新たな出会いなど必要ありませんわ!
海の王女さまの決意を秘めた眼差し。凛と灯る蒼の光。
まるで本当に歌声が聞こえてきそうな、水彩の挿絵が美しい。
「ここがもう胸熱展開よね!」
リアムと一緒に文面を追っていた私。
とある場面を指差し、声を張り上げた。
この部分の訳は結構難しく、何度も読み返したので逆に自信があるのだ。反復学習効果に近い。
海の王女さまが絶望したもの――――
作中では、「黒鉄の短剣」と「ヴァーノン神軍の歌」のふたつが挙げられている。
そのどちらもエレーネの王族として産まれ、生きてきた彼女には相容れぬ、理解しがたいものだった。
しかし――――「黒鉄の短剣」の意味を知った彼女は、それが『素敵なもの』であったことに気付く。
それを聞いたのは、その込められた意味そのものを知らない、召使たちから。
他者によって、「気付き」を得た彼女は……『海の妃殿下』になることを自分自身で決断する。
自らが選択し、ヴァーノン王族として公務をこなす。
そして、神軍を讃える歌を唄う決断を。自らが選択したのだ。
"それは「海の王女さま」が、真実『海の妃殿下』になった瞬間"
先に作中に登場する言葉。この意味を、読者はここの場面で再び考えさせられることになる。
私は海の王女さまの持つ強さに、深く深く感銘を受けた。
だって彼女には、歌を唄わない選択肢もあったのだ。
ヴァーノンに来たあと、確かにそれまで通り「海の王女さまのまま」ではいられなかったかもしれない。
しかしだからと言って、必ずしも「海の妃殿下になろうとする」必要もなかったはずなのだから。
立場が変わってしまったことを嘆き、殻に閉じこもっていることだってできた。
『海の妃殿下』の立場を忌み嫌い、ずっと「海の王女さま」のままでいる選択肢も、彼女には存在していたのだ。
作中で挙げられたふたつの例。
ひとつが示したのは、『他者からの気付き』。
もうひとつの神軍の歌が意味したのは、『気付きを得たあと、どう行動するか?』の分岐路だったのだろう。
そして彼女が選んだ道は、傷付かず幸せに過ごせる「今までと同じ道」ではなく、変化を受け容れ……自らも変わっていこうとする、「舗装されていない道」だった――――…………。
「なんて言うか、こう……底に秘めた強さがある、素敵なお姫さまよね! きっとこの場面は、新しい幸せを自分で見つけようとしたっていう比喩なんだと思うの。
すでにこの時、『エレーネの姫』じゃなく、『ヴァーノンの妃殿下』として行動しているんだわ」
とにかく深く感動した、ということを伝えるのにも、私の語彙には限界がある。
普段ツーカーで伝わる相手とだけ接しているとなおさらのこと。
だがリアムも私にとっての、そのツーカーで伝わる相手なようだった。
大声を出しても、まるでそれが心地好い響きであるように微笑み、すり寄った姿勢を崩さずにいる。
「うん、とっても強い子だと思う。その"強さ"にボクが気付けたのは、アシュリー商会で保護してもらったあとのことだったけど。
この子は"エレーネに帰る"ことも選べたのに、自分でヴァーノンで頑張るって決めたんだもんね」
リアムの言葉で気付く。
そうか、選択肢はもうひとつ存在したのだ。
「あ!そっか……海の王女さまはエレーネに帰る選択肢もあったのね。『立場の変化』を受け容れ行動する、あるいは拒絶する。
……それ以前に、『立場を元に戻してしまう』ことだってできたんだわ…………」
言われてみればその通りだ。
正式に留学という名目で送り出されてきたリアムとはこれまた真逆で、彼女は自分でヴァーノンに嫁入りすることに決めた。
それを放棄する自由、元の鞘に収まる選択肢も確かにあったはずだ。
元々反対していた国王や王妃、国民たちはエレーネに戻って来た海の王女さまを、逃げて来たなどとは絶対に思わない。
むしろ「おかえりなさい」と諸手を挙げて歓迎することだろう。
お姫さまの頭にも、その選択肢はちらついていたのではないか。
でもそうしなかったのは…………きっと王太子さまの愛情を、『信じたい』と願う気持ちがあったから。
「読めば読むほど、味わい深い本ね……」
読んでいる側にも、色々な『気付き』を与えてくれる本だ。
そうして考えてみると、彼女の周りには、多くの「自由」と「幸せ」がはじめから存在していた。
