もう一つの贈り物、そして宣告の刻
「もうこんな時間かぁ。……………………。ルシアちゃん、今日はありがとう!アシュリーさんもエイミーさんも。お家でゆっくりしたいところを来てくれて、本当にありがとう」
リアムは一瞬俯いて表情を暗くしたが、すぐにパッと顔を上げて。
明るい笑顔で立ち上がり、使用人を呼んでいた。
……無理に口角を上げているのは明白だった。けれど私達は、それを言わずにいる。
私達が後ろ髪を引かれることのないよう、できる限りあっさりと。精一杯淡々と振る舞ってくれているのだろう。
私達が感心しつつ、どこか寂しさも感じながら少し苦笑し。
ゆるゆる立ち上がっている間に、着々と帰宅準備が進められていた。
今日美食を食い散らかして、立派な離宮に招かれ散々お世話になったのは私達の方だ。
こちらこそ、とお礼を言う間もないままに、テキパキ指示を出しこなしてゆくリアムと使用人さんたちによって、あれよあれよと送り出されてしまいそうだった。
悲しい顔を悟られないためになのか、こちらに顔を向けたままのリアムの背中に、話に割り込む形で母様が声をかける。
「リアム、今日はありがとう。お礼を言うのはこちらの方よ」
「本当にお世話になったね。娘のためにここまでのことをしてくれてありがとう。私達夫婦もとても楽しい時間を過ごせたよ。予め取り次いでくれそうな方に、次の出仕の予定を書いた手紙を渡しておくとするよ。今度からはルシアも連れて来るから、また遊んでやってほしい」
二人とも、すっかり口調が戻っている。
微笑むその表情は、実の息子を見る目そのものであった。
きっと私達は今日この一日で、「家族ごっこ」ではなく。
――――本当の家族になれた。
そんな気がした。
私はと言えば。彼からもらった本を入れたトートバッグを、後生大事に胸に抱いて。
真心の重みをしかと感じながら、彼の気持ちを汲んで、寂しげな表情は出さぬよう心がけ。
なるべく能天気な顔を意識しながら口を開く。
「リアム、ごちそうもこのプレゼントもありがとうね!今日はとっても楽しかったわ!この本、大事に読むから。次にまた会った時は、ぜひ一緒に感想を…………」
「あーっ!!忘れてた!待って待って、ルシアちゃんちょっと待ってて!アレ渡すの忘れてた!」
……紡ぎかけていた言葉を、リアムの突如とした絶叫によりかき消されてしまった。
途中で飲み込まざるを得なかった。
今、結構シリアスな雰囲気だったはずなのに。
まあ可愛いから良いのだけども。
それにしても……「渡すもの」って何?
誕生日プレゼントはこうしてここにあるわけだし、これ以上いただけるようなものなど無いと思うのだが。
考えている時間もまた一瞬で、猫の走るような軽快な音を立てながら、少しだけ息を切らせてリアムは戻って来た。
その腕には、――――一冊の本。
今私が持っているえんじ色のリボンがかけられた本よりも、一回りばかり分厚い。
観察する限り、それは辞書か何かのように見える。
「はい!ルシアちゃんにこれも渡そうと思ってたんだ。これがないときっと難し…………いや、ルシアちゃんならそんなことも無いかな…………うーん、その本読むのちょっと大変だろうから。これも併せて受け取ってね!」
息を弾ませそう言いながら、ずいと両手で本を差し出してくる。
「?」
差し出されるまま、つい考えるより先に条件反射で受け取ってしまう。
手にしてからすぐにハッと我に返り、慌てて本を突き返した。
「……え!?いやいや、ちょっと待って!今日は一日好き勝手過ごさせてもらって、プレゼントももらって。そもそも私の誕生日如きをお祝いしてもらって…………。これ以上何にももらえるものなんてないわよ!」
これは何?何名目?
