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男爵令嬢の領地リゾート化計画!  作者: 相原玲香
第一章 〜リゾート領地開発編〜
21/91

私と領民の邁進の日々


 説明会からはすでに二ヶ月が経った。

 夏空の蒼、沼の碧が日に日にまぶしさを深める。

 各種のインフラはもはや完備に近付いてきていた。



「ここでは見たところ数種類の野菜は作っているようだが、酪農や畜産はやっていないだろう? 店には肉やチーズなども売っているみたいなんだけど、いったいどこから仕入れているんだい?」

「はい、男爵様。ここを通る貿易旅団から買い付けているんでさ。各国の旅団は王都だけでねぐ、ここみてえな地方にも売りに来るんです。そもそも道中の領地で売ることさ前提に、向こうさんも余剰に荷ば用意して旅に出るんだそうで」

「なるほど……ならば食糧調達に困ることはなさそうだね。私自身で貿易旅団の方々に交渉だな。アシュリー男爵領で大量購入ができるよう働きかけることにしよう」


 事業を始めるにあたり、第一の問題は食糧の確保だった。

 リゾート領地の目玉は、なんと言っても貴族が食べている美食のご提供。

 食材はきっと多種多様に渡るうえ、これまで領民が食べていく分だけ仕入れていた頃とは訳が違う。供給先を押さえ、定期的かつ大量に購入できる対策が必須だった。


 ラルフからの返答は大きな手がかりとなった。


 各国の貿易旅団が必ずエレーネ王国を経由し、目的地に向かうのは私も知っていた。

 内陸国で資源に乏しいために、あらゆる物資を常に必要としており、よく売れる。

 またいかなる戦が起こっている時も、中立の立場を崩さないことでも有名な国だ。

 出身、所属、思想による差別や不利益を受けることなく、確実に宿で休息が取れ、馬を休ませ、旅団に人を加えることができる。

 中継国として非常に重要なんだとか。

 貿易が盛んである所以だ。


 なんでもラルフが言うには、この領地は王都からヴァーノンへの一本道でもあるため、たびたび貿易旅団が通過する。

 領民が最低限の量を買うだけでも喜んで商売に来てくれるのだから、大口の定期契約を結ぶのはより容易だろう、と。

 次の機会に立ち会い、交渉してみることで落ち着いたのだった。


 ……その後この問題は、実にあっさりと解決に繋がる。

「この領地を通る貿易商人」とは、王都に住んでいた時のご近所さんであり、思い切り知り合いであったこと。

 もう交渉するまでもなく、双方に利益ある契約締結ができたことは、また別の話だ……。



「そういえば、ここは下水道はどうしているの? 今まで王都にいた時と同じように、何も考えず普通にトイレやお風呂を使えていたのよね。沼かどこかに流れるようになっているのかしら?」

「ああ、奥様それはですね、王都の下水処理施設に直接流れるよう管が引いてあるんでさ。クローディア伯爵様のご命令で、その昔領民みんなで工事に取り掛かったもんですから。いざ新しく水回りば作るってなっても、勝手がわかっておりやすからご心配無用ですぜ」

「まあ、そうだったの。先王の時代に命が出て、王都では義務化されたけれど、貴族領では普及していないところもまだ多いと聞いているわ。クローディア伯爵様は、領民のためにご尽力なさる方だったのね」


