老秋の朽葉
…………あれは還暦を迎えた頃だったか。
沈黙を破り、唐突に切り出した侯爵様。
「どういった経緯だったのかはもう覚えてはおらぬが、私はあやつと久方ぶりに剣を交えたのだ。私はそれまで、エドに剣で勝てたことなど一度たりとてなかった。幼き時分より負け続けで、よく教えを乞うたもの」
何やら脈絡のない回想に入ったように思え、私は一瞬話を呑み込めずにいた。
だがお話が進むにつれて……それは悲しき衝撃の思い出だったと知った。
「私は奴に向かい突進を図った。もっとも……軽く受け流され、次なる攻撃の起点とされるだろうことは容易に予測が付いていた。しかし…………あやつはあろうことにも……老いぼれの剣を受け止めきることなく、衝撃をまともに喰らった。自らの得物を取り零し……手を痺れさせ、それを拾うことさえできずにいた……」
ご自分の手をじっと見つめる閣下。
それはわずかに、左右に震えていて。
「私が呆然とする一方で……奴は己にただただ愕然としていた。手を差し伸べた私に気付き、すぐに朗らかに笑んでは見せたがな……。見て見ぬ振りをしながら、騙し騙し体調と付き合って来たつもりだったのだろうが……病は刻一刻と、着実にあやつの身体を蝕んでおったのだな」
それは罪悪感に戦慄くものだと、ふと気付いた。
「有り得るはずのなかった敗北の後。どこか憮然とし、確信を遂げた表情で別れを告げたあやつは……綿密な検査を終え、病状は末期的に進行しておったこと。西方防衛の訓練や宮廷での職務から引退し、領主としての務めに専念すると決めたことを……後日私に聞かせてくれた。
そして、エドはこう言っていた。『お前と剣を交わすことなければ、気付くこともなかった。ありがとうな』と」
続く言葉は動揺の音程を奏で、やがて抑揚のない無機質な声色に変わっていった――――
「…………私はな……自分を苛まずにはいられなかった。かつて武勇を大陸に轟かせたあやつにとって、己の身体が病に衰え、全てを投げ捨て一線から退かねばならぬ事実。それは他に勝ること無き、何よりの絶望であったのではないかと……。
私がわざわざそれを悟らせるような真似をしてしまったのではないかとな。
よりにもよって、奴の親友を名乗る私が…………この手で」
――――もう黙って聞いてはいられない。
話の腰を折ることになろうとも、構わない。
聞き入っていた上体を椅子から起こし、腰を浮かせ。
具体的に何をしようと思ったわけではない。
それでも、たとえわずかでも。そのお心に寄り添って差し上げたかった。
この場において多少の無礼が許されるのは、齢十つにも満たない私くらいのものだろう。
おもむろに侯爵様の御前に向かう私を見て、両親が一瞬目を剥いたのがわかった。
何を思ったのか――――突き刺さる視線の意味には気が付いていたが、意にも介さずズカズカと突き進み。
白い手袋に覆われ、細く長く骨張った侯爵様の御手を。
…………両の手で包む。
自分でも何をしているのだろうとは思う。
でもこうすることで、少しでも伝わっていると信じたかった。
伯爵様は、それを恨んでなどいない。あくまできっかけにしか過ぎなかったこと。その時は、いつか必ずやって来ただろう。
むしろ"その時"に一番お近くにいたのが侯爵様で、クローディア伯爵様はきっと心強かったのではないだろうか。
溢れる思いは、私では上手く表すこともできなくて。
「大丈夫です。違いますからね。クローディア伯爵様も、きっとおんなじお気持ちですから」
そう繰り返すばかりだった。
「……………………」
そんな稚拙な励ましを何とお思いか。
手を払いのけることもなく、やがて取り戻した温和なお顔付きで、私を見つめていたドートリシュ侯爵様。
暫しの後に、空いていたもう片方の手を私の両手の上に重ね。
「……ありがとうな、小さなレディ」
――――そのように仰り、笑ってくださった。
こちらも同じ笑顔が自然と出た。
そう、きっと。
その時のクローディア伯爵様は、今の侯爵様と全く同じお気持ちだったはずだ。
なんの確証もないけれど、間違ってはいない気がした。
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「さて…………年寄りの昔話は長いだろう。申し訳ないな。ほんの土産に過ぎぬが、今度はこちらはいかがだろうか。
先にも申した通り、軽く聞き流していてくれたまえ。彼方に聞こえる鳥のさえずり、虫のさざめき。それらと同種に思ってほしい」
あえて重く沈鬱な空気を打ち消すためだったのだろうか。
手土産の紅茶葉を唐突に差し出してくださった侯爵様。
緑茶はすでに全員が飲み終わっており、おそらくその点も気遣ってのことだった。
この程度のことでいちいち従業員を呼びに行ってはいられないし、張り詰めたこの一室内に独り呼び付けられる領民もたまったものではないだろう。
感謝を伝えた上で、有難くいただくことにした。
素早く立ち上がった母様と共に紅茶を淹れ、当然真っ先に閣下へお出しする。
「ほう……こよなしことだ。使用人の手を借りずとも自らが動き、加えてここまでの味を出せるとは。ご一家の煎じた爪の垢を、他の貴族にも飲ませてやるべきかもしれぬな」
本心とは考えにくいが、何やら深く感心され。私達は一様に当惑した。
だがすぐに気付く。
…………そうか……普通の貴族は自分でお茶を淹れたりしないのか……!
なんかこう、取り繕うわけじゃないけれど。
せめて今日だけは貴族らしく、これ以上失望させることのないように振る舞おうと決めていたのに……!
冷や汗が一筋流れ、何とも返せずに硬直する。
……まあ、やってしまったものは仕方がない。
もうわりと呆れられているだろう現時点において、何か取り繕える余地など最初からなかったのだ。
うん、きっとそう!
すぐに気付き、すぐに開き直るアシュリー家であった。
お茶は王都でよく飲み慣れたセイロンだった。
ただそれは、たかだか中流商家の平民が飲んでいたそこそこのものとは違い、ほのかにカラメルのようなほろ苦い麦芽香が漂う、一度もお目にかかったことのない最高級品。
男爵位に授かる今でさえ、私達如きが口にして良いはずのない代物だ。
せっかくの高級茶葉を雑に淹れてしまったのでは……?芳醇な味わいを殺してしまってはいないだろうか…………
「一抹」の不安どころの騒ぎではなかった。
美味だと社交辞令をくださり、穏やかにお茶を嗜む侯爵様の目の前にいるだけで小さくなる思いで。
とても和やかな気分とはなれずにいた。
あふれる美味を存分に伝えてくる舌だけが、今の私達の身体で唯一幸せを感じている箇所だった――――。
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――――そして。
区切られた言葉の先に、どんな話が続いてゆくのかはもう予測が付いていた。
クローディア伯爵様の遺した"宝"。
この美しい領地に住まう民が、味わってきた苦難の記憶。
そしてドートリシュ侯爵様をも苦しめ、ご自分を責めさせた悪史の日々。
いや、あえて表現するならば。
もしかしたら、それは。
天国のクローディア伯爵様がご覧になっていた悪夢だったのかもしれない…………




