白日の月影
山の頂に初雪が積もり始めた、11月末日。
今日は父様の出仕する日。
私は今、リアムの住まうガーベラ宮へと足を踏み入れていた。
「ルシアちゃん、いらっしゃい!
待ってたよ! 会いたかったよぉ!」
「うふふ、お邪魔します! リアム、今日はお招きいただいてありがとうね!」
飛び付いてきた衝動を完全に殺しきれず、彼をぎゅっと抱きとめたまま、その場でくるくる回る。
私達は互いに密着し、抱き合った状態で再会を喜び合った。
領地運営が好調すぎて時間が取れなかったのもあり、前回の訪問からは、実に1ヶ月半もの間が空いてしまった。
お利口さんなリアムは、手紙ではそんな素振りを見せていなかったものの、寂しさは積もっていたようで。
聞き分けの良いことばかりが書いてあったが、甘えたい気持ちがずっとあったんだろうな。
この間は紳士モードだったが、今日は甘えんぼさんモードみたいだ。
私の弟は今日も可愛らしい。
やはり私を、遠くに住む姉として慕ってくれているんだなあ。
「えへへ……ルシアちゃんだ。……ボクのルシアちゃん」
嬉しそうに私の胸元に頬をすり寄せる彼を見て、つくづくそう思った。
よしよし、可愛い。
荷物の類をクローク付近の使用人さんに預け、手元にある、ルートや本が入った手持ちバッグをまさぐる。
ふと、手に触れた書類を見て。
あまりの可愛さに忘れかけていた大事なことを思い出す。
……そうだ、今日はあまり長居はできないんだった…………。
「リアム……それでね、残念なんだけど……今日は13時にはこの宮を出させてもらうわね」
私自身、未だに残念さを引きずっている。リアムの落胆する顔も容易に目に浮かぶ。言うのもはばかられたのだが……これは伝えなくてはいけない。
私にはこのあと果たすべき、父と約束している用事があった。
なるべく笑顔で話したつもりだったけれど、どうしても表情に苦渋の色が滲み出てしまう。
「えっ! ……そっか、今日はあんまり一緒にいられないんだね…………。でも、どうして……?」
案の定しょんぼりした様子のリアムに、心が痛む思いだ。
自分を納得させようと一度は呑み込んでみたものの、やはり釈然としなかった。そんなところだろうか。
幻覚、これは幻覚だと内心に言い聞かせる。
しかし私の目には、彼の姿にこてりと垂れ下がった兎耳としっぽが重なって見える…………。
小動物かわいい……!
「ごめんね、せっかくの機会なのに。今日は父様と一緒に、こちらの方々にご挨拶に回ろうって話をしてたの。
またたくさんお手紙でお話ししましょう? そのことについても、お礼をしたいと思ってるのよ」
なで回したくなる衝動を抑え、バッグから一枚の書類を取り出す。
以前ドートリシュ侯爵様から、リアムの手紙と一緒に渡されたものだ。
それにちらりと視線を遣ると、彼もああ、と表情は晴れないものの、納得した様子を見せた。
「……そうだね、なら仕方ないかぁ。
ルシアちゃんとお手紙のやり取りができるようになったのも、その皆のおかげだもんね。
じゃあ、今日お別れしたらまたすぐに手紙書くから! ルシアちゃんもお返事ちょうだいね?」
「ふふ。ええ、わかったわ」
私達はこの1ヶ月で、もう何通の手紙をやり取りしたかわからない。
片や隣国の王族、片や男爵家。
これまではリアムから招待状を送ってもらうだけで、私から返信などできなかったが…………この書類に記名された皆々様方のご厚意で、私達は気軽に文通ができるようになったのである。
私からの手紙はリアムの宮に直通。こうして宮に遊びに来るのに際し、正式な招待状すらも不要となった。
今日父様と一緒にしなければならないこととは、これらに対するお礼参り。
こちらの方々に、ご挨拶をしに回る。
それこそが今日のもう一つの目的だった。
もう本格的な冬の訪れも間近。
本当ならばあと1時間程度は滞在できるのだが、その時間を挨拶回りにあてる時間設定である。
リアムとは、いつでも交流ができるようになったのだから。
13時にガーベラ宮をお暇させてもらい、14時半頃に王都を出立する予定なのだ。
「短い時間だけど、今日もよろしくね。
そうそう、『海の王女さま』! 結構読み進められたわよ! 今読んでるところはね…………」
「うん! ゆっくり過ごしていってね!
