全てのきっかけのあの日
――普段は一人で使用しているベッド。
隣で身動きを取る何者かの気配に、深い睡眠状態にあった脳が混乱する。
……えっと……昨夜は大変なことがあったんだっけ。そうだ、それでリアムと一緒に寝ていたんだ。ああ、今起き上がったのもリアムか。
うん……じゃあ大丈夫だ……。
「ルシアちゃん、朝だよ。おはよう!」
朦朧とした頭でようやくそこまで思い至り、再び意識を沈めようと……したところで、眩い笑顔で挨拶され、現実に留め置かれた。
ああ……天使が覗き込んでいる……。ここってどこだっけ、天国……?
え? 待てよ、朝?
徐々に覚醒した重い身体を起こし、時間を確認すれば、もうすぐ朝二の鐘が鳴る時間。
朝一の鐘にも、窓から差し込む朝日の眩しさにも一切気付かず、今の今まで眠りこけていたのか。
リアム抱き枕(ゆたんぽタイプ)の心地があまりにも良すぎたとはいえ、遥かに疲れきっていたはずのリアムより爆睡していた自分に愕然とした。
しばらくねぼけた頭でぼんやり考えていたが、愕然としている場合でもないことに気付く。
おかげさまでぐっすり眠った自分は疲労感ゼロだけど、リアムの疲れは取れたのだろうか。
というか、そう言えば朝ごはんは? 何が大丈夫なんだよ! リアムにだけは食べさせなくては!
「リアム……おはよう。起こしてくれてありがとうね。よく眠れた? 朝ごはんは食べた? まさか、私が起きるまで待っていたの?」
「おはようルシアちゃん! きのうはありがとう。だいじょうぶ、ボクも今起きたところだから」
いくつか質問を繰り返し、顔色を観察したが、無理をしている様子はなく胸をなでおろす。
それにしても、寝起きからこの笑顔と受け答えである。
「今来たばかりだから待ってないよ」的な王子様感を感じさせる。
起き出した後、すでに身支度を整えてから私に声を掛けてくれたようだ。
半開きの目、クセ毛に更に寝癖がついた私とは大違いである。年上としてどころか、女子力でも負けている気がした。
その後、寝間着から室内着に着替え、髪を整えるまで少し待ってもらい、リアムの手を引いてキッチンへ向かった。
母様は店の方に出ている可能性もあるが、朝食を作って置いてくれているだろう。
その道すがら、「ごはん、持ってきてもらうんじゃなくて、食べに行くんだね」と呟いたのを私は聞き逃さなかった。
あれか。普段はメイドさんがお部屋に運んできてくれたりするような暮らしということ?
くっ……やはり金持ちか……!
キッチンに着くと、そこには意外にも両親が揃っていた。朝食は今しがた済ませたようで、母は食べ終えた食器を洗っているところだった。
どうやらお店は、番頭のジョセフに一任してきたらしい。
私達二人に話がしたくて待っていたのだそうだ。
おはようの挨拶を互いに交わすと、リアムは自発的に「昨日はありがとう、ぐっすり眠れたよ」と両親に笑顔でお礼を言っていた。
やっぱり、相当しっかりしている。なんて良い子なのか。
リアムは本来、物怖じしない利発な子なのだろう。
昨日はそれを打ち消すだけの思いをしたのだ。一人で寒い真っ暗闇の中にいたら、誰だって怖い。
私達一家は、少しでもその恐怖を癒す手伝いが出来ただろうか?
……彼の様子を見るに、どうやらその心配は不要なようだった。
その後すっかり定位置となった私の膝にリアムを乗せ、母様が用意してくれたホットサンドを二人で頬張りながら。母様も今初めて聞くという父様の報告を聴くことにした。
「実はね。もう今日明日にはお迎えが来てくれるらしいんだ」
「……え!? ええぇ!? い……いくらなんでも早すぎじゃない?」
きっと良い報告だと信じていた。でも正直、ここまでの良い話とは思っていなかった。母様に至っては驚く声も出ない様子だ。
いったい何がどうしてそんな急展開になったのか?
