友想ふ感謝
左頬を軽やかに覆う、絹糸を思わせるロマンスグレーの御髪。
顔の小皺は老化を感じさせはせず、むしろ冴え冴えとしていて。
むしろ壮年の渋い魅力を演出しており、鼻筋の整ったお顔立ちをより良く際立たせる。
歴年の功績の数々――――まるで、それらの勲章かのようだった。
たなびく織物が如く流れる髪とは、逆側。
右の瞳に輝く、金糸雀色のモノクルに目線を引かれる。
私の目利きはまだ甘い。
しかし、確かな腕前を有する職人に造らせた特注品。純金細工だということは判別できた。
ギラリと主張の強い金ではなく……こうしたなめらかな淡い金色は、相当の鍛錬と技術力なくしては出せないはずである。
縁取りの部分をまだ柔らかいうちに、侯爵家の紋章と覚しき形に彫り込んであり……。
そこへ液状に溶かしたサファイアが流し込まれており、艶やかな文様となって刻まれている。
深緑色の瞳と相まって、実に美しい。
芸術品と言って差し支えのない名品だ。
凛然、そして粛とした、侯爵様の秀麗な佇まい。
その気品を見事に引き立てていた。
想像しては勝手に萎縮していた、尊大で居丈高な御方など。
…………どこにも存在しなかった。
優雅な動作で紳士の礼を取る目の前の御仁は、拝見したこともない若かりし頃のお姿を思わず想起させる、伊達な笑みを浮かべ。
(きっと女性に大層モテたんだろうな、と)
私達一人ひとりにお目を遣って、泰然と口を開く。
「貴殿との再会、そしてご家族にお目にかかれたこと、まこと嬉しく思う。何も私なぞ、玄関先で立たせておいて一向に構わなかった。それをかように扱っていただいて有難い。……御地には本当に頭が上がらないな」
末尾の呟きは、少し掠れて上手く聴き取ることができなかった。
「今日はな、是非ご一家に礼がしたく参ったのだ。少しばかりお時間を頂戴させてもらえぬだろうか」
…………礼?
お礼と言うと……やはり、リアム誘拐事件に関してか。
迷子として王城に知らせたこと。
リアムを一晩保護し、幸いにも体調を崩させることなく、お城に無事帰せたことについて?
万面無事の解決に繋がったのは、国の上層部や騎士団、軍部の方々が夜を徹して努力した結果。
一方その頃、私達は特に深く考えてもおらず、リアムを撫で回して可愛がっていたのみ。
思い返しても情けないが、全く大したことはしていない。
しかし、他に考えられ得る可能性もない。
咎められ……呆れさせるようなことこそあれ、褒められた行いなど万に一つの心当たりもなかった。
いやそもそも、お礼をしなくてはいけないのはこちらの方だというのに!
とりあえずは……私達とお話しがしたくいらっしゃった、という解釈で良いのだろうか。
散々お世話になっておきながら、ご好意をことごとく無碍にしてきてしまったドートリシュ侯爵様からのお申し出。
それを拒むことなどできようはずもない。
私達は一も二もなく、首を縦に振るしかなかった。
―――――――――――――――――――――
何の指示がなくとも、客室係の領民たちは頃合いを見計らって、お茶とお茶菓子のお代わりを運んできてくれた。
調えられた室内の状況、先程侯爵様に出されていたティーセット。
自惚れでなければ、一切のご不満のなさそうな侯爵様のご様子を見るに。
このお屋敷は、どんな上級貴族邸にも決して劣らない。
もう私達が教育すべき、口を出すべきことなど何もなさそうである。
ホテルにご宿泊くださる方々。
普段こういった生活に慣れている貴族のお客様にも、何もかもが夢心地に感じられるだろう平民のお客様にも。
この領地を。そして領民の皆を、気に入っていただけること間違いなしだ。
今私達にも一緒に出されたものは、ストロベリーティーとブルーベリーチップビスケット。
先程出されていたものは……香りから推測するに、領民の皆がよく愛飲している、たっぷりのラズベリー果汁を入れたキーマンに、バターパウンドケーキだったと思う。
「懐かしい味だ」
…………そう呟く声が聞こえた。
