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男爵令嬢の領地リゾート化計画!  作者: 相原玲香
第一章 〜リゾート領地開発編〜
46/91

感謝と花向けのトロイカ



 侯爵様手描きのイラストは雑案とは思えない美麗さで。

王家お抱えの設計工人が考案したと言われても、きっと誰も疑うことはないだろう。



 赤と深緑のタータンチェックが施されたキルトのようなデザインに、レリーフにされた騎馬の紋章が入ったもの。


ロイヤルブルーの車体に、薄い水色の金具とシノグロッサムの紋章がアクセントになった、レースふんわり紫のカーテン付きの馬車。


ある一つは、えんじ色の車体が丸みを帯び、シャンデリアの形状になっている馬車。紋章はクラウンをかぶったライオンだ。


またとある案は、温かみのある木製の馬車で。紋章はおそらくライラック。ちょうどこの領地の関所の色合いに似た、クリームイエローに塗られていて………………。



 眺めているだけで楽しく、惹き付けられる魅力にあふれている。

これらに乗ってテナーレの素朴な町並みや、美しいエルトの森を駆け巡る興奮。

目に焼き付く芸術風景への感動は、どれほどのものだろうか!




 「馬車ガチャ」。

あえて規則性を作らず、何が出るのかわからない。

 ガチャとはなんぞや、とわざわざ皆に説明するまでもないかもしれない。

このワクワク感はきっと全世界共通のはず。感覚的に理解してもらえるのではないか。


 その日ご予約のお客様に割り当てられる馬車を、それぞれ担当する馬車係が選択することにして……。

 ううん、馬車係1人につき1台ずつ、専用車を決めるのも良さそうだ。各自の愛着と誇りが強まるし、サービスの向上にも繋がる。

 ゲーム性を持たせても良いかもしれないな。なんなら係のみんなで、ルーレットやダーツで決めるのもアリである。



 領地内を日々闊歩する、バラエティに富んだ馬車の数々。

馬車係のみならず、他の領民の皆も見ていて楽しい。


騒々しく、自然を打ち壊してしまうような。不必要な開発物ではなく。

それは領地を静かに引き立て吹き抜ける、彩りの風。

「今日はあのレア馬車を見たぞ」「おっ!オレのお気に入りの馬車だ!」……と、皆のちょっとした毎日の楽しみにもなってくれるだろう。



 そうだ、今ふと思い付けた名案。

侯爵様の仰る通りに、完全なるランダムにするのではなく。

まさに馬車ガチャ。

『☆4レア馬車』『☆5スーパーレア馬車』を設けるのも面白そうだ。


 ☆4のレア馬車なら、例えば10人目ごとに運行するのはどうだろう?

☆5のスーパーレアは……なるべく条件を厳しく設定して。その中でくじ引きをするなど、何か不確定要素を持たせよう。久しぶりに領地全体会議を開き、皆で詳しく決めるとしようかな。

 運転する人も見る人も、乗っている方も。誰もが楽しいものに。


 これは単なる移動インフラではない。

 馬車自体がプラスアルファの一大サービスとなり得る!

 

 


 そして。

やがていつかは、このエレーネ王国に。

口コミでリゾート領地の噂が広がる時がきっと訪れる。

 


 最初は、実際に訪れた人同士で感想を語り合う。

この「馬車」だけに限っても、実にたくさんのご感想をいただけることだろう。


 おそらく平民のお客様は、「馬車になんて初めて乗った」「まるでお貴族様のような扱いだった」と、夢心地の興奮を。

 貴族のお客様だったなら、「観光とは勝手に歩き回れというのが恒かと考えていたが、普段通り馬車で移動できたのが良かった」「まさしく『第二の領地』を『第二の領民』の運転によって巡っている気分になれた」という、より深い観点からのご意見を。


 ――――そしてそのうち。

乗った馬車のフォルムについてのご感想だけが、見事に。

互いに喰い違ってしまっていることが判明しだす。


 そこで初めてお客様方は、やって来る馬車に多種類が存在すること。どうやら個々に違う馬車が、不規則的に利用されているらしいこと。

西方のリゾート地には、……まだ見ぬ隠しコンテンツが眠っていたことに気が付くのだ!