ここで引き下がってしまえば、もう次から次へと新しい本が登場してくるような気さえする。
リアムからの誕生日プレゼントだけで本棚がひとつ埋まってしまうではないか。
押し付けるようにして懸命に手渡すが、彼は後ろ手を組んでしまっており、再び受け取ろうとする気配は微塵もない。
「ううん、それと最初に渡した方の本、1セットだと思って。どのみちその本も渡すつもりだったんだ。『また次』のために、感想を話すために。絶対必要になってくる本だから」
リアムはどうやら、頑として譲る気はないらしかった。
強固な意思が窺えた。
自然と瞼を閉じ、どういう返答が最適かを考える。
暫しの沈黙の末、私は首を縦に振る。
「…………わかった!これも有難くいただくわね、ありがとう。じゃあこうしましょう。最初にもらったこっちは、『約束のしるし』。今新しくくれた本を、『誕生日プレゼント』ってことにしない?」
私の出した結論は、全く別個の名目での贈り物とすること。
再会の約束、リネン生地のリボン。
リボンが本に化けたのだと思えば良い。
二冊で1セットとするその意図は今ひとつわからないが、これならば罪悪感なく受け取れる。
「良いね、さすがルシアちゃん!そうしようよ!――――じゃあ、はい!改めに改めまして。……お誕生日おめでとう、ルシアちゃん」
リアムは私の提案を快諾してくれた。
組んでいた手をほどき、何が何でも受け取ろうとはしなかった本を私の手からそっと持ち上げて。
今度は、誕生日プレゼントとして。
分厚い本を優雅な手付きで渡してくれる。
私もそれを受け取り直し、改めてお礼を述べた。
彼は実に満足げにニコニコとしている。
先程までの落胆と寂しさが滲み出た表情が、まるで嘘のような変遷だった。
同じようにこの本もトートバッグに入れようとしたが、分厚すぎて入らない。
トートバッグを肩にかけて、こちらは小脇に抱えて…………と持つのも、荷物がかさばって面倒だ。
そのため最初にもらった方もバッグから取り出し、二冊とも両脇にそれぞれ抱え、馬車に乗り込んだあとは膝の上に乗せて帰宅することにした。
空はまだ青々と澄み渡り、橙を軽やかに散らす木枯らしの涼しさが心地好い。
しかし雲ひとつない青空は、やがて夕刻の訪れることを、人々に静かに告げるかのように。
端の方から少し、また少しと。薄紅だった細雲をたなびかせ始めている。
懐かしき王都の風。
どこからか薫る銀杏の匂い。平民たちの遠くに聞こえる話し声。貿易商人たちが運んでくる様々な生地、食材、装飾品の立てる音、なんともつかない珍しい香り。馬車の駆け抜ける音…………。
行きはそのような心の余裕もなく、身に感じる全ての感覚が鬱陶しくさえ思えていたけれど。
胸いっぱいに、故郷の空気を吸い込んだ。
洗練された、でもどこか雑然としたその風は。
「またいつでも帰っておいで」
――――なんだか、そう言ってくれているような。優しい味がした。
深々と頭を下げる使用人さんと、笑顔で手を振ってくれるリアム。
こちらも負けじと、ではないが、繰り返し本日のお礼を述べて頭を深く深く垂れた。
その表情は皆、穏やかで柔らかい。
王城の門の方角へ。父様が先導して、ゆっくりと一歩を踏み出す。
そこでくるりと。独りリアムの方に向き直った。
「リアム。また会いましょうね。じゃあ、また今度!」
空にもリアムの笑顔にも負けない、澄み渡る気持ち。
片手側の本をもう片方に移し替えて、重みに少しよろけながら。満面の笑顔で手を振る。
これはまた次に会うための、一時だけのお別れ。
「…………うん!またね!また今度ね、ルシアちゃん!」
その時リアムが見せてくれた表情は。
今日一番の素敵で、愛らしい笑顔だった。
――――――――――――――――――――――
