天使からの祝福
しばらくの間、談笑に花を咲かせた。
当然ながらリアムは私の膝の上。思う存分なで回し続けているが、抵抗の素振りもなく身を委ねてくれている。
まるでおねむの子猫のようだ。
まだ小一時間も経たない頃だろうか。
応接間の扉の先に、三、四人ほどのメイドさんがこちらの様子を伺っているのが視界に入った。
気付いたのはリアムの方が早かった。
使用人たちに聞こえるよう、少しばかり声を張り上げた。
「あ、みんな準備できた? 持ってきてほしいな」
それを聞いた彼女たちはこちらに恭しく礼をすると、長く広い廊下の先へと足早に移動していった。
……準備? 「持ってくる」とはなんのことだろう。
その心の声に応えるかのように、リアムは愉しげにこう告げる。
「ふふふ。ルシアちゃん、楽しみにしててね! ボク、今日はごちそうもプレゼントも用意してあるんだよ! 肝心のお誕生日は過ぎちゃったし、きっと領地でも素敵なお祝いをしてもらっただろうけど、ボクがいちばん素敵にお祝いするから!」
キリッ、と眉と口角を上げてみせるリアム。
それはキメ顔なのかもしれないけれど、そこには可愛さしか存在しなかった。
そっか、何か誕生祝いの品を用意してくれているってことかな。
とても嬉しい。けれど、そんなに気を遣ってくれなくともいいのに。
こうして再び会えたことが何よりのお祝いだし、もらった手紙はすでに最高のプレゼントとなっているのだから。
「ところで……どうしてそもそも、私の誕生日のことなんてわかったの?」
「そう、それ! ひどいんだよ、聞いてよ!! ボクもっと早くに知ってたなら、ちゃんと当日に! スマートにお祝いしたのに!」
そういえばと思い出した、何気ない私の発言に、リアムはぷくっと頬をふくらませて憤った。
いったいどんなひどい話が始まるのかと思いきや、彼が憤慨しながら語った回想はどこまでも平和で優しいものだった。
両親に至っては、終始微笑ましい表情で紅茶を啜っていたほどである。
なんでもありがたいことに、リアムは今日に至るまで、様々な努力をしてくれていたらしい。
全ては私との再会の日を夢見て。
◇◇◇
ルシアちゃん、会いたいな。
また会いたい。早く会いたい。
風になびく約束のしるしが、ボクを優しく励ましてくれる。
ルシアちゃんもおんなじ気持ちかな? ボクとの約束のこと、まだ覚えてくれているかな……。
でも……わかってる。
会いたいと望んでくれていても、実際ルシアちゃんの方から接触を図るのは難しい。
きっとボクのこと、もういろいろ聞いた後だと思う。
アシュリー家のみんなは、批判や危険に晒されてまで、この微妙な立場の王子との謁見を望む、無理を通すような人達じゃないとも思う。
あと当然だけど、大好きなみんなに余計で無駄な苦労をかけさせたくもない。
別になりたくて生まれたわけではない、しかし特に不便さがあるわけでもなかったこの王太子という身分が、初めて心から恨めしく思えた。
ルシアちゃんにもう一度会いたい。
もう一度と言わず、何度でも。
じゃあボクが頑張らなくちゃ。
エレーネ語や文化のお勉強、ヴァーノン代表としての他国との交流、エレーネで果たすべき公務……。
やるべきことを日々頑張ろう。その頑張りが認められるか、ボクの危機とやらが薄まる日が来たら。
エレーネとヴァーノン両国の許可を得て、護衛をつけて訪問することができるはず。
もしうまくいけば、何度も遊びに行くことだってできるはずだ。
それだけのすごい信頼を得ないといけないんだろうけど、それくらいのこと、こなしてみせよう!