わ、すごい! もう山場までいったんだね」
「……え!? ここって山場なの!? あんまり重要だと思って読んでなかったわ……!」
社交の挨拶もそこそこに、勧められるままにソファへ腰掛ける。
私の膝の上に、さも当然に座り込んできたリアムを片腕で抱いて。
リアムとルートという、一人と一匹のテディベアを乗せながら。
会話は徐々に花開いていった。
…………私はこの時。まだ何かこれから楽しみを隠しているような。
そんなリアムの表情の理由に、何も気が付かずにいた――――。
―――――――――――――――――
今日のスープは、野菜たっぷりコンソメスープだった。
秋野菜の他、これから採れ始める冬野菜もいくつか入っている。
野菜の旨味が凝縮されて、非常に贅沢な美味しさだ。
……コンソメってイチから作ると、とんでもない手間がかかるんだよね。
自分で作る気になんてとてもなれない。一度チャレンジしたが、あまりの面倒さに気が遠くなった。
素人が気軽に作れるものじゃない。
これを手間暇惜しまず作ってくれる料理人さんに、ただただ感謝だ。
そして今世に生まれ変わって思い知ったことはもうひとつ。
――――コンソメ顆粒って、偉大だったんだなあ…………。
スープに舌鼓を打ちながら、暫し私達は会話に花を咲かせていた。
昼一の鐘が鳴る音を境にして、軽めの昼食が運ばれて来て。有難く頂戴した。
あまり昼食に時間を割かず、食器を隅にまとめた後は、すぐに話に戻った……。
そう、それは時計の長針が真下に回った頃だった。
不意に鈴の音が鳴ったのだ。
聖会堂の鐘とは違う、ハンドベルのような軽やかさと響きのある音が。
どこかから響くそれは、しばらくしてこの宮の二階……後宮と繋がる、渡り廊下から聞こえるものだとわかった。
これ、自然に鳴るものじゃないな。……誰かが意図的に鳴らしている?
自動設定で鳴るにしては、現在の時刻は中途半端すぎる。
また私は、これまでに二度この宮に訪れており、その両日ともこの時刻をここで過ごした経験もある。その際にこんな音はしなかった。
誰かも何も、鳴らしているのはガーベラ宮の使用人さんに間違いはない。
ここは厳戒態勢が敷かれているリアムのための宮だ。
滅多な方が侵入を許されるわけがなく、捕縛されるのを覚悟で、理由もなしに鈴を打ち鳴らすような不可解な真似をするはずもない。
何かを主人であるリアムに知らせるためのものだ。
……何かとはなんだろう? 侵入者……ではないな。だったらもっと警戒を引き付ける音のはず。
考えられるのは、この宮に入ることが許された方のご来訪か。
ではそうだとすれば、それはいったい…………?
やっと思考が及んだ矢先。
足音の持ち主は、思いのほか足早に入室してきた。
リアムはあらかじめ報せを受けていたのか、それともこの鈴がどなたかの専用の音なのか――――
それが誰なのかがわかっているようで。
足音に反応するや否や、私に負担をかけないようにぴょこんと立ち上がり、その人物の許へと駆けてゆく。
まだ人影すらも見えないうちから、条件反射で体が動く。
完全にリラックスして深く腰掛けていたソファから立ち上がり、姿勢を正し頭を下げた。
私はこの間まで平民だった身分。
たとえそこにいらっしゃるのが、王宮で働く一番の下っ端の人だったとして。その方は今でこそ、領主貴族の嫡女である私より下の身分だろう。
しかし私にとっては、つい最近まで遥か遥か上の役職だった方なのだ。
そこまで考えて、自分が今貴族令嬢であることを思い出す。
身に染み着いた平民の礼を取っていた姿勢を慌てて直す。ぎこちないカーテシーで改めて礼儀を示した。
一切相手方のお顔を見てもいないけれど、問題ないだろう。
私に用があるわけがないし……リアムに対するお客人に決まっている。
そもそも私がどこの馬の骨なのかを知るのは、叙爵式に携わったわずかな方々と、それこそこのガーベラ宮の方くらいだ。
慣れないカーテシーは体の痛みさえ感じるが、ご用事が済むまでこうしているのが適解のはず。
下手にご挨拶などして余計な無礼を働くくらいならば、おとなしくしていた方が身のためだ。
ところが。
次の瞬間飛び込んできた言葉に、私は耳を疑った。
「いらっしゃい、ディアナちゃん!」
…………え?
リアムあなた、今なんて言っ………………
意識が急激に遠のいていくのを、まるで他人事のように感じる。
呑気気ままに過ごしていた先程までが嘘のようで。
「ええ」と短く返事をした声が、彼方で話されているかのように遠耳に聞こえた。
「貴女が……アシュリー男爵令嬢ですわね? ご機嫌よう」
そこにいたのは。
――――ディアナ王女殿下…………!
