海の王女さま
■第6回アイリスNEOファンタジー大賞において、銀賞を受賞いたしました!ひとえに皆様のおかげです。ありがとうございます!
□「活動報告」を更新しました!
これからどんな暮らしが始まるのか?
ときめきのベールにくるまれたお姫さま。
王太子さまに優しく迎えられ、永遠の愛を誓うキスと共に。
その日「海の王女さま 《Regina Maris》」から、――――『海の妃殿下 《Prinzessin von Meer》』になった。
しかし彼女を待ち受けていた現実は、思い描いていた理想とは違っていた。
『ある日 海の妃殿下は ヴァーノンの 騎士たちから 黒鉄の短剣を 献上されました。
それは 王太子さまから お妃になった 王女さまへの
いちばん 最初の 贈り物』
『しかし、どうしたことでしょう?
海の妃殿下は とても とても 悲しそうです』
また、次の一節ではこう続く。
『海の妃殿下は お歌を唄うのが 大の得意でした。
天空の国に いると言う 彼女の ご先祖さまを 讃える歌。
ヴァーノンの 国民のみんなは それを聞いて 喜びました。
「素晴らしい! ぜひわたしたちに お歌を唄って 聴かせて ください」
みんなが 望んだのは みんなが 大好きな ヴァーノン神軍を 讃える歌』
『しかし、どうしたことでしょう?
海の妃殿下は やっぱり とても とても 悲しそうです』
「まずは序章のここね。装丁が豪華だから、もう少し小難しい物語かと身構えてたんだけど…………ヴァーノン語辞典と見比べてみても、易しい表現が多くてわかりやすかったわ」
少しページを遡る。
栞の代わりに押し花を挟めてあるその箇所は、この先の波乱や苦悩を予想させて。
まだまだ読めていないながら、読解していて最もドキドキを感じさせたお気に入りの部分だ。
パラパラとページをめくり、指で指し示しながら感想を述べる私に、「うんうん、それで?」とリアムは楽しそうに脚を揺らして寄り添っていた。
語り合うより先に、どうやら私の所感を聞きたいらしい。
……商会の書斎で本を読み聞かせしている時も、こんな感じだったっけ。
彼の知らない物語を聞かせているあの時とは違い、彼はすでにこの本を読了してしまっている。
それでもリアムは、私の話……いや、話ともつかない徒然な感想を。まるで初めて読む名作の絵本のように、金色の目を輝かせて聞いてくれていた。
「ねえ、リアム。
これ、ヴァーノンの名前しか出てきてないけど――――
『海の王女さま』の出身国って、エレーネ王国のことよね?」
「すごい……!ルシアちゃんはやっぱり、本を色々考えながら読んでるよね。
ボク、初めて読んだ時はなんにも思わずに読み飛ばしてたよ」
リアムは相変わらず全肯定してくれる。可愛い。
私の訳自体がまるっきり間違っている可能性も有り得るので、あくまで推測の域を出なかったが、これで確信できた。
そう。
海の王女さまの出身国とは、我が国……エレーネ王国のことだ。
「ヴァーノンの隣国」「とある海のない内陸の小国」という表現や、「天空の国にいる、海の王女さまのご先祖さま」との記述からも明らか。
『海の王女さま』のタイトルがエレーネ文語体で表記されているのも、隠喩なのだろう。
そのうえ…………この童話風の物語の中、ふんだんに彩られた挿絵の数々。
そこに描かれた海の王女さまは、『ディアナ王女にそっくり』なのだから!
お会いしたこともないはずのその容姿を言い当てるのも不気味だろうから、リアムにはそれを言わずにおく。
しかし海の王女さまの御姿は、乙女ゲームの立ち絵で幾度となく眺めてきた、ディアナ・フローレンス……まさに彼女そのものなのだ。
同じ血を受け継ぐ女性を描いている以上、似ているのも当然かもしれない。
美しい金髪に青の瞳。
それこそが、エレーネ王族に代々受け継がれる特徴なのだろう。
「このお話、ただの子供向けの本じゃないわよね。
エレーネからヴァーノンに嫁いできたお姫さま。
『今までと変わらない素敵で綺麗なもの』を信じていた彼女が突き付けられた…………痛々しいくらいの強いカルチャーショックが、まざまざと描写された物語なんだわ」
「………………」
リアムは口元だけを微笑ませたまま、ふっと瞳の光を消した。
すぐに目線を戻し、私に悟られぬよう意識して表情を明るくしたけれど――――
その一瞬見えた顔色の意味を、私はすでに理解していた。
序章からわかる通り、ある日海の王女さまは「黒鉄の短剣」をもらう。またとある日は国民が愛する歌を唄ってもらえるよう、その歌声を望まれる。
それは王太子さまからの初めてのプレゼントであり、国民や使用人たちも親しく接してくれていることがよくわかる一節だ。
だがそれを喜ぶことなく、嘆き悲しむお姫さま。
しかし、それもそのはずである。
エレーネ王国において短剣とは、軍部に所属する下士官以上の者か、騎士爵を有する者のみが持つことを許されたもの。
騎士道を志す方でもない限り、高貴な女性が短剣を持つことは有り得ない。
