男爵令嬢の希望と絶望と決意、ですわ!
私は……私はいったいどうしたらいい?
今からでも何か状況を打開するような、せめて回避して地味に過ごしていけるような、そんな私のためのルートはないものだろうか…………?
「失礼します」
頭を抱えて声にならない呻きを上げていたその時、控えめなノック音がして自室のドアが開かれた。
「お嬢様! まだ起きていらっしゃったんですかっ! 明日もお早いでしょう」
「灯りがついておりましたので、消し忘れかと……おやすみなさいませ、お嬢様。お身体に触ります」
恐る恐るといった様子でこちらを伺って来た二人の人影は、私が起きていることがわかると心配した面持ちで入室してきた。
今日からメイド長となった祖母代わりでもあるアンリと、一番の年少のメリーの二人であった。
「ごめんなさい。……少し考えごとをしていたの」
「何かお悩みでしょうか? わたし達でよろしいならば、お話しくださいませな」
ううん、二人には関係のないことだから。大丈夫よ。
明日大変なのは二人も同じなのに、余計な心配をかけるのは心苦しい。
そう言って断ろうとしたが、あることに気付き舌の動きを止めた。
そうだ! 昔からうちで働いていたアンリなら、さっき気にかかっていたことがわかるかも。
これはもしや、突破口を開く小さな鍵となるのでは?
希望に瞳を煌めかせ、早速聴いてみた。
「ねえアンリ。もしもよ? 父様が貿易商人になってた可能性とか、もしくはなりたいと思えるようなきっかけって、あると思う?」
そうなのだ。ゲームの情報を必死で書き殴っていた先程からずっと、どうしても納得が行かなかったのがここ。
「ルシア・エル=アシュリーは、王都一の貿易商人の娘」という点だ。
父様はアシュリー家の血に違わぬ生粋のインドア派。
仕事以外で外出しようとは考えないし、できれば仕事は最低限。家で過ごす時間を少しでも多く取りたい人間。
出世したり事業拡大なんてしようものなら、仕事のために割く時間が必然的に増える。
私もまた、その理屈はよくわかる。とにかく室内で自由気ままに過ごしていたい。
家族との時間、一人の時間を確保するためにも、父がわざわざ貿易業に転身するなど、私にはとても考えられないのだ。
私の質問の意図を測りかねているのか、記憶を辿っているのか。
アンリは視線を上に遣って思考していたが、暫くしてハッとひらめいたように口を開いた。
「わたしは先代――お嬢様のお祖父様、お祖母様の代から働いておりますが、まだお若かった旦那様がこんなことをおっしゃっていたことがありました。『私は家に引きこもっているのが何より好きだ。だが、結婚すれば優先順位は変わるだろう。愛する妻、その血を引き継いだ可愛い子供が望むこと。多分私は、自分の望みよりもそちらを叶えるようになる』――と」
「父様が……そんなことを」
「ええ。ですから、確かにそうなっていた可能性はあったのでしょう。奥様に浪費癖があったり、お嬢様が贅沢好きであったとしたら。旦那様には商才も資金も、奥様のご実家の繋がりもお有りですしね」
……そうか。言われてみれば納得だ。
商才にあふれ、私に甘く……ううん、家族思いの父様のこと。
そんな世界の可能性は、確かにどこかにあった。
その世界とこの現実を分けた理由は、きっと……。
「……しかしながら、旦那様にはその必要がなかったのです。ずっとご自宅でのんびり暮らすことこそが、ご家族みんなの幸せなんですから」
うん。そうだよね……。
内心腑に落ちて呟く。
アンリのおかげで、なんとなく全容が解明できつつある。
物心ついた時にもう一つ思ったっけ。
「これが甘やかしすぎだとわかるのは、前世でいろんな人を見てきた記憶と経験があるからだ」って。
そして、これに慣れて当然だと思ってしまえば、とんでもない勘違い女の出来上がりだ――とも。
「私」は、それに気付けた。両親の愛情が度を越えそうになった時、自分で歯止めをかけ拒むことができた。
だが……ルシア・エル=アシュリーは。
きっとそれに気付くことなく、自分は誰からも愛されるべき存在と思ったまま生き続けた。
あれが欲しいと言えば必ず与えられ。髪を脱色したいと言えば喜んでやってもらえ。
お金が足りない、外に遊びに行きたい、もっと贅沢がしたい。
……そう言われれば、私の大好きな両親は必ずそれを叶えてくれるだろう。
自分の時間を全て捨て、愛娘のために捧げて。
そしてゲームでの父は、実入りの良い貿易商人へと転身。
現実の私達の前では隠している商才を遺憾なく発揮し、やがて王国一へ。
娘が望む、大金持ち生活ができる身分へと出世するのだ。
とどのつまり。アンリの貴重な推察をまとめると、一つの朗報が浮かび上がる。
ここ、現実のアトランディアにおける父様が貿易商人の道を歩む可能性。
それは全くのゼロだ。
そしてこの私、「ルシア・アシュリー」も然り。
父に無理をさせてまでさらなる贅沢を求めることも、甘やかしを当然の愛情と思い込み、自分の価値を呆れるほど勘違いすることも決して有り得ない。
よって他の要因で目を付けられることはまたあるかもしれないが、私の性格によって破滅する恐れはなくなったと言って良いのではないか。
……あれ? 問題、あっさり解決してない? というか問題がそもそも存在してないんじゃ?