 この世界では、あらかじめ桶などに水を汲んでおき、用が済んだら紙と一緒に水で流すという、初期的な水洗トイレの技術がすでに成り立っている。

 王都では、だいたいどこの家でも井戸から引く上水道とは別に管が引いてあり、地下の長い長い暗渠を流れ、王都郊外にある下水処理施設に直結する仕組みになっていた。

 活性炭や鉱物片などで丹念に消毒・脱色したあと、川などに放水するのだ。

 ただそれも、母様の言うように先進的な地域に限られ、予算や手間を鑑みて、まだまだ未完備なのが実情である。

 私達の住むお屋敷こそ、元々病床に臥せるクローディア伯爵様のための別邸だった。

 ゆえに私は、王都と同じ仕組みでトイレが使えていても、なんとなく特に不思議なことでもないかと思っていた。


 しかしヒューゴに聞くところ、領地全域が同じ仕組みだったらしい。

 クローディア伯爵様ご主導のもと、十年以上前、王都で義務命令が出た直後に導入されたのだとか。

 この若者たちもまだ十代半ばだったが、当然工事に従事したそうだ。

 しかも領地の男たちは工法を体が覚えているとのこと。


 ならばとお願いしてみたら、本当に皆てきぱき手が動く。

 試験的に建設した公衆トイレと仮設風呂は、本物の貴族邸と全く遜色ないものが出来上がった。

 そのため力仕事が得意な人や、当時指導役にあたっていた人が中心となり、現在水回り工事も絶賛進行中である。


 加えて、下水を沼に流しているわけではないとわかったのも儲け物だった。

 エルトの沼の濁りは汚泥によるものではなく、苔や水草などによる純粋な深緑のようだ。


 そもそも、代々領地の子供たちの水遊び場なのだそうだ。ため池は水源であるため、遊ぶなら沼の方でという伝統らしい。

 それくらい綺麗で安全だということでもある。

 うちの息子もよくずぶ濡れになって帰って来るんでさ、と微笑ましげな苦笑を浮かべていた。


 つまり、沼も立派な観光資源として売り出していける。

 予期せぬ魅力発見となったのだった。



「井戸に引いてあるお水はどこから出ているの? 透き通っていて美味しいお水よね。ここには川はないし、沼の上澄みの部分?」

「お嬢様、今せっかくテナーレにおいでですし、ついでに見ていきやしょう。……ほら、おわかりですかね? このバレトノとの境にあるため池、中にゴツゴツした岩があるでしょう。あそこからこんこんと水が湧き出続けてるんでさ」


