「お礼」。エレーネ語は難しいですわね
「き……期待とはいったい……。滅相もないお言葉にございます…………」
そう返すのがやっと。そんな父様の気持ちはよく理解できる。
恐縮です、と繰り返すばかりの母様の気持ちもまた然り。
実際、本当に滅相もない。
というか心当たりがなさ過ぎるのだ。
先程から感謝のされ通しで、私はとぼけた顔で首を傾げることしかできずにいた。
……これが美少女であれば可愛らしいところであるが、傍から見た今の私は、遠くの獲物を注視している赤いフクロウでしかないだろう。
だがそれは決して、的外れなものではなかったと後にわかる。
私達が領地のために考えたことで、絶対に皆のためになること。
しかし絶対に他者からの理解は得られないだろう、と腹を括っていたこと。
侯爵様はそれについて、何よりの感謝の気持ちを持ってくれていたのだった。
「つい先程、私は申したな。『信じる』とは。
時に何より残酷で、無責任な感情であると――――…………。
愚かな私はそれをよくよく思い知ったつもりでいて、再び同じ過ちを繰り返したのだ」
そんな、と呟く声は私だけから出たものではなかった。
でもその後に続く言葉は見つからなくて。部屋の空気と混じり、掻き消されてゆく。
「この地に派遣予定の代官たち。その業務評価程度には目を通していた。実に優秀かつ勤勉であったようだ。……盲従の無能の上司は、やはり無能。彼等の上司の目が映す限りはな。
私はそれを"信じ"た」
その信頼は、きっと本物だっただろう。
しかしその先に待っていた結末は。
代官たちは……その何もかもを裏切っていったんだな。改めて痛感し、歯を食い縛る。
「私は代官たちを信用した。きっとこの美しき領地を愛す者となってくれると。エルトとテナーレの民、エドの遺した宝を守ってくれると。信じて任せたのだ。
だがそれは…………『信頼』との小綺麗な言葉を借りた、『責任放棄』であった。
……あやつの親友として。近郊に住まう同等格の領主として。そして多少の無理さえ通せる、大臣職を有す高位貴族として。
でき得たはずの権力の行使、精査、罰を恐れぬ"干渉"…………。私が為したこととは、それらの一切を放棄するということだった」
領主代理と言えど、きっとクローディア伯爵様と同じように。
領地や子供たちを愛してくれる。同じ領地に暮らす仲間になれる。
…………そんな皆の期待と信頼、希望。
ことごとく裏切り、傷付け続けてきた代官たち。
やはり、彼らの罪は大きく重い。
彼らが傷付けたのは、領民の思いだけではない。
この美しい領地を。そこに生きる民を。葉波ざわめく森を。
共に愛する目の前の御方。
ドートリシュ侯爵様のお心をも深く傷付け、抉り。皆に消えない傷痕を刻み込んだのだ。
空を覆っていた長い雲が、その頃太陽から引き渡ったのだろう。
窓から烈日の光明が差し込み、眩さは反射的に目を瞑らせた。
次に目を開けた時。
――――なぜか侯爵様の表情は、先程までの険しく顰められたものではなく。
春の日差しに目を細めるような、柔らかな顔付きへと変わっていた。
「エドが他界してからの数年……この領地が失ったものはあまりに多大であった。
その最大の損失とは、すなわち『誰かを信じる心』。
……森は長い時間をかけ、やがてその姿を取り戻せる。懸命に働き、また上に立つ者に恵まれさえすれば、失った金はいつか何倍にもなりその手へ返ってくるだろう。
しかし…………命、そして心というものだけは違う。傷付いたが最後、再生や回復の余地を残さずして。一片のヒビから粉々に壊れ、跡形もなく失われてしまうものだ。失くした信頼や友愛の"心"は、決して元に戻り得はしない」
…………噛みしめるようにゆっくりと語られる、閣下のお話を聴きながら。
私は初めて領地に挨拶回りへ行った日のことを思い返していた。
女性陣やご年配の方はわりと最初から優しかった。
きっとそれは、私という幼子がいたからで。
両親だけで行っていたならば、正直同じ態度でいてくれたかはわからない。
優しく接しようとしてくれていながら、その顔は引き攣っていて。
笑顔で接する、挨拶を交わす。お喋りそうな人ですら、それが「一生懸命」な様子だったっけ。
働き盛りの男性方の態度は、厳しいどころのものではなかった。
目の前で話しかけていようとも、その瞳は私達アシュリー家を見てはいなかった。
それもそのはず。彼らの目に映っていたのは、私達の姿そのものではなく。
「伯爵様のご資産を喰い荒らし、守るべき妻子を貶める敵」。
――――歴代代官たちと重なって見えていただろうから。
口を利いてもらえるようになるまで何ヶ月かかるか。相当な長期戦を覚悟したのを覚えている。
「ほんの一、二年前。国の代表としてこの地を訪れた時分に、目の当たりにした……エルトとテナーレの民たちのあまりに生気のない、濁り淀んだ沼の如き表情。
それは私にのしかかった、重き十字架。あの日は生涯忘れ得ることはないだろう」
そんな矢先。ジェームスたち5人と出会った。
……いや、「出会い」と言ってしまうには、それは少々鮮烈すぎた邂逅だったかもしれない。
あの5人と少しずつ関係を構築してゆく中で、そこにはいつしか絆の種が芽吹き始めた。その芽はやがて、領地中に広がって。
彼らがいてくれたからこそ。
皆がひとつの大家族であるかのような結束も、今まさに私達が過ごすこのホテルも、手にすることができたのだ。
「国や権力への猜疑心、憤怒や遺恨の思い。そして絶望…………。『心』が壊されてしまっていることは見るに明らかだった。その決してさせてはならぬはずの表情は、私をも絶望に染めるに充分。
痛感した。私はなんとも悪質にも、知らずのうちに親友が最期まで守りたかった宝……私にとっても確かに宝と言い切れる、領民の笑顔を打ち砕く、悪魔の所業に加担してしまっていたのだとな……」
侯爵様のお話と私の回想は、まるで全くの別世界。
鏡の国のように相反する世界の出来事であるかのよう。
しかしこれはどちらもこの領地で起こった、紛れもない正史の物語なのだ。
そこまで考えて、ふと気付く。
閣下は『失った心は二度と戻りはしない』と仰った。
しかし今、私達の手中には。
領民の信頼が、互いを思い合う心が。領地を愛し、伯爵様を想う心が。
…………確かに存在しているはずだった。
どういうことだろう?
