七.英雄家の血筋
竜の生態調査に出た部隊が帰還したと伝えられたのは、シュヴィリエールが竜を遠目で視認した三日後のことだった。
昼に差し掛かろうというその頃、シュヴィリエールはちょうど城館内の食堂でフェール辺境伯と歓談中だった。テーブルの上に並べられたヤツヌジカの肉のソテーや、丸葱と紅根のスープを味わいながら、ふたりは〈冠の都〉リア・ファルの政治的近況について語らっていたのである。
「やはり賢人会議は相変わらずフォルスナードの一党独裁のままなのでしょうか」
と丁寧な口調を崩さずに、フェール辺境伯は鹿肉を切り分ける。ナイフで断ち切った箇所から肉汁が溢れ出すが、彼はそれを逃しはしなかった。すかさずフォークで抑え、滑らかな所作で口に運ぶ。
シュヴィリエールはそれを見ながら、話をつなげた。
「ええ。あの男は南方の古王国の血を引いてますからね。グラーフの老貴族たちの支援を受けているとはいえ、その権勢は歴史的にも経済的にも強力です」
「とはいえ、ここ十数年間はひけらかしすぎる。やはりエル・シエラの事件で何か手を引いていたとしか思えませんな」
シュヴィリエールは頷いた。十二年前、彼女の父が没した〈神泉宮〉エル・シエラの事件では、聖剣の喪失を始めとして多くの悲劇が起こった。その発端は聖殿騎士ノエリクによるものであったが、誰かが背後で糸を引いていたのではないかといううわさはいまでも絶えない。
しかしその根拠は皆無だった。湖上の聖殿エル・シエラは現在、水没してしまったからだ。保管中の〈神話所持物〉の暴発が原因だと言われているものの、真相は闇の中だった。
(確かに全てをうやむやにしたあの『事故』は、幾度振り返ってもなんらかの作為があったとしか思えない。しかし仮にフォルスナードが陰謀を企てていたとしても、選王侯の立場から教導会に反抗する利点はなさそうに見えるが)
それを承知で言っているのか、とシュヴィリエールは思ってしまう。
聖女王国の封土は、グラーフ公国やアンサグのような領国とは異なり、「聖域」に属する。それは統治権が領国守護者ではなく、教導会に属するということだ。したがって賢人会議を構成する選王侯は、飽くまで大司教の下の立場に過ぎない。大司教の反感を買えば、選王侯の解任だってありうる話だった。
しかし〈白紙の誓約〉では、祭祀階級による統治を禁じている。ゆえに「助言」と「任命」という形でしか、大司教らは政に口出しできなかった。そういう点では両者のあいだには根深い対立があり、その歴史が聖女王国の歴史だったと言っていい。
(フォルスナードは、騎士ノエリクが名を変えてメリッサの付近に潜伏していると教えてきた。しかしその目的はいったいなんなのだ? 決してわたしを信頼しているわけではあるまい。無数の手駒を持つあの男が、この手の策略で抜かりがあるとは思えないからな……)
場合によっては、眼前のフェール辺境伯すら疑うべき相手なのかもしれない。そう思うとせっかくのヤツヌジカのソテーも、味のない樹液の塊を噛んでいるような気分になる。毒はないのはわかる。しかし嚥み下すのが苦しい。
シュヴィリエールは俯いた。これは自分の悪いクセだ。考えすぎて不安になる。それは幼少期から両親に叩き込まれた教えの数々がそうさせているのかもしれない。政治、経済、歴史、そして人間心理といった多くの要因が心のうちに浮き上がっては、アク抜きをされない煮汁のように彼女の思考を濁らせている。
「どうかしましたか」
気がつくと、フェール辺境伯が心配そうにシュヴィリエールを伺っていた。そこで彼女は我に返った。すぐさま英雄家の子女としての表情を取り戻すと、
「いいや、何でもない。少し考えごとをしていただけだ」
と答える。フェール辺境伯はけげんな顔をしていたが、その詮索は食堂にやってきたエレヴァンの声で打ち止められた。
「お食事中、失礼します」とエレヴァンが言う。「竜の調査部隊が帰還されたとの連絡が、先ほどありました。現在湯浴みをさせております。正午三課の鐘が鳴るころには、報告会を開けるかと」
「わかった。連絡感謝する、エレヴァン殿」
フェール辺境伯はそう言って立ち上がる。
すでに皿は空だった。彼はシュヴィリエールに一礼すると、食堂を出る。
入れ替わりに入室したエレヴァンが、シュヴィリエールの元に歩いてきた。その顔は表情の変化に乏しいが、かすかに寄せられた眉で、心配しているのだとわかる。
「間が悪かったでしょうか」
「いいや、むしろ良かった。もう待つのは飽きていたころだ」
「そうではなく。あなたは何か、酷く抱え込まれている気がします」
シュヴィリエールは顔を上げた。翡翠色のひとみが鋭く光る。