 きっと話題は沸騰する。色々な目線、側面から。

この全く新しい『観光リゾート領地』がスポットライトを当てられることになるだろう。



 考えれば考えるほど、アイデアの泉が湧き出てくる。


 楽しいばかりではない。実用面でも素晴らしい。

運用してゆく馬車がたくさんあるのなら、馬車係の従業員を拡充することもできる。これまではひとつの馬車だけだったため、最低限の人員に抑えていた。馬車を運転できる領民はもっといるのだ。さらなる雇用拡大に繋げられるではないか。

 領地全体がより活気付く一手になる。


 今日のこうしたご提案の機会に授かれずとも、もしいつか領民たちから、馬車に関して似たような案が出ていたとしたら。

私達一家の目がこんな商機を見逃すわけがない。金に糸目を付けず、すぐさま導入していたはずだ。

 それを無償でいただけるだなんて…………!


 まさに領民のためとなるのはもちろん、お客様のためにも、そして私達アシュリー家のためにもなる。

なんて有難いお申し出なんだろう。


 これほど素敵な贈り物が他にあるだろうか?

ドートリシュ侯爵様への感謝の思いでいっぱいである。

有難いことに、閣下は私達に感謝してくださっているらしいけれど。感謝は同じように、『感謝』で双方に返ってくるものなんだなあ。


 

 領民の皆もきっと目を輝かせて喜んでくれるはず。

 まずはあの5人に相談してみようかな。馬車係のヒューゴと、リーダーのジェームスに先に話して……。






 「…………ルシア?……ルシア」


 そこまで考えた時だった。

正気を取り戻したらしい父様が、視線はこちらには向けず、声も出さずに。前方の侯爵様に目を合わせたまま。

口の動きで私の名前を呼んだのがわかった。


 なんだろう、珍しいな。

私は考えていることが全部顔に出る。相当上機嫌に思考を巡らせていたのは、正面に対する両親には丸わかりだったはずである。

 普段なら私が機嫌良さげにしている場合、父様はしまりのない幸せそうな顔をして見つめているだけ。わざわざ思考や発言を遮るような真似はしないのに。



 なおも口だけを動かして何かを伝えようとしているようだったので、注視してみる。急に読唇術講座が始まってしまった。


 一発では読み取れず、こちらは手で『もう一回!』とハンドサインを送る。

それを受けて、何度か同じ言葉を繰り返してくれた父。

 5回目くらいでようやく。それが何を意味しているのかが伝わった。


『ルシア。…………喜んでいる場合ではないよ。私達はまだ、謝罪が済んでいないんだから』



 そうだった……!父様が正気に戻ってくれて助かった。

『ナイス!』と手の動きで伝えておく。


 話の本題が逸らされてしまっていた。

謝らずとも良い、と言ってくださるのは嬉しいけれど、それで贖罪になったわけではないのだ。

 私達はそもそも、今素直に喜んでいて良い立場じゃないんだった。



 しかし。

首を上部へ傾け侯爵様のお顔を拝謁すれば、そこに映るのは。

先程までを彷彿とさせるキョトンとした表情で。

またしても不穏な気配が一室に漂う。


 …………なんだこの「ふりだしにもどる」みたいな状況……。


 だから私達は、一切合切社交の場に行ってないことを謝ろうとしてるってのに!



――――『言わずとも良い、私の耳にもしかと入っておるぞ。貴殿らアシュリー家は、今日に至るまで一切の社交の場に顔を出していないということ。相手方の家格や爵位、内容を問わずしてな』


『実に素晴らしいことだ!皆口々に褒め称えているではないか』


『私はいたく感心しているのだよ!』――――



 これらがよもや言葉通りの意味ではあるまい。

散々なご無礼を働いておいて、謝るべきことなどないというその真意もわからない。

すっかり侯爵様のテディベアと化した私が、膝上から見上げたまま。

にわかには信じがたい疑を問うた。 


 これは単純な嫌味なのか。はたまた高度な嫌味なのか?

その二択。さあどちらだ!


