日輪が映す二つの空模様
「お嬢様、手紙の末尾の『×××』はですね。相当親しい人相手にしか書かないものです。
この意味。――――『chu,chu,chu』の擬音です。
キスマークの意味ですよ!」
「………………………へ?」
確かに聞き取ったはずの情報を、耳は脳へと伝達処理をしてくれない。
突然の爆弾発言。暫し固まり、水を打つような沈黙が続く。
静寂が支配する車内に、独り楽しそうに笑うジニーの表情だけが浮いて見えた。
脳がその言葉を理解した瞬間。ボンッと音を立てて、顔中に熱が集まってくるのがわかる。
「え……いやいや、いや……! う……嘘でしょ? ま、またそんな冗談言って…………!」
ただ状況を何か否定しようと、意味を為さない言葉を発するのがやっと。
紅潮が止まらない。こんな意味だとわかっていれば、安易に質問することはなかったのに……!
(リアム……! あなたいったい何を考えてるの……!)
聡明で気遣いに長けたあの子のことだ。
全く意味をわからずにやっているわけではないだろう。
元々私なんかよりも色々な知識を持っていそうだし、自分が知らないことも入念に下調べして行動しているように思える。
……おそらく、あの子は。
友好と憧れの違いを、まだよく理解していないだけ。
今は周囲に歳の近い女の子が少ないため、仲が良い私を姉のように慕う気持ちを、恋心と誤解しているのだろう。
きっと他意も裏もない、純粋な触れ合いのはずで。
いつか素敵な女性が彼の前に現れた時、良い思い出として笑い話になるのであろう、一時の戯れに過ぎない。
でもこんなの……私の方が勘違いしてしまいそうになる……!
これから先、どんな顔をして手紙を受け取れば良いの…………!
いや待てよ、なんとか気持ちを落ち着けないと……。
勘違いして痛い目を見るのは、間違いなく私だ。
これは私が想像しているような恋愛感情なんかではないはずだ。あの子にそんな気なんて、さらさらないのだから。
次に会った時に変な態度を取ってしまっては、無邪気なリアムはきっと傷付いてしまう。
両手で真っ赤になった顔を覆い、深呼吸して気持ちを落ち着かせようと努めるが、直後大して意味がないことにも気付く。
そんな私を見つめるジニー。その優しく生ぬるい視線が、とても居心地悪く感じた。
こういったことに耐性が無さすぎて、顔の火照りは留まるところを知らなかった。
指の間から垣間見える微笑ましそうなジニーの目が辛くて、顔を隠しつつ、もう目をつぶって荒い動悸に耐えていた。
…………それからどれくらい経っただろうか。
「前世から現在まで、過去の悲しかった出来事をひたすら回想する」という非常に良い方法を思いついたため、途中から私の脳内では、過去の悲しいロードムービーが延々と放映されていた。
悲しい気持ちでいっぱいになった頃、ようやく動悸と火照りが落ち着いて。
「ふー……」とため息をつきながら、手を離し顔を上げる。
するとそこには……白目を剥きながら時折不穏に痙攣する、父様の姿があった――――…………。
「ちょ……いや父様ちょっと! しっかりして!!」
「え? どうしたんです…………ひっ!?」
私の鬼気迫る叫びに思わず目を遣ったジニーから、とても主人に向けるものとは思えない悲鳴が上がる。
全部……全部私のせいだ……!
いつから聞いていたのかはわからないけれど、この調子だとよりによって、肝心なところばかり聞こえていたようだ……!
悠長に辛い思い出に浸っている場合ではなかった。
愛娘の色付いた話。動揺する様子。決して父に見せることのない紅潮する顔……。
どれもこれも、劇薬を浴びせたも同然! 父様にはあまりに刺激が強すぎる……!
死ぬほど溺愛される身として。仕事や外出で日々すり減り削られてゆく、心の拠り所である立場として。
私には自覚ある行動が求められていたはずなのに…………!