知らないうちにとっくに破滅ルート回避してないか、これ。
「お嬢様……?」
「ああ、ごめんね。……ねえ、もうひとつだけ聞きたいの。私が誰かをいじめたり……誰かに憎まれるくらい嫌われてしまうことは、有り得るかしら」
「そ……そんなことはぜーったいにあり得ませんっ!」
メリーが驚きにあふれた表情で声を張り上げた。
直後、多くの者は寝静まっていることに気付き、慌てて自らの口元を両手で抑えていた。
これは明日、ジニーとパンジーあたりに叱られそうだな。
私のせいだしちゃんとフォローしておこう。
彼女は注意されがちな声のボリュームを懸命に抑えながら、とつとつと語る。
「お嬢様はとーってもお優しくて、見た目も心も紅薔薇のように美しい、あたし達みんなの宝物なんです! あたし達が日々可愛い可愛いって言ってるのは伊達じゃないんですよ? そんなお嬢様が他の誰かを傷つけるようなことをするなんて、絶対考えられません!」
「メリー……」
……そうだよね。少々過剰なその評価をそのまま受け取るのは難しいけれど、きっぱり否定されたことに安心を覚えた。
それもこの現実世界では有り得ないことだろう。
……っていうことは。もはやゲームのルシアと私は、顔がよく似ただけの別人。辿る末路も別物だと思ってしまってよいのでは?
しかしなお一抹の不安は拭えない。
私はこのまま、何もせずに過ごしていてもいいのだろうか?
「……お嬢様。失礼ですが、考え事というよりは、何か悩み事がお有りなのでは? お嬢様は後ろめたい時に、目を泳がせるクセがありますからね」
ギクッ。アンリの目はごまかせないか。
まあ、使用人の皆になら話しても問題はないかもしれない。
皆は私を……道を踏み外しでもしない限り、私を裏切ることはしないだろうから。
とはいえ、いきなり「実は私には前世と転生時の記憶があって――」とか言い出すのはいろいろと危ない気がしたので、少しぼかして口にしてみる。
「今朝、最後に商会で起きた時に、夢を見たの。ひとりの女の子が出てきた。その子は父様と同じ顔の貿易をしているお父さんがいて、髪をオレンジ色に染めていて、……私と全くおんなじ顔をしてた。そして、なんにも悪いことをしてない女の子をいじめて、楽しそうに笑っていたわ。――夢の中の知らない声は、『これは未来のお前の姿だ』っていうのよ」
「人を……いじめて笑う……!?」
「そしてその声は、『お前には誰からも嫌われ、学園を退学になるか、殺されるかの人生しかない』とも言ったの。……私、本当にそうなるんじゃないかって、恐ろしくて――」
「「お嬢様。それは明らかに別人です」」
私の言葉を遮ってまで、二人は私が望んでいたことを伝えてくれた。
やっぱりそうだよね? 私が大好きな赤髪を染めたりだとか、父様が貿易商人になったりしてる時点で、それはもう違う人だよね?
たどたどしい言葉でそれを告げたが、二人は微笑みながら首を静かに横に振った。
「お嬢様、そこではないのですよ。……お嬢様は、人のために自分をも犠牲にできる、人に寄り添うことのできるお優しい方です。旦那様と奥様と同じように」
「?」
役人さんにも言われたが、使用人にも言われてしまった。どのあたりが優しいのか。
意味が今ひとつ呑み込めないけれど、幼子を諭すような二人の雰囲気がなんだか暖かくて、黙って耳を傾ける。
「お嬢様は、誰かをいじめたり、それを楽しむことなんてなさらないでしょう。それはこの先も変わりません。……それと、お嬢様はおっしゃるように、『貿易商人の娘』ではありません。かつ、『商人の娘』ですらない。今のお嬢様は、男爵令嬢。領主の娘となったではないですか」
「もしお嬢様に害をなそうとする人が現れたとしても、お嬢様は殺されないようにだけ気を付ければいいんじゃないですか? だって退学になっても、そしたら領地に早く帰ってこられて、このおうちでゆっくり過ごせるんですよ!」
「あ! た、確かに……!!」
「それは良い提案ね、メリー」
ほほ、と楽しげに笑ったアンリは、メリーの発言にこう続けた。
「もし退学になったとしても、お嬢様にはわたし達がいます。この領地もあります。お嬢様は成長したら、領主を継いで領地を治めればよろしい。学園を卒業しようと、退学しようとね」
「それから! 仮にお嬢様からいじめられた! って人が現れたとしても、あたし達は全員、まずお嬢様の言うことを信じますよ? もしもそれが事実だったとしたって、叱ったり諭したりすることこそあるかもですけど、お嬢様を嫌いになるなんて二百パーセントないですから! だからその夢の、『誰からも嫌われるしかない』っていうのは絶っ対に有り得ない間違いです!」