……その日がいったいいつになるのかはわからないけど。
いっぱい頑張ったら、夏が終わる頃には……ううん、もしかしたら明日にだって叶えられるかも。
今ボクにできることは……やっぱり「留学中の隣国の王太子」として。おとなしく賢く、頑張って過ごすこと、かな。
いろいろ考えてみても、それがいちばんの近道な気がする。
それから、大臣級の諸侯貴族でも地方出仕の領主貴族でも、使用人でも下級軍人でもいい。
ボクに許されたこの狭い塔の中、とにかくいろんな人に話を聞いて回ろう!
会いに行くチャンスが見つかるかもしれないし、もしかしたら知り合いだっていたりしてね。
「情報」らしい情報が聞けなくったっていい。
中には昔アシュリー商会でお買い物をしたことがあるとか、あのあたりの道は春になるとこんな花が咲くだとか、こういうお祭りをやるんだとか……。
ずっと塔の中のボクじゃ絶対に知り得ないとっても素敵なお話を、なんでもないことのように教えてくれる人がいるかもしれない。
あらゆる試練を乗り越えさせて、いつかルシアちゃんが会いに来てくれると、ただ待ってるわけにはいかないよ。
ボクは素敵なお迎えを信じて待っているお姫様じゃない。
むしろ……ううん、事実。ボクは赤宝石のお姫様を、颯爽と迎えに行く王子なのだ。
そう、機会を設けられるのはボクだけだ!
そう思っていた矢先のことだった。
「此度のアシュリー家の類稀なる功績が認められ、永代貴族である男爵位に叙せられた」ーーその報せがボクのもとにも届いたのは。
――やった! これでもっと、ずっと会いやすくなる!
メイドたちの手を取って、その場に飛び上がって喜んだ。それを見ていた他の者たちも、自分のことのように一緒に喜んでくれた。
もうボクたちは塔の頂と塔の外とで、隔絶された存在じゃなくなったんだ!
あの日ボクは、誰かの手によって塔のてっぺんから塔の外へと転がり落ちた。
でも恐怖と痛みだけがあるはずだった外には、今までに見たことのない鮮やかで暖かい赤色の光で満ちていた。
『赤』の大切な人たちは、塔の外でたくさんの慈しみと優しさをボクにくれた。
ずっとずっとそこにいたかったけれど、塔の頂にいることがボクの務め。
高い壁で阻まれているとは知らずに、まぶしい笑顔で送り出してくれたっけ。
塔の入口は、外の人々には固く硬く閉ざされている。
どう網の目をかいくぐろうか、いっそ塔から飛び降りる決心をしていたところだったんだから。
でももう、アシュリー家の皆は、越えられない壁の向こう側の人々じゃなくなった。
アシュリー家に塔の入口が開かれたのだ。
ボクたちは今、同じ場所にいる!
爵位は王宮への立入許可と同義。
もう会いに行くだけじゃなくて、堂々と城に招待することもできる。
何かのパーティー……は嫌がるだろうな。ルシアちゃんだけじゃなくて、アシュリーさんもエイミーさんも。
ボクからだろうが王宮からだろうが関係なく、従業員のお兄ちゃんお姉ちゃんたちに握りつぶされちゃう可能性すらある。
男爵家が王宮で開催される社交の場に招かれる例は少ないけれど、ボクの招待枠なら問題はないだろう。
まして、相手は「アシュリー男爵家」。
高位の貴族であればあるほど、なんの見返りもなくヴァーノンとの関係悪化を防いだアシュリー家の功績を、十分理解してる。
みんながいることを嫌がる者なんて一人もいないはずだ。
でもそういう問題じゃない。問題はそこじゃない。
アシュリー家のみんながそれを喜ぶはずがないのはわかりきってる。
大切な人たちとの大切な機会。
わざわざ嫌な気持ちになんてさせたくない。
きっとボクとの再会を喜んでくれるはず。
ボクはどんな場であれ、ルシアちゃんたちに会えるのなら最高に嬉しいし楽しい。
舞踏会でもお茶会でも、エレーネ語以外使用禁止の晩餐会でも、本当になんでもいい。
でもそれはボクだけの都合だもんね。
ボクを助けてくれて、無条件でいろいろなものをくれたアシュリーさん。神聖ヴァーノンの御許にいる母上に、なんだか似ているエイミーさん。
そして、誰より大好きなルシアちゃん。
せっかく会えるなら、一緒に楽しい時間を過ごしたい。
それなら……ボクの宮に招待するのはどうだろう?