「私もまだ少し驚いているんだ。最初は昨日伝えた通り、城門の兵士さんに報告をするだけのつもりだったんだよ。今迷子を保護している、こういう事情があるから、夜に街を駆け回ることを許してもらいたいと。でもそのままお城の内部に連れて行かれて、なんと貴族様と将校さんが直接お話を聴いてくださってね」
まず感じたのは、夢か妄想の話を聞いているようだということ。私も母も終始目を白黒させて聞き入っていた。
大きな争い事もなく、平和を体現した小国であるエレーネ王国。王家や王宮を守護する王国騎士団でさえも、いつも柔和で穏やかな雰囲気だ。
しかし、昨夜はなぜか様子が違っていたという。
門番の人数も目に見えて多く、辺り一帯が張り詰めた空気。騎士団と軍部の方々だけでなく、宮廷貴族様たちさえ必死な形相でそこかしこを疾走している有様。
何が起こっているのかはわからずとも、異常事態、厳戒態勢であることが明らかだったとか。
「不思議なお話ね。何か事件があったとも聞かないし……」
私も母様に完全同意だった。この平和な王国で、これまでそんな警戒をしていたためしがない。
喧嘩があった、泥棒が出たという話もないしなあ。不思議としか言いようがない。
家族三人が異口同音に呟きあった。
しばらくして「何かとても大切な、国や王家にとって貴重なものだとかを捜されていたりしたのかしら。それにしても真夜中に、しかも貴族様すら一緒になった混乱だなんて、やっぱり不思議だけれど……」と母様が呟いた一言も、ただ疑問を繰り返すだけでしかなかった。
「そうだな。でも思うんだ。むしろ混乱していたからこそ、いきなり高位の方に取り次いでもらえたんだと。いつも通りだったなら、そんなことはまず起こり得ないだろう?」
「そうね、その通りだわ。いつもの平和なご様子だったなら、門番さんに話を聞いていただいて、街に向かう許可をいただいて。それで終わりだったでしょうしね。そうして解決できた保証もないわ。何日も何ヶ月も、リアムに悲しい思いをさせてしまっていたかもしれないものね」
「ああ。お会いしたのは、軍服にたくさんの勲章がついた将校さんと、きっと諸侯貴族様なんだろう、気品ある老紳士だったよ。そんな殿上人にお目にかかれたうえ、こちらですぐに対応すると確約してくださったんだ。しかも『此度のご協力、誠に感謝申し上げる』とお礼まで言っていただけてね……」
今も何が何やら、夢を見ている気持ちだと感嘆し、昨夜の出来事を噛み締める父。
実際話が終わった後には、部下と思しき人々にすぐさま伝達がなされており、安心して帰路についたそうだ。
私とリアムがぐっすり眠っていた日付の変わる頃には、すでに帰宅していたらしい。
「確かにそんな機会、きっとこの先一生訪れないわね……。それになんて真摯で、民思いのお心配りなのかしら……」
「そうなんだ。何から何まで、本当に幸運に恵まれたと思う。きっと続きだったんだ。リアムを見つけてあげられた幸運が、一晩ずっと続いていたんだよ」
両親の呟きに頷くばかりだ。まさにその通りだと、そばにいるリアムを見て思う。
今こうして元気にしてくれていること、私達が仲良くなれたことは、昨日の父様との出会い。その幸運と奇跡の延長だったんだ。
それにしても、見るからに高位貴族な老紳士かあ。
きっと渋く、それでいて優美な、素敵な方だったんだろうな。
たまーに商会にお買い物にいらっしゃる、非爵位貴族様あたりをお見かけすることはある。
でも父様の言うように諸侯貴族様であったなら、本来一生遠目に見ることもできないような御方だ。
そんな雲の上の方とお話しして、お礼まで言われただなんて……。
「うらやましいわ。ねー? リアム」
特に同意を求めたかったわけではないが、抱きかかえたリアムの顔を覗き込み、今の考えを話しながら問いかけてみる。
でも、「んー? うん、そうだねー」とどこか興味のなさげな返答。
(ふふ。難しいお話ばかりで飽きちゃったのかしら?)
