冬月の微笑
かくしてお姿を現したのは、白銀の地を艶やかに照らす……月の名を冠した、この国の王女。
ディアナ殿下その方であった。
あまりに突然の出来事に、一瞬呆然と固まってしまっていた身体を叱咤し、力を入れる。
意識を取り戻すが早いか、慌てて淑女の礼を取った。
「ひ……久しくお目にかかり光栄です、ディアナ殿下。ご機嫌麗しゅうございます」
……なんとか形にはなっただろうか?
不安が残るものの、拙い私の言葉に対し、殿下は月光のように柔らかに笑んでみせる。
「お会いしとうございましたわ」と、先程のお言葉を優しく繰り返して。
きっと生まれついた時から淑女教育を受けてきたご令嬢たちと比較すれば、私の挨拶など見るからにたどたどしく、無作法なものであるに違いないだろうに。
なんて美しく、そして愛らしい方なんだろう……。
私は「ルシア・エル=アシュリー」として、もっと警戒心を持ってこの方と対峙するべきなのかもしれない。
しかし「ルシア」であるこの「私」は、目の前の美しい姫君に。
やはりただ……好感と敬意しか感じ得なかった。
いや……今はまず、そのことはさておこう。
宮の主の姿がこの場にないのは非常にまずい。
「私も殿下と再びお会いできる日を楽しみにしておりました」と返し微笑む傍らで。心中は穏やかでなく、焦りに冷や汗をかく思いでいた。
ご発言から察するに、目的はリアムではなく私であったのだろう。
リアムから私の来訪予定をお聞きになったのか。あるいは大臣様方かどなたかとの会話の中で、父様……アシュリー男爵の出仕予定をお知りになったのか。
有難いことにも、私に会いに来てくださったというのはきっと事実。
しかしだからと言って、私が直接お相手差し上げて良いものだろうか。
本来ならば、私はこの方と気軽に言葉を交わせる立場ではないのだ。
例え私との話を望まれておられたとしても……前回と同様にリアムを間に挟み、あくまで私はたまたまその場にいただけのおまけ。用があったのは彼一人である、という体を取るべきなのでは……?
そのうえ冷静に考えてみると、私から殿下の宮に参ったのならまだともかく、殿下御自らに私の居所へとご足労いただいている状況だ。
傍から見れば、まるで男爵令嬢が一国の王女を不遜に呼びつけたかのようにも映るだろう。
それから、今最も憂慮すべき問題は。
王女殿下になんのもてなしもせず、あたかもお客様面をしながらおしゃべりを楽しんでいて良いはずがないということ。
ここが我が男爵邸だというのなら、一も二もなく茶請けの用意に走るところだけれど……隣国の王太子のために設えられた王城の一部を、私如きが好きにいじくり回すわけにもいかない。
使用人の皆さんに指示を出すにしても、そもそも私にそんな権限なんてないのだ。
彼女たちはリアムの命令で私をお客様扱いしてくださっているだけであり、よもや私の自由で動いてもらえるなどと、勘違いをしているつもりは毛頭なかった。
どうしよう……? 事態をうまく切り抜ける方法が思い付かない。
やはりリアムがいてくれないことには…………。
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迷っていたのも束の間だった。
ガーベラ宮の使用人さんたちは、すでに指示によらずとも、ディアナ殿下のお紅茶とお茶請けを用意してくれていた。
私が無用な心配をするまでもなかったのだ。
しかも運んで来ていただいたのは、まだお茶が淹れられていない状態の、ティーセット一式という有能ぶり。
私が肩身の狭い思いをせずとも良いように、「使用人に最低限の準備だけをさせ、私自身が殿下のおもてなしをした」という体裁を整えてくださったのだ。
そう。つまり、私が殿下の分を注いで差し上げられるということ。
ちょこまか動き回ることなく、目上の方も立てられる。
一般的な貴族家の実情は知らないけれど、実に令嬢らしいもてなしをすることができたのではないだろうか。
これで心置き無く身を置いていられるというものである。
ガーベラ宮の皆さんには感謝するばかりだ。
ディアナ殿下は、ティーセットを運んで来た使用人の方に「ありがとう」とお礼をおっしゃっていた。
お茶とお茶菓子を差し出した私に対しても、笑顔で「ありがとう、いただきますわね」と言ってくださった。
……本当に「高貴」な方とは、殿下のような方のことを言うのだろうな、と。
私は殿下のお優しさに改めて直接触れ、こちらまで優しい気持ちになるような、心温まる思いを感じていた。
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――――そう言えば。そもそも今更ながら、貴重なお時間を私のために割いてくださる余裕など、おありなのだろうか。
話の流れの中で、ふと抱いた疑問をぶつけてもみた。
社交シーズンのこの季節柄。
時間を持て余している上流階級など、きっと私達家族くらいなもの。