 …………そんな意味合いで聞いたはずだったのだが、返答は予想だにしないもので。

「なあに、説明するまでもなきことだろう」

……侯爵様はそう前置きして、本当になんでもないことのように。

さも当然と言わんばかりに、ここ最近の私達に関する評判をお話しし始めた。



事のあらましはこうだった――――



―――――――――――



 顔を合わせ、貴族同士交友を図ることで、より良く運ぶ事柄であるならば。社交というものは非常に重要な役割を果たす。

それがやがて子供の幸せな婚姻に結び付いたり、後々間接的に領地や領民に利益をもたらすことにも繋がる。

 決して不必要なものではない。


 あくまで仕事を円滑に進めるための、業務の一環として。また、出世を自ら勝ち取っていくための手段として。

夜会や茶会は極めて有効な好機となり得る。



 互いに信頼し合える人脈を構築するために、そういった場を活用しようとするならば良い。

貴族同士であれば、社交の場でもなければ普段滅多にお会いできない友人がいたりもする。

 それが夫人や令嬢の気晴らしになり、令息の親交を深めることになるならば、なおのこと。


 だがそれは最たるものではないだろう。また、何より優先すべき「貴族の仕事」でもない。


 貴族の仕事とは、領民や国民が豊かに暮らせるよう努めることにあるのだ。

それを領民の労働によって得られた税で、買い漁り、着飾り遊び。

社交と称しただけの散財をするようでは意味を為さない。


 嘆かわしいことにも……社交の場にせっせと顔を出すことで、まるで「仕事をしている気」になってしまっている貴族がいるのもまた事実。

 しかし、それでは本末転倒ではないか。




 お話の中で初めて知ったのだが。

意外なことにもドートリシュ侯爵様を始めとして、そうしたお考えを抱く貴族様は少なくはないのだとか。


 噛み砕いて言えば。

「社交界とはあくまでビジネスの場と捉えるべきだ」

「パーティーやらお茶会に"積極的"に参加するっていうのは、なんか違うだろ」という方々が。


 そう言えばこの世界における貴族とは、「双子神に選ばれた『王』のもと、『国』のために働こうという意志を持った人々」から発祥しているんだったっけ。

 武勲や目立った功績で成り上がった一族とはそもそもの起源が違う。

 贅沢を是とせず、国と民のために働く。

まさに貴い一族であらんとする、遠き日の祖先から続く信念を忘れていない方々が、今もなおたくさんいらっしゃるということだろうか。



 「しかし貴殿らがいざ伝手を創らんと……当然あふれんばかりに舞い込むはずの招待を、積極的に受けて回るのはやむなしと見越していた。それこそ『領主就任』等の名目でパーティーを開催し、私に声がかかるだろうことも、また想定済みであった。

何しろアシュリー家には、貴族としての人脈が無い状況。また、せっかく男爵家の称号を得た身だ。貴族の権利として、そういった場にぜひとも参加したくお思いだろうとな。ご興味を持たれて当然と思っていた」


 苦笑しつつそう語る閣下。

その瞳には未だ見当違いの、私達への感心の眼差しが光っていた。


 やれ赴任祝いのパーティーだ、やれお礼のお茶会だと。

せっかく貴族になったのだから。

「アシュリー男爵家もしばらくは、"積極的"に開催する側の貴族となるのであろう」

「近郊にお住まいでゆかりもあるドートリシュ閣下エクセレンシー・ドートリシュには、度々お声がかかるのではないかね?」

――――と。



 なんでもしばらくの期間、そういったお考えの貴族様方の間では。

半ば諦観。半ば期待。

私達の動向を気にかけられていたのだとか。

 


――――――――――――


 ところが蓋を開けてみれば。

アシュリー男爵家は、何一つの余計な「社交」に参加する素振りを全く見せず。

誰も何も教えやしなくとも、領民の幸せを願い、領地を統治する責任者であろうとする、『貴族である』とは如何なることかを理解している様子だった。

 