先程からずっとお膝の上で大人しくしていたし、眠くなってしまったのかもしれない。その根拠というべきか、ぬいぐるみのように抱きしめつつ頭をなでると、こそばゆそうに目を細めていた。
「長くなってすまないね、リアム。というわけで、もうすぐにでもお迎えが来てくれるはずなんだ」
「少しの時間ではあるけれど……それまで、うちでゆっくりしてね」
そうしたリアムの様子に気付いたのか、両親は一旦会話を中断し本題を再開する。
リアムは私と対面の姿勢を父のいる方向に向き変え、私達全員と視線を合わせ、キラキラの瞳でお礼を言ってくれた。
「アシュリーさん……エイミーさん、ルシアちゃん。ホントにありがとう。見つけてくれたのがアシュリーさんでよかった」
「いやいや。こちらこそありがとう、リアム。私達家族は引きこもりがちでね、友人もあまりいないんだ。娘と仲良くなれたようで何よりだ。娘とたくさん遊んでやってくれ」
そして見せてくれたあの花の綻ぶ笑顔に、こちらの心も一様に綻んだのだった。
父様の報告は想定以上の良い話だったけど、ちょっぴり残念でもある。
たっぷりあるかと思っていた時間は、案外リミットが近そうだ。
そのため朝食の後は、すぐにリアムを遊びに誘った。
リアムが望むなら公園や広場に連れて行くことも考えたが、読書をして我が家で過ごしたいと言う。
引きこもりにとって「外で遊ぶ」という発想は基本ない。ありがたく提案に乗り、アシュリー家自慢の書斎で過ごすことにした。
……正直この時点では、私に気を遣ってくれたのかと考えていた。
しかし意外にも色々な本に興味津々なリアム。物語だけでなく、経済本や評論書、歴史書や画集に至るまで。
しかも内容をきちんと理解して読んでいるようだった。やはり元々素養と教養がある、非常に賢い子なのだろう。
私を見上げ「ルシアちゃん、これ読んで!」とお願いされるものの、当の私が意味のわからない本もあった。しかしこれほど可愛くおねだりされ、断れるはずもない。
今日はお店には出なくても良いと言われたため、ひたすらリアムに読み聞かせをして過ごすことに決めた。
そんな私達を見て、両親や従業員もまた幸せそうであった。
途中昼食やおやつを挟み、リアムにおやつを全て与えたりしながら、穏やかな時間をほとんど二人きりで過ごしたのだった。
もう少しで日が落ちようとしている夕刻。お店を閉めて従業員の皆を帰した直後のこと。
滅多に鳴ることのない門環鐘がけたたましく音を立て、両親と私は訝しげに顔を見合わせた。
いったい何事か? 父が恐る恐るドアを開け、私と母は後ろから顔を覗かせる。するとそこには、これまでに見たこともない豪奢な馬車が停まっていた。
「大変お待たせいたしまして申し訳ありません! ただいまお迎えに上がりました!」
二頭立ての馬車にはエレーネ王家の紋章。つまり馬車の内部から降りて駆け寄り、こちらに向かって敬礼する人々は、世にあらたかな王神の守護者、エレーネ王国騎士団員ということだ。
……やけに丁寧だな。いや、丁寧というより平身低頭すぎる。
たかが商人の家に子供一人を迎えに来るくらいで、こんなにかしこまる必要ある?