「余計なお世話だ、エレヴァン。お前には幼少期から剣技を始め、色々なことを教わってきた。気心もよく知られていると思う。だが亡き父上の命令を──わたしの補佐をし、過ちのないよう導くなんてことを、いまでも律儀に守っている必要はないんだぞ」
「……確かに私はクナリエール殿に拾われた身の上で、恩義もあります。しかしこれは義務ではありません。私は騎士に生まれたものとして、仕える相手を選べるのですから」
シュヴィリエールは黙っていた。
エレヴァンは続ける。
「数ある公領主の中から、領地を持たない〈英雄家〉を選んだのは、私の意志です。だから、これは私が勝手にしていることです。お気に障ったのなら、申し訳ありません。しかし、あなたはあなたです。お父君の亡霊にいつまで取り憑かれているのですか」
珍しく昂ぶった喋り方をしているな、とシュヴィリエールは思った。その想いの由来がどこにあるのかはよく知らない。しかしエレヴァンが熱意を込めれば込めるほど、彼女の心は冷めていった。
シュヴィリエールは淋しげに微笑む。
「きみにはわからないよ。その血でもって神話と歴史を受け継ぐということが、どういうことかを」
エレヴァンは我に返った。そして下唇を噛むと、謝って食堂を辞した。あとには寒々しい静寂だけが残されていた。
シュヴィリエールはようやくホッとひと息吐く。そして黙々と食事を再開した。不安が大きくなるとき、誰もいない空間が酷く恋しくなる。特に父が亡くなってからずっとそうだった。失われた〈神話所持物〉を取り戻し、守護しなければならないという英雄家の責任を、彼女は六歳のときから背負っているのだ。
(かつて〈竜〉を殺し、『神聖叙事詩』にその名を遺した我が祖先アスケイロンは、いまのわたしをご覧じてどうお考えになるだろう。聖女の教えを受けながらなんとひ弱な精神の持ち主かと嘲笑うだろうか)
そんなことを考えながら、皿を空ける。魔物退治の訓練のおかげか、不安があっても食事はできる。食べられるときに食事はするべし、というのは、かつて戦闘訓練をしてくれた老騎士の教えだった。
ようやく立ち上がった彼女は、一旦自室に戻って報告会に備えようと思った。しかし食堂の扉を開けた途端、またひとり、シュヴィリエールに向かってくるのを察知した。
今度は女だ、とシュヴィリエールが認識した次の瞬間、湯から上がったばかりの温かいほのかな花の香りに包まれた。
「シュヴィ、シュヴィじゃないの! まさかあなたが来てるなんて、夢にも思わなかったわ!」
強烈な抱擁から身を引き剥がすと、彼女は昔なじみの顔を認めた。亜麻色の髪とハシバミ色のひとみ。懐かしさが胸いっぱいに広がって、上ずった声が出る。
「ニース? ニースじゃないか!」
「ほんとに久しぶりね。大学時代以来、かしら。セレス・アーカムでの学びの日々はとても楽しかったわ」
「ああ、忘れもしないさ。戦闘実技が優秀である反面、教養七科目がてんでダメだった。わたしに泣きついては一緒に勉強していたな。昨日のように思い出せる」
ニースと呼ばれた女は、ひたいに手を当てて呻いた。
「嫌なこと思い出させないでよ。導師サマのお説教は耳にタコができてるんだから」
ふたりは笑った。シュヴィリエールにとっては、不思議と心が安らぐ笑いだった。しかしすぐに表情を改めると、彼女は問う。どうしてこんなところに? と。
ニースは噴き出した。
「やーね。わたしがその『調査部隊』なんですケド」
「ほんとうか?」
シュヴィリエールは目を見開いた。
「あら失礼ね。あれからなんとか導師連に食らいついて、業魔学の研究でひとつ論文を出したの。それで博士の黒い衣を着ることになったのよ」
「なるほど。そういうわけか」
ニースは口角を上げて、唐突に大人ぶった笑みを浮かべた。シュヴィリエールより二歳年上で、かつ背が高いため、まるで姉のような振る舞いに見える。
「その生真面目ぶった言葉遣いは相変わらずなのね。まあいいけどさ、溜め込みすぎちゃダメよ。業魔学の権威から言わせてもらうと、そういうのが良くないの」
「わかってるさ。わかってる」
シュヴィリエールは苦笑した。だが、嫌な気分ではなかった。むしろ先ほどまで抱えていた不安が融け始めていた。彼女は強気になって、ニースに詰め寄った。
「だがきみはもう少し体裁を整えるべきだ。だいたいなんだ、その身なりは。上衣の紐が緩んでるぞ! きみはそんな格好でここまで来たのか?」
「え、あはっ、バレた?」
「はしたないぞ! 早く戻って改めろ!」
「あーん、そんなー。旧友に会うために急いで来たってのにー。シュヴィったらほんとにつれないなぁ」
「ダメなものはダメだ!」
こうしてふたりは食堂を出て、来たるべきときに備えることにしたのだった。