社交会より気が楽だろうし、ゆっくり過ごしてもらえるはず。急に招待が来たらびっくりしちゃうかな?
そうだ、なんでもない日を「再会の特別な日」にするのもロマンチックだけど、何かの記念の日のお祝いの方が、もっと喜んでもらえるかもしれないね。
一度思いついてしまえば、そこからはどんどん案が浮かんできた。
たとえば商会の創立記念日。アシュリーさんがお店を継いでから何周年、とかもいいよね。
ああ、でもいちばんのお祝いごとと言えば、やっぱり誰かのお誕生日かな?
皆の特別な一日を、一緒にお祝い出来たらきっと素敵だよね。
――よし、そうと決まれば忙しくなるぞ!
とっても楽しみ! ルシアちゃんの笑顔がまた見られるんだ。
早く会いたいな。
ボク頑張って、キミに相応しいお出迎えをしてみせるからね!
服に結んだリボンを決意と共に握る。
えんじの褐色は、自然とあの美しい赤髪を想起させて。
温もりなどないはずの無機質な布から、彼女のぬくもりを確かに感じたような気がした。
最初の行動として、外務大臣を捜しに向かった。
エレーネでのボクの形式上の家臣のうち、最高位にあたる。
リアム係長と言ってもいいかもしれない。
アシュリー家で過ごさせてもらって改めて感じたが、実に面倒で意味のないことに、何をするにもまず彼を通さなくちゃならないのだ。
もしも彼から様々な情報が収集できれば大収穫。
協力してくれるか、部下か使用人を派遣してくれるなら大満足。
許可や承認がすんなりいけば期待以上。
多少たらい回しにされたり、しばらく待ちぼうけを喰らったとしても、最終的に承認されれば目的達成……ってところかな?
そんなことを考えながら、やがて見つけた書類を小脇に抱えた外務大臣のもとへと、意気揚々と駆け寄った――……。
◇◇◇
「……ところまでは、幸せだったなぁ……。ねえルシアちゃん、なんにも知らないって……逆にとっても幸せなことなんだね……」
リアムは目を両手で覆いながら、苦々しげにそう呟いていた。一生懸命なでる私の手も無意味なようだ。
私のなでなでが全く効かないだなんて……!? と考えていた私こそ、多分誰より幸せな人間だと続く話を聞きながら思った。
その声色には、涙の気配が確かにこもっていた。
◇◇◇
そう、外務大臣を捕まえ、いざ話をしようとしたところまでは良かったんだ。
彼の目に姿が映るや否や、書類の束を躊躇なく床に放り捨て、首根っこを掴まれてこのガーベラ宮まで連れ戻された。
そもそも彼を見つけたのは内廷だった。内廷からガーベラ宮まで、今にして思えばだいぶ距離がある。
にもかかわらず、一瞬のうちに運ばれて来た気がする。
「何をなさっておいでです!」と慌てふためいているのを、そこまで驚くようなことだろうかとぼんやり考えていたのと、猫の子がお母さん猫にかぷっと首を噛まれて運ばれている時は、きっと今のボクと同じ感覚なんだろうなと思っていた、そのほんの一瞬。
たぶん何が何やらよくわかってないうちに、時間の感覚がなくなったんだと思う。
それとも大臣が全力疾走していたのかな。だとしたら上を見ていれば良かった。絶対面白かったのに。
しかし、なんだかわかっていないのはボクひとりだけだったらしい。
使用人たちがこちらに即座に飛んで来て、ボクを胸に抱き、大臣に向かって平身低頭に謝り始めたから。
どうやらボクは、「目を離した隙に予測不能に歩き回り、行方不明事件の再来になっていた」みたい。
聞いてみると、単純だけど大げさな話だった。
あの時の事件から、ボクの行動規制がとても強固なものに改正されていたみたいだった。
ボクの全然知らないうちに。