『みんなボクを"殿下"としか見ていない』
……かつてそう語ったリアム。
当時の彼にとって、周りにあるものはリアムではなく、"殿下"を見る人々の目線だけ。
『ボクとは真逆の子』
……先程呟いたように感じてしまったのは、当然であるように思う。
しかし。かつて、彼はこうも語った。
『でも、違ったんだ。"殿下"って呼び方は、『大切で特別』な意味もあった。ボクをリアム・スタンリーとして見てくれてる人も、ボクの周りにも確かにいたんだ。
それに気付けたのはね、あの日―――――』
――――私達家族が大それたことをしたとは、正直今でも思えない。
でも、この本を読んで。
私達アシュリー家は、きっとリアムにとっての『黒鉄の短剣』になれたのかな、なんて。
自惚れだけれど……そう感じた。
ひとしきり話し終えたあと、本筋に再び目を落とす私達。
――――海の王女さまが驚いたのは、自分自身。
だが自らの口が奏でる歌声に、不思議と嫌悪感はなかった。
『海の王女さまの お歌は まるで 双子神が 目の前で
歌っている かのよう。 わたしたちを 愛して くださった
おふたりの 思いが 伝わって きます』
『海の王女さまの 歌声は きっと やさしい 気持ちを
人々に 伝えるもの なのです』
『なんて 綺麗な歌声 なのでしょう!』
かつて祖国の民たちにもらった言葉が頭をよぎる。
これは天空の国におられる先祖を讃えるような、「綺麗な歌」ではない…………。
しかし、歌には気持ちを乗せられる。
それを彼女は知っていた。
――――今、民に伝えたい思いとは。
『わたしが いま 伝えたいのは 綺麗な旋律や 芸術のひらめき ではないわ。
わたしの 歌は、 みんなに 気持ちを 伝える 歌声。
わたしは みんなに 勇気と応援を 届けたい!』
彼女は歌い続けた。どこまでも気高く、高らかに。
手の甲に王太子さまからのキスを受けて、気が付いたのは。
ひとりの命も奪わずにすでに敵国を制圧した、ヴァーノン神軍の声が飛び交う中のこと。
それは特別で大切な。『海の妃殿下』を讃え、感謝を叫ぶ声だった――――。
『海の妃殿下の 歌声で たくさんの 勇気が
わいてきました!』
『海の妃殿下と 王太子さまが まるで 戦う わたしたちの すぐ目の前で 応援して くださっている かのよう でした』
『海の妃殿下の 歌声は きっと はげましと いやしを
人々に 伝えるもの なのです』
『なんて 綺麗な歌声 なのでしょう!』
賛美の言葉を一身に受けて、海の王女さまはあることに気が付く。
今自分が歌ったのは。
――――それは紛れもなく、「綺麗な歌」だったということ。
彼女は知った。
この国は、その何もかもが祖国とは逆。
これは双子神を思い、祈りを奏でる歌ではない。
しかしこの歌は、誰かを守り戦おうとする、誰かを愛する人を讃えるための歌。
双子神を讃える歌と何も変わらない、『人々を癒す清く美しい歌』だったのだと。
そして、民に気持ちを届ける私の歌声も。私を囲む素敵なものたちも。
それらは変わらず、ここにもあり続けたのだということを――――。
『これは なんて…… なんて 綺麗なお歌 だったのかしら』
白磁の頬を、一筋の涙が流れる。
今まで『素敵なもの』と『綺麗なもの』をたくさん与えられてきた彼女が、自分自身の手でそれを見つけ出した瞬間だった…………。
「…………と、読めたのはここまでなの」
パタリと本を閉じる。そう、私が現時点で読めているのは実にここまで。
「ごめんね、ここってまだホントに序盤なのよね?ものすごく続きが気になるところで終わっちゃったわ。次会えるまでにもう少し読んでおくから」
おそらく第何章にも分かれているこの本の、プロローグを終えてまだ第一章。
……そのうち、起承転結の「転」までを終えたあたりだろうか。
リアムにとっては、語るにも少なすぎる場面であるに違いない。
「ううん、ルシアちゃんとってもすごいよ! ここまででお話ししようよ。
毎回ちょっとずつ。次の楽しみにもなるから!」
リアムはそれでも不満さの欠片も見せず、愛らしい笑みを浮かべて私を見上げ、ニコリと笑いかけてみせた。
可愛いな、本当に可愛い。
脳が指示するより前に、勝手に手が動いて頭をなで回していた。