自問する前に、感覚がその答えを悟らせてくれた。
つまり――――
「――――領民たちの『心』。あやつが愛し、最期まで憂いた何よりの宝。失ったはずのそれを取り戻し、閉ざされた闇にいた者を救ってくれた。
……新たなる種を植えた、と言う方が的確か。遥か昔、この中央の地に叡智という一粒の種が蒔かれ……やがて大陸アトランディアに文明の森が広がったように」
そう、侯爵様のお話はきっと全て正しくて。
領民の『心』は、壊され失ってしまったはずだった。
そしてそれは、伯爵様がご存命の頃と同様には決して戻りはしない。
では。今私達が手にする領民との絆は。
「クローディア伯爵様との間」にあったものとは違う。
私達アシュリー男爵家との間に、新たにできたものなのではないか。
きっと、私達が創り出した新しい『心』。
自惚れとも言えるこの考えを口に出すことはなかったが、まるで読み取ったかのように頷き、その全てを肯定なされた。
「一度崩れ去り、粉々に壊れた信頼の心。ちょうどアイヴィベリーの森が奪い壊されてしまったように、信頼という森は失われ、吹き荒ぶ風が轟々と渦巻いていたはずだった。元に戻りはしないそれは、今確かにここに在り。『アシュリー』という名の木漏れ日を浴び、豊かに肥え茂る。
そなたたちは彼等を守り、導き。そして赦しを与えることで、『心』を再びゼロから。種から創り上げてくださったのだ。救い出されたのは領民だけではない。……この老骨、私もまた然り。これを感謝せずして、何を思えば良いのか」
…………今日何度目か最早わかりはしない。
心がぽかぽかと暖かい。感謝から伝わる感謝の念、「こちらこそありがとう」の気持ちでいっぱいだった。
じんわりと染み渡る感動が、瞳に静かに涙を誘発させる。
父様は何と返すべきか、同じように涙ぐむのを堪えながら、言葉を探しているようだ。
これ以上有難いお言葉をいただける筋合いは何もないため、感傷に浸りつつじっくりと。
そんな折、次に口を動かしたのは。
……事もあろうに、再びドートリシュ侯爵様であった。
「爺は前置きが兎にも角にも好きでな。話が長くなり申し訳なかった。本題に入らせていただくとしよう。
話というのは他でもない!この私から改めてお礼をさせてくれたまえ」
……ん?
いや、お礼だったらもう十分していただいたよね…………?
侯爵様のお言葉を借りるならば、「これをお礼と言わずに何とするか」といったところか。
三人揃って、数秒脳が空転する。
おそらく顔文字のような……しょぼん顔と言うべきか、実にコミカルな表情を以心伝心閣下に見せ付けていることだろう。
脳が検索結果候補を弾き出し、意味を察するまでやや時間がかかった。
そこで私達は、この長い時間全く気が付いていなかった、とある大きな思い違いに気付く。
「今日まであれこれ思案しており、しかし高潔なアシュリー男爵家にこれぞ相応しきと呼べるものは、ついぞ考え付かずにいた。
だが本日の来訪によって、実に良き候補が見付かった!」
「お礼」。
意味は二つある。
感謝の言葉を贈ること。また、それを受け取ること。
もうひとつは、功績や実働に対する感謝を、象徴としてそれ相応の物品を贈ること。
私達は当然、前者の意味だとばかり考えていた。
お礼をいただけることすら、身に余る光栄。
そもそも高位、それも大臣級の身分にある方から何かお品をいただけるなど、本来未来永劫、子孫永代にまで受け継ぐべし"下賜"にあたるのでは…………。
「私からの感謝、深く御礼申し上げる。僭越ながら、領民たちの感謝をも代理しようではないか。…………加えて、贖罪も果たさせていただきたい。
どうか快く受け取って欲しく存じ奉る!
いかがかね?私がぜひ贈りたいと考えるは――――」
――――やっぱり!
両親の顔から一気に血の気が引いてゆく。
青を通り越して白い。
私も嘘でしょ?とつい口まで出かかったが、慌てて押し留めた。
侯爵様の「お礼」って。
恐れ多くも何か『贈り物』をいただけるっていうこと!?




