とある本に重ねた二人の回想
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ただそこにいるだけで良かった。
自らの呼び名は、『特別』な価値ある存在であることを現していた。
しかし、祖国にもこの国にもない"海"に喩えられた自分の立場は――――いつしか『異質』という意味を示していた。
海の王女さまは「海の王女さま」であることを、自らの手で放棄したのだ。それが皆の反対を振り切り、価値観の異なるヴァーノンに嫁ぐという行為だった。
でも、お姫さまはまだ「海の王女さま」のままでいた。
周囲を見渡せば、そこにはたくさんの『素敵なもの』と『綺麗なもの』があるはずだった。
いくら手を伸ばそうとも、もうそれは見つからない――――――。
胸を抉る絶望。引き裂かれる痛みと共に、彼女は自分が『海の妃殿下』になってしまったのだということを知る――――…………。
物語の外側。本を読むことで、その世界を覗き込んでいるだけの傍観者である私にとっても、海の王女さまが感じた痛みは容易に想像できた。
目の前で繰り広げられている悲劇のように、情景が浮かんで見えてくる。
…………海の王女さまがたどった、立場の分岐点という運命の道筋。
今この場には、彼女と同じ道を歩んだ者が二人いる。
ヴァーノンからエレーネへと……たった独り留学に訪れた、海の王女さまとは真逆の順路を進んだリアム。
そして、そこに「義務」などなく。ただ愛されるべき存在で。
好きに過ごしていれば良かった『商人』から――――
領民のため。時に自分の時間を犠牲にして、誰かの幸せのために貢献する義務が求められる『男爵令嬢』へと。
知らずに岐路をまたいで進んできてしまった。
私、ルシア・アシュリーだ。
わずかばかりしか読めていないながら、この本が最も大切でお気に入りの一冊になった、と胸を張って言えるのも。
「海の王女さま」と自分とをつい重ね合わせていたから、というのが大きい。
今リアムと一緒に目を落としているこの場面は――――
私に当てはめるとすれば。
両親と共に初めて領地に挨拶回りに行った、あの日だろうか。
すでに立場が大きく変わってしまっていることを、わかっているつもりで。
その実、真に自覚していなかったあの日のこと。
領地に引っ越す直前まで、憂鬱な気持ちでいっぱいだった。
馬車の中で転生時の契約ミスに気付いたりもした。
「貴族」になりたいという意味ではなかったのに!
しかし、気付いた時にはもう手遅れ。絶対に通じていないだろう、転生担当の神様に思いを馳せることしかできなかったっけ。
――――貴族になってしまったこと。頭では理解しているつもりでいた。
その"つもり"が、あの反感を自ら引き起こしたのだと今ならわかる。
私達はまだ「心は平民」のままでいた。
いや、今でもそうではあるのだが。
でも『立場が異なることを理解した上で、平等に接する』ということと、『自分の立場を自覚していない』ことは全く違ってくる。
…………領民の皆の引きつった顔。ありありと思い返せる。
どこか不自然で、違和感が一層外出の疲れを感じさせた。
そして出会った。あの5人に。
領民は、見知らぬよそ者を疎んでいたわけではない。
皆が真に警戒していたのは、……領地の新しい「為政者」。
――――今度はいったい何をされるのか?
私達の姿に、領民を痛めつけ……クローディア伯爵様の財産を搾取してきた、代官の面影を重ねていたのだ。
そうして思い返せば、あの挨拶回りは根本の部分を間違えてしまっていたのだろう。
無神経で無防備、かつ無自覚であったのだと思う。
私達は、あの瞬間。
すでに領民の目から見て、「新しい為政者」。
――――「貴族」だった。
対して、もう立場が変わってしまっていることを自覚していない当時の私達は、「近場に越してきた対等な商人一家」くらいの認識でいた。
そう。お姫さまがヴァーノンに嫁いでなお、「海の王女さま」のままでいたように。
あの日感じた違和感は、その認識の齟齬から生じたもの。
そう考えれば、あの投石事件は起こるべくして起こった。
求められるべき立場になりきれていないがゆえの、"決定的な変化"を具現化した事件だったと言えよう。
……リアムは、どうだったろう?