彼を目の前にしてなでずにいられる人間などこの世にいるまい。
リアムの優しいお言葉に甘えて、この範囲内で語り合うことにした。
「あなたが『この本をきっと気に入る』って言った理由、今ならよくわかるわ! まず単純に、お話として面白いし。
それからこの海の王女さまって、女の子が憧れるプリンセス像そのものじゃない? ストーリーにもキャラクターにも魅力があって、続きを読ませる本よね」
海の王女さま。彼女は素敵なお姫さまだとつくづく思う。
キラキラ可愛らしく、あらゆる綺麗なものを集めて形づくられたような容姿もさることながら、活路を自ら切り拓いていこうとする強さも美しい。
愛されるべくして愛されている方だ。
エレーネの民のみならず、これからヴァーノンの皆からもより愛され、大切にされるプリンセスになってゆくのだろう。
「強さ」を感じ得るのは、やはり彼女が誰かのために自分の安寧を犠牲にし、知ろうとする・行動しようとする描写がなされているからに他ならない。
人間としても女性としても尊敬できる人物である。
「リアムがこの本を気に入った理由も、わかるつもりよ。
読んでいて何度も、『ああ、リアムに似てるなあ』って思ってた。他国で独りで頑張れる強いところも、素敵なものを自分で見つけ出したところも」
得意気に頷きながら、確信に近い回想を語る。
海の王女さまとリアムは、順路こそ真逆の道だったかもしれないけれど。
私はずっと二人を重ね合わせて読んでいた。
……リアムもきっと、エレーネにおける『黒鉄の短剣』や『神軍の歌』のような。
決して受け入れがたいカルチャーショックをその身にたくさん受けてきたのだと思う。
海の王女さまのように、たったひとりきりで。
周りにあった「素敵なもの」を自分で見つけ出した二人。
アシュリー家に来るあの日までは、自分とは違う……環境に恵まれた真逆の人間だと思っていて。だからこそ"どうでも良い本"で。
でもあの日以来、彼を大切に思う人々の存在に気付き。周囲を囲んでいたものを知ったリアムは…………。
主人公は国と国とを入れ替えただけの、順路をただ逆に進んだだけの。自分と全く同じ人間であったと感じた。
私が自分を重ねて読んでいたように、彼もまた同じ境遇の主人公に自己投影していたのではないだろうか。
それこそが私が予測する、リアムのこの本を好きになった理由だ。
暫くの間。一室には謎の沈黙が流れる。
その沈黙が意味したこととは……
「んー…………残念! ハズレだよ!」
…………わりと自信満々に言ってのけた私の大予想は、ものの見事に的外れだった模様である。
「えー!そんなぁ……」
「ふふ。でもね、重ねて読んでたっていうのは当たりかな。
ボクはね、海の王女さまはルシアちゃんにそっくりだなあって思って読んでたんだよ?」
「え? いや……え?
待って待って、どこが似てるの………?」
私の当然の疑問に明確に答えがもらえないまま、話は進む。
「それにね。ボク未だに、このお姫さまはボクとは真逆の子だなと思ってるよ」
え? 先程の疑問よりも、こちらの方が意外だった。
「ボクは自分で気付けたわけじゃないからね。アシュリーさんやエイミーさんに面倒を見てもらって、ルシアちゃんと過ごして……たくさんの幸せをもらって、そこで初めて周りに目を向けられたから。
この子はひとりぼっちの中で、それこそ自分で選んで積極的に行動して。結果素敵なものを勝ち得てる。立場は似てたかもしれないけど、ボクとは全然違うよ。
だからボクは今、このお姫さまをすごく尊敬してるんだ」
…………うん。リアムの言っていることはよくわかる……。
しかしその至極真っ当な意見の中、どうしたら私と似ているなんて考えに至るのか?
肝心な答えが全く見当もつかない。
考えが全部顔に出る私を見て、リアムは愛おしそうにくすりと笑う。
「じゃあこうしようよ! 『海の王女さまがルシアちゃんと似てる理由』。
次に会える時までの宿題ね! こんなにも似てるんだから、きっとすぐわかるよ!」
「えーっ…………わかる気がしない……」
本当にわからない。しかもヒントはなしだった。
しかしリアムのお願いを断るわけにもいかず、それを承諾するしかなかった。
何がどうしたらそう思えるのか……?
