新月の約束
時計に視線を遣った王女殿下の目が、少し見開かれる。
まだ時刻は13時。
いくら辺境領地から来ているとは言え、確かにあまりに早すぎる時間設定だ。
「あら、もうそんな時間ですのね?」
驚いたご様子がそのまま表情に出ていた。
事情を聞いていなければ、そのご反応も当然だろう。
「はい。本日はこれから我が男爵家がお世話になっている、諸侯さま方にご挨拶に上がるつもりでして……。
王女殿下、お話の腰を折ってしまったこと、改めて申し訳ありません。殿下の貴重なお時間をいただき、ありがとうございました」
「そうでしたの。謝ることはありませんわ、貴女の時間を奪ったのはわたくしなんですもの。
でしたらお急ぎになった方がよろしいのではなくて? わたくしに構っている場合ではなくてよ」と、ありがたいお言葉をいただく。
…………完全に良い人じゃない? ディアナ王女……。
普通に好感度の高い、人として行き届いた方にしか思えないのだが。
まあ、今はそんなことを呑気に考えている場合ではない。
屋敷に帰ったら、以前書き連ねた「この世界」の考察ノートを久々に広げてみよう。
そう考えている折。少し残念そうなご表情を見せていた殿下が、気丈に振る舞い言った。
「……今日はありがとうね。楽しかったですわ!」
大輪の花が咲いたような笑みが、少し臥せられたお顔から覗いた。眉尻の下がった様子までもが美しく。
一つひとつの所作、ご表情が洗練されている。
先刻までの私であれば。
この熱を持たないように白麗で……一片の傷もない彫刻のようなお方が、"私"に関して表情を変え。感情を変動させることに、底知れぬ恐ろしさを覚えていただけだったろう。
しかし、殿下の人間性を垣間見た今の私には。
私との別れを名残惜しく思ってくださっていること。
そして、私なんかとの会話を「楽しかった」と言っていただけたことが。
…………とても、ものすごく嬉しく感じられていた。
たかだか数時間前には、考えてもみなかった感情。
手を動かしながらも感傷に浸った、直後。
くい、と服の裾が引かれる感覚に視線を落とすと。
「ルシアちゃん、……ボク今日全然お話しできてないよ…………。
もうお別れの時間……?」
……王女殿下よりもよほど落ち込んだ、幻覚のうさ耳をしょんぼり垂らした小動物がそこにいた。
「きゅーん」という幻聴まで聞こえてくる。
"罪悪感"という名の鋭剣で刺し貫かれたように胸が痛む…………。
「……ごめん! ごめんねリアム! 本当にごめんなさい!
今日帰ったらすぐに手紙を書くわ。ちょうど貿易旅団さんが来る日頃だから、書いたら速攻で行商便に出すから! そうだ、あなたがこの間気に入ってくれた、領地の綺麗なお花もまたドライフラワーにして一緒に贈るわ!
……だから、ね? ごめんね。許してくれるかしら……?」
どう取り繕おうとも120%私が悪いため、どうにか今日という時間を埋める提案を必死に考えるしかなかった。
とは言え、円満な代替手段がパッと思い浮かぶのならば誰も苦労はしない。
思いつく限りのことを並べ立ててはみたが、それは結局彼とやり取りしている「普段」の範疇でしかなく。
最終的には言葉につまってしまい、ただ許しを乞うことしかできずにいた。
「あ……そ、そんな顔しないで! ボク、ルシアちゃんを悲しませるために言ったんじゃないよ!」
しかしそんな私を見かねてか、リアムは不甲斐ない私を優しく許してくれたのだった。
今私は、ぎゅっと抱きつかれながら高速よしよしされている。
先程彼がそうされていたように。
まだ幼く短いリアムの腕は、背中までを抱きしめることは叶わず。私の肩にようやく届くくらいだけれど。
ああ可愛い……。そしてなんて優しい。
天使か。本物の天使か、この子は!
支度は40秒で終わった。
別に誰かから「40秒で支度しな!」と言われたわけではない。
死ぬ気で準備したら意外とできたのだ。
前世と比較して、焦っている時の動作がかなり早いことがわかったのは儲け物だった。
目で合図しただけで、主人リアムの指示を的確に理解してくれ、クロークに預けていた荷物を手早く持ってきてくださった使用人さんたちの有能さも大いに幸いした。
最後に二人へ一礼して、もう今日は使用人さんたちへの挨拶はリアム宛の手紙の中で済ませるか……。
急いでガーベラ宮を出たら……お城の正門あたりまで全力で走ろう! 私の全速力なんてたかが知れてるけど、優雅に歩くよりはマシなはず!