「いや、なんで主人一家を置き去りにして先に帰るんですか!おかしいでしょ……んなことするわきゃないでしょ!」
その後私達一家は、無事にハロルドと落ち合うことができた。
流石の私達も元実家近辺まで行くのに迷うはずもなく。
到着して数分、立ち話をする時間の余裕も持てた。
間もなく停めておいた馬車を曳きながら、ゆるい感じで現れたハロルドと合流。
馬車へ乗り込み、また帰りの運転をお願いして。
スムーズに帰宅の流れとなった。
雑談の中で、「時間を気にせず過ごしていたものだから、先に帰られたんじゃないかと思って焦ったんだよ」「一気に背筋が凍ったわよね」と軽く話していたところ、すかさず飛んできたツッコミがこれ。
「全く、オレをなんだと思ってんスか!そもそも送迎の仕事として来たっつーのに…………置いて帰りでもしたら意味なくない?それもうただのオレの里帰りじゃん」
走行真っ只中の馬車の内部にまで聞こえてくる、ハロルドの独り呟く声。全部拾っていくスタイル。
ガチな感じのキレ方ではなく、彼ら男性使用人三人によく見られる、一欠片のボケも見逃さない総ツッコミ態勢。
相変わらずキレッキレである。
これが他人事ならば腹を抱えて笑っているところだが、私達の発言がどうにも腑に落ちなかったらしい。
心外だ、と言わんばかりに静かに憤慨する彼の声を聞きながら苦笑し、流れゆく車窓の景色を眺めながら、ハハハ…………と乾いた笑いをこぼすことしかできなかった。
悪かったよ、私達が悪かったよ。
領地に帰ったら、とりあえず。
何かおやつを与えておこう――――…………。
――――――――――――――――――――――――――――
領地に到着したのは、森の紅葉が夕焼け空に照り映え、沼が毒々しき美しさの赤紫を映す、日が落ちる直前のことであった。
「……んー!やっぱり良い所よね!ただいま、領地ー!」
王都の空気、領地の空気。
吸い込んでみると味の違いがよくわかる。
どちらも比べようもなく好きだけれど、ここの空気は森が元気に呼吸しているような、森や沼と一緒に生きている実感が沸くかのような。
言わば、自然の香水。
身体に巡り浄化されてゆく、芳しく清らかな匂いがする。
これはきっと、オレンジ色が淡紫色に徐々に染められていく、この美しい領地の空の味だ。
両親やハロルドも、深呼吸して領地の空気を味わっていた。
「今日はなんだか長く感じたなぁ……リアムの離宮から一歩も出ていないにも関わらず、色々なことがあったね。早めにゆっくり休むことにしよう」
「そうね。これからホテルのプレオープンもあるし、忙しくなってくるわ。休めるうちに休んでおかないとね」
鳥の鳴き声、森のざわめき。人の話し声を土が吸い取ってしまう、沁み入る静けさ。遠目に見える真新しく綺麗なホテル。
"第二の故郷"に帰ってきた安心感、そして心地の良い疲労感が、一気に押し寄せてくる。
両親の発言も、似たような感覚から来たものだろう。
今日は本当に濃い一日だった。
泣いたり笑ったり、心が揺さぶられる日だったと思う。
そう、そして「これから忙しくなる」。その言葉もまた事実。
私達、領主のやるべきことはたくさんあるのだ。
これからが本番であると言って良い。
――――そろそろ、もう頃合いだから。
『あのこと』も伝えないといけないしね…………
ちなみに会話の途中、最新の領地情報を手に入れていたリアムの方から、
「領地に『ホテル』っていう、平民も貴族も泊まれて、みんなが貴族の気分が味わえる宿を作ってるんだよね。ルシアちゃんたちが中心になって、リゾート観光業を始めるんでしょ?」と話を振ってきてくれていた。
もう完成したのよ、10月にプレオープンするの。そう告げると、「良いな良いな、すっごく面白そう!」と目を輝かせてはしゃいでいた。