「違う……これは違う現実じゃない…………。私はまだ夢の中にいるんだ……。リアムは純真な子なんだ。ルシアに……ルシアにそんな……私のルシアに…………。そうだろう? 私のルシアが離れていくなど有り得ない! あってはならない! そうだ、これはきっと悪い夢…………。非現実! きっと全部が夢で」
痙攣する口から紡がれる言葉が怖すぎる。
「父様! 父様帰って来て! ここが現実よ! 大丈夫、私が悪かったから! 私が父様の元からいなくなるわけないじゃない、ね!? 父様、そっちに行っちゃダメ!」
「お……お嬢様……。あんまり揺すらない方が良いんじゃ……旦那様なんかもう色々とヤバそうですよ」
「う……ああ…………うあぁ」
全力を尽くして両肩を揺さぶる私。主人一家の異常事態に語彙力を失うジニー。行ってはいけないゾーンの狭間を行き来する父様(※男爵であり領主)。
先程まで優雅で快適な空間であったはずの車内は、言い知れぬ混沌の渦に陥っていた。
「なになに? 何騒いでんスか? 何が起こってんの?」と車外のジルから興味津々の声がかかったが、「運転に集中して! 帰ったら話すから!」とだけ告げて揺さぶりに執心する。
今ただでさえ「問題A」で手いっぱいなのに、この上さらに「問題B」を持ち込まないでほしい。
やがて私の決死の頑張りが功を奏し、父の茶色い瞳が徐々に覗き始めた。脈拍も安定してきた模様だ。
「よし! これで声が届く状態になったはずよ! あとはなんとかしてこちらに引き戻す!」
「あたし全然状況に付いてけない…………。 す、少しお休みになれば旦那様も元気になられるんじゃ?」
「甘いわねジニー……。そうであってほしいけれど、父様が負った心の傷は深いわ。このまま放っておけば、父様の魂は……精神世界を永久に彷徨うことになる!」
「今これそんな深刻な事態なんですか!?」
そこからは、緊迫した状況を共有できたジニーも戦線に加わってくれた。
今引き戻せなければ、男爵領の今後にも関わってくる死活問題だ。
「父様しっかり! 帰ったら美人妻が……母様が待ってるわよ! よっ色男! モテモテ大商人!
今日は久々におやすみのキスもしてあげるから!」
「旦那様頑張って帰って来てください! ほら、お嬢様ですよ!
お嬢様ったら今日もこんなに可愛い! 目を開けてくださらないとお嬢様が見られませんよ!」
――――本来、きっと今頃はお別れの余韻に浸っていたはずが。
秋の涼やかな昼下がりは、予期せぬ大騒動と化してしまった。
本当は馬車で今日のリアムからの贈り物を開けてみる予定だったが、とどめを刺しかねないのでやめた。
そう言えば彼も「領地で開けた方が良い」と言っていたっけ。こんな事態を予測しての発言ではなかったと思うけれど…………。
私達アシュリー家に貴族らしい閑静で落ち着きある一時など、決して訪れはしないのかもしれない。
必死の叫びは……夕闇の橙色が風に波打つススキを鮮やかに照らす、芽吹丘の頂に馬車が差し掛かる一刻まで続いたのだった――――…………。
―――――――――――――――――――――
…………今日はあまりあの子との時間を満喫できなかったな。
でも、とても楽しい一日だった。
ただあの子の顔を見られただけで、温もりに触れられただけで。
こんなにも幸せな気持ちになれるのだから。
淡く透明に照っていた太陽が、やがて橙に自らを染める頃。
今日のもう一人のお客様は、ボクの額にキスを落として、カトレア宮へと帰って行った。
彼女はつい先刻まで「読み聞かせ」と称して、自分のお気に入りの本をボクに読んでくれていた。
正直な話、それを心から楽しめるほど。見た目ほどボクは幼くはないのだけれど。
それに……こういう行為をしたいのならば、ボクを愛でるよりも、彼女の本当の弟にした方が良いのではないか、とも思うのだけれど。
しかし、ボクが口を挟むべきことではないと感じるから。
エレーネ特有の表現や考え方を、講義のような堅苦しさなく知れる機会でもあるから。
またエレーネの王女さまにとって、ボクが弟代わりでいることが。新たな道を開拓する、「友好留学中のヴァーノン王太子」の役割のひとつであるようにも思えるから。
今日もボクは、可愛い幼い弟であり続けた。
そして今日は、彼女がいてくれたおかげで。
ボクと二人でいる時には見られない、あの子の新しい笑顔を知ることができた。
多少付き合うくらいはなんのことも無い。
「あの子のためにボクができること」……そう思って引き合わせたら、ボクなんて忘れてしまうくらいに仲良くなってしまったのは、少々計算外だったな。