具体的には、ボクに与えられたこの宮……ガーベラ宮の全体。本城に繋がる先の渡り廊下と、後宮まで。
そこが自由な範囲。
それ以外へは、ボクから行くのも、外部からの立入も原則ダメらしい。
ピオニー宮とカトレア宮だけは例外みたい。例外っていうか、特別許可なんだって言っていた。
ボクからの立入、向こうからの出入りも自由だそうだ。
ただし、そこまで行く道中は当然護衛と許可が必須だとも言ってたから、それって意味あるのかな……と今日でも内心思っているんだけど。
でもこれらは、ご丁寧なことにもエレーネ国王・クラウス陛下の承認のもと、ヴァーノン王宮上層部の同意を得て、正式に制定されたものなんだって。
つまり、どうやっても覆らないごく最低限の義務。
ボクに許された狭い塔は、思っていたよりずっと狭かったみたい。
それをやすやすと破り、てくてくと不可侵領域に踏み入って、大きな声で大臣を呼んだのがさっきのボク、という話らしかった。
ボクに知らされていなかったわけでもなかった。
そういえば確かに聞かされた気がするんだ。メイド長のヒルデガルドと専属教師のバチルダの、二人それぞれから。
「危ないですから、ガーベラ宮を離れることなきよう。くれぐれも後宮からはお出になってはなりません」って。
これはボクが悪いんだけど、その言葉を大して大事なものだと受け止めていなかった。
なんだかね、またいつもの過保護だね……くらいの気持ちで聞き流してたはずだから。
使用人側としては、それで通告が完了したものと思ってたらしい。
さすがに申し訳なく感じたから、ルシアちゃん限定と思っていた子犬のお顔で「ごめんね……」と謝ったら、二人はあっさりとゆるゆるに緩んだ顔で許してくれた。二人は。
外務大臣はそんなことはなく、一度は終わったと思ったお説教が数時間は続いた。
喜びと一緒に決心を固めたこの日は、結局なんの行動にも移れずに終わってしまった……。
◇◇◇
ここでリアムの回想は一区切りを迎えた。
リアムの苦心の日々、長く険しかったようだ。
なんとか再会の道を見つけ出そうとしてくれていたことがとても嬉しい反面、たとえ全く無意味だったとしても、私達もコンタクトを取る努力をしているべきだったかもしれないと心苦しくも思う。
(領地の皆と打ち解けるのに一筋縄も二筋縄もあったけど、そうしてる間にもお手紙を出したり、いっそイチかバチかで、父様ごしで高位貴族様に言伝をお願いすることもできたのよね……。たとえあっさり断られたり、リアムの手元に届かなくったって、私から何かできることだってあったはずだわ……)
この後悔が取り返しのつかない悔悟になる前に、こうしてまた会えたことへの喜びを、より一層強く感じた。
◇◇◇
なんとか公務の間を縫って、時間を作れたとある後日のこと。先日の一件でもリアムはまだめげてはいなかった。
何があっても後宮の外には滅多に出られないらしい以上、従者を遣いに出すか、あわよくば直接お迎えに行く計画は頓挫してしまった。
だがそれなら、商会あてに招待状を送ればいいと考えたそうだ。
しかし、ただ一日を過ごしただけの、そのうえ母国ではない街の名前などわからない。
私達一家の正しい所在を調べるべく、いざ紳士録を開いた。
……しかし、紳士録にはアシュリー男爵家についての情報が何一つ記されていないことに気付いてしまう。
よく考えれば当然だと彼自身後悔を滲ませていたが、確かについ最近できた新興貴族家が、すでに編纂された蔵書に掲載されているはずがないのだ。
あまりに残念そうなリアムを見かねてか、家臣の一人がアシュリー男爵家を加筆するほか、ご婚姻や養子縁組、死去等に伴う各家系図の変更を踏まえた、新しい紳士録が近々発行されると教えてくれたそうだ。