「アンリ… …メリー……」
無意識にせり上がる涙。
大きく温かい愛情を認識したその瞬間には、もう涙が頬を伝っていた。
……そっか、そうだよね……。
私にはあふれんばかりの愛情を惜しみなく注いでくれる家族がたくさんいるんだ。
いつも親身になって、私の幸せを一番に考えてくれる家族が、こんなに近くに……。
ただ猫可愛がりして、ただ甘やかすだけの存在じゃない。
皆は私にとっても宝物のような存在であり、心強い味方だったんだ。
……それからきっと、ルシア・エル=アシュリーにとっても……。
柔らかな感触がその優しさを感じさせる手つきで涙を拭ってくれつつ、アンリはこう語った。
「ほほほ。そうね、そうですとも。ですから、お嬢様。領地を住みやすく、世間体など気にせず暮らせるように、今からお嬢様のお好きなように治めてみては? このお屋敷をお家に、領地をお嬢様やご一家のためのお庭にすれば良いのです」
「ええ……! そうね、そうよね! 私は学園のことなんて考えずに、領民の皆のことだけを考えていればいいんだわ。今も、これからも!!」
言われて初めて気付いたもう一つの事実。
その通りだ。これこそ、「どうして気付かずにいられた」と言うべきこと。
退学とは、私にとってなんら「破滅」とは言い得ない。
現時点でこれほど入学が憂鬱で、特に友人も知人もおらず、充実スクールライフの一片も思い浮かべられない私なのだ。
それが学園を退学になったところでなんだっていうの?
むしろ万々歳じゃない……!
一足早い領地帰還、悠々楽々引きこもり生活が待っているだけ。
イケメン彼氏との素敵な恋に楽しい学園生活、自分より明確に下(と思いたいだけ)の相手に得る優越感。
それらを望んだルシア・エル=アシュリーにとっては、確かに大きな破滅だったはず。
しかし私は、ヒロインや攻略対象たちに嫌われようが問題ない。
アンリとメリーの言う通り、命の危機、身の安全にだけ気を付けていればそれでよいのだ。
私には帰る場所がある。守るべき大切な領地がある。
私を愛し、迎えてくれる皆がいるのだから。
うんうん、と二人は満足した風に頷く。
元気を取り戻した私の様子を、喜ばしく思ってくれているようだ。
おそらくもう大丈夫。そう判断したらしい。
メリーは軽く頭を下げ、燭台を片手に先に部屋を退室していった。
私はアンリに促されるまま、ベッドへと腰掛ける。
先程まで眠気など一切感じなかったのに、ベッドの感触を覚えただけで睡魔が襲い掛かってきた。
たまらずベッドに潜り込む私。
アンリは部屋の灯りを消し、私が寝付くための準備を整えていた。
「お嬢様。明日は皆で領地運営の対策会議をする日。改めて領地を見て、領民の人々を知って。ここをより良い土地にしていこうではありませんか。世間的に、一般的に見て良い土地ではなく、領民と皆様――『アシュリー男爵家』の皆様にとって、暮らしやすい場所に」
「ええ。いろいろありがとう。私、頑張るわ。明日からもよろしくね。おやすみなさい」
口元だけで微笑んだアンリは、足音を立てずに退室する。
ドアが立てるパタン、という音を合図にして、いよいよ睡眠欲は限界まで高まった。
私は本当に良き家族に恵まれている。
一人では気付けなかったことを、さも簡単なことのように教えてくれた。
私は、ルシア・アシュリー。
このアシュリー男爵領を守っていく、男爵令嬢だ。
領民の皆。使用人の皆。この静かな領地。クローディア伯爵様が遺してくれた土地。
それらを守り、治め、次代に継ぐのが私の仕事。
……それに、私はいつか思ったっけ……。
こんな山あいの素敵な土地で、ずっと暮らしていけたらどんなにいいか――と。
今こそその願いを叶えられる時が来たのではないか?
私の約束の地はここ。
たとえ学園を追放されたとしても、一生男爵領で引きこもって暮らしていければそれで十分。
そのためにはより住みやすく、自給自足で暮らしていける領地作りをしていこう!
皆が笑顔でのんびり過ごせる土地。
ずっとここに住んでいたいと思える町に。
そのためならば、私はどんな努力も惜しまない。
皆を導いていけるのは、この地の領主である私達だけなのだから。
決意を新たに鼻息荒く気合いを入れる。
――明日が楽しみだ!
私の希望の快適インドア生活は、私自身の手で切り拓いてゆこう。
私はアシュリー男爵令嬢。
明日から、私の領地生活が始まる!