王女たる殿下はただでさえ忙しいはずの公務や勉学の合間を縫って、非常に多くの社交の場に参加しなくてはならないのではないか、と。
しかし拝聴してみると、その疑問は私の知識不足によるもののようだった。
もちろん殿下から指摘されたわけではなく、自分で思い知ったこと。
本格的に社交界に出席してゆくのは、デビュタントを迎えてからなのだそうだ。
私達くらいの年齢だと、時折催されるお茶会や、親同士の付き合いがある家が開催するパーティーに招かれる程度。
どれも通年のイベントであり、この時期だからと言って、特にそういった場が多く設けられるわけではないらしい。
加えて気が付いたが、王族をご招待できる家格を有する貴族家はさほどないだろう。
つまり、後者にあたる……「どこかの家に招待され」パーティーにご出席なさる機会は、むしろ貴族令嬢たちよりも少ないのではないだろうか。
つくづく私は貴族社会に疎いものだ。
貴族らしさなど何も求めては来ず、ありのままの私に懐いてくれるリアムに甘えてばかりいないで……いつか領民の皆に恥をかかせることのないよう、もう少し世間を学んだ方が良いかもしれないな、とあとで考えた。
とは言え。貴族たちがこぞって王都に居を移してきた、楽しい時期の幕開けであることは事実。
ディアナ殿下は近頃、こうして時折王宮に連れられてやって来るお歳の近い令嬢の許を訪れ、会話を楽しんでいらっしゃるのだとか。
先日リアムから私の来訪予定をお聞きになり、恐縮にも今日を楽しみにしてくださっていたそうだ。
私達の同い年で、学園入学後きっと一緒に過ごすことになる、殿下のご友人だというご令嬢の皆様の話もたくさん聴かせていただいた。
お顔もお名前も知らない方ばかりだが、殿下のご様子を見るに、素敵な方たちなのだろうとは察しがつく。
本当にご友人が多くていらっしゃるのだな、とも。
――――でも……何だろう。
今感じた違和感は――――…………。
何かが欠けているような感覚。
愛らしく笑ってみせる殿下のお顔が、一瞬。
なんだか、とても悲しそうに見えた気がした。
でも、それはほんの一瞬の出来事。
違和感など、私の勘違いに過ぎないのかもしれない。
殿下は今こうして、心から楽しくお話しされていらっしゃるじゃないか。
ディアナ殿下の輝く笑顔。まだまだ会話は続いている。
…………すぐに私は、それを考えるのをやめた。
それからも、ディアナ殿下とのお話は弾むばかりだった。
会話の端を拾い、上手に繋ぎ、話題を振ってくれる。
言葉に詰まってしまうことが一切ない。
話題も私が興味を持ちそうなことばかり。あまり私に見識がないと見るや、気が付けば自然に次の話へと移行しているのだ。
お話ししていて、本当に楽しい。
リアムがなかなか戻って来ないのが少々気がかりだ。
だが、ただ待つことしかできない。
なんとなく政経学というものは、王族や諸侯貴族の方々必修の学術のような印象を受けた。
先生と一対一ではなく、他の高位貴族も共に受け、ディベートやグループワークで授業を進めていくような。
予定の枠を押していても気付かぬほどの、侃侃諤諤の討論が行われているのではないだろうか。
だとすれば、余計に私に口出しできる筋合いはない。
きっとリアムのためになる大事な学習なのだろうし、思う存分楽しんでいてほしいものだ。
あとで私風情にもわかるように噛み砕いて、可愛らしい天使の微笑みで今日の話をしてくれたのならば、私はそれで大満足である。
殿下は、その予定を把握していたわけではないご様子だった。
普通にリアムがここにいるつもりで来られたらしい。
そう言えばディアナ殿下には、その授業予定は組み込まれていないのだろうか。
このお方は何にも優れ、何をも華麗にこなす方だというのを知っているので、ここにいらっしゃり私と過ごしていることを、わずかに不思議に感じた。
まあ……「王族の方が受けていそうな授業」「高度な知識学術っぽい」というのも、私の勝手な予想にしか過ぎない。
単にお好みでなく授業を取っていない可能性や、全くの見当外れの疑問である可能性も大いに有り得るため、それを口に出すことはなかった。
……やはり現在、なおもリアムは戻る気配を見せない。
この調子だと、彼と会えるその時にはティーポットがすでに空っぽになっていそうだ。
楽しい時間は進みが早く、もうあれから数十分が経っていた。
こんなことなら、何か本の一冊でも持参して来れば良かったな。
きっと殿下との話題の種になったに違いない。
そんなことがぼんやり思い浮かんだ時。
とても良いことを思い付いた、と言わんばかりのお顔で。
ディアナ殿下のお口から衝撃の一言が放たれたのだった。
「……そうですわ! 貴女、楽器は何がお得意ですかしら?
リアムが帰って来るまで、わたくしと調べ合わせをいたしませんこと?」
「………………え!!?」
■ルシア、絶体絶命の危機――――!