私の読解力が試されているのか。
結構とんでもない宿題を課せられてしまったが、奥が深いこの作品だ。楽しむ過程のひとつとして、それを考察してみるのも面白いかもしれない。
……ただ。唯一引っかかることがあるとすれば、「王国」や「王太子」という記述だ。
リアムはこれを"古い本"だと言っていた。時代背景を考えれば、帝国時代に創作されたはず。
ヴァーノンをより正確に描写するならば、「帝国」「皇太子」との記載の方が適切であるように思う。
しかし、何度辞書と照らし合わせてみても、やはり「ヴァーノン王国」「王太子さま」という訳で間違いないようなのだ。
歴史の授業でも習ったこと。
西の大国ヴァーノンが帝国であった期間とは、季節が八百巡る間。
以前リアムから聞いた通り、大昔は王国だったようだけれど…………。
装丁は朽ちてはおらず、保存状態も非常に良かった。
まさか遥か昔の王国時代をモチーフにした話ではないだろう。
(だとしたら。これが古いと言っても、仮に数十年前くらい。比較的近年のものだとすれば……リアムのお祖父様が始められた、「新時代」の王国のこと?)
会話を交わすうち、靄ついていた思いが疑問へと変わる。
(いや……それとも。作者が当時暮らすのは紛れもない「ヴァーノン帝国」だったけど。ファンタジー性を持たせるために、あえて現実には存在しない「ヴァーノン王国」を描いたのかな……)
……しかしファンタジーを演出したいのだとしたら、いったいなぜ?
海の王女さまは、黄金の髪に深海の瞳。
ディアナ王女その人のようにそっくり。髪の長さが違うものの、当然アーロン王子にも似ている。
そんな海の王女さまの、相思相愛の君。
ヴァーノンの王太子さまもまた、まるで彼の自画像を模写したかのように。
ふわふわの亜麻色の髪に、透き通る金色の瞳。
――――"リアムにそっくり"なのだ。
『エレーネ王族』と『ヴァーノン王族』。
……いや、『ヴァーノン皇族』がおそらく正しいか…………。
両国の王家の特徴を、やけに忠実かつ緻密に描写しているのである。
確かに双方ともに現実味がないほど美しく、物語の題材にぴったりなのはわかる。
けれど架空のお話を創るにあたって、彼の方々をこうもリアルに描き起こす必要があるだろうか?
例えば、海の王女さまを「金髪に緑目」にしたりだとか。
ヴァーノンとエレーネをモチーフに据えているだけであれば、実際の国名を匂わせたりせずに、よく似た全くのおとぎの国を創っても良い。
設定上というだけでなく、まるで本当にリアムや王女王子両殿下のご先祖さまをそのまま描いたかのよう。
挿絵を見るたびに、どうしてもリアムやディアナ王女、アーロン王子。叙爵の際に拝謁したクラウス陛下……。
実在の両家の人々の姿がちらつくのだ。
……それから連想すると、余計な心配かもしれないのだが。
軍国主義であったヴァーノン帝国において、皇族を勝手にモデルにした本など書いて、この作者さんは大丈夫だったのだろうか。
エレーネ王国はこと文学や芸術に関連することであれば、創作活動全般におおらかだ。……平和ボケしている、ゆるいとも言える。
当時のヴァーノンに表現規制があったのかはわからないが、厳しい検閲やら不平等裁判やら、投獄沙汰になっていなければ良いけれど……。
こんな素敵な物語を書く人の、その身に害が及ばなかったことを願わずにはいられない。
まあ、今それを考えていても仕方がないか。
疑問は多々残るが、リアムに問うことはしなかった。
――――なぜわざわざオリジナルの国や設定を創らずに、『エレーネとヴァーノンの王族』を題材に適用したのか?
ひょっとしたらその疑問こそが、物語の根底に関わる重要な設定なのかもしれない。
……まだ全然読めていない以上、ネタバレはなし!
自分の力で読み込んでいきたい。想像をふくらませて楽しみたいのだ。
「海の王女さまは、きっとこれからヴァーノンで幸せに……なっていくのよね? 王太子さまとのラブストーリーになるのか、それとも尊敬される王族として幸せになっていくのか…………。
甘々エンドにはならないとしても、きっとハッピーエンドを掴んでくれるんでしょ?」
「ふふ、どうかな? 読んでのお楽しみだよ!
