ることよりも、弦を響かせることが重要だとか。
見た目はよく似た楽器でも、奏法は全く異なるらしかった。
それを聞いて納得した。
だからこそ、私のどこか無意識に楽器を怖がっている、恐る恐るの手つきであっても、綺麗に音が出てくれたのだ。
もちろん、完璧に弾きこなそうとするには、厳しい鍛錬と練習量が必須であることには間違いない。
他の楽器と比較して楽だということは決してなく、むしろ通向けの、楽団において重要な役割を果たす楽器らしい。
似ているようで、弾き方がわずかに違う二つの楽器。
弓に重みを乗せてゆく感覚で弾けるので、バイオリンが合わなかったのなら、ヴィオラはむしろ肌によく合うのでは。
それに何もプロを目指そうとするわけではないなら、「音を楽しむ」には最適ではないだろうか、とご判断されたのだとか。
事実私は初めて奏でた音の響き、美しい音色にいたく感激していた。
……長いこと見つからずにいた、『私の楽器』。
それが今、ついに見つけられたのかもしれない……!
「あ……ありがとうございます、殿下……!」
思わず感極まる。
人の声にも似た、深く響く味わいある音色。それが私が弾いたものであると、未だ信じがたい。
私は今初めて音楽、そして楽器を楽しいと感じられていた。
殿下のお眼鏡に狂いはなかった。
他者の才をも見抜く眼をお持ちなのか。
「ふふ、良かったですわ。
それとね、理由はもう一つありましたの」
――殿下は以前の私との会話を、全て覚えていてくださったようだ。
「いつも屋敷にこもりきりで、寝ていることが一番好きなんです」という、あの全く面白味も実りもなかった会話を。
その会話から真っ先に思い付いた、私に相応しい楽器。弾き方云々よりも、こちらの理由の方が決め手だったと言う。
「ヴィオラのための独奏曲はね。
とてもとても数が少ないんですの」
□ついに見つかったルシアの楽器、ヴィオラ。今後重要な役割を果たしていきます。




