月下に揺れる思惑
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紺色に染まる空に、淡く月明かりが浮かぶ。
城内に配置されたガス燈に火が灯り始め……帰宅しようとする貴族たちの声は、宮廷から徐々に遠ざかっていく。
その代わりに城門前には、燕尾服に身を包んだ人影が多く見られ始め。
耳に届くのは、主人を労う声や馬のいななき。
後宮よりも奥深くの、この宮の音だけが遠くなって。辺りのざわめきは相変わらずだ。
宮中のシャンデリアに光を灯してゆく使用人に、お礼を言って退勤を指示する。
ゆらめく青の炎はボクのお気に入り。
ガーベラ宮では、青の火を灯す蝋燭を多く使わせている。
あまり強い色を放つ光は、ボクの金の瞳には少々痛く感じるからだ。
いつか青い炎に照らされた、この宮の一番綺麗な時間を。
あの子と一緒に過ごしてみたい。
この国で見る月模様は……盾の形に見える祖国とは違い、ひまわりが咲き誇るように見える。
海の王女さまが恋い焦がれたであろう月。ボクにとっては異質な月。
でも――――きっとあの子にとっては、一番美しく見える月。
…………あれ、でも前に「うさぎがおもちっていうお菓子を作っている」風に見えたのよ、と言っていた気がする。
王宮と市井の路地では、見え方が違うのかな。
……まあ、それは大した問題じゃないか。
この月明かりや金細工なんかよりも、ずっと輝く瞳を輝かせて。
幻想的な風景を喜んでくれるはず。
空間を彩る鮮烈な赤は、鈍く淡く光る青と、浮かび上がる黒によく映え。きっと何より美しいだろうな。
ボクくらいの年齢ならば、就寝に人肌を求める子も多いのかもしれないけれど。
本国でもひとりきりで過ごしてきたボクには、側付き使用人は別に必要なかった。独りで静かに眠る方が気が楽。
…………ルシアちゃんだけは特別だけどね。
つい先程別れたばかりのような気がする、ボクの大切な女の子を想い、笑みがこぼれた。
もう数時間も経過していることに、逆に驚かされる思いだ。
今日はとても楽しかった。
毎月に一度、あの子と一緒に過ごせる自分はなんて幸運なんだろうか。
あの日アシュリー家に行ってから、ボクの世界は大きく様変わりした。
いや、ホントは何も変わってなんかいなかったんだよね。
「海の王女さま」と同じ。
でもボクは自分ではそれに気付けなくて。アシュリー家の皆や、そして海の王女さまからも。
色々なことを教えてもらえた。
ボクの世界には、素敵なものがたくさんあった。
――――それに気付けたのは、ルシアちゃんのおかげ。
もしルシアちゃんに出会えていなかったとしたら、ボクの人生はどれほど空虚でつまらないものだったんだろう…………?
ボクのお姫さまが「可愛い」と言ってくれるから、眉上で切り揃えたウェーブの前髪。
あの子に褒めてもらえるのなら、それがどんな言葉でも構わない。
きっと成長しても格好に無頓着で、前髪なんか伸ばしっぱなしだったろうな。
本当に可愛いのは、ルシアちゃんだけなんだけど。
ボクの行動の意味を多分よくわかっていない。
あくまでボクは、あの子にとって「可愛い弟」。
でもそれで良いんだ。その立場はきっと、唯一無二のもの。
膝の上の特等席も、優しくなでてくれる柔らかい手も。
全部ボクだけの特権だから。
顔を赤らめる今日のお姫さまを思い出すだけで、この一ヶ月ボクは幸せに暮らしていけるだろう。
……その時、人の気配がなくなったはずの宮の入口から、使用人たちの声が聞こえる。
それを疑問に思うより前に、ベルの音が軽やかに鳴らされた。
王族が来訪した時のみに告げられる合図だ。
どうやら、この宮にお客さんが来たらしかった。
今日来てくれたのは、どっちかな?