声に反応し、目と目は合ってしまった。
最も出会いたくはなかった相手を前に、ご機嫌麗しゅうと優雅に返答する余裕など、あいにく持ち合わせてはいない。
言葉も笑顔も引き出せぬまま。
錆び付いた機械のように固まった頭を、再びぎこちなく下げ直すことしかできなかった。
その後も、「ディアナちゃんはね、この国の王女さまなんだよ!」とか「貴女のことが気になっていましたの」とか、何か二人が頭上で話しかけていた…………ような、気がする。
全部右から左。
それどころか私には、今何もかもを投げ捨てて脱兎のごとく逃げ出す、という選択肢すらも浮かんでいる。
どうして反応して良いか全くわからず、無言のままとりあえず顔を上げてみる。
なんとか笑ってみせた顔は、二人には貼り付けた鬼の面のように見えたことだろう。
そんな私に対し、ディアナ王女は満面の笑みを向けた。
愛らしく邪気のない、きららかな微笑み。
相手の緊張を解きほぐすような、一切の敵意を感じさせない表情。
……それもそのはずだ。彼女は物語の中で第三者――――プレイヤーの目線からの疑念こそあれ、ヒロインにとってはどこまでも気高き、美しい女性なのだから。
艷めいてなびく金糸の髪。白日に反射する美貌。
同じ人間とは思えない……周囲のあらゆる存在をかき消してしまうような、彫刻と見紛う佳麗な形姿。
しかし邂逅を望まずにいた、この我が身にとっては。
その輝きは目に痛く、灼き尽くされるかのように眩い…………。
ディアナ・フローレンス。
私が前世……地球での生を終える直前にプレイしていた、乙女ゲーム『学園シンデレラ ー真理の国の姫ー』の登場人物だ。
公爵令息ルートでは、攻略対象に想いを寄せるライバルとして。
双子の片割れ、弟王子アーロンのルートでは。
主人公ミーシャ・エバンスと、彼女と心を通じ合わせる弟アーロン。
そんな二人の恋模様を応援し、平民であるヒロインが、やがては王子の后となれるよう見守る……という指導役ライバルを兼ねた、力強い味方として登場する。
『月桂樹の姫 ディアナ=ロイ・フローレンス』
私には、その二つ名の印象が強い。
月桂樹の姫。
いつまでも「半無限ループ」と呼ばれる公爵令息ルートをプレイしている間はただのカッコいい二つ名でしかないが、後に示唆された名の意味がわかってくる。
そう。彼女は公爵令息ルートと、アーロン王子ルートのトゥルーエンドを除く全てのルートにおいて、王座に君臨する宿命を持つ。
この世界に転生したあとに知ったこと。
王位に選ばれし方は、初代国王である建国の王神ロイの名と、ロイが象徴として身に着けていた月桂樹の冠をも同時に継承する。
その二つ名が象徴する意味。きっと、それこそが正史。
乙女ゲームの各ルートというのは、このアトランディアを外側から観測した際に垣間見える、散りばめられたあらゆる世界の可能性のようなもの。
可能性を収束してゆけば、それは最頻値として現れ、やがて確定値として約束される。
ほぼどの可能性の世界においても、ディアナが女王となるのは決定付けられた運命なのだ。
『失楽の王子 アーロン・フローレンス』と称される、弟王子アーロンとは……その戴する冠も、抱く運命すらも。完全に対比している存在。
以前にも考えたことではあるが……。
アーロン王子が王位に就く世界は、親友である公爵令息に加えて、主人公ミーシャ・エバンスの存在が隣にあって。
二人が心を打ち解け合って協力し、初めて叶うものだったのだろう。
腹心の側近独りきりの力では……アーロンを王座に押し上げることは、ついぞ叶わない未来。
アーロンルートのバッドエンドでも、王となるのはディアナ王女なのだ。
それほどまでにディアナ王女は、王に相応しい実力を有し、盤石な支援人脈をも兼ね備えているということか。
乙女ゲーム『学園シンデレラ』は、彼女の存在なしには語れない。
ヒロインにとって、尊敬すべき憧れの女性。
友人が多く社交的でもあるらしい。作中でも彼女を慕う貴族令嬢のモブが多数存在していたし、……今しがたリアムもそう言っていた気がする。
現実のエレーネ王国にとっても、決して欠かすことのできない人物なのだろう。
どのルートにおいても存在感と影響力を多大に残す、魅力あふれるライバル王女様だ。
しかし――――王として真に相応しい御方であるかどうかは、疑問が生じるところだが。
暗鬱とした表情が印象強い、何かに怯えているようなアーロン王子。
彼にとって、ディアナ王女はどんな存在であるのか?