でも、あの子が喜んでくれたから。ボクが初めて何かをしてあげられたと思うから。
思う存分甘えられなかった寂しさは、やがてあの子の顔ばかりが浮かぶ楽しい回想の中で、相殺されてしまっていた。
――――現代の「海の王女さま」のことを考えていたはずなのに、いつの間にかボクだけの「海の王女さま」のことを考えている自分に、静かな笑いが込み上げてくる。
結局のところ、やはりボクの世界はあの子でいっぱいらしい。
ボクだけのお姫さま。
結構したたかに手を回し、色々な土壌作りをしているボクなんかよりも、ずっと無垢で愛らしい姫君。
そろそろ、綺麗な晩秋の澄んだ空気を浴びながら。
紅に舞い散る森の領地に到着した頃だろうか。
いつか行ってみたいな。今日の贈り物は気に入ってくれるかな。
ああ、早く次が来ないかな…………。
もう頭の中は、ルシアちゃんのことだけで占められていた。
――――そんな時だった。
渡り廊下の鈴が、シャンと神聖な音を立てて鳴る。
忘れ物はないことを、つい先程複数人のメイドと一緒に確認した。
よって、彼女である可能性は極めて低い。
おそらく来訪者は……片割れの彼だ。
…………よく似た存在でありながら、対極の存在。
なぜか彼らはタイミングをずらしたように、ボクの許を訪ねてくれるのだ。決して鉢合わせることはない。
そして、想像は的中していたようで。
「……リアム、邪魔をする」
そう言って現れたのは。
顎元まで伸びる、梳かれた金糸の髪。
線も声も細く、まるで透き通る生きた人形細工。
海底から陽の照る海面を見上げるような、輝く海の瞳を持つ彼の姉君とは極めて対照的に。深海に沈みゆく闇を覗くような、昏く深い青の瞳。
留学前は眉唾物と感じていたものの、そんな背信者にさえ真に神の血筋と思わせる、彫刻の如し形姿。
この国の王子、アーロン・フローレンスだった。
「アーロンくん、いらっしゃい! 今お茶を出させるから」
入室に伴っていた使用人に目配せすると、彼女はすぐさま指示に従ってくれようとした。
しかし彼は、「いや……大丈夫だ」と手で制止を示す。
聞くと、すぐに宮に戻らなくてはならない用事があるらしかった。
その”用事”とはおそらく、「最も高貴なる貴族」の来訪。他国の王族よりも格が高いエレーネ王族に、かつて選ばれし者。
実質ボクと同等格の、公爵家の令息。
――――彼の親友が来ているのだろう。この時間の来訪ということは、また王宮へ泊まりにやって来たのだろうか。
「元気にしていたか?」と声をかけられ、そう言えば久しぶりに会ったことに気付く。
彼は知識を吸収することが好きらしく……王族として最低限学ぶべき科目だけでなく、自らあらゆる講義を日々履修している。
ボクと立場も歳もそう変わらないのにも関わらず、相当な多忙の身。
片割れの王女さまほど、顔を合わせる機会があまりないのだ。
ヴァーノンにいた頃は……何かにつけてボクを崇め奉る人々が周りを囲っていて。互いに尊敬し合い、高め合えるような人間はいなかったと思える。
反面、彼はボクよりも余程優秀な人物で。
にも関わらず、全く対等な立場としてボクのことを認めてくれている。
姉のように甘やかしてくれるディアナちゃんも、もちろん大好きなのだが。
彼は一人の人間として。また一人の王子として、心から尊敬している人物だった。
こうして時間の合間を縫って、ボクの様子を見に来てくれることに感謝してもいる。
「……なんだか今日は、嬉しそうに見えるな」
何かあったのかと、なんの気なしに訊かれ。
慌てて辺りを見渡す。咄嗟の判断だった。
……彼の片割れがいた痕跡があってはまずい。
結果何も見つからず、思わず安堵の息を吐く。
目の前の人物は、彼女のこととなると、決まって辛そうな顔を見せる。
それがなぜかは知らない。だからこそ、無意味に彼を悲しませてしまうような真似はしたくはなかった。
……ディアナちゃんの来訪については、その一切を伏せておこうと決めた。
彼女にしてもらったことも色々あるのだが、ひた隠しにしていた方が絶対に良い。
エレーネの姫についての話題を除いてしまうならば、その問への回答はただひとつ。
そう。
……ボクのお姫さまについてだけだ。
「ふふ、今日はね! 1ヶ月ぶりにボクの大切な友達に会えたんだよ!」
■次話にて、リアム視点とアーロン王子視点。
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