あんなに似通っている彼らは、行動までも対極なのか。
一緒にここへ来てくれたことは一度もない。
それどころか、公務の時も二人バラバラ。家庭教師も全員が別だ。
何か事情があるのかもしれないけれど、居候のボクが口を挟むことではないような気がして。
何も知らないフリをして、無邪気に接する日々だ。
「リアムを時折気にかけて宮に遊びに行っていること」さえ、――きっとお互い知らずにいるんだろうな。
「リアム。突然ごめんなさいね。もう休んでいましたかしら?」
「ううん、大丈夫だよ! いらっしゃい!」
月光に反射して煌めく、長い金髪をなびかせて。
訪れて来たのは彼女だった。
こんな時間に様子を見に来るのは珍しい。
理由を聞いてみると、今日彼女は公務の実践授業を受けていたらしく、その過程で最近使われた国家予算額を見て訪れたそうだ。
財務管理は確か苦手だと言っていなかったっけ。苦手なことに積極的に取り組んですごいな、と感心する。
ボクなら面倒でやらないだろうから。
…………それにしても、どうしよう。
あれだね。きっと「桃」のことだ。
まさかルシアちゃんがもう知っているとは思わなくて、ちょっぴりあてが外れてしまった。喜んでもらえたから良かったけど。
エレーネだけじゃなく、ヴァーノンとも国交がない、独特の国風を持つリェンジェ王朝国家。
父上からお小遣い代わりに割り当てられている予算、ヴァーノンから正式に出ている予算。それからエレーネ王国で出してくれているボクのための国家予算。
今までなんの楽しみもなかったボクは全然手を付けずにいたけれど、今回ルシアちゃんのために、結構な額をつぎ込んでしまった。
貴重な幻の植物、桃の輸入ルートを確保するために。
叱られるのかと顔を青ざめさせて身構えたが、単純に気になっただけみたいだった。
一通り経緯を説明したあと、「……怒らないの?」と訊いたボクに目を丸くして。
一瞬のうちに表情は和らいだ。
「何も怒ることなどありませんわ。あなたのために割り当てられているお金なんですもの。珍しくガーベラ宮の予算から引かれていましたから、気になっただけですわ。
むしろあなたは……少しくらい自分の好きに遣うべきですのよ。
全然わがままのひとつも言わなくて。あなたも、…………あの子も」
――――ああ、まただ。
先程まで柔らかく微笑んでいたはずの彼女は、彼を思い出したとたん、たちまち凍り付いてしまったようにその整った顔を強張らせる。
逆に彼は。……彼女の話題になると、なぜだかとても哀しそうな表情をするのだ。
二人が一緒に来てはくれない理由が、二人だけが知る"何か"が、きっとあるのだろう。
けど、ボクにはそれがわからない。
あの子ならわかるだろうか? ボクの錆びついた心を開いてくれた、『誰かのために頑張れる』彼女なら。
ボクの「海の王女さま」だったら――――…………
「最近お友達になった方なんですの?」
そう彼女の方から話題を振ってきてくれて、正直胸をなでおろす思いだった。
しかし、事がルシアちゃんの話題になって。ボクが落ち着いて話せるわけがない。
「うん! とっても優しくて可愛い子なんだよ!
西の辺境領でね、大臣一家のドートリシュ侯爵領と、代々騎士爵持ちのブルストロード辺境伯領のご近所さん。
今新しい事業を始めようとしててね…………」
なるべく抑え気味に。簡潔に話したつもりだった。
彼女はボクの誘拐事件の顛末を知らないから、なおさらのこと。
しかし気が付いたのは、もうとっぷり夜が更けた頃。
ただ相槌を打つだけの聞き方ではなく、興味を示して聴いてくれていたため、つい気持ちよく喋り続けてしまったようだ。
「ごめんね、もうこんな時間だ……」
謝るのは当然の時間。だが目の前の彼女は、何も気にしていない様子で笑ってくれた。
「いいのよ。どうせ2階の渡り廊下から、私のカトレア宮までは一直線ですもの。
……ふふ、でもあなたがそんなに楽しそうにお話しするだなんて。本当に素敵な方なんですのね」
「……! うん! そうなんだよ、とっても良い子なの!」
ルシアちゃんを褒められるより嬉しいことなど他にない。
どうやらボクにただ付き合ってくれていただけではなく、実際に話題の主に興味を持っていたようだ。
暫くの間、あの子と過ごした時間を語る。
まだ出会って一年も経っていないのが、ボクには嘘みたいに感じられるのだ。いくらでも話が口からあふれた。
ボクの「素敵なもの」と「綺麗なもの」とは、結局『ルシアちゃん』ただ一人なんだな。
自分に苦笑する。
「そうですのね。私もぜひお会いしてみたいですわ」
社交辞令だったかもしれない、後にして思えば。
しかしボクはその言葉に目が覚める思いで。
そうだよ、どうして気が付かなかったんだろう?