それを聞くや否や、飛びつくように入手を所望した。
しかし、出来上がりにはリアムが想像していた以上の時間がかかるようだった。
ましてリアムの手もとに届けるには、塗布毒や鋭利物の混入がないかなど、入念な検品を終えてからでないと不可能とのこと。
「そんなの必要ないよ」と言ってみても無駄だったそうだ。
誰に聞いても「何卒どうかお届けまでお待ちください」としか返ってこなかったらしい。
そんなの本当にいらないのに、ケガしても別に文句言わないのに……とまだ納得がいかない様子でしょんぼりしていたリアムだったが、内心私は、ここは王宮の方々に賛成だった。
いや、私だけじゃないはずだ。きっと両親だって……いやいや、おそらくリアム以外の全ての人が賛成することだろう。
だってそれはそうよ、そこをスルーしてリアムに物渡せないわよ……。
ましてあの誘拐事件があった直後だ。過保護すぎるくらいでちょうどいいとも思う。
家臣の方のお名前など、紹介を交えて色々お話ししてくれているリアム。
だが未だ釈然としていないらしいこの件を話しているうち、それはだんだん愚痴めいてきていた。
形の良い眉がきゅっと上がり、唇をつんと尖らせ、ぷんぷんという擬音が実際に聞こえるかのよう。
それでも嫌味を感じさせないどころか、可愛さのかたまりでしかないのはさすがだ。
でも思うに……リアムが指先を切ること、うっかり転びそうになることを考えただけでゾッとするくらいなのだ。
毒や刃物が仕込まれている可能性を常に考慮しなければならない、また実際に何らかの傷を目撃することさえ有り得る家臣、側仕の方々は気が気じゃないはずである。
その反面、リアムのお願いならなんでも叶えてあげたい気持ちも同様に持ち合わせているはず。
リアムの話には無条件で全面同意したいところではあるが、彼の周りの人々の葛藤を思えば、なんだか少し胸が痛くなった……。
それなら紳士録のことはあきらめ、誰か情報を持つ者に直接聞けば良いと考えた。
そして、アシュリー男爵領を案内したという役人との面会を望んだ。
しかしその者は役人の中でも最下級であり、王太子であるリアムと直に繋げられる身分ではないと、外務大臣様に懇々と諭されてしまったという。
――リアムと直接どころか、自分とその者にも遠い隔たりがある。たとえ身分差を一切気にせず、強くそれを望まれているとしてもだ。
それゆえ、今それを命令として承っても、省庁のトップから次官へ、次官からその部下へ……と逆に遡る必要があるため、非常に時間がかかる。また実際の場には所領大臣も同席することにもなる。それでもよろしいか――と、本当にくどかったと遠い目をしていた。
それでいい、すぐに事を進めてとげんなりしながら命令を出したが、結局面会が叶ったのは、新版の紳士録の完成とほぼ同時期だったそうだ。
話し上手、聞き上手な役人だった。
事前に作成した資料を持参してくれたほか、資料と実地見聞との違い、アシュリー男爵家と実際に会った感想。森のそよ風が心地よく、まるで領地そのものが男爵家を歓迎しているようだったこと……。
色々なことを愉快に、まるで自分も同伴していたかのように感じるほど臨場的に語ってくれ、とても楽しい時間を過ごせたのだという。
「『お礼って言うには足りないかもしれないけど、あの役人を役務長にしてあげてね。あの人がやりたい仕事のポストを用意してあげて』って、あとで所領大臣にお願いしておいたんだ。ボク、ちょっといいことできたよね!」と、リアムは愛らしく無邪気な笑顔を浮かべていた。
……ん? それってもしかして……案内役の役人さん……?