 それはいただいたご返信を見ればよくわかる。   

彼らは尊敬に値することに、褒賞金を自分たちのためには使わなかった。

領民たちに安定した仕事を与えるべく、『観光リゾート業』なる事業を始めるためにつぎ込んだらしい。

領地の未来のためにも、その仕事に専念したい。心苦しくも参加できないということだった。



 各家に届いた手紙を見比べると、皆品格を認め、感心する他なかった。

どれもこれもが違う文面で、謝罪の言葉や招待への感謝の思いが丁寧に綴ってあるのだから。

 やがて、彼らが以前商会を営んでいたという情報を知った貴族の誰かが、親戚の宮廷貴族が所持していた、かつて部下の僚人へと提出されたらしいアシュリー商会のとある届けを発見した。


 そしてその筆跡を鑑定し、アシュリー男爵のものと全く一致していることが判明したのだ。

 同封されていた手紙は、ご夫人やご令嬢の筆跡とも一致していることも。

 つまり一枚一枚の手紙は、その都度推敲してしたためてくださったもの。

使用人に書かせたものですらなく、アシュリー男爵家ご一同の直筆であるということだ。


 お断りの手紙には、「領地と領民」。

そのことが常に理由にあった。

新興貴族家でありながら、貴族が何より大切にすべきもの。貴族の最たる「仕事」とは何か。

それらを真に理解しているのが誰の目にもわかった。



 貴族であるご自覚が、男爵のみならず一家全員にある。

時を待たずして、社交を是とはしない貴族たちから絶賛され始めていた。

 また、社交を好む貴族家や、親切心でお声をかけた貴族家からも。

素敵なお返事からお人柄がよくわかる、いつか社交の場ではなく、領地についてお話する機会が欲しい……と好感を語る声がさかんに聞こえだしていた。



 アシュリー家の評判は。この頃には、叙爵の経緯を知らない者にでさえ。

『貴族の地位に相応しいご一家』『どうして今まで平民のままでいたのかわからない』と、王宮の皆から評されるにまで至っていた。

 その後も彼らはさらに評価を高めていった。



 特筆すべき出来事は、ドートリシュ侯爵が受け取ったという「引越しの挨拶状」。

そこには()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

まさに「挨拶状」であり、「招待状」ではなかったのだ。


 これは驚くべきことだった。

永い大陸の歴史の中で、こうした機会に社交の場を設けないのは前代未聞である。

令嬢の婚約者を見つけ、出世の足がかりを獲得する願ってもない機会のはず。


 貴族たちを驚かせ、ざわめかせたのは。

「最低限の礼節」であると考えていた、『挨拶のための社交』。

――――これは無駄なことだったのではないか?

そんな思い込みに気付かされた衝撃だった。


 現に手紙を受けたドートリシュ侯爵は感心しており、もし受け取ったのが自分であればと考えても、嫌な気はしない。

 前述のような貴族は、こういった場合はやむを得ない社交だと。これまで渋々参加していた。


 社交というものは、相手の時間を奪い自由を拘束してしまう場でもある。

それを必須であるかのように考えていたのはなんだったのか……?