大丈夫、きっとルシアちゃんも最後まで楽しんでくれる内容のはずだから」
私の読破した範囲内でのみ、話をしてくれる気の利いたリアム。
やがてこの一室には。
私がスープを食しながらも切れ味鋭く考察を展開し、リアムがそれに意味深なヒントを呟くという、心の底から物語を楽しみ合う二人の姿がそこにあった。
感想を語り合い、一緒に本の世界に身を浸す。
次から次へと話したいことが沸いてくる。
ああ、なんて至福のひととき!
歓談に花を咲かせる声は、暫し止むことはなかった――――…………。
――――――――――――
楽しい時間はあっという間で…………。
秋の昼下がりの空は、澄んだ水色の板模様に少しずつ赤の色素を色付かせつつある。
王都に鳴り響く昼ニの鐘。午後15時の合図。
その優雅な音は、別れの時間が訪れたことを告げていた。
「……もうこんな時間ね」
父様との約束の時間。
日が落ちるのも早くなった季節柄、もう長居は禁物。
西の辺境までは想像よりずっと距離がある。
途中に獣道や、他の貴族様の領地である林、丘などを突っ切る道中。
男爵家の紋章入りの馬車で、それも招待された王城からの帰路で。遊びすぎによる事故など起こすわけにはいかない。
名残惜しいけれど、次回を楽しみにして帰るとしよう。
「今日はありがとう、リアム。楽しい一日だったわ。まだまだ語り足りないし残念だけど、また今度付き合ってちょうだいね。
次までにはもう少し読んでおく。宿題もまじめに考えてみるから!」
なるべく寂しさを出さぬよう、お気楽な顔で。
「ううん、ボクの方こそありがとうだよ!
ボク、とっても楽しかった!」
彼はこういった時、幼さを感じさせない。
私の表情の理由がわかっているようで。
明るく愛らしく、聞き分け良く。膝からパッと降りる。
そこでくるりと振り返ったリアムは。
……天使の微笑みでこちらを見つめていた。
「じゃあ、お別れのごあいさつだね。
ルシアちゃん、今持って来るからちょっと待ってて!」
言い終わらないうちに、例の子猫の足音を立てて軽やかに走り出すリアム。
「持って来る」との言葉からして、今きっと私へのプレゼントを持って来てくれるのだろう。
――――わかっていた! それは読んでいたぞ、リアムよ!
絶対に「ごあいさつ」などと銘打って、何らかの贈り物を用意しているであろうことは予測済みだ!
なんと言っても、大した行事でもなんでもない、私の誕生日というただの平日を「特別な日」とか言っちゃう子だからな……。
私の相手をせざるを得ないだけの今日でさえ、そのうち「一緒に遊べた記念の日」とか言ってくれるんだろう。
教育が行き届いている優しい子だものなあ…………。
こればかりは学習した私。今日はちょっとした品を用意してきている。
手ぶらで行った前回、色々なおもてなしを受け続ける一方で、若干後悔していた。
身分差的にも、招かれている立場としても。貰いっぱなしは流石にまずい気がする。
バッグから取り出したそれを持って、宮から眺める景色を楽しみながら。
リアムが戻って来るのを待っていた。
「お待たせ!」と言いつつ彼が戻ったのは、意外と早かった。
でもそう言えば、今私がいるのはリアムの私室の一部。
応接間で過ごさせてもらった前回と違って、行き来が早いのは当然かもしれない。
「リアム、実はね。私も今日はお別れの品を持ってきてるのよ。
はい、これ。料理人の皆に手伝ってもらったから多分大丈夫だと思うけど……お口に合わなかったら無理しないでね」
少し息が切れている彼より先に、手に載せた包みを差し出す。
アシュリー男爵領のお菓子担当さん二人と、料理長ギリスの完全監修のもと作成した――――お手製クッキーだ。
変に凝って大失敗し、渡すものがなくなっても困る。
そのため彼らに相談に乗ってもらったところ、「お嬢様がご自信を持って作れるものを、手を込めて作りましょう」という話になり。
前世今世ともに、それなりに作成経験のあるクッキーを作ることに決めた。
我が領地の誇る隠れた特産、ストロベリー・ラズベリー・ブルーベリー・クランベリー4種をふんだんに使用した一品だ。
まずはクッキー生地にベリー果汁を染み込ませた、赤紫の色合い鮮やかなもの。
お次はクリームにベリー果汁を混ぜ入れたものも。
こちらの種類はベリークリームでクッキーをコーティングしており、これはクッキー2枚でベリークリームを挟んである。
続いて、これは贅沢にベリーそのままをトッピングした。
ミニパティのように食べ応え抜群。
最後にゴロゴロに切った果実を、生地とクリームに混ぜたもの。
豪快なザクザク食感が楽しめるはずだ。
これら5種類のクッキーを、それぞれ2枚ずつの計10枚。
なかなか美味しそうに仕上がった自信作である。
なぜか一切の反応が聞こえて来ず、そんなに嫌だったろうかと少し不安になる。
しかし、ふと顔を上げて視界に映ったのは。
……真顔を両手で覆い隠し、天を仰いで感動にうち震えるリアムの姿だった。
この子の琴線がわからない…………。
「ルシアちゃん、ありがとう…………ボク、大事に食べるね。
1年につき1枚ずつ。お祈りしながら大切に食べるから」
「いや長っ……! 2枚目食べる前に全部腐るわよ、それ……!