海の王女さまに自分を重ね、回想に浸ったあと――――次に重ね合わせたのは、リアムの姿だった。
(あの話しぶりからすると、ヴァーノン本国にいた時も何度か読んだことがあるんだろうな。でも心には響かなくて)
(エレーネ王城に来た時、一緒にこの本も持って来た。そして王宮でも……私達に出会う前にも、何度か読んで。
何も感じなかったはずの本は、アシュリー商会から帰還したあと、何より『特別』な本に変わった――――…………)
私の勝手な推測に過ぎない。
けれど一節を読み終えたベッドの中で。
想像した彼の心情は、紛れもない事実であるように感じられた。
リアムもきっと、自分とよく似た――――しかしそれは真逆の――――海の王女さまの境遇に、自分を重ねて読んでいた。
「……最初にこの本を読んだのは、エレーネへの留学が本決定した日の夜だったかな。あらすじは知ってたんだ。だからきっとボクの今の思いを、そのまま表してくれてる本だって思って。
でも、全然違った」
私が何かを言葉にするより先に、リアムが思いのたけを口走る。
「ボクとはホントに"真逆"の子だ、って思ったよ。
ボクはエレーネでもヴァーノンでも『殿下』のまま。
立場が変わったことを受け入れられずに悩むのも、周りには『素敵で綺麗なもの』が変わらずあるのに、それに気が付かないでいることも…………。このお姫さまは、贅沢だなぁって」
予想はかくして、当たっていたようだ。
彼を抱きしめる腕の力が自然と強まる。
リアムは、ヴァーノンでは大切な『殿下』だった。
人によって、それは『皇太子殿下』だったり、『王太子殿下』だったりはした。
そしてエレーネへ送られた彼は、ここでも『友好化の一手』だった…………。
リアムにとってそれは、立場の変化とはとても言えない。
彼はどちらの国にいようとも、忌み嫌う呼び名。……『殿下』であることに何ら変わりはなかったのだから。
立場が変わったのを"嘆くことができる"。
そんな海の王女さまを、自分とは全く異なる存在だと。共感できずにいたことは想像に難くない。
この子はやはり、当時の心境が顔にリンクする節があるようだ。
だが今のリアム自身が落ち込んでいるわけではない。
少しうつむいていた彼の頬を、片手を離してなでる。すると先程の表情が嘘のように、たちまち表情が色付いていった。
そして、「やはり」と感じたのはもうひとつ。
リアムはやはり、海の王女さまの周りに変わらずあった『素敵で綺麗なもの』。
それに気付いて読んでいたようである。
まあ……それも当然か。
ヴァーノンで生まれ育ったリアムにとって、そこに描かれることとは、自然な文化。
言わば日本人にとっての「人に会った際は何を思うより先に会釈してしまう」「家では靴を脱いで過ごす」というような認識と同等なのだろう。
海の王女さまの周囲は、『素敵で綺麗なもの』に満ちあふれていた。
なつかしい祖国の思い出を巡らせては寂しさに落ち込む、海の妃殿下。
悲しみのベールにくるまれたお姫さまを取り巻き、物語はこのように続いてゆく。
一緒にヴァーノンのお城へやって来た、幼なじみの召使たち。
彼女たちは海の王女さまのために、毎日色々な「素敵なお話」を聞かせたり、「綺麗なもの」を見つけて来たり。
大切なお姫さまをなぐさめて差し上げたいと、一生懸命だったのだ。
海の妃殿下もまた、召使たちのお話が大好きで。
ささやかななぐさめでもあり、毎日の楽しみだった。
ずっと自分に想いを寄せてくださっていたという、王太子さまの愛情だけを信じて過ごす……心寂しい毎日。
そんなある日のこと。おしゃべりの召使がひとつの話を聞きつけてくる。
『海の王女さま! ご存知でしょうか。
わたし お城の 兵士さんから いろんなことを 教えて
いただいたんです』
『この国では 黒鉄は いちばん 大事な 鉱物 なんだとか。 とっても 硬くて とっても 強い。
海の王女さまの ご先祖さまが、 王太子さまの ご先祖さまに 授けたもの らしいのです。
だから 黒鉄は、 ヴァーノン王国で いちばん
特別な 宝物。 ヴァーノン王族の みなさましか 身に着けては いけないもの なんですって。
ああ、 それって なんて 素敵なお話 なのでしょう!』
それに対抗して、でしゃばりの召使はこう続ける。
『わたしは こんな お話を 知っています!