そんな考えに頭が満たされていた。
二人とも、本を読むのが大好きな共通点がある。
ルシアちゃんは物語の深いところや、裏側を第三者視点で考察するのが一番好きみたい。
一方目の前の彼女は、「自分が登場人物であればどう行動するか?」を常に考え、物語の中の人物と友達になって読んでいくことが好きなようだ。
二人がお気に入りの本について語り始めたら、一日が経つのさえあっという間だろう。
彼女は社交的と評されるだけあって、友達づくりに長けている。
今まで周囲に何も興味がなくて、ボク自身はよく知らないのだけれど。
自分に付き合わせ振り回すのではなく、相手を楽しませ、身分を問わず仲良くすることが得意らしい。
――――そう、まさにあの女神様の生まれ変わりだと。
ルシアちゃんは反面、あまり人付き合いは好まない方だ。
そこもまた、ボクが共感する好きなところでもある。
しかし目の前の人なら、身分も教養もあり、話し上手で聞き上手。
それにルシアちゃんが嫌うことを、押し付けるような行動はしないはずである。
何より、これから先二人は学園で一緒になる。
双方にとって良い友人関係を今築くことで、ゆくゆく楽しい学園生活が送れる礎になるのではないだろうか。
もしかしたらこれは、いつももらってばかりのボクが。
……初めてルシアちゃんのために、何かができるチャンスかも。
きっと、いや絶対に。
仲良くなれる二人のはずだった。
「……そうだ! 今度遊びに来てくれるのは、あと一ヶ月くらい後なんだけどね。その時にボクの宮に来てみない?」
我ながら良いことを思いつけた。
「まあ、よろしいんですの?」と問いかけてくる彼女も、これまでになく喜んでくれているように見えた。
それにしても、次に会うのに一ヶ月もかかるんですのね、とも言っていたけれど。
正直ボクも残念に感じているが、アシュリーさんの出仕に合わせているため、仕方がないことだ。
もともと外出自体が好きではないアシュリー家の人々が、わざわざボクのために時間を犠牲にしてくれている。それで文句を言えるはずもない。
それを話すと、「領主貴族のお父様の出仕都合でしたら、そのペースでも仕方ありませんわね」と納得してもらえた様子だった。
「私ともお友達になってくださるかしら」
微笑んだまま吐露した不安だが、懸念など全くない。
「大丈夫、絶対仲良くなれるよ! 二人とも読書好きだし……同い年だもん。
ボクより仲良しになっちゃったりしてね」
そう、きっとあの子も喜んでくれるはず。
次に会えるのは、もう冬に差し掛かった頃。
今日は9時くらいから15時まで一緒にいられたけれど、次はもっと短くなるかもしれない。
それを伝えると、「お昼頃を目掛けて遊びに来ても良いですかしら」という話になった。
話を詰めるのは早かった。
もう夜も遅い。
詳しく話すのはまた今度にして、お休みの挨拶をして別れることになった。
「それじゃあ、おやすみなさい。楽しみにしていますわ」
「うん。おやすみ!」
「じゃあまた今度ね、ディアナちゃん!」
月下に揺れる青の炎。手を振って退室していく目の前の彼女は。
――――灯火と同じ、澄んだ蒼の瞳を反射させて。
静かに笑った。