作中で明かされることはなく、それはあくまで"世界に関係のない人々"の邪推に過ぎないのだけれど…………「アーロンをいじめているのではないか」との疑惑を抱く人は、各攻略サイトを見る限り、結構な多数派だった。
同じ血を引く双子でありながら、ディアナ王女にはほぼ確実に王位に推してくれる支持派が、おそらくはたくさんいて。
アーロン王子には公爵令息くらいしか有力な後ろ盾がないというのも、よくよく考えればおかしい話だ。
ゲーム内ではアーロンは頭脳明晰で、あらゆる学術に秀でているという描写が幾度もなされてきたのだ。
長所に違いはあるにせよ、優秀な嫡子を双りも持つ王家。ならば王宮で全くの同等勢力に二分し、双りが王になる確率は半々くらいになるのが普通ではないだろうか。
アーロンが王の器に全く相応しくないというよりは、アーロンに王位をあきらめさせる、もしくはその気もなくさせている……何らかの圧力があるのでは、というのが「アーロンいじめ疑惑」を呈する人たちの意見だった。
"私"には安心して良い要素は何もなかった。
私は……ルシア・アシュリー。
周囲には。
優れた商才を持ち、その気にさえなれば立身出世も思いのままの両親。私が何をしようとも、その全てを肯定し、宝のように愛してくれる従業員……使用人たち。
何もかもが叶えられて当然と育てられた未来は、国で一番の貿易商人になっていた未来は。真実、有り得た。
そして……私は、吉川祈里。
この世界が刻まれたアカシックレコードを、物語という形で覗き見た。
この先ルシア・アシュリーにどのような顛末が訪れるのかを、すでに知っている。
ルシア・アシュリー。
『学園シンデレラ』の世界では、唯一の異端分子。
排除されるべき存在。
「ヒロインをいじめなければ大丈夫」
……その確信が持てないのだ。
例えば。ミーシャ・エバンスをいじめていたのが、ディアナ王女の友人である貴族令嬢だったなら。または、ルシアはあくまで手先の小物で、主犯が別にいたのなら。
その友人に適切な処分を下す王女の姿が描写されていたのなら、私は今この方を信用できただろう。
もしくは、平民であり友人でもないルシアにだけ重い処分を取るような方であったなら。今私はこの場を去る選択肢を迷わずに選べた。
いや……あるいは、ゲームの「平民」という立場とは明確に違う、今の「男爵令嬢」という身分に。心から安心できたのかもしれない。
…………色々考えたところで、結論はひとつ。
私は現時点において、この方を信頼できずにいるのだ。
ゲームの中では「主人公へのいじめ」という明確な理由があったが、それはあくまできっかけに過ぎない可能性もある。
私がルシア・アシュリーであるだけで。
私は世界にとって不要な、排除すべきただの「駒」である可能性が否めない。
私の意思や行動とは一切関係なく……脚本通りに世界が進み、ゲームの強制力が働いてゆく可能性が、十分にある。
私が何をせずとも、この方に嫌われ排除される運命は。
すでに確定してしまっているかもしれないのだ。
今ここに存在しているだけで、自ら破滅の道筋を手繰り寄せている可能性すらも――――。
背筋が薄ら寒い。冷汗が滲む額は、逆に熱を持って火照り。
その温度差が身体に堪える。
私は…………私は、この方にどう対応するのが正解なの……?
……先程までニコニコと愛らしく笑っていたリアムは、私の発する不穏な波動を感じ取ったのか。
どこか狼狽えた色を瞳に映し始めた。
彼に不安を抱かせないために、微笑んでは見せたものの……きっと今の私は、強張った顔にしかなっていないのだろう。
知らず知らず力がこもる両腕に、大切に抱きしめたテディベアがきしむ感覚。
それはまるで、私の反応に戸惑うリアムと、リアムの期待した反応を器用に返せずにいる私。
そんな二人の姿を体現しているように思えた。
決して交わるはずのなかった二つの歯車は――――リアムという小歯車を介することで、今日……噛み合ってしまった。
「わたくし、今日を楽しみにしておりましたのよ。
貴女にお会いできて嬉しいですわ。ねえ、一緒にお話ししてもよろしいですこと?」
――――ディアナ・フローレンス。
きっと出会うべきではなかった方が。
白昼に浮かぶ雲の端から、姿を覗かせる薄月のように。
今、目の前にいた――――…………。