 食糧問題、下水問題が解決して、次に私が気になったのは上水問題。


 これも越して来てからというもの、お屋敷では綺麗で美味しい水を常時使えていて、特に気にすることはなかった。

 それにこの領地は各地に井戸が点在しており、皆水には困っていない様子だ。

 だが、観光業を始めるとなれば話は変わってくる。

 生活用と事業用とでは、消費水量は段違いだからだ。

 それで領民に水不足が起こったら大変だし、もしも他の領地から一部水源を借りている事実があったとしたら、これから大量の水を使わせてもらう許可が必要になる。

 水問題は険悪なトラブルにも発展しやすい。


 しかし、そんな懸念は不要であった。

 オリバーの言葉によって、領地内で全ての水をまかなっていることと、その水源が尽きることはないことが明らかになったからだ。


 ため池を有するテナーレのポンドウィスト区域。

 この区域はオリバーとそのご家族の居住地でもある。

 その日はちょうど(※お姫様抱っこで)遠出していた時だったので、その足で直接ため池を見に行った。

 彼の言う通り、ため池の中にぷくぷくと泡が立っている場所があり、岩から水が湧き出続けている様子が見てとれた。

 山に積もった雪解け水が、土の間をゆっくり通って自然ろ過され、下流であるこちらに流れ出てきているものらしい。

 天然の岩清水が枯れることなく供給されているのだ。

 この国は平地には雪はあまり降らないが、山にはたくさんの雪が毎年積もる。

 山に囲まれ、森に愛されたこの領地。

 それを荒らしでもしない限り、自然からの贈り物が止むことはないだろう。


 それに、水が原因で諍いが起こる可能性もないことがわかった。

 隣接するバレトノ地区……現在のブルストロード辺境伯領には、ヴァーノン王国を主流とする長い川があり、元々向こうの人たちはそこから水源を得ていたそうだ。



 アシュリー男爵領には、すでに私達が心配するまでもなく、基本インフラが確立していたのである。


 これらは全て、領民の協力なくしてはわからなかったことだ。

 若者たちを罰という名目で巻き込んだが、期待以上によく働いてくれる。予想を遥かに上回り打ち解けることもできた。


 ……初日の挨拶回り。

 皆の凍り付いた笑顔を、今でもはっきり思い出せる。

 こうして確かに計画の実現が近付いているのも、今や領民の皆と笑い合えている幸運も。

 この五人の尽力が根底にあったからこそだと思う。


 ――オープンの日を迎えたら、彼らの年季も明ける。

 私のお世話係みたいになってきたのに、少し寂しい気もするけれど。

 ……それまであともう少し、一緒に頑張ってもらおう。


  ◇◇◇


「そうそう、大事なことを忘れてたわ。今日はこれを持って来たのよ」

 麻でできた丈夫な手提げ袋から取り出したのは、萌葱色の絵の具で縁取った白塗りの板。それから、それなりに質の良い紙が数枚だ。


「こっちの板は……料金表ですかいね?」

「そうよ! 父様と母様、商人として一流の番頭まで登り詰めたジョセフ、経理を任せたら右に出る者はいないアンリの四人で話し合って決定したわ。私もこれは適正価格だと思うから、よほど何かない限り変更はなしね」


 カントリーデザインのこの板は、バートの言う通り料金表。

 色合いは各関所のテーマカラーごとに変えてある。

 関所に入るとすぐ見えるよう、大人の頭の位置より少し上に打ち付ける予定だ。

 だいたいここかな、という辺りに一番背の高いジェームスに板を抱えて立ってもらったが、やはり淡い色はパッと目を引きわかりやすい。早速彼が辺りにあった釘で仮打ちをしてくれた。


「一泊 八十八シュクー 二泊 一五〇シュクー」と記載されている料金表をぼんやり眺めながら会話を続ける。

 ちなみに、私がいつか物の価値から推測し、換算した為替は、一シュクーあたり約百円。

 地球のリゾート地と比較すればだいぶ安い。

 また、泊数が増えるごとに少しずつお安くもなる、お得な料金設定となっている。


「意外と安いですね。もっと足元見ても許されるくらいだと思いやすが」

「でしょう? でもここは一回で満足、一生に一度の大贅沢じゃなくて、何度も来てもらうことがコンセプトの一つじゃない? 最初は叙爵されて初めて領地へ、二回目からは領地の視察、領地改革のつもりで……みたいに。だから基本的にお安めでいくんですって」


「あー、なるほど。男爵様方はさすが、よくよく先を見据えて考えていらっしゃる」

 五人は感心した様子で頷いていた。

 その後は位置の微調整をし、残り二つの関所にも後日取り付けてほしいとお願いした。


「こっちの紙は?」

「これはね、馬車係やホテル係に使ってもらって、アシュリー家に引き継ぐお客様情報なんかをメモしたり、お客様に書き物を頼まれた時にお渡しする紙よ!」

「ずんぶ古びてっけや……質の良い紙だってのはわかりやすが、もっと新しい紙にはしねえんですか? あ! まさかこれにもなんか意味がおありで?」

「ふふ、よく聞いてくれたわね。そう! ちょっと言い方が悪いけれど、いかにも『田舎領地っぽい』紙を用意したの! 他にもほら、この羽ペン。これはタカさんの羽でできてるの。一応言っておくと、王都とかではガチョウさんの羽で作るのが主流なのよ。それを染めたカラフルなものもあるわね」

 話している途中に思い出し、羽ペンを同様に取り出した。


 この羽ペンは、今言ったようにタカの風切羽でできている。

 濃い茶色をしているため、ガチョウの羽とは違い、染めることは不可能だ。

 また、羽を加工せずにあてがっているらしく、毛羽先が荒々しく無骨な印象を受ける。

 上質な品であることに間違いはないが、元王都民としては少々レトロなデザインと言える。


「ははあ、なるほど。オレはわかりやしたぜ! こったらような『ちょっと高級だけども、ちょっと古くて田舎くせえ』、『領民が頑張って用意した』感じのもんをわざわざ揃えたっつうことでしょう?」

「そういうことよ! いい感じのアイデアだと思わない? 今こういう小物を揃えまくってるのよ! お客様の目に入った時、ちょっとした雰囲気の演出になると思って。オープンまでには、領地のいろいろなところに準備したいの。よかったらそのうち手伝ってくれると嬉しいわ」