今日か……せめて明日中に全部食べて、ね?お願いだから」
そんなペースで食す類のものじゃないわ! 保存食か!
せっかくわりと上手にできたクッキーがとんだ毒物に変わってしまう。10年越しの焼き菓子とか怖すぎる。
先程の聞き分けの良さはどこに行ってしまったのか。
なおも渋りながら、何やら黒と金色で細工の施された立派な棚にクッキーを保管しようとするリアムを、懸命に止める。
どう説得しても可愛らしさを上手に駆使し、逆に私を説得しようとしてきて収拾がつかなくなりかけたが、「明日までに食べないならもう作ってきてあげないわよ!」と本当の弟を叱るように言ってみたところ、嘘のように一瞬で呑んでくれた。
結構馴れ馴れしくいった方が、この子には効果的なのかもしれないな。覚えておこう。
それにしても……もう! 可愛いんだから…………!
クッキーの袋をテーブルの片隅に、大事そうに置いたリアム。
その後手には、何かを隠し持っていた。
「じゃあ、これはボクからね。
はい! お別れの挨拶とありがとうの気持ち。今日の『約束のしるし』だよ!」
「わあ……! 可愛い!
これ貰っちゃっていいの? ありがとう! 大事にするわね」
その片手にふわりと包まれていたのは、……小さなテディベア。
赤の布地で縫製され、ぬいぐるみサイズのお洋服を着ている。
左耳の部分には、これまた小さな「えんじ色のリボン」が結ばれてあった。
私達だけにわかる『約束のしるし』。
だが誰が見てもあらかじめデザインされたものであるかのように、よく似合っている。
赤色のからだをしているのは、リアムはもしかして私を連想したのかな。
私の赤には、紺色が引き立つ。この子にもきっと似合うはずだ。
屋敷に帰ったら右耳に紺色のリボンも付けてあげよう。
とても可愛らしく、嬉しい贈り物だった。
さっきリアムにも言ったけど、ずっと大事にしたいと思う。
「ありがとうね。今日帰ったら早速この子の名前を考えるわ。
次に会える時には、本の続きの感想と、決まった名前を聞いてくれる?」
「うん! 楽しみにしてるね!
……じゃあ、ちょっぴり残念だけど今日はさよならだね。この宮の外までしかボクは行けないけど、お見送りするよ!」
あどけない表情はどこへやら。
整った顔つきを引き締めたリアムは、急に紳士の顔へと変わる。
静かに手を差し伸べて、爽やかに笑んだ。
「では、お手をどうぞ。 レディ!」
―――――――――――――――
私の左手を軽く握り、右手は腕に捕まらせ。
私のバッグは当然のようにもう片方の腕で持ってくれて。
ゆっくり歩いてくれているのは、私の歩調に合わせてなのか。
……洗練された物腰に、こっちはドギマギしっぱなしである。
どうしてそんなにさも平然としていられるの!