「リアムもぜひ来てみない?絶対に損はさせないわよ」ともちろん彼も誘ってみたのであるが、彼の身を案じる家臣たちの思いや、実際にどれほどの危険性があるのかを鑑みれば、やはりどうしても行けないとのこと。
リアムは子犬が落ち込むようなオーラを出しながら、非常に残念そうにしていた。
私も残念ではあるが、彼が楽しく安全にエレーネ王国で過ごせることが一番。
毎月のペースで遊べる機会がせっかくあるのだし、私の方から会いに行くから大丈夫よ、と励まして場の空気を切り替えたのだった。
リアムは、自分が行けない代わりに、と。
せめてボクの周りにいる貴族や使用人たちに、アシュリー男爵領の事業を宣伝しておくよと言ってくれた。
なんでも、お世話になったアシュリー家に何らかの形で貢献したいのだと言う。
そんなことを気にする必要は無いと口々に言ったが、彼の意志は揺るがなかった。
リアムが本当に彼の周囲の方々に広めてくれたならば、呑気にしているうちに大臣級の諸侯貴族様方や、王族の護衛が許される実力を持つ高官の騎士、上級使用人……といった高位の方々が、そのうちちらほらやって来るかもしれない。
とても有難い話だ。
リアムの好意に応えるためにも、油断は禁物。対策が必須である。
そのためにも両親の言う通り、身体を休めることが大事。
今すべき最も大事な仕事だろう。
屋敷に帰ると、留守番の使用人の皆が歓迎してくれた。
食事の用意をしてくれていたので残さずに食べ、デザートの類は全部ハロルドにあげた(三人分)。
はじめ色々とお土産話を聞きたそうにしていた皆だったが、私達の様子を見て控えてくれたようだった。
また明日以降に、今日の素敵な思い出をじっくり話させて。
そう言って、私達は早々とベッドにもぐり込み。
意識を失うように深い深いまどろみに落ちてゆくのは、一瞬のうちの出来事だった――――。
翌日の朝。
吹き抜ける見事な青空と、まるでそれに対抗するように鮮やかな赤に着飾る森のコントラストが美しい。
私はつい先程まで、熟睡を越えて爆睡していた。
王都や都市部、広大な貴族領都であったなら、午前中のうちに朝一の鐘(午前6時)と朝二の鐘(午前9時)が鳴り響く。
たとえ朝一の鐘で夢の中から抜け出せなかったとしても、流石に誰しもが朝ニの鐘で目が覚める。
ところがここでは、聖会堂が近隣にないために全く鐘の音が聞こえない。
普段は朝を告げる鳥の高らかな鳴き声と、空に輝く日輪の光。反射する沼のたゆたう光で爽やかに目が覚めてくれるが、それらにも一切気付かずに寝こけていたようだ。
なので、朝というよりも「午前」といった方が的確である。
まあ、これからの予定。
人に会いに行くことを考えたら、このくらいの時間の方が常識的かもしれない。
本日、秋の小春日和。9月28日。
私は今、珍しく自主的に外出している道中。
昨夜もチラッと考えたことだが、そろそろ『潮時』。
元々、10月1日のプレオープン前にかたをつけようとしていたところだ。
私の住まうお屋敷は、エルトの森の最奥地。
明確な目的地はなく、とりあえず民家のある方角、エルト地区の集落と呼べる方向を目指して歩を進めている。
ひたすら真っすぐ行けばテナーレ地区へ繋がるが、どのみちそこまで行き着く前に、誰かしら「目的の人」に会えるだろう。
そう思って。
「あ~!お嬢様でないですかぁ!こんにちは〜!」
「レミリアさん。シェリーさんとビアンカさんも。こんにちは、良いお天気ですね」
しばらく歩いていると、ぽやーっとした甘い声で挨拶をしてくれる人物と行き会った。
残りの二人も続いて、向こうから頭を下げてくれ、私の挨拶に応えて微笑みを見せる。
――――――――目的の人物、発見!