まじまじと見つめるのも失礼かと思い、侯爵様にちらりと視線を向ける。
感慨深げなご様子で、舌先の味わいを楽しんでいる。
もしかすると……昔クローディア伯爵様とよく嗜まれたものなのかもしれないな。
――――一瞬、ほんの一瞬のこと。
どこかお寂しそうな表情が垣間見えた気がしたが、……きっと見間違いだろう。
後にして思えば……全員が紅茶に手を付け終わり、ソーサーへカップを戻したのを合図としていた。
四半刻ほど経った頃、侯爵様が再び口を開いた。
「さて……アシュリー男爵家各位よ。改めて、ご多忙の折にこうしてお会いする機会を賜われたこと、感謝申し上げたい。先にも述べた通り、今日は貴殿らに礼をしたく参った」
「ドートリシュ侯爵様……。畏れながら、閣下からお礼をしていただくようなことなど何もございません。むしろ私共が…………」
父様が焦燥を未だ隠し切れない声色で、三人の疑問を。至極真っ当な否定をやんわりと伝える。
しかし、侯爵様は静かに片手でそれを制した。
「良い良い、そのような謙遜は必要ない。そなたたちには感謝してもしきれん思いでいるのだ。なあに、聞き流してくれていればそれで良い。枯れ木も山の賑わいということか…………。仕事が多く、この老体は人並みにこなすにも時間がかかる。なかなか今日まで機会を作れずにおった。突然の来訪となってしまったこと、申し訳なく思う。そんな年寄りの、たかが戯言。適当に付き合ってはくれまいか」
こちらに敬意を払ってお言葉をくださっているのがわかり、心苦しさに心臓が締め付けられる思いだ。
……私達はただ、屋敷に引きこもっていたいだけ。
多忙も何もあったものではないのに。
謙遜して仰っているものの、流石の私達一家もそれを額面通り受け取るほどのバカではない。
陛下からのご信頼も厚く、身分も能力もおありの侯爵様。
責任の重いお仕事をたくさん任されているということだろう。
ご多忙の中お越しくださり、感謝すべきなのはこちらの方だ。
私がそれを口にするのもどうかと思い、会釈だけして黙っておく。
両親は慌てて否定し、今回のご来訪に対する感謝の念を繰り返し述べていた。
ふと視線を感じ――――気が付けば侯爵様は、愛孫を見るかのような眼差しで私を見つめていた。
目と目が合うと、私に軽く微笑んで。
ゆっくりと再び父様に向かって視線を移した――――。
―――――――――
「まずはリアム殿下誘拐の時分のこと。ご一家による殿下の保護、適切な行動により、御身安けき最良の形での収束が叶った。一時は圧倒的な軍事力に秀でた、ヴァーノンを相手取る無謀な戦争もやむ無しかと思われた。せっかく芽生えかけた友好や信頼。それらが一夜にして跡形もなく崩れ去るところを…………アシュリー家の行いによって、エレーネ王国が受けた恩恵は計り知れぬ。国を代表して礼を申したい」
なんて恐れ多い…………。
そこまでの感謝をいただける謂われは何もないけれど、それでも。
心に深く染み入るお言葉だった。
それに――――すぐ間近にいるこの人物は、「国の代表」を許可なく称しても、何の問題もないほどの高貴なる御方なのだ。
そのような方を、今私達はお相手している。
自覚すると同時に、緊張にも身体が引き攣るのがわかった。
侯爵様のお話は厳粛に続く。
「……当時……時局は絶望的であった。私のような耄碌した集団、大臣職。お身柄を確実に隠匿し保護できる腕を有する、専従の騎士と軍人が数名。信頼の置ける使用人。殿下のご相貌を知るは、今挙げた者のみ。特徴を部下の一人ひとりに告げ、くまなく捜させる一方で、報告にも上げさせねばならぬ。会議は迷走し、誰しもが無力感に戦慄き…………。そうしている間にも、ご無事である可能性、生存確率は降下してゆく」
天を見上げ、時折瞳が左右に揺れ。
当時の状況を思い返しているご様子の侯爵様。