父様との待ち合わせは、内廷と外廷を仕切るロードアーチ前だったわね。なんとなく場所はわかる。
こちらの「書類」……。よしあるわね、これを騎士さんにお見せして。外廷の入口から普通に入れてもらおう。
あとは早歩きに見せかけた小走りで廊下を突っ切って…………。
――――いけるか? 10分で着けるか……!?
脳内シミュレーションの結果、どう転んでも10分以上はかかる。
それを見越して、そもそも長針が50分を差す頃にはリアムとの会話を切り上げ、お別れの準備に入るつもりだったのだ。
自分で設定した見積もりを守れないなんて、商人として一生の不覚…………!
冷や汗が何筋にもなって流れ落ちる。先程の生命の岐路に立たされた一方的な焦りから、一転して興奮し紅潮した身体は、再び冷え切って。体温の急激な変動が嫌な心臓の高鳴りをより加速させた。
しかし。
「ルシアちゃん、ここの2階の渡り廊下から行こう?
内廷を通って行った方が絶対早いよ。ボク案内するから!」
……愛らしい天使が、天啓の光を授けてくれた。
ディアナ王女もそれに頷いている。
そう言えば、先程この方もご自分の宮から内廷を通り、そして渡り廊下からおでましになったのだ。
王宮で暮らす……あるいは王宮で働く方にとっては、城下の街へ行くわけでもないのに、わざわざ外に一旦出る方が珍しいのかもしれない。
「いいの? ありがとう、助かるわ……!」
願ってもない申し出だった。
果たして私にもその権利は適用されるのか、ふと思ったけれど。
おそらく心配はいらない。
それこそ「こちらの書類に記された」――今まさにご挨拶に上がる方々が、きっと口添えしてくださるはずだ。
あとで事後許可を取ろう。
そこまで言い終えるのを聞かぬうち、「じゃあちょっとだけ待っててね! 今持って来るから!」と応接間を飛び出し、駆け出して行ってしまった。
……「持って来る」というのは、いつもの私への贈り物のことだろう。
私からの贈り物は。今日は半生菓子を持って来たため、押し付けてでも渡そうと思っていたけど……。
毎回手の込んだものを用意してくれるから、なんだか心苦しい。
そんな爽快なダッシュを決めてまで、無理にくれなくても良いんだけどな。
リアムを待つ、ほんのわずかな間。一室には静寂が訪れた。
聡明であり、なおかつ身軽な子だ。
私に合わせて室内でばかり相手をしてくれているが、本当は身体を動かすことも得意なはず。
それに、あの子にとってはこの宮の全てが「自分の部屋」。
待っている時間は、おそらく数分にも満たないだろう。
喋ることが好きな者同士であれば、ただひたすら喋り合っているだけで楽しいのだろうけど、私には今までそれがなかなか理解できずにいた。
しかし楽しく時間を共有しようとする工夫や努力、相手への気遣いが双方にあれば、おしゃべりとはこんなにも面白くなるものなのか。
…………ディアナ王女とお話しするの、私も楽しかったな。
王女殿下の「楽しかった」というお言葉が、心に深く刺さっていた。
主人公がどのルートにおいてもこの方を慕っていた理由。今ならなんとなく、感覚で理解できる。
私は今、『エル』ではない「ルシア・アシュリー」として。
この方と過ごした時間は楽しかったと、もっとこの方を真に知り、交友を深めてみたいと。
"また今度"の機会が欲しいと、心から言える。
でも、今日の出会いは偶然によるもの。
リアムとの間で何らかの約束ややり取りがあったのかもしれないが、それもたまたま「今日のこの時間」が空いていたからこそ、実現できたことだ。
きっとこの方はご公務や高度教育で、日々私なんかよりもよほどお忙しいのだろう。
忙しい時間の合間を縫って、「また次に来る時にお話してください」なんて図々しいことが言えるはずがなかった。
次にお会いできる時。
……それはひょっとしたら、学園の入学式になるまで訪れない機会なのかもしれないな…………。
きっとそれは、わずか数秒の間。
「ねえ」と鈴の音のようなお声をかけられるまで、独りの世界で目の前の方の存在を忘れ、そのように考え込んでいた。
ハッと気付いて「は、はい」と顔を上げたその瞬間。
「お待たせっ! ルシアちゃん、行こ! こっちだよ!」と風のように現れ、息を弾ませたリアムに手を引かれた。
次の瞬間、ふわりと身体が浮く感覚。
私に負担をかけぬよう、しかし相当な速力で。一瞬にして私の脚は応接間の入口にまで運ばれていた。
握り方が優しいため、全く痛みがないのが逆にすごいくらいの勢いで。
私自身も風と同化したように、ぐんぐん身体ごと引かれてゆく。
「じゃあディアナちゃん、またあとでねー!」
……その叫びすらも、遥か彼方へ遠ざかって聞こえるほどに。
い……今ディアナ王女が何か言おうとしてたのに!