優しく握られた手。腕に反対の手を半強制的に絡ませられているため、上半身がほぼ密着状態だ。
領地では有難いことに皆から大切にしてもらってはいるけれど、それはあくまで「妹」「娘」的存在として。
レディ扱いなんかしてくるのはリアム一人だけだ。
意中の相手以外にこういう振る舞いをすべきではないってこと、まだよくわかっていないみたいだ。
もう少し成長すれば自然と理解してくれるだろうか。
廊下ですれ違ったり、クローク付近で待機していてくださった使用人さんたちには、今日のお礼を言って宮をあとにした。
……真っ赤な顔を隠しながら。
とても微笑ましいものを見る目をされたが、あれはきっと幼い主人が他国で楽しそうに過ごしているのを見て、嬉しく感じているだけのことだろう。
そう思いたい。
「平常心」と心に念じ続けたものの、全く効果はなかった。
顔が赤らんでいることが自分でもわかるが、全然引いてくれない。
だんだん慣れてくる頃をまるで見計らうかのように、「ルシアちゃんの手ってすべすべだね」とか言ってくるから。
こんなの誰にでもやってたらいつか大変な目に遭うぞ、小悪魔小動物め……。
リアムが連れて来てくれたのは、ガーベラ宮の噴水からもう少し行った先。
……ちょっと彼の「出歩いても良い範囲」をオーバーしている気がしないでもない。まあ、これくらいなら諸侯さま方も大目に見てくださる程度だろう。
なんだかんだ言って、しんみりした空気が漂う。
次に会うまで、あと1ヶ月。素敵な友人同士にしては、その時間は少しばかり長い。
そんな中。
「ルシアちゃん。さっきのくまさん、ちょっと貸して?」
突然、リアムがそう言った。
「え? ええ……」
よくわからないままに、バッグにしまわれたテディベアを取り出して渡す。
彼はそっと受け取ると、愛おしそうにそれを眺め。
……筋高い鼻を、テディベアの鼻にくっつけた。
私はと言えば、何をしているのか状況が掴めない。
手放すのが少し惜しくなったのかな、とぼんやり考えていた。
鼻と鼻とをくっつけ合って、やや暫く。
リアムはありがとうと言いつつ、両手で返そうとしてくる。
それを受け取ろうと、片手は肩にかけたバッグを押さえ。
もう片手を伸ばして――――
――――次の瞬間。鼻にひやりとした感触が走る。
視線を落とせば、リアムの両手に包まれたテディベアの鼻が。
私の鼻にくっつけられていた。つい先刻、目の前の彼にそうしていたように。
そのまま手中にあるテディベアの口元を、私の口に落としてきたリアム。
触れ合ってこそいないものの、ほぼ彼の口近くにあったそれを。
唇同士ではないため、水音はせずに。
トンと軽い音を立てて、数秒。
何も反応できぬまま、静かに離れてゆく。
「――――っ!? ちょ、ちょっとリアム…………!」
「…………えへへ」
顔に熱が集中してゆくのがわかる。
完全に弄ばれた心臓は不整に脈なり、悪戯そうに、しかし余裕ありげに笑む彼を上手く叱れない。
「くまさんに代わりに任せちゃった。
次を楽しみにしてるね! ……じゃあまたね、ルシアちゃん!」
―――――――――――――――――
「ルシア。おかえり、楽しかったかい?」
「え、ええ…………。……あ、リアムも父様によろしくって言ってたわ…………」
領地を出発する前に約束していた通りの、城門付近の薬草畑入口に立っていた父様は、つい先程娘の身に巻き起こった出来事などつゆ知らず。
いつもの人当たりの好さそうな顔を湛えて、のんきに今日の感想を問うていた。
そのような父に向かい、何があったのかをバカ正直に話せやしない。
ともすれば王宮のド真ん中で絶望の境地に立たせてしまいそうだ。
「ルシア、どうしたんだい? こころなしか顔色が赤いみたいだけど…………も、もしかしてどこか体調が悪いんじゃ……!?」
「ああ……いや、違うのよ。さすが王族のための宮よね、もうこの時期から暖炉がカンカンに焚かれてあったの。
ちょっと気温が高めだったから、まだ身体がそれに慣れてないのね…………あはは……」
スラスラと考えてもいない嘘が出てくることに自分でも驚く。
余計な心配をさせるわけにはいかないので、良しとしよう。
卒倒でもされたら困る。自分の無意識に感謝だ。
その後何を話したか、何を出してもらったか。
リアムは今日もいかに愛らしかったか――――そんな他愛もないことを話しながら歩いていく。
道が自然に頭に入った、故郷の道のりは早かった。
夕闇をもうじき迎えようとしている馬車広場。
辺りを包む、人々のざわめきが耳に心地好い。