また、貴族教育の初期過程で学んだことだが……伝承によれば、女神エレーネと王神ロイは「冷たい金属」を疎んだという。
よってエレーネ王族を双子神の末裔と祀るこの国では、特に「黒鉄」は、王族の方々に近付けてさえならないものとされているらしいのだ。
そして、次節にある「ヴァーノン神軍を讃える歌」。
……これは海の王女さまにとって、残酷な現実を初めて直視した場面だったのかもしれない。
エレーネでは、軍学よりも哲学。軍歌よりも聖歌が好まれる。
世界が隔たれてなお。
双子神がかつて治めた『始まりの国』に住まう民として。彼らをいつまでもそばに感じ、想い続けるために。
いつかリアムは言っていた。
――――「だって、そうでしょ?エレーネ王国は、『双子神ありき』。考えることに意義を見出す哲学も、言葉の洗練を楽しむ詩や音楽も。
エレーネで楽しいとされることは、ヴァーノンではくだらないと云われること。その逆もそうだよね。それに、ヴァーノンで今まで"正義"だったことは、エレーネでは"悪"。何もかも、価値観が真逆のところ」――――
エレーネ王国の王女として、祖国や民を愛し生きてきたお姫さまにとって――――軍という「武力」を賛美するヴァーノンの在り方は、彼女の何もかもに相反する考え。
『悪』を賛美しているかのようにすら感じる、決して受け入れがたい概念だったに違いない。
あこがれの王太子さまのお妃さま。立派な大国のプリンセス。
夢見たその場所には、彼女が望む『素敵なもの』『綺麗なもの』は何一つ存在しなかったのだ。
『こんなのって ぜんぜん 素敵で綺麗な ことじゃないわ!』
『わたしを 海の妃殿下《Prinzessin von Meer》と 呼ばないで!
わたしは 海の王女さま《Regina Maris》よ!』
海の王女さまは、独り深い絶望に包まれてしまう――――…………。
「海の王女さま」をエレーネ文語体で、『海の妃殿下』をヴァーノン語でわざわざ書き分けているのには、おそらく狙いがあってのことだ。
作中にあるように……エレーネ王国にいた頃のお姫さまは、瞳の色や民を愛する心の美しさから、敬愛を込めて「海の王女さま」と呼ばれていた。
大切なものを、珍しいものや手に入りにくいもので喩える詩的表現は、今の時代にも通ずる。
内陸国のエレーネの民たちが、誰より大切で特別な存在である姫君を、自国では見られない"海"に喩えたのはしっくりくる。
どことなく情緒的で、エレーネらしさを感じさせる。
それはつまり、ただそこに在るだけで価値のある存在だという比喩。
「ここだけは確信してるの。
『Regina Maris』から『Prinzessin von Meer』。
これって、単に呼び方や言葉の違いじゃない。
もう『海の王女さま』ではなくなった…………明確に立場が変わってしまったことを現してるのよね?」
たどたどしい舌遣いでの発音。
慣れないヴァーノン語も、リアムはちゃんと聞き取ってくれた様子。
そして、彼も私のそうした発言を期待していたようで。
私に甘えてくる時とは違う、聡明な顔つきに。
その顔のまま、気が高揚しているのがわかった。
「やっぱり、さすがルシアちゃんだね!きっと読み込んでくれるって思ってた。ボク、そこについて誰かとお話ししてみたかったんだ……!」
リアムの整った顔つきは、時折幼さに緩む。
愛らしくも真剣な眼差しで語られる彼の所見には、私の求めていた意見や後押しの全てがあった。
「ボクもルシアちゃんとおんなじ意見。『海の王女さま』は、それまでの自分の立場をぜーんぶ捨てて、新しい自分にならざるを得ない決断をしちゃってたんだよね。無自覚……っていうより、たぶんなんにも考えずに。
ヴァーノンに来た時点で、もうお姫さまは『海の妃殿下』だった。もう立場は変わっちゃってたんだ。でもお姫さまは、まだ『海の王女さま』のままでいた――――
ルシアちゃんが読んでくれたところは、彼女が変わりきれていないがゆえの、違和感が書かれている部分だよね」
エレーネ王国にいた頃は『特別で大切』という意味があった、その呼び名は――――
ヴァーノンでは『異質』な存在へと変遷していたのだ。
明確に立場が変わっていてもなお、彼女は未だ「海の王女さま」のままだった。
この序章はリアムの言う通り、そこから来る齟齬が痛ましく描かれている。
そこに彼女が望んでいた、『素敵で綺麗なもの』は存在しなかった。
――――しかし……彼女の周りには、素敵なものと綺麗なものがたくさん、たくさんあった。
今までとは違うけれど、今までと同じように。
それは海の王女さま………いや、「海の妃殿下」をいつも囲んでいたのだ。
…………私は。
この物語がリアムにとって、「最初はなんとも思わない普通の本」だったこと。
エレーネ王宮に帰還したあと、とてもお気に入りの一冊になったと話してくれたこと。
そして、「きっと気に入ってくれるはず」と私にこれを託した意味――――。
それをなんとなく、理解できていた。