 もちろんでさ! と五つの声が見事にハモった。

 実に頼もしい。



 そして関所の視察、料金表と小物を渡すという今日の目的は終わったことに気付く。

 ふと時計を見ると、時刻は十三時頃を差していた。

「お嬢様、これからどういたしやすか? お館までお送りしますよ。もしお疲れでないなら、ホテル視察にでもお連れしやしょう」

 手持ち無沙汰に時間を確認する私を見て、ジェームスがそう申し出てくれた。


「うーん……悪いんだけど、今日は遠慮しとくわ。完全に自業自得なんだけど、もう疲れちゃって。馬車があるなら行くのも考えたんだけどね」

 しかし申し訳ない思いだけれど、それは断らせてもらった。


 実際のところ自分の足で歩くわけではなく、多分彼らのうちの誰かが運んでくれるだろうとはわかっているのだが。

 肉体的な疲れに加え、疲労度のようなものがそこそこ高い。

 馬車で座るか寝転ぶかして移動するか、いったん帰宅して休憩を挟むのならともかく、新たに追加されたスケジュールをこなすのには耐えきれない気がするのだ。


「そうでしたか。無理はなさっちゃいけねえ。お嬢様の体調が一番大事ですから。んじゃ、お屋敷までお送りいたしやすぜ」


 ラルフが手を取って、ゆっくりと立たせてくれながら、当然のように私を抱きかかえた。今日の担当はラルフのようだ。

 揺れを感じさせないよう意識した様子で、ゆっくり屋敷方面へと歩き出す。


 ……この五人、扱いが丁重すぎるんだよな。もう少し雑に扱ってくれて構わないのに。

 両親や使用人とはまた別の甘やかし方をしてくる。

 まあ彼らの場合、そこに忠誠心やら罪悪感やらも混ざっているのだろうけども……。


 取り留めのない会話をしながら、森をのんびり南下する。そのうち話の流れで、ヒューゴとオリバーがとある話題を投げかけてきた。


「そういえば、大変失礼なお話かとは思いやすが。アシュリー男爵家には馬車がないんで?」

「オレも気になってたんでさ。馬車買う余裕くらいありそうなもんなのに、って」

「え!? わ……私いつもそんなに重かった!?」


 二人はすかさず他の三人に「デリカシーっつうもんがねえのかお前ら!」「言い方があるべ他に!」「失礼って言えば済むと思ってんのか!」と集中砲火を浴びていた。

 だが、冷静になってみれば逆に申し訳なかった。

 二人は不思議そうに質問してきただけ。ただ一人めちゃくちゃ動揺してしまったが、そもそも全然そんな話題ではなかったからだ。

 二人はすっかり「そんなつもりでねかったんです……」と恐縮しきっていた。


 その後、私を運ぶのは自分たちがそうしたいからしているだけのことであり、馬車に乗れと言ったつもりは双子神に誓って毛頭ない。そもそもお嬢様は綿みてえに軽い、軽すぎて不安になるくらいだと口々にフォローを受け、十分もしないうちに上機嫌となり、会話を再開したのだった。


「ああ、言ってなかったかしら。馬車はあるのよ。今ね、うちの料理長シェフに貸しているの」

 そういえば、確かにその事情を説明していなかった。


今料理長シェフのギリスは、ホテルで働いてくれる料理人さんを探して、かつての修行先を回ってくれているのよ。領地のお母さんたちに厨房に入ってもらうのでも良かったんだけど、『貴族が食べる食事』をやっぱりお出ししたいな、ってことでね」

「ああ、道理で! いつ行ってもシェフが不在だとばかり聞いてやしたし、皆様方、いつも徒歩で視察に来られるから、おかしいとは思ってたんでさ」


 そうなのだ。ギリスは今、かつての恩師と呼べる方に弟子を紹介してもらったり、腕の確かな同期たちの行方を追ったりして、料理人集めの旅に奔走してくれている。

 エレーネ国内の貴族邸やレストランはもちろんのこと、一時期は南の美食大国、ウィンストンで修行をしていたこともあったらしい。

 文字通り大陸を駆けずり回って旅をしているのである。


 彼は皿洗いや皮むきしかさせてもらえなかった頃に、高貴なお客様への応対として馬車の操縦を覚えさせられたそうで、運転技術、馬の扱い共に長けている。

 それにただ馬に乗って移動するより、誰も知らない新興最下級貴族とはいえ、男爵家の紋章が刻まれた馬車に乗っていた方が「貴族の遣いで来ている」とわかり、箔付けになりそうな気がする。