人当たりが良く優しく、仕事ができる人だった。
自分を木っ端役人と自称もしていたっけ。それは当然過度の謙遜によるものではあるが、しかし言い換えれば、ヒラかそれに近い地位にあったことは事実なのだろう。
そして役務長と言えば、平民感覚としてはかなり名誉のある職位だ。
お役所に行った時、一番奥の席に見え隠れする、窓口対応には出てこない役職。
「平民であることに違いなく、庶民が普通に顔を合わせる者。なれど雲の上」というべき立場だろうか。
つまり……もしこの想像が全部当たっていたとすれば。
案内役の役人さん……多分三階級くらい特進してない……?
私達の知らないところで、あの役人さんが大出世を遂げていた。
会話を楽しみながらも、三人が目と目で語り合っていたことを、きっとリアムは知らない……。
やがてリアムは、「アシュリー商会に招待状を送る」という目的さえ障害にぶつかってしまう。
そう。彼にとって一番の誤算は、商会が影も形もなくなっていたことだったという。
ヴァーノンでもエレーネでも、宮廷貴族たちは廊下を移動しつつ経済動向を語り合ったり、休憩時間に投資の勉強をしたりしていた。
貴族と商人は密接に結び付いているもので、両立するものだと考えていた。
だからね、まさか叙爵と同時に商会を畳んじゃって、領地に引っ越しちゃうなんて思いもよらなかったんだよ……と半泣きで回想していた。
ギュッと抱きしめる力を強めたのは言うまでもない。
それを聞いた私達は苦笑しつつ納得していた。
宮廷貴族様方は商家へ出資してくださっているだけであり、ご自身が商売に携わっているわけではない。
そこには言わば、社員と株主くらいの違いがある。
しかしリアムには、それらがなんとなく同等だと感じていたのだろう。王子様ならではの可愛らしい勘違いかもしれない。
あらゆる困難を耐え抜き、ついにリアムの手元に、アシュリー男爵家を含む紳士録が届く日がやって来た。
心躍らせページをめくると……そこに書かれていたのは。
――「ルシア・アシュリー 創始紀千年 九月二十一日生」――。
……その日は今から五日前。ゆうに一ヶ月以上が経過した、十月末のことであった。
「うわあぁぁ!! 言ってよ! みんな教えてよ!! もう遅いよおぉー……!!」
その日エレーネ王都全域に、絶望に満ちた絶叫が響き渡ったという……。
◇◇◇
「リアム、ありがとうね。とっても頑張ってくれていたのね」
実に微笑ましい回想ながら、痛々しく愛おしくもあった。
今日の再会のため、絶え間なく心血を注いでくれていたようだ。
もっとこうしていればと、後悔はある。それでも、私とリアムの心はずっと繋がっていたらしい。
改めて思う。私達の方から連絡を取る努力、約束を約束のままで終わらせない行動を常にし続けるべきだった。
両親も同様に考えていたらしい。「ごめんね」とリアムをなで、謝罪を告げていた。
その時だった。
ノックウッドによる規則的なノック音の後、「失礼いたします」との言葉に続き、大きなクローシュを載せた台を押し、数人の使用人の方々が入室してきた。
「あ! ふふ、やっと来たね! みんなありがとう!」
あの可愛らしさのかたまりでしかないキリッとした表情に戻り、使用人にお礼を言うリアム。
きっとそもそも、この待ち時間のために今の話を始めたのだろう。
お気遣いなく、と母様が声をかける。
リアムはぱあっと顔を輝かせ、待ちきれない様子で足を揺らしていた。
そうして運ばれてきたものは。
――芳しい香りが鼻孔をくすぐる、視覚と嗅覚からすでに「美味」を感じさせる。早く口に含みたい衝動が抑えきれない、いかにも美味しそうなスープ!