「貴殿が現れたとの一報を得た時の、光明が差し込んだかの如き安堵は忘れられぬ。しかも翌日にご帰還なされた殿下は、我らが懸念した事態は何もなく……手厚き保護を受けたことがよくよくわかった。全てはそなたたちご一家の御人柄あってこそ。もし見つけたのが、アシュリー卿。貴殿ではなかったら――――そう思うだけで恐ろしい」
確かに……たとえ誘拐自体が失敗に終わっていたとしても、リアムを見つけた人物が彼に害をなさないとは限らない。
以前考察したように、『誘拐が成功していた乙女ゲームの世界』。
それだけがリアムにとっての「最悪」の世界だと考えていたけれど、思い違いだった。
ありとあらゆる『最悪の事態』の可能性……世界の分岐点は、無限に存在していたのだ。
リアムの身なりに目をつけ、利用しようと企む者だったり。
見つけた当人が善人であっても、連れ帰った先の家族が放置したり、虐めた可能性だってある。
私達はあの日、彼の身分に相応な扱いをしていたとはとても言えない。
それは100ある分岐点のうち、きっと『最良』の世界ではなかった。
だが、数多にあったはずの可能性を思えば……アシュリー家に発見されたことは、もしかすると『幸運』に分類される世界で。
不幸中の幸いであったのかもしれない。
「ご令嬢には特に良くしていただいたそうだな。殿下のお心を癒やし……溶かしてくれたのは、貴女なのだろう」
回想に心を重ね合わせ……険しく強張っていたお顔付きが、優しく緩む。
「――――あの日以来、殿下はよく笑うようになられた。アシュリー家でお過ごしになったことは、殿下の中で大切な思い出となっているようだ。
先日も私にこの領地が新事業を始めようとしているのを、愛らしい笑みで、実に楽しそうにお話しくださった。それまでは警戒されておるのか、目を合わせてくださることもなかったのだ。
殿下のお話の中に、どれほど『ルシアちゃん』の名が出てくることか」
「いいえ!閣下、わたし……私は何も…………!」
私に矛先が向くとは想定していなかった。
咄嗟に適切な返答が何も思い浮かばない。
大きくかぶりを振って、全力で否定するしかなかった。
先程から感じていた温かな眼差しの意味はこれだったのか。
散々撫で回し、抱きしめては膝の上にキープする。
そういった鬱陶しがられても文句は言えないことはした。
……まあ、あの日だけではなく先日離宮に招かれた時も……。
今仰ったような大層なことは何もしていない。
あの子はどこか私を過大評価しているところがあるからな…………。
リアムがオーバーに語る、私の不正評価を信じてしまわれたのか。
わりとロクでもない人間なのに。
申し訳ない思いで胸が詰まる。
答えにつまる私を見兼ねて、両親がフォローに入ってくれる。
侯爵様は、そんな私の反応さえ期待通りと言わんばかり。
優しく頷いていた。
「いいや。全てはご令嬢をはじめ、ご一家がそれぞれ心を砕き、精一杯の献身に努められたことに起因する。これを感謝なくしてなんとするか」
お持ちの杖を人差し指でトントンと叩き、カップに残る紅茶を飲み干す。
その表情は穏やかで、優しい。
「現時点における変化のみならず…………その後、ヴァーノン王家とはちょっとした一悶着があってな。我らはかの国を偶像的に恐れていただけだったのだな。大いなる誤解があったことがわかった。この先の未来、両国の関係は更に密となり、友好の礎が築かれてゆくことであろう。是非とも『ありがとう』と言わせてくれ」
…………心からの感謝というのは、こうも美しく詩情的で。
心が暖かくなるものなのか。
これほどのお言葉をいただけるなど、思ってもみなかった。
「感動」とは今の私達の心情を言うのだろう。
心に感じ入り、心が揺さぶられ動く。
自然と目には涙が滲む。
こちらの方こそ、「ありがとう」の気持ちでいっぱいだった。
食後の一時。
紅茶の甘さを中和する、豊満な渋みが味わい深いブルーベリークッキーに手を付け始めた侯爵様。
そのご様子を拝見するに、―――――どうやらお話はここで一区切りと推測した。
家族三人の視線が交差する。
今こそ本題に入る時――――!