そもそも私達は、連絡を受けたリアムの保護者が迎えに来るものだとばかり思っていた。
貴族様や門番に迷子の届け出か何かがあったからこそ、すぐ対応できると約束してくださったのだろう。捜し出すあてがきっとあるのだろう、と。
不信感とまでは言わないまでも、恐縮さに似た訝しさは消えなかった。
まあおそらく、民をむやみに奔走させるより、城から直接遣いを出し、そのまま送り届けよという命令が下ったのだろう。両親も同じことを考えたのか、納得と不可解の合間のような顔をしている。
なんというか、つくづく行き届いた対応だ。
騎士の方々は手際よく準備を調え、リアムを馬車に乗せようとしている。
――一日ずっと一緒に過ごせたはずの時間も、なんだかとても短かったように思える。
リアムは……寂しさをいっぱいに湛えた表情で私達を振り返り、視線を外そうとしなかった。
寂しくないと言えば嘘になる。でも、明るく彼を見送らなきゃいけない。
「リアム、良かったわね! 早くおうちに帰れるわ。……またいつでも遊びに来てね!」
「ルシアちゃん……また逢える……?」
「もちろん! 言ったでしょ? もう私達はお友達で姉弟なのよって。またすぐに逢えるわ! ……そうだ、ちょっと待っていて」
店の商品棚に急ぎ、一本のリボンを手に取って、再び玄関へと走る。
私は普段、赤い髪や瞳を引き立てる装飾品を好んでよく付ける。特にお気に入りなのが、このリネン生地のリボンだ。なかなかの売れ筋商品で、カラーバリエーションも豊富。
私が今付けている紺色と対比するのは……リアムの亜麻色にきっとよく似合う、このえんじ色。
「……はぁ、お待たせ。リアム、これあげるわ。これはね、約束のしるしよ」
「約束……これを持ってたら、またすぐ逢えるんだよね?」
「ええ。見て! これね、私の付けてるリボンとおそろいなの。また会えるその時まで、私も毎日このリボンを付けるわ。だからリアムも、これを持っていて? ――またね、リアム!」
「……うん! ルシアちゃん、またね!」
最後には明るい笑顔を見せてくれ、私達家族に大きく手を振って馬車に乗り込んでいった。
騎士団員は深々と一礼し、洗練された動きで馬に鞭を入れる。
送り出すのに涙は見せられない。
寂しく悲しい気持ちを押し殺し、笑顔を崩さぬよう。橙色に染まる街角へ、ゆっくりと車輪の音が消えて行くまで。ずっと手を振り続けていた――。
その日の晩は、事態が最速かつ最良の形で解決したことを祝って、家族で祝杯を挙げた。
リアムが笑顔を見せてくれたことで一気に達成感が湧き、気持ちの切り替えが付いたのだ。
「また会える」と約束したのも、きっとすぐに叶うはず。どこかそう確信があった。
私はジュースだったけれど、普段は麦芽酒、良くて熟麦酒しか飲まない両親は、所蔵品の中でも最高級の葡萄酒を開けてさえいた。一家揃って大盛り上がりだった夜。
この時こそが最後の平穏なひとときであったことを、この日の私達はまだ知らない。
翌日の朝。通常通りお店を開け、従業員も次々出勤してきた。
リアムがそこにいない。
一日しか一緒にいなかったにも関わらず、皆寂しさと違和感を覚えていた。
そんな中昨日のように、再び玄関の門環鐘が鳴ったのだ。
ただ昨日とは違い、焦り急いだ感じではなく落ち着いた音で。
この昼日中、あまり交遊関係を持たない私達一家に対し、訪ねて来る者など然程いない。
「ルシアはまだ来客の応対はしないように」と言い付けられているため、いったい誰だろうとぼんやり考えながら、玄関のドアを眺める。
そのうち手すきだった母がレジから離れてそちらに向かい、それに気が付かなかったのか、後を追うように父も外へ。
その一瞬のうち、なぜか両親の驚いたような顔が見えた気がした。
だから私もなんだか気になってしまい、玄関から顔を出してみた。
「アシュリー家の皆様でいらっしゃいますな」
そう問うドアの向こうにいた御仁は――漆黒のシルクハットとフロックコート、華やかながら品のある刺繍が細部に施された紳士服を身に付けた――どう見ても「貴族様」な御方。
そして続いた言葉に、私達は呼吸も忘れ、全身の動きを止めることになる。
「西の大国……ヴァーノン王国王太子、リアム殿下をお助け下さったご恩。国を代表して感謝申し上げます。つきましては――五日の後、王宮へとお越し願いたい」