なんと運が良いのだろうか。
きっと日頃の行いが良いからだな、うん。
彼女たちは、「バカ正直クインテット」の中の25歳同い年三人衆、ラルフとヒューゴ、オリバーの奥さんたちである。
ラルフの妻、シェリーさん。
夫より短いおかっぱヘアの茶髪。
少し気が強そうに見えるが、女性らしく綺麗な人だ。
凛として優しい声色から芯の強さが伺える。
「オレんシェリーがいっちゃんかわいい!」というラルフの口癖は、耳にタコができるほど聞いた。
告白したのは彼女の方からだったらしい。
結構ロマンチックで、劇的な馴れ初めがあるのだとか。
ヒューゴの妻、レミリアさん。
今私に一番に気が付いて挨拶してくれた、ふわふわぽややんとした可愛らしい雰囲気の人。
ヒューゴからは「レミィ」と呼ばれている。
幼い頃から結婚の約束もしており、仲間うちで男女交際を始めたのも彼女たちが最初だったそう。
「エルト地区バカップル対決」をぜひ開催したいものである。両親と彼女たち、どちらが勝つかきっと見ものだ。
オリバーの妻、ビアンカさん。
出るところは出て締まるところは締まる、二人の娘持ちとは思えないグラマラスな妖艶美女。
オリバーは「アンク」と呼んでいたはずだ。
彼は覚えていないそうなのだが、昔オリバーにカッコ良く助けてもらったことがあったらしい。
その時からオリバーに、一途な熱い想いを寄せ。
押しかけ女房的に結婚し、早くに出産。それからずっとアツアツなラブラブ夫婦である(ただしオリバーはされるがまま)。
我が領地の誇る、美人若妻たちである。
この三人もまた、夫と同じく全員同い年。
シェリーさんとビアンカさんはテナーレ地区在住だが、今日はレミリアさんのお宅……ユーリー家にお茶をしに行くところだったそうだ。
だからエルトの森にいたらしい。
木漏れ日を浴びながら、しばらく世間話に興じた。
そこはやはり、私もそうだが女性同士。
お喋りはとめどなく、楽しく続いた。
「皆さん、恐縮なんですけど。今日帰ったらご主人に伝言をお願いしてもよろしいですか?そうですね、今日明日じゃ急すぎるから…………あさって。30日にアシュリー家の屋敷に来てもらえないかって」
会話も終盤に差し掛かってきた頃を見計らって本題を切り出す。
わりと図々しいことこの上ないが、皆さんは笑顔で快く了承してくれた。
「わかりました、ちゃんとうちの人に言っときますから!…………あ、そうだ!せっかくだったら、兄さん姉さんたちにも伝えておきましょうか?」
と、シェリーさん。
彼女たちの言う兄さんと姉さんとは、ジェームスとその妻、ヘレンさん。
そしてバートとその妻、サラさんのことだろう。
……弟分たちは「兄ちゃん」と呼ばなくなったものの、今でも妹分たちはしっかり敬って呼んでいるらしい。
「良いんですか?助かりますけど、ちょっとお手数では」
「いーえ!なんもですよ!あたしら皆、もう実の兄弟も同然で育ってきてますし。このあと姉さん方の家にも普通に行くので、ついでだと思ってお任せください。ね、二人とも!」
と、ビアンカさん。
彼女の問いかけに対し、二人も力強く頷いて私に笑いかける。
有難い限り、申し訳ない限りであるが、お言葉に甘えてジェームスたちへの伝言も加えてお願いすることにした。
お礼を言って来た道を戻る私の後ろ姿に、
またお話ししましょうね〜!
うちの子と今度また遊んでやってくださーい、と優しくかけられる声。
それに振り返り会釈して、ゆっくり帰路につく。
領主の娘として扱うだけでなく、まるで我が子のように暖かく接し可愛がってもらえ、こちらの心も暖かくなる思いだ。
――――私は本当に、周囲の環境に恵まれている。
改めて、そう感じた。
もっと時間がかかるかと見積もっていたのだが、結構早くに全ての用事が片付いた。
もちろん寄り道などすることなく帰宅し、部屋へと直行。
廊下ですれ違ったメリーに「お……お嬢様!!外出なさっていたんですか!?」と死ぬほど仰天された。
まあ実際、納得の反応である。
使用人の皆は、私達一家の姿が見えない時はどこかしらに引きこもっているのが当然、ってな認識だからな…………。
そのままごく普通に私の至高の居城、ベッドへ入る。
午前だとか夜じゃないとかは関係ない。
立つより座る、座るより寝る。
インドア派にとって、ベッドは親友であり、恋人なのだ。
ベッドの傍らには、昨日リアムからもらった本が置いてある。
最初にもらった、リボンがかけられた方の本。
今日の用事を済ませたあとに、じっくり読もうと楽しみにしていたのだ。
教養に富むリアムの気に入る本が、面白くないわけがない!