そう。
クローディア伯爵様の土地であった、この美しい領地をお譲りいただけたこと。引越しのご挨拶にも上がらずにいたこと。領民が大変お世話になったことも。
……枚挙にいとまがない。
何のお礼もせずにいた非常識を侘び、手遅れながら最大の感謝をお伝えせねば!
こうして侯爵様とお顔を合わせる機会は、今日を逃せば二度とやっては来ないかもしれない。
まずは全員で誠心誠意、謝罪をしよう。いざ口火を切ろうとした――――
…………その時。
「しかしな」
紋章入りのシルクハンカチで、手袋についた汚れを拭き取る。――――ドートリシュ侯爵様のその呟きに、勢いを削がれた。
目上の方のお話を遮るわけにはいかない。喉まで出かかった声を呑み込まざるを得なかった。
先程までの傾聴の姿勢に戻る。
「来訪の理由はそれではない。正直な話、此度のことに関しては聞き飽きておられるだろうて。貴族という貴族が、アシュリー家の功績を高く評価しておるのだからな。故に先の件は、あくまで国の代表として感謝を述べるに留めておく」
そこで息を継いで…………私達を交互にじっと見据える。
緑陽に映える瞳が揺れ、潤んだような気がした。
私達だけでなく、侯爵様にも本題があったということか。
てっきり今まさに私達が切り出そうとしていた、あれやこれやについてのお説教が始まるのかと身構えた。
……でも、それならば。
一瞬だけ捉えた、あの寂しげな瞳はなんだろう?
「私個人として。アシュリー男爵家へ、奉謝申し上げたきことがあるのだ」
「他に有難いお言葉をいただけるような心当たりなど……私共にはございませんが…………」
母様の困惑はもっともだった。
このわずかな時間の中で思案を巡らし、何らかの勘違いの可能性も含め、称賛されるべき私達の良い行いを再シミュレートしてみたが、一件の該当すらも見当たらない。
しかしそれに明確な解答を示すことはせず。
侯爵様はエレーネ紳士然と、柔らかに笑む。
「お茶のお代わりをもらうとしようか」
―――――――――――――――――
気付かぬうちに時刻はずいぶんと流れていたらしい。
客室係のシフトはすでに切り替わっており、伝達事項を引き継いだ別の領民が新しいティーセットを運んで来てくれた。
父様に耳打ちしていたのを小耳に挟んだが、話が立て込んでいるのを察し、調理を一時ストップしたらしい。
アシュリー家が退室する頃、必要そうであればコースの続きを提供すると。
臨機応変に判断してくれているようで、本当に助かる。
三杯目は、高温で淹れた風味豊かな緑茶。
お茶請けはあずきのプディングだ。
美味に打ち震えるはずの舌先は、気もそぞろ。
満足な味覚を感じ取ってくれることはなかった。
「さて…………本題に入らせてもらおう」
一口、二口。
味を楽しむというよりかは、喉を潤す目的であったのか。
場の空気が音を立てて引き締まるのを、肌で感じた。
「今は亡き友。――――エドウィン・クローディアの名を聴いたことはあるだろうか」
「は……はい。領民の皆から、幾度も。誰もから尊敬される領主様であったと……この地と民を何よりも愛し、また領民から愛された。素敵な御方だったと、聞き及んでいます」
父様がお答えするのが最適だったか。
思わず口をついてから気が付いた。
――――かのお名前を知らないはずはない。
お会いしたことこそ当然ない。
しかしながら、私達にとってもまた。
立派な前領主様であり、尊敬すべき家族のような方でもある。
…………勝手にそう思っているだけだけれど。
「そのように想われて…………あやつも最期まで幸せだったことだろう」
――――その後のことは、言うに及ばぬがな。
自嘲気味に絞り出された呟き。
発言の意図するところを、確かに過去に聴いたはずの記憶から捜し出すまでに、およそ数秒。
思い至るよりも先に、閣下は言の葉の続きを紡いだ。
「感謝してもしきれんとは、まさにこのこと。
アシュリー男爵家ご一同よ。
…………エドの……いや、故クローディア伯の。他の何にも代えがたき宝を、よくぞ護ってくださった。
この老骨、アレクシス・ドートリシュの名において――――深く深く感謝申し上げる」