 それから、昔の師匠さんや紹介元の貴族といった目上の人を乗せて移動する機会もあるかもしれない。

 そうした数々の理由から、ここ最近は馬車ごとギリスに貸し出しきっているのだ。


  ◇◇◇


「……で、皆うすうす感じてると思うんだけど。この家で使用人やってても暇でしょ?」

「ホントですよ!!」

「そして。この家において最も不憫で、申し訳なさの極みなのは、ギリス! あなたよ」

 両親と使用人を前に、計画の全容を説明していたあの日。そんな会話も同時に展開されていた。


 長い長い下積み、研鑽を重ね。いつか夢に見た料理長シェフの座をついに獲得したギリス。

 しかも、叙爵された貴族への褒美として。

 その誇らしさと喜びにさぞ打ち震えたことだろう。

 貴族家の料理長シェフともなれば、その腕を振るう機会も多い。

 三食の食事の他にも、奥様のための特別メニューだとか、お嬢様に毎日日替わりのスイーツを用意したりだとか。かなりの頻度で開催される社交のため、店で料理を作っているのとは比べものにならないほどの品目を毎回作っては、さまざまな賓客に舌鼓を打ってもらったりであるとか。

 かつて憧れた自分の弟子を取ることもできる。

 自分の元で働く若き料理人たちに培った技術を教えこみ、腕を上げていく様を見守ったりだとか……。

 そんな毎日を期待して、彼はここに来たはずである。


 ところが実情はこれだ。

 ギリスが遣わされてしまったのは、よりにもよって引きこもりアシュリー男爵家。


 ――望んでいた機会は、この屋敷では訪れない。自分一人で全てが事足りる。

 いや、それどころか、自分の腕すら不要なのではないか?

 これでは肩書きが立派なだけで、いっぱしの料理人とは呼べないのではないか。

 夢見ていた日常とは、到底かけ離れている――。



「……なんて思ってるんじゃない? どうかしら? かなり図星でしょ」

「……いえ! そんっ……」

 そこまで口をつくや否や、ギリスはぐうの音を上げ、下唇を固く噛み締めて押し黙ってしまった。

 おそらくは「いえいえ、そんなことはありませんよ。ここで働くことができて毎日とても充実しています」とでも言うつもりだったのだろう。

 だがもはやここまでバレているのなら隠し切れまいと観念したのか、もしくは思わぬところからの突然の指摘に、つい本音が漏れ出したといったところか。

 整った顔が苦悶に歪んでいる。


 それに関しては、私達三人とも本当に申し訳ない限りだと思っている。

 この家において、この先彼が生き生きと働ける機会を設けられる予定は、特にない。


 だからこそ。

「ギリス。私が今説明した、『ホテル』で働いてみない?」

 この時に私から提案したのだ。


 ――ホテル内部にレストランを作る。

 コンセプトリゾート、貴族ぐらしの里。

 プロの料理人が作る料理のご提供は、重要な観光資源の一つだ。


「この計画のためには、あなたの力が不可欠よ。そして、ギリス一人では全然手が足りないでしょうね。料理長シェフであるあなたのもとで働くお弟子さんが必要ね。だって貴族様が食べる美食を、たくさんのお客様に毎食出すのよ? ――ああ、でも。私達は料理人さんの心当たりなんてないわね。たとえばなんだけど……そうね、ギリスの同僚だった人とか、見込みがあった後輩さんとか。あなただったら良い人材を知ってるんじゃない?」