この国には 「護り刀」という 伝統が あるのだとか。
ずっと ずっと この家に いてほしいと 願った お嫁さん。
その方 だけに 贈られる 特別な短剣 なんですって。
ああ、 それって なんて 素敵なお話 なのでしょう!』
彼女たちが語った全容は、お姫さまの悲しみを全て打ち壊してくれるものだった。
ヴァーノンにおいて黒鉄は、前述の通り最も貴重で特別な鉱石らしかった。
調べても国交が途絶えていた国なだけあってか、なかなかそれらしい記述が見つからなかったのには辟易したが…………。
ようやく発見したのが、創始の神話の一端。
初代ヴァーノン国王である、"青年ヴァーノン"の前に顕現した女神エレーネは、以前リアムが教えてくれた宣告の御言葉と共に、「黒鉄の剣と盾」を授けたらしいのだ。
やがて年月が流れてゆくにつれ、いつしか黒鉄はヴァーノン王族のみに相応しい、神聖の御石とされたそう。
次に、「護り刀」と呼ばれる文化。
これは文中にも軽く解説があった。……おそらく本を読む大多数、平民の子供たちに向けたもの。
これはヴァーノンの上流階級に古くから根付く風習であるらしい。
男性側のご両親―――主に姑であることが多い――が認めなければ、決して贈られることはなく。
その家のご正妻になってほしいと願われた方にのみ、旦那さまから贈られるプロポーズの品。それこそが短剣なのだとか。
武芸や修練を美徳とする、ヴァーノンらしいロマンがつまった「婚約指輪」だな、となんだかときめいてしまった。
「黒鉄の短剣」とは……エレーネ王国にいた時のように、そばにあってはならない穢れた鉱物でも、女性に相応しからぬ品でもなかった。
それは海の王女さまが気高きヴァーノン王族の一員であると、真に認められたあかし。
そして……あこがれの王太子さまが、自分を心から想っていてくれたことを証明する宝物だったのだ。
『なんて…… なんて 素敵な贈り物 だったのかしら』
『わたしは もう 海の王女さま《Regina Maris》 じゃない。 この 素敵な贈り物に 王太子さまに ふさわしい 海の妃殿下《Prinzessin von Meer》 だったんだわ!』
短剣をぎゅっと抱きしめるお姫さま。
彼女の覚悟を受けて、漆黒のそれは月光に輝いた。
海の王女さまが、真実『海の妃殿下』になった瞬間だった――――…………
…………時は流れ、海の妃殿下はヴァーノンの公務に積極的に携わるようになっていた。
『わたしは 海の妃殿下。 ヴァーノンの 国民の みんなの ために なることを たくさん たくさん やりたいわ!』
ある日彼女は、王太子さまが大佐をおつとめのヴァーノン神軍の訓練を見学に訪れていた。
その時、刹那の出来事。
一本の槍が宙を舞った。
東西に広いヴァーノンの、一番の西側。
神軍が国境沿いに来ていることを知った、西の小国の敵襲だった。
王太子さまの命により、すぐさま戦闘態勢を整えるヴァーノンの兵士たち。
そうしている瞬間にも、敵の雄叫びの声は段々と大きくなってくる――……
それはかつての彼女であったならば、目を覆いたくなる惨状。
決して深海の瞳に映したくない、穢らわしい……疎むべき「力の応酬」のはずだった。
しかし果たして、海の妃殿下の口をついて出たのは――――…………
……なんて卑しい、哀しい歌なのかと一度は思った。
ヴァーノン神軍を讃える歌だった。
□次話はちょっと甘めな展開に!