逸る気持ちで、リボンを解いてゆく。
これは何の本なのだろう?
リボンは別に枕元のチェストにしまっておき、ワクワクしつつぱらりとページをめくる……………………
……そして、手が止まった。
――――――……………ってヴァーノン語の本かよ!!
「えぇー……!ちょ、いやちょっ…………読めな!!ちょっと待って嘘でしょ、――――いや読めなっ!」
驚きのあまり言葉が詰まる。噛みまくる。
語彙力の貧困。普段の言葉遣いがこういうところに出る。
そう、そこに記されていたのはあの未知の言語。
ヴァーノン語であった。
多少の手ほどきは受けたけれど、あれだけでおおよその言語力を習得できるような、優秀で便利な頭脳は持ち合わせていない。
パラパラと高速で本を後ろまでめくると、合間合間に可愛い挿絵があることから、おそらく何らかの物語なのだろう、ということだけは推測できる。
しかし、言い回しも単語も、一つひとつの文字の発音や意味も。
何一つとしてわからない。
「次に会った時には感想を」……などと簡単に約束してしまったが、想定外すぎる事態。
完全に軽く考えてしまっていた。
頭の血がサーッと逆流してゆく。布団に入る身体は温かいのに、頭から顔にかけては寒気がするほど。
『これがないときっと難し…………いや、ルシアちゃんならそんなことも無いかな…………』
独りごちるリアムの発言が脳裏によぎる。
何をもって私が余裕でこれを読めると思ったのか。
あの子はどこか私を過大評価しているフシがあるな……。
と、その発言からもう一冊の本の存在を思い出す。
ハッと凄まじい勢いでそちらに顔を向け、そして首を痛めた。
「これがないと難しい」、「二冊で1セット」。
ということは、これはもしかして?
緊張からか高鳴る鼓動。胸を片手で抑えながら分厚い本を開くと。
……期待は無事的中してくれた!
もう一冊のあとからもらった方の本は、言うなれば英和・和英辞典と国語辞典がひとつにまとめられた、ヴァーノン語の完全版辞典だったのだ。
まあ、「和」でも「英」でもなく、エレーネ語とヴァーノン語のものだけれど。
ヴァーノンで使われる文字のエレーネでの発音の仕方や、それぞれの単語、熟語の訳。あらゆる用例やことわざまで記載されており、流し読みしているだけでも面白い。
1セットという発言の意味が、ようやく呑み込めた。
最初にくれた「約束のしるし」。
リアムの最もお気に入りである物語を、どうしても私にあげたいと思ってくれて。
そしておそらくはオールヴァーノン語の本が読めないことに思い至り、後にこの辞典も一緒に渡すことに決めたのだろう。
これで訳し訳し、調べながら。少しずつ読み進めてほしい、ということか。
ふと前世、地球での中学校の風景。……英語の予習学習が思い浮かぶ。
今日だけで読み切ることも可能なのでは、なんて思っていたがとんでもなかった。
でも、これはこれで面白い。
実に素敵な贈り物だ。
エレーネの本はたくさん読んできたが、双子神を歴史から抹消したヴァーノン特有の考え方や、独特な表現が見つかるかもしれない。
想像していた読み方とはまた違う、新たな方向性が加わったが、その分期待も楽しさも2倍だろう。
じっくり読み解いて、じっくり楽しみながら読んでいこう。
これはどうやら、かなりの長期戦になりそうだ――――――――。
―――――――――――――――――――――――――――
来たる2日後。
9月30日のこと。
昨日までの晴天は、残念ながら今日は見られない。
もくもくとした秋の雲が領地全体を覆い尽くし、突き刺す肌寒さをより一層感じさせる。
奥さんたちからの伝言を受けた、私のお世話係たち。
バカ正直クインテットの面々が続々と屋敷に訪れていた。
全員で待ち合わせて来るのかとばかり思っていたが、「んなガキみてえなことわざわざいたしやせん」と言っていた。
考えてみれば、彼らは別にご近所さんではない。
目的地が同じであり、お喋りを楽しんだり道中で遊びながら来るわけではないため、それぞれバラバラに来た方が確かに効率性がある。