「……!」

 目を見開くほど表情を変えた彼を、その時に初めて見た。


「ギリス。あなたにこの屋敷の令嬢としてお願いします。ホテルで働く料理人さんを……いえ、あなたのお弟子さんとなるべき人を、この領地のために捜して来てほしいの!」

 しっかり私の目を見据えた彼は、無言のまま大きく、そして力強く頷いてくれた。


  ◇◇◇


「……そんなわけなのよ。たまーに屋敷にフラっと帰って来るんだけど、料理人さん探しの旅、結構順調みたい。そのうちあなた達にもお互い紹介したいわね」


 父様はあともう少ししたら、男爵として王宮での仕事が始まる。

 領地での暮らしに慣れるまで、叙爵されて新しく貴族籍が創設された者は、数ヶ月間ほど仕事を免除してくれるらしい。

 その期間ももう終わり、ついに貴族としての働きを求められるというわけだ。


 それに伴い、出仕のために馬車が必要となる。

 ゆえに先日「出仕の日にはなんとか馬車を貸してほしい」と頼んでいた父様に対し、ギリスは「かしこまりました。ご心配なく! 完全に馬車をお返しできるのももうじきです」と即答していた。

 その言葉から察するに、確かな手応えがあるのだろう。

 現に、時折会える彼の顔は疲れが滲んではいるものの、明るく爽やかだ。

 彼の美味しい食事がまた毎日食べられる日も、きっと近い。


「そうそう、まだ構想なんだけど。領民の皆にも料理人さんのご飯を食べてもらえるようにするつもりよ。今男爵家の皆で話し合ってるところなの。あなた達の口にも絶対入るから、期待しててね!」

「おお! それは楽しみでさ」

 五人はいかにもワクワクした声色。期待と共に、仕事への熱意もより高まったようだ。


 レストランを割引価格で利用できるようにするか、あるいは料理祭のようなイベントを不定期に開催するか。全員の協力があって成立する事業だからこそ、そうした「福利厚生」もしっかり考えている。

 そんな楽しみもまた、もうすぐそこに迫っていると言えよう。



 最近父様は少し目を離した隙には、魂を半分口から出しながら、涙目になってげんなりしている。

 どんな仕事をすることになるのかというよりも、通勤しなければならないことが辛くて辛くて仕方がない様子だ。

 ……私も母様も気持ちはものすごくよくわかる。

 しかし代わってあげることはできないために、精一杯励ますことしかできず心苦しい。

 未だにろくな自覚がないながらも、私達は着実に貴族としての道を歩み始めているのだ。


 その証拠にと言うべきか、私にも家庭教師ガヴァネスがついた。

 今学んでいるのは、エレーネ国文法に算術、幾何学、それから天文学と歴史、音楽とマナー。


 貴族として何の勉強が必要なのか、学園でなるべく苦労しない教育とは何か。

 また下級貴族として、男爵家として、あるいは辺境領主家として、将来の領主候補としては、いったい何が教養となり得るのか……。

 両親だけではなく、誰もわからない。

 学園や貴族に関する本をジャンルに関わらず読み漁り、家庭教師ガヴァネス候補の先生と実際に面談を重ねたりしながら、両親が相当苦心して組んでくれたカリキュラムだ。


 実はこれがなかなか楽しい。

 というのも、前世で座学に限っては結構好きな方であったし、地球とこの世界の違いが興味深い。

 特に歴史は新しい物語をひもといていくようで、毎回非常に面白く感じている。


 何より、通学の必要がないのだ。

 どこにも行かなくて良い引きこもり座学ライフ。文字通り家庭教師。屋敷に先生が来てくださるのだから。

 やはりここでも「通学不要」の条件は守られているらしい。


 とはいえ、どこか気疲れするのも事実。

 こうしたフリーの日くらい、のんびりした時間を過ごしたい。

 快く送ってくれた彼らには少し悪い気もするけれど、今日はもうリタイアだ。


 次の機会が訪れたなら、その時はテナーレの方に連れて行ってもらおう。

 その頃にはもう、きっとホテルもより形になってきているはずだ。

 だからせめて今だけは、お日さまと共にゆっくりしていたい…………。


 窓から吹く爽やかな風が暑さを打ち消す。

 鳥の鳴き声に呼応して木々が揺れる音は、まるで森が会話しているかのようだ。

 のどかで穏やかな空気は身体の感覚をなくしながら、徐々に微睡みへと落としてゆく。

 深く息を吸うと同時に、耳腔は馬蹄と車輪の轟きを遠くに、静かに捉えていた。


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