 手紙であるならば、自分の謝意はしっかり伝えられながら、相手を拘束することはない。

何度でも見返すこともでき、その場限りのものとはならない。



 ご一家からいただいた、皆のお断りの手紙。そしてドートリシュ侯爵の持つ挨拶状。

 それらはどれも、お心をこめて書かれているのが伝わって。

読む者の心をも温かくさせた。

 礼節のための、手紙という選択肢。



 今や無駄と贅沢を嫌う貴族たちにより、新たな礼儀として『一に手紙、二に社交』が声高に提唱されている。

 これはまさに、貴族社会にとって革命と言うべき出来事であった――――。


―――――――――――



 …………暫し啞然と。

「は、はあ」「ええ……」という気の抜けた相槌だけを打ちながら、どうにも反応できず聞き流すことになった話がこれである。


 人生どう転ぶかわからない。

それが正直な感想だった。

その他に何も浮かんではこない。いや、申し訳なさとありがとうの気持ちだけはあるけれど……。


 つまり、要約すると。

上手く転んでくれたことにも、私達がこれはまずいだろうな、と考えていたあれこれ。

それらこそ、実は大正解だったらしい。

 今お話しくださった認識でいてくれていたならば、確かに「謝るべきことなど何もない」な…………。



 豆鉄砲顔の理由がようやく飲み込めた。


 ただ、丸く納まっていたのはあくまで結果論。

私達自身には申し訳ないことをしでかした自覚はすごくある。

今の褒め言葉を聞いたところで、赦しを得る必要はなかったとしても。流石に得意満面とはいかなかった。


 自己満足にはなってしまうけれど、とりあえずの形で。

「たとえご理解いただけずとも一応謝罪させてくださいませ」と前置きし、一人一言ずつ謝った。


 相変わらずポカンとしたご様子であったが、向こうも一応の体で謝罪は受け止めてくださった。

なんとなく釈然としない思いが残る中、ひとまず落着である。



 …………今後は何も考えずに引きこもり一択を取るのはやめよう――――


家族三人は目と目で強く語り、硬く誓った――――…………。



――――――――――――――――



 そのあとは譲渡の手続きなどについて、具体的な話が進められた。


 馬車10台を一度に届けるのは難しい、出来上がったものから順次お届けするがよろしいかね、と問われた。

よろしいも何もあったもんじゃない。こちらは贈っていただく立場だというのに。

 赤べこ人形のごとく首を上下して頷く他なかった。


 

 負担額については、馬の購入費用も含め全額侯爵様が負担してくださるとのこと。

恐縮しきりだったが、「心ばかりの感謝の気持ち。そしてエドへの花向けのためだ」と言われてはもう返す言葉がない。

 当然の範疇である、今後の維持費だけを負担していけば良さそうだった。

 

 

 肝心のデザインについて。


 ――――せっかくの贈り物だ。

悪戯そうに笑う侯爵様は、デザインをその時まで内緒にして贈ってくださるそうだ。

 このままの原案でも素晴らしい。でも実際に設計されてみると違った印象にもなりそうだ。

それにここには10個の案は描かれていない。発送までのお楽しみになりそうである。


 どんなものが送られてくるのか、期待に胸をふくらませることにした。




 

 おおよその目処がつき、また紅茶と茶菓子も底をついた頃。


 蒼く輝き日の光を伝えていた空が、紫色の雲を連れて来た。

雲と急かされたように帰り支度を始めた太陽は、自身の光を橙の色合いへと変えて。

 カラスが鬨の声を上げる。対抗してか、ムクドリは甲高く群れの合唱を歌った。


 ――――アシュリー男爵領に、夕刻を告げる合図だ。


それはお別れの時間が間近に迫っていることを、同時に意味していた。



 「…………さて、そろそろ」


 そのお言葉の先に続くのは、惜別を語るものだろう。

名残惜しいが仕方がない。

 私もお膝から立ち上がり、扉の側で待機する。


 従業員の皆を呼びつけるよりも早い。

母様は一礼の後に食器類を軽く片付け、父様は閣下のお帽子と外套を手渡していた。

侯爵様がゆっくり、名残惜しそうに。こちらへ向かわれるのに合わせて、扉を開けて先導しようとした。



 ドートリシュ侯爵領へお帰りになるにしろ、王都邸へお帰りになるにしろ。

今ここを出なくては安全に帰還することは難しい。夕霧や夜霧が馬車馬を惑わせ、事故を招くことに繋がってしまう。


 ……また次の機会は、きっとある。

その時には、クローディア伯爵様が愛したこの土地を。

馬車が軽やかに走り抜ける姿や、領民の皆が生き生き働いている姿、お客様で日々賑わう領地をぜひ見ていただこう。

 そのためにも、今気持ち良くお別れをするのは必須だった。



 こちらです、と扉からいち早く抜けて。

一室から背を向けて廊下へ躍り出た私の頭を、ひんやりと心地よい何かがそっと捉えた。

ふと見上げると、それはやはり侯爵様の手で。


「……今日はありがとうな。今度は我が侯爵領にも遊びに来たまえ」


 モノクルに橙を反射させた、見るも優美なその御仁は。


優しく頭をなでながら、そう微笑んだ。

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