私がまとめて呼んだり集合させたりしているから、なんとなくこの5人はいつも一緒、という勝手なイメージを抱いていただけだと気付かされた。
5人全員が揃ったタイミングで、なるべく厳かな雰囲気を醸し出しながら口を開く。
「みんな、今日は呼び付けてしまってごめんなさいね。来てくれてありがとう。
――――今日来てもらったのは他でもないわ」
三拍ほど置いて言葉を続ける。
「いよいよ明日ね。――――アシュリー男爵領の一大事業、観光リゾート業の始まり。ホテルのプレオープンの日!」
堰を切ったように、意気込みと興奮に溢れた声が飛び出す。
領民と私達の気持ちは、以心伝心。
ましてこの5人は最初期から協力してもらって、各種開発に尽力してくれていた。
その喜びも、きっとひとしおだろう。
「はい!ついにここまで来やしたね!お嬢様とご一緒させていただいて、ゼロから動いて造って、やっと…………!」
「……元はと言やぁ、オレたちのとんだご無体から始まったご縁でしたが…………。領地の連中への説明と言い、ここの一番の目玉、ホテルの建設と言い。田舎モンの大根にお目をかけて、色々なことに携わらせていただきやして。……まだなんも始まってもねえのに、もう充実感でいっぱいでさ」
「明日からは本番の開始ですね。オレたちも、他の領民も!全力でお客様のために、領地のために。そして何より、アシュリー男爵家のために!頑張っていきやす!」
感慨深げに息を詰まらせるラルフの発言に、オリバーが呟くように言葉を継ぐ。
ヒューゴの声色は興奮が隠し切れていない。
「このなーんもねぇ、でもオレたちが…………そして伯爵様が愛した土地が。アシュリー家の皆様のおかげで、日の目を見る時が来るんでさ。……感謝してもしきれやせん!」
ジェームスはそう言い切るや否や、勢い良く腰を曲げて頭を下げてきた。
彼の後に、他の4人も次々それに続く。
予想以上の反応だったので焦ってしまった。
少し慌てて頭を上げさせ、話を続ける。
「ううん、感謝するのは私の方よ。みんながいてくれなかったら、あの日出会ったのがみんなじゃなかったなら。ここまでは来ることもなかったかもしれないわ」
思わず頬が緩み微笑みかけるが、威厳を意識して顔の筋肉を引き締め直す。
「今日まで、本当にありがとう。仕事の面だけじゃなく、貴方たちにはとってもお世話になったわ。途中からはもう私のお目付け役みたいになって。領地にも何の利益もないのに、私のわがままを聞いてくれたり、抱えたまま移動してくれたりしたわよね。貴方たちに代わる代わる抱っこされたり肩車されたりして、一日全く歩かなかった日もあった」
聡いバートは、私の言葉の不自然さに違和感を覚えたようだ。
端正な眉根がピクリと動いたのがわかった。
しかし、一応領主一族である私を立てるためか、話にそのまま口を挟むことなく黙って聞いている。
「明日はこの領地にとって、大事な節目の日になるわ。だからこそ、今日こうして貴方たちを呼んだの」
深く息を吸い込み、目を静かに瞑る。
どことなく漂う不穏な気配に勘付いているのは、バートただ一人のようだった。
「貴方たちは、領主一家への暴力行為を咎める罰として。労役刑の名目で日々働いてもらいました。期待を遥かに超える働きでした。
――――今日この日をもって、刑期の満了を言い渡すわ!」
「え?」
そう漏れた呟きは、もはや誰のものだったか。
「貴方たちはもう十分すぎるほどに御勤めを果たしました。あの投石事件のことは、一切不問。放免とします。よって今この瞬間から、貴方たちは懲役者ではなくなりました。領地開発の仕事は、もう義務ではなくなったってことよ」
「…………は?…………うぇ………………はい!?」
「今日まで御勤めご苦労さま。そして、本当にありがとう。処罰者と懲役者であった私達の関係は、これで解消よ。
―――――――今ここに、全ての労役刑罰の終了を宣言します!」
「「「「「………え?えぇええぇぇえええええ!!?」」」」」