ロニーはもう着いており、メンテナンスを終えたであろう毛並みの整った馬車馬の前で、パイプをふかしていた。
……黙っていればイケメンなんだよなぁ、ホント…………。
女性の視線を集めるその姿は、王都の雑踏の中、切り取りの一枚絵となっていた。
「あ、お疲れーっス」とひらひら手を振るロニー。
軽い態度と声色からは想像もつかないほど、私達に気が付くと手早く無駄のない動きで出発の準備を始める。
私達二人が乗り込むまで、生きているはずの馬が繋がれた馬車はビクともしなかった。それだけ彼の手綱を信用しているということか。
態度こそ飄々としているが、やはり信頼の置ける使用人たちである。
馬車に乗り込んだあと、対面に向かい合う父を前にして、例の件を思い出した。
「そう言えば父様、あのことどうだった?」
私の問いかけで父様も思い出してくれた様子。
そうだったと呟きながら、ひらりと一枚の書類を懐から出す。
「ああ、全部調べがついたよ。きっと私だけじゃなく、ルシアも一緒の方が皆様お喜びになるだろう。
今度一緒にご挨拶に上がろうか」
私が頷いたのを見て、柔らかに表情を崩す父様。私宛てのその書類を手渡してきた。
それをバッグにしまい込む、私の体勢が安定したのを確認して。
天井を指の関節でノックする。
それを受けて、馬車は緩やかに煉瓦の街並みを抜けてゆく――――…………。
今日はとても充実した一日だった。
どうか願わくば、こんな穏やかで楽しい日々がいつまでも続きますように。
「私」がルシア・エル=アシュリーの運命を背負わずとも済む、
学園シンデレラの登場人物たちと一切の関わりを持つことのない毎日が、ずっと続いていきますように…………。
……おそらく私の行動とは関係なしに、破滅をもたらし得るだろうディアナ王女は特に!
悪役令嬢(仮)とは言え、出生から貴族令嬢ではなくて本当に良かった。
少女漫画や乙女ゲームの悪役令嬢というものは、伯爵家以上の上級貴族であることが得てして多い。
そうであれば学園に入学する以前の問題で、家同士の付き合いや社交の場などで、誰かしらの登場人物と関わりを持たざるを得なかったかもしれない。
一方この私は、平民上がりの男爵令嬢。
肝心の爵位持ち貴族である父様は、出世よりインドア生活を好む生粋の引きこもり。
誰かの出世の手がかりにも、目の上のたんこぶにもなり得ない。
当然、登場人物たちと優雅な繋がりなどあろうはずもない。
今のところモブやサブキャラを含め、誰とも会ったこともない。
会って顔を見さえすれば、モブであっても流石に気付けるはずだ。
人相を変えるレベルの変装や、偽名を使われてでもいない限りは。
そう。私はこれ以上の交友関係など望まない。
尊敬する両親と、信頼できる使用人に側近たち。家族だと思い合える領民のみんな。
そして、乙女ゲームとはなんの関係もない、素敵な友人のリアム!
リアムは似ていると言ってくれたけれど、私には海の王女さまのように『素敵なものに囲まれた立場』を投げ捨ててまで、自ら新たなものを見つけようとする気概は持てないのだ。
…………そこに死亡の可能性さえ含まれる、破滅の危険が伴う未来予測が、確かに存在するのだから。
でも実際のところ……どう転んでも、彼らと接点が生まれようがない。
学園シンデレラの「ルシア・エル=アシュリー」は、攻略対象に無謀かつ自意識過剰にもアプローチを仕掛けまくり、ヒロインをいじめようとしたがために、舞台の片隅に上がってきただけ。
そうでもなければ、ゲーム内でも本当にただのモブで終わっていたはずである。
現在家や親の繋がりからも、彼らとの関係性など心当たりもない。
何も目立たないようにしたり、地味に暮らすことを心がけるまでもないだろう。
攻略対象たちと他人のまま。
相手方が「ルシア・アシュリー」にも「アシュリー男爵家」にもご興味を示されることなど、今も学園入学後もないのだから。
私から接触を取ろうとしなければ良いのだ。
大切な領地で、ずっとずっと平穏に暮らしていよう。
時折こうしてリアムと会話できる機会が貰えたら、それ以上のことは何もない。
これからもずっと平和に。幸せに過ごしていけますように!
やがて馬車は人工物の森を抜けて、紅黄色のコントラストが車窓に映る。
少し窓を開けると、芽吹丘は風に揺れ。
金木犀の香りが優しく鼻孔をくすぐった………………。
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