レモンの鮮やかな黄色と、ゆずの淡黄色が美しく焼き目を引き立てるタルトであった。
「じゃじゃんっ! 見て見て! ルシアちゃんが喜びそうなごちそうを用意したんだよ!」
「リアム……ありがとう…………。私、今感動のあまり言葉も出ない……」
私のこの、胸を打つ感動の念を上手く表現できない。言葉が出ないのももちろんだが、この狂おしいほどの喜びを言い表す語彙も持ち合わせていない。
「ありがとう」を呟くことしかできなかった。
特に彼が期待したような、高貴な方々がするような洗練されたリアクションは得られなかっただろうに、リアムはそんな私の姿に非常に満足気だった。
得意満面といった表情で、私の手に柔らかな髪をなでられながら解説をしてくれる。
「えへ、やっぱり気に入ってくれたみたいで良かった! こっちはルシアちゃんが好きそうな、柑橘のソルトタルト! 最初はベリータルトもいいかなって思ったんだけど。調べてみたらアシュリー家の領地がある、ヴァーノン境の西方領地では、いろんなベリーが特産だって書いてあったんだ。もしかしたら、領地で食べ飽きてるかもしれないなって。だから柑橘系の爽やかタルトにしてみたよ!」
す、すごい……! これが高貴な人間のする、上流の「気遣い」というものか……!
それをスマートに、嫌味なくこなしてしまうあたり、この子はまさに「王子様」だなと実感する。
そしてその気遣いも、実際に正解だ。
領民の皆さんがたくさんのベリーをよくおすそ分けして下さるため、私達はそろそろベリーだけを食べて生きる妖精に進化を遂げても不思議はないほど、日々ベリーを摂取する食生活を送っている。
そんな私には、リアムの素敵な気遣いがとても嬉しい。
レモンとゆずのタルト、すごく美味しそうだ。口にするのが楽しみである。
「そして、メインはコレだよ! ルシアちゃん、スープが大好きって言ってたもんね。きっと喜んでくれると思って。このスープはね、各国の王族がよく飲むものなんだ。その名も、『オリオスープ』!」
「オ……っ……! オリオスープ……!!」
まさかその名を、ここで聞くことになろうとは!
忘れもしない。かつて夢見た至高のスープ!
いつか飲んでみたいと考えながらも、ついぞ口にせず生涯を終えた、我が因縁のスープよ……!
何が因縁かと言うと、その食材費だ。
存在を知り、いざ実食とレシピを調べたところまでは良かったものの、給料生活の庶民には縁遠いものだった。
こんなもの作ったら一ヶ月分の食費が飛ぶわと正気に引き戻され、泣く泣く断念した苦い思い出がある。
次の給料日までの一ヶ月、大鍋のオリオスープだけをすすって生き抜く覚悟は流石にできなかった。
私はそこまで気合の入ったスープジャンキーではない。
それを今こうして……特別な友人からのお祝いとして飲める日がやって来るだなんて、過去の私は思いもしなかった。
「リアム……本当に、本当にありがとう……!」
改めて感謝の言葉を伝え、抱きしめることしかできない。幸せでいっぱいだ。
リアムは嬉しそうに私の胸にしがみつき、頬を擦り寄せてくれた。
「えへ、よかった。いっぱい食べてね! ルシアちゃんのためのお祝いなんだから。遠慮したらダメだよ! アシュリーさんとエイミーさんも。おかわりもあるから!」
「ええ、ありがとうリアム。あなたと全ての食材に感謝して、一口を噛み締めながら食べるわ。……いただきます!」
「ルシア……ここ、王宮だからね…………」
その後――地平線の彼方を見つめる両親を尻目に、私は鍋を空にするまで食べ続けたのだった……。