そう口に出す隙もないほど、凄まじいスピードで周囲の景色が変わっていった。
ついさっき考えたこの子の運動神経を、こうも早く我が身をもって経験することになるとは思いもよらなかった……!
「えっちょ…………ちょっと早、待って待って!
……王女殿下! 今日は本当にありがとうございました………………!」
挨拶もなしに秒で退散してゆくわけにはいかず、なんとか突風の中で声を張り上げた。
視界の片隅に映る彼女は、苦笑いしながら優美に手を振っていた。
と……薄れゆく景色の中で、何やら口を動かしていらっしゃるのがなんとなく見えて。
なんとか聞き取ろうと懸命に耳をすませる。
――――聞こえてきた言葉は。
「また今度、続きを話せるのを楽しみにしていますわ。
……またお会いしましょうね!」
……そっか、終わりじゃないんだな。
また次があるんだ。
私とリアムが身分の垣根を越えて、こうして会っているように――――
バッグの中に揺れるテディベア。ルートと、今私を連れてくれているその贈り主……リアム。
きっとこれは、彼ら一人と一匹が繋いでくれた縁の道だ…………。
感傷に浸っている間にも、ディアナ王女の姿は視界からどんどん遠くなっていく。
「はい! またぜひ!」と叫ぶのが精一杯だった。
薄くなった酸素を必死に補給すべく、息を吸い込んだ矢先には。
すでに私の脚は、渡り廊下を全力で駆け抜ける彼に全てを預けて。内廷の差し掛かりにまで到達していた――――…………。
―――――――――――――――――
「ルシアちゃん、着いたよ! ここまでしかボクは行けないけど……最後にこれだけ渡させて?
はい、今日の『約束のしるし』!」
「お……おうふ…………。あり、ありがとう……リアム……!
はぁ………! これなあに? 開けてもいい」
開けてもいいかしら、と続けるつもりだった。
2、3度大きく深呼吸したのみで息が整ったリアムとは裏腹に、陸に上げられた魚のように息絶え絶えの私。
手渡されたのは、シックにラッピングされた袋。
少々かさばっていて、結構大きめ……もしくは複数個が入っている様子。その割にとても軽い。
致命的な酸素不足という死の淵から回復した今、「袋の中身はなんだろな」くらいの軽い気持ちで、留め具に手をかけたのだ。
まさかそれを制されるとは思いもせずに。
「ルシアちゃん、アシュリーさんが待ってるよ?」
そっと手指を向けて、長いロードアーチの向こう側を指し示すリアム。
暗に制されていることだけはなんとなく理解できたが、その真意までは読み取れなくて。
しかし、呆ける私に「お屋敷に帰ってから開けた方が良いと思うな。…………ボクたぶん、アシュリーさんに怒られちゃうから」という言葉が掛けられて。
ああ、今そんなことしてる時間ないだろってことね! 確かに呑気に立ち話してる場合じゃないんだった!
そう瞬時に納得した。まあ、甘い父様はリアムに対しても怒ることはないだろうけど。
「それもそうね。わかった、あとでの楽しみにするわね!
じゃあ私からはこれ! 前より傷みやすいから、必ず今日中に食べてね!」
ほぼ押し付けるようにして渡す。リアムの手に渡った瞬間、顔色がぱっと華やいだ。
「わあ……! ありがとう! えへへ、この前のもとっても美味しかったよ!
……残念だけど、今日はこれでお別れだね」
リアムもまた、ゆっくり話している時間は残されていないことを理解しているらしく。嬉しさに浸ってみせるのも束の間だった。
…………何もかも、リアムに招かれておきながらディアナ王女とすっかり話し込み、あげく彼と遊ぶ時間すらも潰してしまった私が悪い。
だが物わかりの良い彼は、文句を言う素振りも見せず、すぐに気持ちを切り替えてくれたようだ。
首をかしげて少し寂しそうに笑ってみせる。
「ええ、今日はごめんね。そしてありがとう。リアムのおかげで王女殿下とお会いできたから……。
帰ったらすぐ手紙を書くわね! じゃあ、名残惜しいけど今日は…………」
「うん!」と元気に答えが返ってきた。
……そう認識できたのは、随分後になってからだった気がする。
私の赤髪を一房。触れられたことにも気付かせないほど、軽やかに手に取ったリアム。
彼はそのまま自然な動作で跪き、私の髪先を慈しむようになでたあと。
…………音を立てずに唇を落とした。
「ふふ。それじゃあバイバイ! またね、ルシアちゃん!」
『髪へのキス:思慕』
調べ物をしていた本に書かれたその記述に、処理能力を越えた脳を爆発させることになるのは、もう少し後の話。
その時の私は、今我が身に起こっている事態を全く認識できずに。「ええ……。うん、じゃあね…………」と曖昧な返答をして。
ぼんやりアーチの外へと歩を進めることしかできなかった――――。
―――――――――――――――
「おお、ルシア。おかえり、楽しかったかい?」
「あ……父様。待たせてごめんなさい。これからは時間厳守に努めるから! もうかなり予定を押しちゃってるわよね……なるべく急いで向かいましょう!」
「いやいや、良いんだよ。お前が楽しく過ごせていることが一番だからね。それに今日は、不測の事態も見越して時間設定に余裕を持たせていたんだ。
初対面の諸侯さま方に対して、そんなに話し込むこともないだろう。今から普通に向かって、予定通り全員の方々にご挨拶できたとしても、ジル&ジニーとの待ち合わせには十分間に合うはずだよ」
「そ……そうなの? 良かった……! でもこんな心臓に悪い思いはもうしたくないから、依然として気は引き締めるわね…………!」
外廷に辿り着く前から、父様の左右にハネる特徴的な赤髪は目に入っていた。
ある程度近付いてから声をかけようと思っていたのだが、背後から近付く足音に振り返り、娘だと気が付いた父様が口を開く方が早かった。
やはり平民上がりの同じ家族なだけはあって、父様は私が一旦宮を出た後、城門から……つまり真正面の方角からやって来るものと思っていたらしく、驚いた様子を見せていた。
内廷から近道ができた経緯や今日の濃い1日を語るには、歩き話では終わらない。帰りの馬車でゆっくり話そうと思う。
開口一番に謝ったが、思いの外特に問題はなかったことが判明して一安心だ。
だいたいの所要時間計算を、手持ちのペンと懐紙にグラフで書いてくれた。グラフ図解は状況を瞬時に理解するのに非常に役に立つ。
それを見る限り、今は父様が見積もっていた「不測の事態」項目にかかる前。「消費可能時間」項目にしか過ぎなかったようなのだ。
時間を守れなかったこと。それだけでなく、事前にこうした必要情報をきっちり詰めてこなかったことも問題だな……。
以後気を付けよう。父様への宣言で終わらずに、気を引き締めて行動しよう!
ともあれ、今日の御者と侍女として王都へ連れて来た、バーンズ兄妹を待たせてしまわなくとも良さそうである。
嫌な緊張に笑っていた膝の動きが収まってきた。急ぐ必要もないようなので、速度も普通に戻しつつ父の足取りを追ってゆく。
「父様、まずはどなた様の許へ伺うつもりなの?」
「そうだね。……正直な話、私達の立場で身分によって選定など本来許されることではないんだろうけど……やはり、役職順に伺うのが筋だと思うんだ」
その言葉に、書類を二人で見られるように大きく広げた。
「じゃあ……まず向かうべきはこの方かしら?」
「……うん、それが妥当だと考える。それじゃあ早速向かおうか。執務室がある場所は事前に調べてあるからね。
ルシア、ゆっくりで構わないからついて来てもらえるかい?」
「わかったわ。よろしくね、父様」
会話の中で、ご挨拶道中の順路が大まかに決まった。
ついにこの方々に、直接お礼を申し上げる機会に授かれる!
今日までの間にも、どれほどお世話になったのか数え切れないほどだ。
『紋章院官房長』『尚書官庁副局長』
まずは、この方々。
他の方々を優先し、彼らを飛ばす罰当たりができようはずもない。
速度を私に合わせてだいぶ緩めてくれている父様だけれど、ここはあまりに広大で慣れない王宮の中。少しの油断で迷子になり途方に暮れることになるのは他でもない私なため、懸命に付いていっていた。
父様曰く、お二人の執務室はここからわりと近い位置であるらしい。
やっと数々のお礼ができる時がやって来た……!
私個人としても、アシュリー男爵家としても。大変お世話になっている方々だから、単純に嬉しい。
そう。あとわずかでお顔を拝見できるのだ。
『紋章院官房長 ヴィリアンズ・ドートリシュ』様。
そして、『尚書官庁副局長 マシュー・ドートリシュ』様。
このお二方に――――…………。




